大学受験
注:作中に登場する人物名、大学名、学校名はフィクションです。
受験票よし、筆記用具よし、通信機能のない時計よし、明日乗る電車乗り換え案内のスクショよし。
センター試験が無事終わり、いよいよ国立大学の二次試験前夜。俺は明日のテストに備え最後の持ち物確認をしていた。高三になってからというもの、好きなアニメ視聴の数を減らしゲームの時間や読書の時間も減らし目標である国立大学合格のために頑張ってきた。そりゃ少しは話題アニメは話のタネになるくらいは見ていたが、普段の俺からすればそれはもう見ていないに等しいと言ってよい。ふと目の前の机に目をやると、自分が二次試験に向けて解いてきた数学の問題とその計算用紙が積まれているのが目に入る。今になって見直すことはしないが、自分ではよくやったと思う、と俺は積まれた紙を満足げに見つめた。
通常国公立大学に行くためには、二つの試験を乗り越えなければならない。まず一つ目は多くの受験生が受けるセンター試験だ。センター試験は昔は共通一次などと呼ばれていたが、形式的には両者とも同じ択一問題で、国数英の基本三科目に加え、文系は社会系科目を中心に理科基礎科目、理系は理科系科目を中心に社会系科目と合わせて合計五科目を二日かけて受験する。もちろん、各々の進路によって受ける科目とその数は多少変化するが、国公立を受験するならこの五科がほぼほぼ必須となる。このセンター試験を無事乗り切ると、次は大学ごとに実施される二月末~三月初旬にかけの二次試験に向けて、各々対策をすることになる。……のだが、
この段階に行くためにはセンター試験にそれなりの結果を残さねばならない。その点でセンター試験というのは自分を含め多くの受験生の受験における鬼門となっていた。そのセンター試験も数年後に終わり少しづつ記述問題が入っていくと言われているが、未来の受験生はもっと苦労することになるだろうか。などと思いを募らせる時期も俺にはあったが、あいにく今は自分の受験に集中することで精一杯だ。センターを切り抜けたからあと残るは明日の二次試験のみ。受ける大学を自宅から通える国立大学にこだわったため、二次は自分の苦手な数学をみっちりやらなければならなかった。毎日寒い中高校と家を行き来する日々。手がかじかんで数字さえろくに書けない苦しいときもあったが、経ってみると一ヵ月はあっという間だった。
俺は自室のベランダに出て夜空を眺めていた。決して綺麗な星空とは言えないが、星が少ないなら少ないなりの夜空の美しさがある。四月からは大学生かぁ。まぁこの試験を乗り越えられたらだけど。
ベランダに出て冷たい風を受けながら自己の精神を落ち着かせていると、コンコン、コンコン、とドアをノックする音が聞こえたので、俺はベランダから慌てて戻り窓を閉めてドアを開けに向かった。
ドアを開けると妹の結菜が立っていた。
「結菜か。どうした?」
「お兄ちゃん明日受験でしょう? その頑張れを言いにきて」
結菜は風呂上りか、茶髪のサラサラしたセミロングの髪は湿っており、顔はほんのり火照っていた。
「いつもみたいにそこのベランダで黄昏てるのかなぁって思ったら、さすがに今日はそんなことしてないか。風邪ひいたら大変だもんね」
「お前の方こそ、風呂上がったらちゃんと髪乾かさないと風邪ひくぞ?」
ベランダにいたのは図星だったがそこはお兄ちゃんプライドが邪魔をしてホントのことは言わなかった。どうやらベランダから戻る音は結菜には聞こえていなかったらしい。
「えへへ、だね、、」
結菜は笑いながらそう言うと、一言「明日は応援してる。頑張って」と言って下に降りていった。
結菜が階段を下りていくのを見届けると俺はドアをしめて自分のベッドに横になった。短い一言でキュンとくるというか…(結菜はクラス内でも男子から人気があるほど可愛いので)俺はベッドの上で自分でもこれはキモイと思うほどニヤけてしまっていた。今の自分、鏡で見たら相当ヤバイだろうなぁ。それにしても、本当によく出来た優しい妹である。世の中兄妹の関係が良くない家庭なんてごまんといるだろうが、自分たちがそこに入らなくて良かった。いや、下手したら結菜に恋してしまいそうまである。そうなってくるといよいよ犯罪者予備軍だが……。俺は心から安心していた。自分は多くの人の助けあってここにいる。一人ではこれだけ勉強に集中した生活を送ることが出来なかった。学費を払ってくれた親、友達、教科や担任の先生、ご近所のおばさん、そして妹の結菜……。受験は一人でするものではない。だから俺は心を押しつぶしそうな不安の中にもそれに負けない、いやそれ以上に大きな、感謝の気持ちをいつも抱いていた。その期待に答えようと。
