ひとのこ であるということ
そう言うと、渡辺さんは去っていった。
「…っ…うぅっ…
わぁぁぁぁん」
一人残された私は、泣きながらその場に崩れ落ちた。世界が終わるかのような絶望感とはこんな感じだろうか。もう何も手につかない。
こんなに感情が乱れたのは初めてだった。
電車に飛び込む人の気持ちが分かったような気がした。
どのように行動したかあまり覚えてないが、私は午後の授業を早退した。
だが電車には飛び込まず、ちゃんと家に帰った。
今死ぬわけにはいかない…。
絶望の中に、何故か強いその思いがあったのである。
あんな暴言を吐かれたのは人生で初めてだった。でも、何故か、渡辺さんを憎くは感じない、全く。
ただただ、悲しい。胸を引き裂かれるように悲しい。彼女に嫌われたこと。そして、私は黒色だと言われたこと。
彼女も他人の色が見えるのだ。だから、彼女の色が見えないのだろうか?でも、彼女は私の色が見える。彼女の方が力が強いのだろうか。
彼女は私の存在ごとが大嫌いだと言った。
私は彼女の存在ごとが怖かった。
この夜から食事は喉を通らなかった。友達とファミレス寄って食べ過ぎちゃったと言い、夕飯を回避した。
翌日は土曜だった。
母は近所のスーパーでパート勤めをしていて、土日は毎週仕事。
父も会社が繁忙期らしくて、今週は土日ともに仕事だと嘆き、会社に出掛けた。
私は土日、何も食べずに、ただ一人でベッドに横になって過ごした。
朝食は、休日は遅くまで寝る事があるので、食べに行かなくても自然だった。
夕食は、友達と外食してきた、と言い、回避した。
人生で初めての、何も食べれない絶望間や悲壮感を味わった。体も心も、とても、食べ物を受け付けるどころではなかった。
この能力のおかげで、私の人生は本当に今まで穏やかだったのである。
そして恐れていた月曜日の朝がやってきた。
ピピッ、ピピッ
「見せて」
脇から外した電子体温計には36度5分と表示されていた。それを言われた通り母に渡した。
「熱はないわねぇ…」
「…。」
学校を休みたい、体調が悪い、と言ったら当然、熱を測る事になった。熱はないがとてつもなく体調不良ということで貫こうと思ったが、なんとなく、私は悩んだ。
「お母さん、あのね…。」
「?」
私に向けられた、母親の全てを包み込むような視線は、絶対的な安らぎを与えた。言える限り本当の事を言おうと思った。
「私の、人の色が見えることでね、ちょっと、あったの。あ、誰にも言ってないよ。
あの、同じ力を持った子に、出会ったの」
「…」
母は、穏やかな視線のまま、話を聞いてくれている。
「あのね、奈良に、親戚っている?
お母さんは、私のこの能力?のこと、何か知ってるの?
ほら、よく漫画とかである、密かに先祖代々伝わってる能力とか。
数百年に一人、その力を持つ子孫が生まれる家系とか。
うちの家系はそんなんなの?」
この推測に結構自信があったのだが、母の返事はこうだった。
「…、ごめんね、星志。
お母さんは、お母さんのお母さんから、そのような言い伝えとか何も聞いてないわ。
奈良県に親戚がいるという話も、うちの方もお父さんの方にも聞いたことがないわ。
あと、正直に言うとね、あなたの能力?を知った後、お父さんにその話をしたの。でも、お父さんは、星志は将来有名な作家になるかも!って喜んだわ。ごめんなさい、お父さんは星志の話は鼻っから空想だと決めつけたの。だから、お父さんの家系も、そういうのはないと思うわ。夫婦の間の勘で、お父さんが嘘をついてないのは残念ながら保証するわ。」
「それが普通の人の反応だよね。小さかった頃は何で周りに言っちゃいけないか分からなかったけど、今は分かってるよ。
だから私、私を精神科とか病院に連れていかなかったお母さんを尊敬してる。お母さんは、私の言ってることが本当だと信じてくれたと感じたのに、あの日から後も何も変わらず、私を普通の子みたいに育ててくれたよね。」
「あら、だって星志は普通の子じゃない?」
母は目を丸くした。
「…!?」
母のその反応に私も目を丸くした。
「お母さんはね、この世の中には、不思議なこと沢山あるって信じてる。幽霊も宇宙人も地底人も絶対いると思ってる」
「…!
