第三幕 日常への帰還
数日後。ぼくの怪我はすっかり治り、目眩と気持ち悪さも治まった。そして、ついに家に帰れる事になる。
「準備は出来たか?」
「はい」
ぼくは月下さんに送られて帰る事になった。荷物をまとめ、数日間お世話になった部屋を後にして外に出ると、神社の皆が見送りに集まってくれていた。
「なんだ命、もう行くのか? もっと遊んでけよ」
「………」
子栗鼠ちゃんと兎姫子ちゃんの二人も、残念そうにしながら見送りに来てくれていた。彼女達ともここ数日の間にずいぶん仲良くなれた。
「ほんと、ここには桂木君以外男がいませんからね~。残念です」
「あらぁ~、一ちゃんたら。あたしは、お・ん・な。よっ❤」
つい昨日の夜、ようやく桶から這い出す事が出来た神主さん達も来てくれている。
「もうお帰りになるんですか……。何だか、寂しいです」
「泉美ちゃん……」
泉美ちゃんには本当にお世話になった。彼女の中にある罪悪感がそうさせたのかもしれないけれど、ぼくはとても感謝している。
「また遊びに来るよ、泉美ちゃん」
「命さん。いえ、それは」
笑顔でそう告げると、泉美ちゃんは困ったように言葉を濁した。不思議に思って、何事か聞こうと思ったら、月下さんに脇腹を肘で突かれる。
「好かれとるのう、命」
「いや、そんな」
ニヤニヤと意地悪な笑顔でからかわれ、ぼくは瞬間的に恥ずかしくなって俯く。そのまま直前の疑問は忘れてしまった。
こんな風に皆の見送りと月下さんのからかいの言葉を聴きながら、ぼくはお世話になった神社を後にした。
「…………で、これは何ですか?」
「うん? 何とはなんじゃ」
神社を出てすぐ、ぼくは月下さんに質問をする事になった。それと言うのも……。
「何で目隠されてるんですかぼくっ!」
石段に足を掛けた辺りで後ろから目隠しをされ、そのまま背負われているからだ。
「なに、特に意味はない。気にするな」
「意味はないって……」
しかし、月下さんに幾ら尋ねてもそんな答えしか返ってこなかった。
そのままぼくは月下さんに背負われ、何が何だか分からないうちに自転車で転んだ所まで戻って来た。
何故そこまで戻って来たのが分かったのかと言うと、そこで月下さんから下ろされて目隠しを外してもらったからだ。
「お主の家まで運んでいってやりたいところなんじゃが。残念ながらおぬしの家の場所をわしは知らんし、ちと急ぎの仕事があってすぐに戻らねばならん。悪いが、ここでかんべんしてくれんか?」
目隠しをとった直後に申し訳なさそうな顔で拝まれ、ぼくは慌てて口を開いた。
「そんな、ここまで送ってもらえれば十分ですよ! そんなに恐縮しないでください」
「そうか? いや~、ほんにすまんのう」
――こうして、ぼくは月下さんと別れ、今まで通りの生活へと戻った。
「ただいま~」
月下さんと別れた場所から徒歩で数分歩き、ぼくは自分の家へと帰り着く。転んだ時からそのままだった自転車は探しても見つからなかった。
家に帰ったぼくは、とりあえず自分の部屋へと戻る。ぼくの部屋は二階にある一室で、両親の部屋も二階にある。この家は両親が結婚を期に建てた木造二階建ての一軒家だ。
「ふぅ~」
部屋に入ったぼくは自分のベッドへと倒れこんだ。天渡し神社は居心地が良かったが、やはり自分の家の方が何かと落ち着く。
倒れこんだ姿勢から寝返りを打って、数日ぶりの部屋を見回す。小学校の時から使っている机には、あの日出かける前に出したノートが置いたままになっている。
漫画や小説、それに動物図鑑と動物の怪我や病気に関する専門書に、中学生の時の教科書なんかをまとめて詰め込んでいる本棚も、数日振りに見ると何だか懐かしい。
軽く見回した感じでは、泥棒に入られたりとかはしていなさそうだ。
「――あ」
そこまで考えてから、ぼくは机の上に広げたままのノートが何であるかを思い出した。
「しまった、宿題やってなかった」
それは担任から夏休みの宿題として渡された、数学の問題集だった。
夏休みはまだ残っているが、随分とやる気を出してくれた担任の宿題量は半端ではなく、コツコツとやっていかないと終わらない。それに、ぼくは後でまとめてやろうとすると失敗するタイプだ。中学の時に前歴もある。