だがその安心感が災いしたのか、俺は知らぬ間に眠りについてしまっていた。
目覚ましもならない中、起きたのは朝の八時半。
「……お兄ちゃん! お兄ちゃん!!」
妹の結菜の声が聞こえる。
かぶっていた布団をガバっと勢いよく剥がされ、閃光弾にやられたかのような刺激に俺は目を細めた。否、太陽である。
「……結菜……か」
「なに寝ぼけてるの! 今日二次試験の日でしょ。時間やばいよ」
結菜に言われ枕元の目覚まし時計を見ると時刻は八時半を少し回ったところだった。
「やばっ」
布団から飛び起き下のリビングへと駆け足で下りる。途中「何で目覚ましかけてないの」と呟く結菜の声が聞こえたが答える余裕が俺には無かった。この前テレビで見たのだが、朝の人の血圧上昇ランキングで何が上位に来るかというと、一つは通勤通学の満員電車だが、他には急に朝起きて布団から飛び出ることと言うのがあるらしい。寝坊や早起きでよくなりがちだが、冬の朝は温度も低いのでかなり危険だ。
しかし今の俺にはそんな些細な事を気にする余裕がない。
リビングに下りると母がソファに座って朝の情報番組を見ていた。
「やばい、何で起こしてくれなかったの」
駆け足の動作をしながら焦り口調で聞く俺に反し、母はのんびりと俺の方を振り返る。母の様子を見ていると俺が急いでるってのに呑気そうでいいな、と一瞬口にしそうになったが、出かける前に喉で飲み込んだ。八つ当たりになるし、言っても口論になるだけで状況は変わらない。
「だって、明日何時に出るって行ってなかったじゃない」
母はそう言いながら立ち上がると、時間ないなら簡単でいいわね、と一言だけ言うと台所へ向かった。カウンターキッチン越しに俺はうん、と答えた。
「電車は何時?」
そう言いながらゆっくりと結菜がリビングへ出てきた。朝だからか、それとも俺がやらかしたことに呆れているのか分からないがテンションが低い。朝の女子ってこんなに元気がないのか、と俺は思うことにした。結菜は真面目だが根は優しい女の子だ。決して自分に呆れているのではない。
「八時四十分のに乗りたかったが、もう間に合わないから――」
俺はヤフーの乗り換え案内を一本後の時間にずらす、これで間に合うかどうか。
「九時七分だ」
大学の最寄り駅に着くのは十時二十六分というギリギリの時間だった。
「あんたテストは何時からだっけ」
キッチンからの母からの問いに俺はすかさず十時四十分と答える。内心、このやりとりも無駄ではないかと俺は思っていた。こうして喋っている間にも顔を洗ったり、受験票チェック、着替えの準備は出来る。
そう言い残したまま、俺は洗面所へと走った。簡単に顔を洗い、歯を磨く。俺は洗面所にいる間にも今何分か、今何分かと頭はそのことでいっぱいだった。二次試験は数学と英語だ。それぞれ八十分であるが、一つ目の科目が数学であり、かつ数学は時間にギリギリに終わらせていい感じに仕上げるところまでしか勉強出来なかったので、もし遅れるとなると大問一つを丸ごと落とすことにもなりかねない。そうなると英語と合算したときに合計で上位に来辛くなってしまう。だから、遅れることは決して許されない。それが俺をここまで焦らせるインフルエンサーとなっていた。
洗面所からリビングに出ると、ソファに着替えが、そしてテーブルにはトーストにレタスやたまご、ハムを挟んだサンドウィッチが置かれていた。いつの間にか母が自分の部屋に行って着替えも取ってきてくれていたらしい。行動が迅速すぎて一瞬自分の方が驚きで動きが止まっていたが、すぐに気を切り替え俺は着替えと朝食を済ませた。
「結菜は」
食べながら聞くと母はさぁ、と言いながらアメリカドラマっぽく両手を広げて分からないのジェスチャーをした。
