第二回喫茶店談義
6月に入った。とはいっても特に何も変化はない。
変わったことはといえば、5から6へと響きが変化したことによりじめっとした季節の訪れを感じること、そして妹の学校の制服が夏服になったことくらいだ。予備校には高校のような体育祭や文化祭といった行事めいた物がないため、これといって変化もなく、4月の延長である5月、5月の延長である6月という風にいつもの時間に電車に乗り、いつもの時間に家に帰るという生活はそのままであった。
船見先生のノリのいい日本史の授業も2ヶ月受けていると慣れてくるもので、今となっては高校生の時に自分が受けていた日本史の授業を何とも思わなくなってしまっている。あの時は日本史はこの先生しかいない!って思っていたのに。
それだけ受験に特化したエキスパート講師の授業はすごいというほかなかった。
そうして2、3週間が経過したころ、俺と夢野は先月一緒に訪れた喫茶店に再び訪れテーブル越しに向かい合っていた。
予備校で席も隣に座っていない俺がどうして彼女とまた来てるかというと、単刀直入に言おう、俺が夢野を誘ったからである。
「敵に頭を垂れるとはまさにこのことね」
嘆息混じりに俺を見つめる夢野は、俺の開いたノート、化学基礎のページを見てそう言った。
「まずは敵として同じ土台に立てるようにならないと。そのための投資と思ってさ」
「私はその時間を自分のために投資したいけれどね」
「大丈夫。夢野の株が暴落することはないよ」
俺がそういうと夢野はぷくーと小さく頬を膨らませながら、まぁ復習になるからいいけれど、と言って目の前のカフェラテを啜った。顔にかかる髪を手で抑えながらストローに口を近づける夢野の仕草はとても絵になる。このまま「待て!」と言って時を止めたら果たしてそれはいくらほどの値が付くことだろう。
寸時の静寂をおいて、夢野はどれどれと言わんばかりに俺のノートに目を通す。
授業終わりだったため時刻は7時に差し掛かろうとしていたが、店内はいまだに1人で雑誌を読みながらコーヒーを啜る若髭を生やした男性や、暇をもて余した大学生たちのグループで賑わっていた。
「ここ、化学反応式が間違ってる。正しくはこう」
夢野は自ら取り出したルーズリーフに正しい化学反応式を組み上げていく。あっというまに係数も付け、完成した式を俺に見せながらトントンとシャーペンで俺の間違っていた箇所を指摘するように叩いた。
「ここの水素が余計ね。反応式は覚えておくのがいいわ」
「なるほど」
夢野の解説は分かりやすかった。さすが、本質を理解しているだけあって、教えるポイントは的を射ている。点数が10点ほど上がった気がした。
「ありがとう、助かった」
「こんなことでお礼を貰っても嬉しくはないわね……」
辛辣ですよ夢野さん……。まぁ夢野にとってはこんな問題は歯牙にもかけないレベルなのは言うまでもないけど。
化学基礎の問題が一段落し、俺たちのもとに再び来店時の静寂が訪れた。2度目の静寂が訪れて気づいたのだが、俺は夢野とプライベートな話をあまりこれまでしたことがなかった。思い出してみると、話しているのは勉強に関する話題だけであったように思う。でもそれは考えてみると当たり前のことでもあった。もちろん、俺と夢野は恋人同士ではない。ただの予備校生同士だ。
だが、俺は少し踏み込んでみたくなった。
彼女のプライベートという懐に。
これまで、誰かのプライベートについて自分から尋ねることをしてこなかった俺にとって、これはかなりの勇気を労した。友達もこれまで少なかった俺だ。それに女の人と話す機会なんてこれまでほぼといってほどなかった。だから、これだけの話題をふるのに俺は結構な緊張をもよおした。
「そういえば、夢野ってどうして浪人生になったんだ?」
そう俺が言った瞬間、夢野の顔が深刻な面持ちになった。これまでの無駄口を言い合っていたわりかし和やかなムードが一変するほどの。踏んではいけない地雷を踏んでしまったかと俺は瞬時に悟った。
だが、逆に考えてもこれは至極真っ当な疑問であった。
センター試験91%という既に完成された夢野がどうして浪人の道に進んだのか。それはどうしても行きたい道があったのか、それとも。
すでに空になっているカフェラテのカップに視線を落とし、ストローを手でいじりながら、夢野は若干の上目遣いで俺に問いた。
「そういう貝塚君はなぜ浪人生になったの」
日は完全に落ち、いくばくかの明るさを保っていた外の通りも完全な闇と化している。明るさを保つのはもはや店内の照明のみ。
冷静な声音の問いに俺は逡巡したが、正直に答えることにした。ーいつもの調子ーで。
「いやぁ、それが俺も一応真面目に勉強はしていたんだが、ちょっとゲームの方もやりすぎたかな、って。高校受験を経験していてかったから受験をすこし舐めていたかもしれないな」
後ろ頭をポロポリかきながら言う俺に夢野の非難の眼差しが突き刺さった。
「つまりサボっていたと?」
「サボっていた、というか、これでいいやって思ったまま時間が過ぎていったというか」
それを聞いた瞬間、夢野は机にドンッと手を打ち付けながら立ち上がった。
なにごとかと周囲の客も夢野の方を振り向く。
「はぁ、こんなところであなたに時間を使っていたなんて私の沽券に関わるわ。私はそんな生半可な気持ちで受験をしてるんじゃない」
鬼気迫る声音で夢野は言った。リノリウムの床に夢野の凛々しくも怖い顔が照明で照らされている。
「あなたには幻滅したわ」
私、これで帰る、と言い夢野は怱々と席を後にする。
「ちょ、ちょっと、おい」
俺の制止なぞどこ吹く風夢野は受付に自分の分の代金だけをさっと置くと店から出て行ってしまった。
呆然と座り尽くす俺を周囲の大人、大学生グループが神妙な面持ちで見つめる。やがて店内は元の喧騒を取り戻すが、何となくその場にいたたまれなくなった俺は自分の残っていた飲み物を飲み切ると、カバンにノートと夢野のくれたルーズリーフを雑に突っ込み、逃げるように店を後にした。
店を後にし、薄暗い電灯の道を家へと向け歩きながら、俺は先の場面をずっと反芻していた。
時刻は夜をさらに刻み、歩く人影もまばらだ。俺はさらに考えた。
夢野にとって浪人生にまでなって受験をするということは、少なくとも今後の勉強次第で何とかなると思っている俺のような姿勢では全くなかったということである。それはそうだ。毎日ああやって1人前線で授業を熱心に受けている夢野が生半可な、能天気な気持ちで受験に向き合っているわけがない。そこは気付くべきだった。だから思っていたんだ。浪人生同士が話てもロクなことにならないと。
失意の面持ちで歩いていると、突然後ろから「あ、お兄ちゃん」と呼ぶ声。
振り向くとそこには、夏服の制服にカバンを肩にかけた妹の結菜が立っていた。