「………しかたない」
戻ってきたばかりで少し休みたかったが、そうすると完全にやる気を失ってしまうので、ぼくはベッドから身を起こして机に向かう。
数学は割りと得意な方なので、躓く事もなく宿題を消化出来た。数日分の宿題を三分の二ほど解き終え、一息ついた時の事だった。ジリリリっと言う微かな音を鼓膜が拾った。
居間に置いてある固定電話の着信音だ。ぼくは宿題を中断して部屋を出る。両親が旅行中のため、今この家にはぼくしかいない。
居間は一階にあるので、ぼくは電話が切れる前にと急いで階段を駆け下りた。
「はい、もしもし。日野です」
「っ!」
電話口から息を飲む音が聞こえた。
「? あの」
何事かと思って喋ろうとすると、それを遮るような大声が響いた。
「命っ! 命なの、帰って来てるのねっ!」
あまりの大声に思わず受話器を耳から離してしまったが、その声には聞き覚えがあった。聞き覚えと言うか、耳にタコが出来るほど聞いた声だ。
宮野明日香。ぼくと同じ渡瀬高校に通う一年生で、ぼくの幼馴染。おまけに学校ではクラスまで一緒の腐れ縁で、美琴さんに伝言を頼んだ相手だ。
「ちょっ、もうちょっと静かに話してよ明日香。耳が痛いじゃないか」
「そんな事はどうでも良いのよっ。帰って来てるんだったら、今そっちに行くから待ってなさい。すぐ行くから」
それだけ言って明日香からの電話はぷっつりと切れた。明日香がすぐ来ると言った時は本当にすぐに来る。なにせ彼女の家はすぐ近くだからだ。
ピンポ~ンッ。
「命ーーっ」
ドンドンドンッ。
そうこうしているうちに誰か来たらしい。ほぼ間違いなく明日香だ。
「はいはい。ずいぶん早かったね」
玄関に行ってドアを開ける。外はいつの間にか太陽が沈み、すっかり暗くなっていた。宿題に集中しているうちに、思いのほか時間が経ってしまっていたようだ。
「はぁ、はぁ」
よほど急いで来たのだろう。僕が玄関を開けた時、明日香は膝に手を付いて荒い息を整えていた。
明るい色の髪をショートカットに切りそろえ、動き易そうな薄手のパーカーとホットパンツというスポーティーな格好の少女。その印象通り彼女は運動神経が良く、足も速い。
「どうしたの、そんなに慌てて?」
「どうした、ですって」
ぼくが声を掛けると、明日香はキッっとぼくを睨みつけてきた。
「どうかした? じゃないよ! ボクがどれだけ心配したと思ってんのさっ。突然いなくなっちゃうし。かと思ったら、知らない女の人が命は怪我が治るまで家で預かるから心配しなくて良いとか言って来るし。もう、どうなってんのよっ!」
明日香は半泣きでぼくに食って掛る。どうやらぼくは、この心配性の幼馴染を怒らせてしまっていたようだ。
「お、落ち着いてよ明日香。とりあえず上がって、ここじゃ何だから」
ぼくは今にも噛み付いてきそうな明日香を、何とかなだめて家に招き入れる。
「で、どう言う事なのかな? ちゃんっと説明してもらうからね」
居間のソファーにどっしりと腰を据えると、明日香は射殺さんばかりの視線をぼくに向けながら切り出した。
「分かってるって。実は……」
それからぼくは、小一時間ほどかけてここ数日の事を明日香に説明した。
自転車で転んで怪我したのは美琴さんから聞いたみたいだけれど、ぼくが神社にお世話になっていた事を明日香は知らなかった。美琴さんはそこまで説明しなかったらしい。
「と、こんなところなんだけど」
「……はぁ~。ま、話は分かった。でも帰って来たなら帰って来たで、ボクに連絡の一つもないって言うのはどう言う事なのかな」
「それは、ほら。帰ったばっかりで疲れてたからで……」
「うんっ」
「…………ごめん」
明日香にすごまれてぼくは頭をたれた。確かに帰ってすぐ彼女に電話をしなかったぼくにも非はある。
「分かったならよろしい。許してあげる。そのかわり、こんど買い物に付き合いなさいよ。もちろん荷物持ちとして」
「分かったよ」
「うん。それでよろしい。それじゃボクはそろそろ帰るよ、母さん達に何にも言わずに飛び出してきちゃったから」
「分かった。今回は心配掛けて、ほんとにごめんね」
ぼくは帰ると言う明日香を玄関まで送っていく。家まで送っていくと言ったら、近くだからと断わられた。