「何かさっき玄関の扉を開けるような音がしたようなしていないような」
「ふーん」
俺は関心のなさそうな声で返事をした。
それよりも今急を要するのは時間だ。
今日は父が仕事で車で出て行っているため駅までを自転車で行かなければならない。駅までは自転車で約十分だが焦っていると思わぬ事態に遭遇しかねない。俺は一度冷静になろうと試みた。持ち物のチェックは昨日の段階で済んでいるため、とりあえずバッグと財布さえあれば何とかなる状態だ。
簡易朝ごはんをかき込み、電車の時間まであと十五分となったところで俺は玄関へと走った。
「あんた、仏壇に手は合わせたの?」
母からの恒例仏壇チェックだ。このチェックはしていなかった。
「いや今日は時間ないから。心で合わせとく」
「んもう……仕方ないんだから」
俺は靴を履くと、行ってくる、と一言言って家の玄関のドアを開けた。
「頑張っといで」
何度目の言葉だろう。落ちた推薦を受けに行った時、センター試験の時。俺の脳内に一瞬過去の映像がフラッシュバックした。母が言ってくれるこの言葉、たったこれだけの言葉に、自分は何度も助けらていたのかもしれない。そしてそれは今日も同じだ。センター試験で少し失敗したからといって二次試験で挽回した話はいくらでも聞く。恐るるに足りない。
俺は母の方は見ずに手をあげる仕草だけで返事をすると外へ出た。出た瞬間猛烈な寒気が身体を襲う。これで自転車乗って満員電車とか、また血圧上がるぞこれ……。
「いやいや、今は血圧の心配より時間の心配、っと」
そんな小言を口にしながら自転車の置いてある所を見るとそこにはさっきいたはずの結菜がこっちを手招きしながら呼んでいた。
「お兄ちゃんー!」
俺は駆け足で結菜の元へ駆け寄った。駆け寄ると結菜は道路の方向を指差し
「隣のおじちゃんが車出してくれるって! それも大学直行便で」
とにっこりしながらそう俺に向かってに告げた。
「マジで!?」
驚きつつも車の方を見ると、車の中から片窓を開けて隣の家の幸平さんが手を振っているのが見えた。
「結菜まじ天使」
「そんなぁ……照れるなぁ。私は私に出来ることをやっただけだよ」
いやぁ、天使を超えて大天使、いや大天使を超えて女神と言っていい結菜は本当によく出来た妹だなぁ。お兄ちゃん、ちょっとどころかもうすでにこの世に女性は結菜だけでも良いと思っちゃってるよ!
車の方から「まだおじちゃんじゃないぞ~」という声が聞こえていたがそれは華麗にスルーし俺は結菜と、頑張れ、行ってきます、の挨拶を交わした。結菜の中では幸平さんはおじちゃんの部類に入るらしい。一般的に見るとちょっと老けて見える幸平さんだが、ちょっぴり生えた髭とラテン系のノリを感じる所がどこか若若しく、俺には気軽に付き合えるお兄さん的な立ち位置で彼を捉えることが出来ているのであった。
車に乗り込むと幸平さんは俺を見るやいなや「じゃあ行きますか!」と言いアクセルを踏み込んだ。他の車はあまり走っていない朝だった。流れていく静かな景色に俺は気付くとテストという嵐の前の静けさを感じ重ねていた。こう静かだとまたいろいろな事を思い出して泣きそうになってしまう。自分はたくさんの人に支えられて受験をしているんだ。だからここで合格を勝ち取らないといけない。
「あの……朝早くからすみません」
恐る恐る声をかけると、幸平さんはあっけらかんとして笑った。
「いいってことよ。そら大学を賭けた闘いだからな。暇なおっさんはサポートを惜しまず、ってね」
「ありがとうございます。あと結菜は何か言ってましたか」
「あぁ。結菜ちゃんかぁ」
そう言うと幸平さんは少しの間黙った。車内に再び静寂が訪れた。返事を待つ。
こういう時車内に何か音楽でも流れていたら少しは気が楽なのだが、いかんせん他人の車で曲かけてくれなどと言う度胸は俺には無かった。
信号をいくつか曲がり、少ししたところで幸平さんは再び口を開いた。
「必死の形相で俺に頼んできたよ。お兄ちゃんの大事な二次試験がかかっているから、ってな。別に俺は断るつもりは無かったんだが、あそこまで必死に頼まれるとこっちが逆に結菜ちゃんをなだめないといけないくらいになってね、面白かった。いやぁ、拓斗くんもいい妹を持ったねぇ。羨ましいなあ!」