そ、そうなんだ…!」
いい年した大人の母からこんな言葉を聞くとは。
なんだか不思議な気持ちになった。
「それとね、お母さんはね、この世の中の全ての人は、それぞれ役割を持って生まれてきてると思ってるの」
「…?」
「人類は、みーんなで力を合わせて、何か1つの事を成し遂げようとしてると思うの。それは、一人じゃできないこと。一斉一代じゃできないこと。何千年、もしかしたら何万年もかけて、人類一人一人に任せられた小さな役割が全て繋がって、成し遂げられること」
「…ごくり。
それって何?」
「さー、それは分かんないわ。
お母さんただの人類の一人だし」
ガクッ。
軽い感じでそう言われ、拍子抜けした。
「だからね、星志のその能力?を聞いた時、星志はもしかしたら他の人より少し重い役割を背負ってるのかもって、心配に思ったの」
「……」
なんだか、泣きそうになった。
あの時、お母さんはそんな気持ちで聞いてくれてたのか…。
「でもね、みんな、その人に、出来る役割を背負って生まれてくるの。だからね、星志にはそれが出来るから、その役割を背負ってるんだから、大丈夫って、思ってる。
そして、星志が少し重い役割を背負ってるなら、それをサポートするのが、お母さんの役割なの」
「…!」
「お母さんは普通の人間だから、大したサポートは出来ないけどね。だからこそ、美味しいご飯を作って、住まいを綺麗にして、星志が健康で気持ちよく毎日を過ごせるように、私が出来る事を全力でしてる。これまでも、これからも。
星志の気持ちを本当に分かってあげることは出来ないけど、楽になるのならいくらでも話も聞くからね」
「……お母さん…。
ありがとう…。」
涙がこぼれた。
この二日半ほど流した、辛く苦しい涙じゃない。
頬を伝う涙は、温かかった。
「人生、ご飯が食べれなくなることは1度や2度じゃ済まないわ。安心しなさい。そういうのも、普通のことよ」
母はそう笑った。
「…!」
私が食べてないこと、気付いてたの?
「それに、更に、安心して。
この先もう2度と食事なんて食べたくも見たくもない、と思っててもね、自然とまた、食事って、できるようになるものなのよ。
しかもね、美味しいって、ちゃんとまた思えるようになるの。
だから、無理に食べなくていいから、ご飯は作らせてね?
残した分はお母さんが食べるから無駄にならないから」
「うん…。」
凍っていた頭の先から、温かいお湯でじんわりと溶かされていくような感じだった。
「学校とお父さんには、感染性胃腸炎って言っておくわ。そしたら結構長く休んでも自然だから」
母は明るくそう言って、私の部屋から出て行った。
ギッ、ギッ、ギッ…。
1階へ母の足音が降りきった後、
「緑だよ」
私はそう呟いた。
あの日。母に色の事を話した日。
母は、自分の色を教えないでと言った。
だから私は言わなかった。
母の色は、エメラルドのような澄んだ緑色。
誰よりも優しい色だよ、ということを。
成長とともに、それは、自分の母だから、贔屓目に見てるのかな、と、思うようになった。
でも、今日、それは贔屓目でも何でもない、と思った。
私の母は、たぐいまれなる優しくて温かで広い心を持っている。
母は、自分の祖先も父の祖先も、普通の人間だと言った。
そして私も普通の人間だと言った。
なんだか、それは私をすごく安心させた。
地に足がついた感じ。
私は普通とは違うと思っていた。
自分を宇宙人みたいに感じていた。
仲間がいない孤独感を、無意識のうちに感じていた。
でも、私は、普通の人間の父と母から生まれた、ヒトの子なのだ。
そう思うと、心の奥に光が灯った気がした。