「あ、そうだ。言い忘れてたけど、命の自転車道端に転がってたからボクが預かってるよ。後で取りに来なさいよね」
「分かった。ありがとう明日香。助かるよ」
親切な彼女は、軽く手を振ってそそくさと帰っていった。
明日香を返した後、ぼくは夕食を食べ、お風呂を沸かした。
久しぶりのお風呂に、ゆっくりと身体を浸す。天渡し神社にいた時は、まだ怪我も治っていないから入らないように言われていたのだ。
「ふい~。良い湯だなぁ」
心地よいお湯が身も心も温める。怪我もすっかり治っているので、お湯が染みる事もない。こんなに早く怪我が治ったのは泉美ちゃんの薬のおかげだ。
驚く事に、僕が使っていた薬は山に自生している薬草で泉美ちゃんが調合した自家製らしく、とても効いた。割と大きな傷から、かすり傷程度のものまで、綺麗に消えている。
「でも、やっぱりコレは消えないな」
それでも、消えない傷があった。
いや、正確には傷痕だ。小さい頃に怪我をして、大怪我だったため、いまだに傷痕が残っている。
「………」
右腕に出来たそれを見て、ぼくはしばし思いに耽る。特別な思い入れのある傷なのだ。
普段はさして考えに上がって来るものでもないけれど、今日は何だかそいう気分だった。
簡単に体と髪を洗い、お風呂を上がる。すると、どっと疲労感が押し寄せてきた。どうやらまだ本調子ではないらしい。
今日はこのまま眠る事にした。
「ふぁ~」
部屋の電気を消し、帰って来た時と同じようにベッドに倒れこむ。
見慣れた木目模様がそこにあった。神社の天井を見上げてた時は、こちらの天井を早く見たいと思っていたものだが、いざ帰って来るとあちらの天井が懐かしく思える。
「今頃、どうしてるのかな泉美ちゃん」
不意に、泉美ちゃんの顔が頭に浮かんで消える。
また会いたい。衝動的にそう思った。
とは言え、あの神社に行った時は気絶してたし、帰りは目隠しをされていたので道が分からない。
「……もしかして、もう会えないのかな?」
そんなのは嫌だ。
もっと泉美ちゃんと話をしてみたいし、月下さん達にだって会いたい。
「今度、探しに行って……みよう……」
そんな事を考えているうちに、目蓋が重くなってきて、何時の間にか目を閉じていた。
………夢の中で、泉美ちゃんに会ったような、そんな気がした。
数日後、ぼくは明日香と約束していた買い物に行く事になった。そのために、ぼく達は電車を乗り継いで近くの街まで出かけて来ている。
「ほほぅーっ! やっぱり都会は活気が違うね~。渡瀬の商店街とは月とスッポンだよ」
人でにぎわう街中の様子を見て、明日香もテンションを上げている。
「ほんとだね。でも、何もそんなにめかし込んで来る事はなかったんじゃないの?」
ぼくは明日香の服装を、上から下まで眺めてそう評した。
今日の彼女はどこかのブランド物らしいオシャレな上着に、何時もは履かないスカートまで履いている。
「むっ、まったく命は女心が分かってない。だから女の子にモテないんだよ」
「余計なお世話だよっ! て言うか、それとコレと何の関係があるのさ」
「ふんっ、知らない!」
何が気に障ったのか、明日香は怒って先に行ってしまう。ぼくも慌てて後を追いかけた。
「ちょっ、まってよ明日香。何か気に障ること言ったんだったら謝るからさぁ」
「謝るんだったら、何が悪かったか分かってから謝んなさいよね」
「そんなこと言ったって……」
明日香に怒鳴られて考えてみるも、ぼくにはよく分からなかった。
「まったくもう、鈍感なんだから~」
答えが出ないぼくに痺れをきらして、明日香は自分の身体を指差した。
「他にもっと言う事あるでしょう。その、今日の格好、か、可愛いとか、似合ってるとか」
頬を染めながら明日香の言った事を聞いて、ぼくは納得した。ようは褒めてほしかったわけだ。
「何だ、そんな事か」
明日香もやっぱり女の子。普段はあまり服装を気にしたりしないから、興味がないものだとばかり思っていたけど、違ったらしい。
「何だとは何よっ! 女の子には大切な事なんだからね。あ、それとも何。ボクの事女だと思ってなかったわけっ⁉」
