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掌の小説  作者: Beamte
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過渡

 彼の手元に、大きな封筒で、模試の成績表が届いた。彼は普段より殺気立って、慌てた手つきで封筒を破り、成績表を取り出すと、「D」という文字が真っ先に目に入った。D判定である。合格の可能性について、A〜Eで判定するわけだが、D判定ではまず受からない。次に、各科目の点数を見る。すべての科目で平均を下回っている。中にはひどく悪い科目もある。そして、棒グラフにされた得点分布図で自分の位置を確認すると、彼はゆっくりと成績表を封筒の上に置いた。封筒には予備校の名前が大きく印刷されていて、罫線の下には小さく各教室の電話番号も印刷されていた。封筒の上端は、彼が手で雑に破ったため、醜くえぐれていた。

 彼は混乱した。突き動かされるようでもあり、打ちのめされるようでもあった。認識は非常に冷めていた。その混乱の中で、とりあえず母親に成績を報告しに行った。家の奥にある彼の部屋から台所まで、大きな足音を立てて突っ走りながら、母親に沈んだ声で告げた。

「D判定。」

「何が?」

「いや、模試だけど。これじゃ受かんないよ。」

「そうかい。それだけやってDじゃだめなんじゃないの?」

「いや、まだ伸びる可能性はある。でも今年は受けられない。」

「受けたらいいんじゃないの?」

「いや、受けられない。」

 彼はそう言い捨てると、今度はゆっくり歩きながら、自分の体重を感じるようにしながら部屋へと戻った。もう一度成績表をよく見る。内容が変わっているはずもない。これではだめだ。何か胸の中を重くて硬いものが落下していくような、そんな苦痛を感じた。そして、その落下したものは、胸の底へと落ちてはじけて、彼の心に無数の消えない傷を作った。

 彼はしばらく、こたつに入って額を天板にくっつけていた。自分は伸びるのだろうか。勉強不足だろうか。そもそも才能がないのではないだろうか。こっちには向いていなかったのではないか。進路を早く変えた方がいいかもしれない。いろんな思いが入れ代わり立ち代わりやってきて、そのあと意識は空白になった。ただ重いだけの意識がしばらく持続すると、彼には急にアルコールへの渇望がわいてきた。周りに受験用の参考書が平積みになっている自分の部屋を出ると、台所に行って、食器棚の下側にある扉を開けて、ワインを取り出して湯呑に注いだ。ワインを少しずつ飲むと、心がぱっと花咲いたような気分になった。続けざまにワインを口に注ぎ、アルコールに口の中が軽く焼かれる感触と、気持ちが高ぶって混乱してくる過程を味わい、しまいには脳がぐにゃぐにゃになってしまった。彼はそのまま、揺らいだ足取りと大きくなった鼓動を引き連れて部屋に戻り、炬燵にすっぽり入って横になった。とりあえず心の応急処置はしたつもりだったが、多分無駄だろうということも分かっていた。

 彼は結局試験を受けないことに決めて、とりあえず普段から連絡を取っている高校時代の恩師にその旨伝えた。恩師はどこかで話そう、と言ってきた。彼はそれに応じて翌日、自宅の前で恩師の車を待っていた。恩師は真っ青なBMWに乗って、機敏な運転で勢いよくやって来た。交差点の曲がり方にも行き届いた技術があったし、そこからの加速の仕方、彼の前での減速の仕方、全てに力がみなぎっていた。彼は足元の砂利のようにでたらめで地に伏せった気持ちでいたので、恩師の健康な挙動はまぶしかった。

 恩師の車に乗り込むと、恩師は変わらない笑顔だったが、やはり彼の苦衷を察してくれているような抑制が効いていた。

「米沢まで行くからな。30分くらいだ。うまいラーメン屋があるから。」

 彼はそのころ疲れ果てていたので、そんなに遠くに行く元気もなくとまどったが、どうにでもなれと思って言うに従った。なけなしのエネルギーと、エネルギーが枯渇してもなお動き続ける気力とをすべて使おうと思った。

 車の中で、年下の人間の快活さと誠実さでもって恩師と何気ない会話をしているうちにラーメン屋に着いた。赤が基調のデザインで、少し古びた建物であったが、駐車場はほとんどいっぱいだった。昼過ぎでピークは回っただろうか。建物の中は湿っていて、ダシの匂いがした。店員に案内されるまま、下から鉄の棒で支えてある高めの円いクッションの椅子に座ると、従業員たちが調理しているさまがよく見えた。

「ここはな、20個くらい鉢を並べていっぺんに作るんだぞ。」

 確かに、台の上には一気に沢山鉢が並べてあり、それが複数の従業員によって手際よく満たされていくのだった。麺をゆでる人、スープを注ぐ人、盛り付けをする人、せわしなく動いていた。労働サービスを受けるときのあの痛みが彼を襲った。自分は今働いていないのにこの人たちは働いている、そういう認識による罪の意識のようなもの。いや、「罪」なんて言葉は彼の感情を美化しているに過ぎない。本当は社会に出遅れた劣等感なのだろう。しばらくするとラーメンが届き、麺の上に載っている赤い辛みそを適宜スープに溶かしつつ、彼は黙々と食べた。スープは上品で麺もしなやか、チャーシューも柔らかくおいしかった。何か質的なレベルの高さがあり、彼は一流のものに触れたうまく言えない感動を味わった。

 二人とも麺との格闘を終えると、彼は一言つぶやいた。

「廃残意識があります。」

「敗けるの方か?」

「いいえ、廃れるの方です。」

 「廃残意識」という言葉に、彼は自分の全存在を載せたような気分になった。恩師はその重みをそのまま受け止めたようで、それに対して無駄な言及をしようとはしなかった。

 ラーメン屋を出ると、恩師は彼をY大学工学部キャンパスに連れて行った。若い学生でにぎわっていたが、恩師は彼をキャンパスのはずれの方に連れて行った。そこには古い建物が保存してあり、その建物の前に詩碑が立っていた。ウルマンの「青春」という詩がそこには刻まれていた。

「俺は希望を失うといつもここに来るんだ。」

 彼は詩を読んだ。気持ちを若く持っていればいつでも青春である、そういう内容が整った文体で書かれていた。だが彼はその詩に共感できなかった。彼の青春はもう終わっていたのだ。彼は青春を乗り越えることが成熟だと思っていた。再び気持ちを若く持ち始める前の過渡期だった。彼は悟った。自分と恩師との間に大きな距離がある、と。自分が恩師と同じ境地に達するにはこの挫折を乗り越えなければならない。老いてもなお青春を気取っていられるのは幾多の挫折を克服した証なのだ、と。自分はまだその段階に達していない。挫折に足元を掬われたままの状態である。

 恩師と彼は少しキャンパスの通りを歩いた。木々に若葉が芽吹いていた。

「お前みたいだな。未来があって。」

「いや、僕はもう歳です。未来なんかありません。」

「いやいや、まだまだこれからだ。」

 そのとき、この遠出が何を意味していたのか、彼は今さらのように急激に理解した。恩師は自分を励まそうとしていたのだった。絶望のさ中にある自分を立ち直らせようと、恩師は自分をここまで連れてきたのだ。その熱い気持ちに彼は強く打たれた。だが、彼はその気持ちに応えられる心の状態ではなく、ただ厚意のみを胸の底の底の方まで染み渡らせた。そうだ、俺は若い。少なくとも、挫折を乗り越え、再び青春を歌えるようになる道筋にまで乗れていない分、俺は若いのだ。空が痛いほど晴れていた。雲が痛いほど光っていた。

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