幸平さんは大きな声で笑った。
試験会場である大学が近づいていた。俺はもう一度結菜に心の中で深く感謝の念を抱いた。
試験会場に無事たどり着き、幸平さんと別れた後、俺は試験教室に向かい席に荷物を置きトイレを済ませた。トイレをする時間が確保出来たことは本当に嬉しい。電車だと遠回りになるこの大学は、車だと家から四十分ほどの距離にあった。トイレをしながら英単語ノートで最後の悪あがきを図る。数年使っていたシステム英単語も序盤の単語は例文まで暗記するようになっていた。
「よし!」
俺は立ち上がって気合を入れた。今日はいけそうな流れだ。あとは問題次第……。
手を洗い、教室に戻るとさっきより人が増えてほぼ満席状態だった。あとこれは後で気づいたのだが、ズボンのチャックは元の位置に戻っていなかったらしい。
一時限目の数学のテストが始まった。巨大な白紙の解答用紙が二枚。この真っ白な用紙にここにいる全員の受験生がそれぞれの物語を綴っていく。俺は記述解答は創作に似ていると感じていた。一つのお題が出されそのお題の正解目指して各々が様々な手法を駆使して問題に取り組む。もちろん、ある程度の筋はあるが細かい過程は人によりけりになってくるのでそこは数字の創作っぽい。
しかし、今回の試験はその「創作」に取り掛かれそうになかった。
「(なんだこれ……)」
頭の中でそう唱えながら何か解法は無いかと問題とにらめっこする。手を止めて問題を見つめる時間が長くなればなるほど、周りのペンをひっきりなしに動かす音も相まって焦りが増す。今回出ているのはいつもならあまり出ないはずの数列と図形の合体問題。過去問で二回しか出ていなかったのでほとんど対策をしていなかった。まさかここで出るとは……。相手の得意戦法研究を極めて挑んだ棋士が見事に相手に全く違う手を指されて追い詰められミスを犯してしまいあっさり投了するあの感じに似ている。
俺はそうそうにその問題に見切りを付け次の二次関数の問題のページを開いた。将棋ではすぐに投げることは許されないが、受験なら満点を取る必要がないので分からない問題には見切りを付けることも時には大事なのだ。大切なのは自分解ける問題or皆が解ける問題をこぼさないこと。
……のはずだったのだが……。
結論から言うと感触は最悪だった。大問が四つあるうち、自身のある解答が出来たのは二題だけだ。
やばい。これはガチでやばい。
お昼休憩を挟んで次は英語の試験がある。
俺は片手で菓子パンとおにぎりをがっつきながらもう一方の手で英単語のほ……いやここは正直に白状しよう、スマートフォンをいじっていた。「二次 挽回」「○○大 倍率」「二次 A判定 不合格」現実逃避な履歴が画面上に増えていく。ここで監視カメラがあって親が見ていたら必ずといってほど怒鳴られているだろう。だが俺はスマホをいじる手を止めるつもりは無かった。だってたかがここ五分か十分で見た単語やイディオムが出るって限らないし……ね?
スマホをいじりながら昼を食べ終え、トイレで一服して席に着く頃にはもうテスト用紙を配る時間になっていた。センター試験の時も思ったのだが休み時間が四十分、五十分あって長いなぁと思っても実際はその時間の終了開始前後がテスト回収や配布だったりトイレが渋滞していたりといろいろあって意外とすぐに過ぎ去ってしまうものである。今回も二次もそんな感じだった。
着席が完了し試験監督が前に立つとお昼休憩の教室の雰囲気も一転、午前のようにピリピリとした緊張感のある教室が戻って来た。普段なら大学生の他愛のない四方山話で満ちているであろうこの空間も今はそのなりを潜めていて静寂を保っている。
無音。テストが配られる音。そしてまた訪れる無音。
そんな無音の中で俺の挽回を賭けた英語の二次試験が始まった。
今年書こうと思っていた作品です。自分の浪人時の経験もたくさん書いていけたらと考えています。長編を書くのは初めてのため稚拙な点も多いことと思いますが、温かく見守って頂けるとこれ以上に嬉しいことはございません。よろしくお願い致します。 伊藤せいら