「そんな事ないって。今日の服も似合ってるし可愛いよ」
「本当にそう思ってんの? ボクに言われたからじゃないの」
明日香は疑わしそうな視線をぼくに送ってくる。
「違うよ。その服の色だって明日香に合ってるし、そのスカートだって何時もと違って可愛い、よ?」
あまりこう言う事で女の子を褒めたりする機会はないので、幼馴染の明日香と言えども最後の方は恥ずかしくなってしまった。
「ふ、ふんっ。そこまで言うんだったら許してあげる」
怒りのためかまだ頬が赤い明日香だったが、何とか許してもらえたらしい。
一安心だ。
「さ、それじゃ早速買い物に行くよ。せっかく計画練って来たんだから、こんな所でぺちゃくちゃしてらんないよ」
怒り顔から一転。輝かんばかりの笑顔を見せて、明日香はぼくの手を取って駆け出す。
ぼくは苦笑をもらしながらも、明日香と一緒に街へと繰り出した。
明日香はこの日のために色々と計画を練っていたらしく、ぼくは明日香に引っ張られるままに街を巡った。
アクセサリーや小物を売っている店をウインドーショッピングして回り、洋服店で買い物をした。主に買ったのは明日香だったけど、ぼくも幾らか自分の欲しい物を買った。
時間はあっと言う間に過ぎていき。お昼時になったので、ぼく達はファーストフード店に入って昼食を済ませた。
「はぁ~、美味しかった。……さて、次は何処だっけ?」
「う~ん、次はねぇ~」
昼時と言う事もあり、店を出ると通行人の数はさらに増している。
「―――――」
歩き難いほどの人混みの中。次の目的地へと進んでいると、何処からか聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あれ? この声………」
「? どうしたの、命」
「いや、圭の声が聞こえた気がして」
「圭?」
伊野圭。ぼくや明日香と同じ渡瀬高校に通う一年生で、共通の友人だ。軽い性格で女の子には目がないし、いい加減なところもあるが、実は友達思いの良い奴だ。
「……行ってみるか」
「あ、ちょっと命。置いてくなっ!」
声の聞こえた方へと足を進めてみる。ただの気まぐれで、圭に会ってどうこうと言う訳じゃなっかたが、人波を超え、圭の姿が見える所まで出てぼくは驚いた。
「ね、良いじゃん一緒に遊ぼうぜ? 時間ないならお茶するだけでもさ」
「わ、わたし、そういうのは困ります~」
圭は街で出会ったのだろう少女をナンパしていた。それ自体は驚くような事じゃなく、むしろ予想通りだった。しかし、圭がナンパしていた少女が予想外だった。
「わたし、本当にダメなんです」
圭に迫られ、目をキョロキョロと泳がせながら必死に誘いを断ろうとしている黒髪の少女は、間違いなく泉美ちゃんだった。
見慣れた巫女服姿ではなく白いワンピース姿だたが、見間違うはずもない。
「泉美ちゃん……」
こんな所で、しかもこんな形で再会するなんて思ってもいなかったぼくは、ポカーンと口を開けたまま立ち尽くしてしまう。
そのうちに、助けを求めて彷徨っていた泉美ちゃんの視線がぼくを捉えたのが分かった。
その顔が一瞬驚きで染まるが、次の瞬間。泣きそうな表情でぼくの胸に飛び込んで来た。
「命さーんっ! 助けてくださいぃ」
「うわっと!」
驚きから立直っていなかったぼくは、泉美ちゃんの勢いに危うく倒れそうになるも、寸でのところで踏み止まり、彼女を抱きとめる。
「あっ! ちっ、男がいたのかよ……って、命じゃねえか⁉」
泉美ちゃんが飛びついた相手がぼくである事に気付いて、圭もまた驚きで目を丸くする。
「もう、命っ! ボクを置いて行くんじゃ………」
追いついて来た明日香の声が途中で途切れる。寒気を覚えて振り返ると、明日香は完全にすわった目でぼくを睨んでいた。
「…………誰? その娘」
「うえぇえぇん。ぐすっ」
明日香はえらい怖い事になってるし、泉美ちゃんは泣き出しちゃうしで、ぼくの頭の中は真っ白くなってしまう。
「えぇっと……」
「泉美ぃーーっ!」
二人にどう説明したものか、ぼくが冷や汗をたらしながら回らない頭で考えていると、遠くから怒声が響いてきた。
「あ、嫌な予感………」
ぼくは本能的に危険を感じ、泉美ちゃんを抱き抱えたまま身を屈める。直後に何かがぼくの頭上を飛び越えていった。
