手すりの外、手遅れのうち
《死にたい》
下駄箱の隅に書かれた文字を見つけた。
生徒はみんな部活に行って、夕暮れの西玄関に私だけが靴を探して残っていた。
誰が書いたかわからない。今は使われていない下駄箱だったから、学年もクラスも特定できない。ただ直感で同類だと思った。縋るような痛さが手に取るように分かって、そのことに泣きそう。
誰にも見られないように吐き出された《死にたい》が、まるで光っているように私の目を奪う。
硬直してそれを見つめていると、少し離れたところにまた別の言葉が見えた。
《俺も》
《僕も》
一定の間隔を開けて書かれた共感は、下駄箱の端からひび割れた壁に続いていた。
筆跡も字の大きさもばらばらな文字が、いったいどこまで続いているのかと目を凝らす。
それらを追って下駄箱をぐるりと一周すると、文字の行列が壁伝いに廊下にのびていた。
私はそれを夢中で追いかける。
《楽しくない》
《学校が怖い》
《教室が怖い》
《授業が怖い》
教室を一つ過ぎて。二つ過ぎて。
《休み時間が怖い》
《早く放課後になれ》
《早く休日になって》
教室を三つ過ぎて。四つ過ぎて。
《早く大人になりたい》
《引っ越したい》
《親に言えない》
《明日も学校、辛い》
教室を五つ過ぎて。トイレ前を過ぎて。
《なんであたしばっかり》
《何もしてないのに》
《僕は覗き見なんてしてない!》
《嵌められた》
最後に教室を一つ過ぎて。
東階段。
《悔しい》
その叫びが、私に階段を上らせた。
二階。言葉の列はまだ続いた。階段を上がって、三階。言葉の内容が変わってきた。
《でも結局、みんなおんなじじゃん》
一段。
《やってもないうちらのほうが悪者扱いなんて》
二段。
《絶対おかしい》
三段。
《みんな後ろめたいから私を責めるんでしょ》
四段。
《そんなに言うなら初めから自分ですればいいのに》
五段。
《度胸がないから》
六段。
《俺らが正しいんだって》
七段。
《気にすることない》
八段。
《あっちがおかしい》
九段。
《僕は間違ってない》
十段。
《大丈夫》
十一段。
《大丈夫》
十二段。
《だいじょうぶ》
十三段。そして――。
《怖くないよ》
四階。屋上へのドアが開いている。
~~~~~~~~~~
私の家は貧乏だった。
おまけに母の遺伝で髪はゴワゴワして、ニキビもそばかすも全然治ってくれない。
私は不細工な子供だった。
でも、裏を返せばそれだけ。私の欠点も、いじめの原因も、それだけ。
私が不細工だったって、家が貧乏だったって、たったそれだけ。
こんなにつまらない、こんなにどうしようもない、たったそれだけのこと。
小学校からいじめられ、中学ではそれがエスカレートして、文房具を取られるようになった。
ただでさえ貧乏なのに、新しいのを買って欲しいなんて言えなくて。ノートがないことを先生に咎められ、クスクス笑いが私をいっそう辱めた。
それが何度も繰り返された。
二年間ずっと。
何度も泣いて、その度に疑われないよう目を冷やして、誰にも言えなくて、辛くて、辛くて。
今更、屋上がなんだっていうんだろう。
~~~~~~~~~~
《みんな一緒だもん》
一歩、進んで。文字を追って。
《クラスの奴ら、目に物見せてやる》
その先を確認して、震える。
錆びて赤いフェンスと、空。
吹き抜ける風が乾ききっていて、もう涙も出ない。
《ひとりじゃない》
本当に?
《俺もいる》
《私も》
《僕も》
《うちも》
《だから大丈夫》
本当に? 本当に?
もう誰も靴を隠さない? もう誰もゴミを投げない? もう誰もノートを破らない?
――本当に、これで楽になれる?
《平気》
《一緒に》
《一緒に》
《一緒に》
《行こう》
フェンスを越えると、風がとたんに強くなった気がした。下では運動部の声が聞こえる。
誰も私に気づかない。
《早く》
踏みしめる一歩。前進。
《一緒に》
さらに一歩。屋上をふちどって付けられた落下防止用の手すりに手をかける。
《行こう》
上履きを脱いで揃える。
最後に深呼吸。
《みんな》
《待ってる》
《君を》
ふと足元に一本、ペンが転がっているのに気付いた。
《だから》
私はそれを拾って、手すりの下に文字を書いた。
今までたくさんの生徒がしてきたように、宛名も差出人も匿名の遺書を一文。
《今行きます》
足が浮き、落下の瞬間。
後ろで誰かの声が聞こえた。
「飛んだのは、あなたが初めてよ」
そういえば、手すりの下に文字はなかった。