「えっ、ちょ。ぐぶぅ!」
ボクの頭上を飛び越えた何かは、ぼくの真正面にいた圭にぶつかって彼を跳ね飛ばす。
圭の断末魔を聞きながら恐る恐る顔を上げると、さっきまで圭が居た場所に、長く美しい黒髪が踊っていた。
「泉美をイジメる奴はこのわしが許さんぞ‼」
その瞳にギラギラと怒りを燃やし、指を戦慄かせているのは、月下さんだった。どうやら泉美ちゃんの泣き声を聞いて突っ込んで来たらしい。
月下さんから数メートル離れた所には、車に轢かれたかのような有様になった圭が転がっている。大丈夫だろうか?
「お、おぉ。び、美女の生蹴りぃ」
…………大丈夫みたいだ。心配して損した。
でも危なかった。圭じゃなきゃどうなっていたか。恐るべきは月下さんの姉妹愛と言ったところだろうか。あまりの事に明日香も有得ない顔になっている。面白い。
「げ、月下さん……」
恐る恐る周囲に眼光を飛ばして唸っている月下さんに話しかけてみる。すると、電光石火の速さで月下さんの顔がこちらを向いた。
「ひっ」
殺人鬼の目だった。………見た事はないけれど。
「グルルルル、ル? ……命、か?」
獣のごとく歯をむき出しにして唸っていた月下さんだったが、僕の姿を見つけるとその目に理性が戻ってくる。
「おう、命ではないか! なんじゃ、こんな所で。奇遇じゃのう」
鬼の形相が一転して笑顔。ちょっと変動についていけないが、これで危機は去ったようだ。助かった。
「…………で、その二人は誰、なのかなぁ」
………危機は去っていなかったらしい。今度は明日香が鬼の形相になってる。
「ふ~ん。て事は何? その人達はボクの所に来た犬塚さんの同僚って事?」
「そう、そう言う事」
ぼく達は場所を変え、近くのベンチに腰を落ち着けて話をしていた。先程までの場所には野次馬が集まってきてしまい、とても話が出来るような状態ではなかったのだ。
「なるほど、二人は命の友達であったか」
「よ、よろしくです」
人見知りの泉美ちゃんは、いまだに圭と明日香にビクビクしていたが。月下さんは笑顔で二人と話をしてくれている。
「月下さんにい、泉美ちゃんか~。すっげー、美人姉妹だよ」
ダメージから立ち直った圭は、すっかり二人の姿に目を奪われていた。
「それで二人は何でここに? 買い物か何かですか」
「うむ、食料と備品の買出しにのう。商店街でも良かったんじゃが。くふふ、やはり街中の方が何かと面白いでな」
ぼくがそう聞くと、月下さんが言い寄る圭を軽くあしらいながら答えてくれた。月下さんはナンパされる事にも慣れているのだろう。
ジーパンに半袖というラフな格好なのにも関わらず、彼女は実に色っぽく綺麗だ。男だったら圭でなくても放っておけないだろう。
「ねぇ泉美ちゃん。今日がダメなら、今度一緒に遊ぼうぜ」
「ふ、ふぇええ~~」
月下さん相手では脈なしと気付いたのか、圭がナンパの相手を泉美ちゃんへと戻す。泉美ちゃんはそんな圭が怖いのか、月下さんの後ろへと隠れてしまった。
彼女だって十分に魅力的だ。色っぽさこそないけれど、可憐で清楚な顔立ちに、クルクルとよく変わる、豊かで可愛らしい表情。
月下さんに負けず劣らず声を掛けられていそうだけれど。泉美ちゃんの場合は性格のせいか、月下さんのようにあしらう事は出来ないみたいだ。
「ほら圭、怖がってるじゃないか。泉美ちゃんは人見知りなんだから、あんまり迫っちゃだめだって」
「え? あ、あぁ。ごめんな、あんまり可愛いもんだからつい」
ぼくば注意をすると、圭は頭を掻きながら泉美ちゃんに謝った。
「いえ、大丈夫ですから」
圭に答えながら、泉美ちゃんは右手を胸に当ててほぅ~っと息をつく。
「ありがとうございました、命さん」
それで幾らか緊張も解けたのか、ぼくにお礼を言ってくれた時には、何時もより硬かった表情も柔らかさを取り戻していた。
「…………人見知りだって言うわりには、仲、良さそうじゃない。命」
「えっ、いや。それはほら、怪我の看病をしてもらってる時に幾らか話したから」
「ふうぅん~~」
泉美ちゃんとは逆に、明日香の表情はさっきから硬くなる一方だ。ぼく、彼女に何か悪い事でもしただろうか?
「くふふふ。楽しい連中じゃのう。もう少し話をしていたいが、美琴が待っておるのでわし達はそろそろ帰るぞ泉美」
「あっ、はい! 姉さま」
ぼく達の様子を楽しそうに眺めていた月下さんが、空を見やって呟いた。言われてみると、太陽が何時の間にか傾いている。色も淡いオレンジへと変わり、空を染めていた。
「わしはこれとこれを持つから、泉美はこっちを頼むぞ」
「はい」
月下さんと泉美ちゃんは、それまでベンチに置いていた荷物を手に、帰り支度を始める。
「あっ、俺も手伝いますよ。任せてください、腕力には自信があるんです」
パンパンに膨らんだレジ袋を手にする二人を見て、圭が名乗りを上げた。彼は力がある事を証明するように袖をまくり、露になった二の腕に力強く筋肉を隆起させる。
「「っ!」」
圭の腕を見ると、月下さんと泉美ちゃんの表情が驚きを顕にして固まった。特に泉美ちゃんは目を限界まで見開いて驚愕しているようだった。
「どうかしたんですか?」
二人のあまりに大きな反応に、ぼくは困惑して尋ねる。確かに圭は鍛えている方だが、そこまで驚く程には筋肉が付いているわけじゃない。
「………いや、何でもない」
しかし、ぼくの質問は答えてもらえなかった。明らかに何でもないと言う表情ではなかったのだが、月下さんに強い口調で言われると、ぼくにはそれ以上追求出来なかった。
「………」
月下さんはただでさえ力強い視線を更に強め、圭を値踏みするかのように目を細める。
「うっ……」
これにはさすがの圭もたじろぎ、力瘤を作った格好のまま一歩後ずさった。
「そうじゃのう、では頼めるか?」
だけどそれも一瞬の事。月下さんは笑顔を作ると、圭に担いだ荷物の一部を差し出した。
「もっちろんです!」
圭もすぐに気を取り直すと、月下さんが差し出した荷物を受け取った。
「あっ、ぼくも手伝いますよ」
ぼくもすぐに手伝いを申し出た。二人の奇妙な反応に気を取られて言い出せなかったが、最初からそのつもりだった。
月下さんは軽々と抱えているが、その荷物量を女性二人で運ぶのは大変そうだったのだ。その証拠に、荷物を手にした泉美ちゃんはバランスを崩して転びそうになっていた。
「だめっ! 命はボクとの買い物があるでしょう。忘れたの!」
だけど、ぼくの申し出は直後に抱き付くように腕を絡めてきた明日香によって断たれる。
「ちょっ! 明日香っ」
幼馴染とは言え普段これ程くっつく事などないので、ぼくは狼狽する。スレンダーな体型の明日香ではあるが、男のそれとは明らかに違う柔らかい感触がぼくの脳を刺激する。
「あ……」
そると、それまで驚きの表情で固まっていた泉美ちゃんが小さく息を漏らした。
「ほら、弧印さん達ももう帰るんだからボク達も行くよ!」
「ちょっと明日香、分かった。分かったから、そんなに引っ張んないでよ!」
だけど、その泉美ちゃんの反応が何を意味するかを確かめる暇もなく、ぼくは二人への挨拶もそこそこに明日香に連れ去られたのだった。