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インタヴュー・ウィズ・アーバンレジェンド#3

作者: 漆原カイナ

第三節 過去~Remember then~

 

 ――この街の裏で蠢く怪異の驚くべき正体。

 見出しとなるその一文をタイプしてからというもの、私の手は止まりっぱなしだった。

 私はパソコンデスクの上に置かれたラップトップPCのキーに手を乗せたまま画面右下の時計に目だけを向けて覗きこむ。

 時刻は既に0時を過ぎ、日付の上ではもう翌日になっていた。

 時折、思い出したように文章が浮かぶものの、結局それをタイプしてから数分としないうちにバックスペースキーの連打で白紙へと戻すのを繰り返しているのだ。

 糖分補給の名目で置いておいたチョコレートやうっかり倒してパソコンを水没させない為にわざわざ学習机の上に置いているハーブティはとっくに底をついている。

 佳苗の事件からというもの、相変わらず克也は学校を休んでいた。

 “赤マント”事件の時もそうだったように、事件を解決すると学校を休む奇妙な規則性があるのは明らかだ。

 でも、今更それが判った所でなんだというのだ。

 実を言うと、佳苗が起こした事件を解決した日を境に克也とは話す気が起きなかった。

 前回は彼がいつ登校してくるのかあれほど気になっていたというのに。

 私が彼との間に何か大きな隔たりを感じてしまった。

 主観的なことだというのに、その事実が不思議なくらい客観的に理解できる。

 もともと感情にも乏しければ、つっけんどんでぶっきらぼう。

 時には冷淡とすら感じることすらあったけれども、ただ人付き合いに関する興味が普通の人よりも少し希薄なだけ――そう思っていた。

 でも、もし佳苗が取り返しのつかない所まで行っていた場合には躊躇なく彼女を殺すと言った時、怒りに震える私の瞳と合った目は今までに見た誰のものとも違う。

 そう――。見てしまったのだ、私は。

 彼の瞳を見てしまった瞬間から都築克也という人間が私――日野真桜とはどうやっても同じ日々にはいられない人だと直感的に、そして心の深い部分で理解してしまったのだ。

 だから、もう無意識のうちに彼との間に私は線を引いてしまう。

 何であの時に見てしまったのだろう。

 よりにもよって、あんなに楽しかったデートの後で。

 水族館や遊園地でお互いをからかいあっていた時には私は彼との間にあった隔たりが少しずつ消えていく気がしていたというのに。

 なまじそんな時にあの目を見てしまったから余計に隔たりの大きさを痛感した。

 溝は埋まりかけた時が一番脆いということを私は嫌でも思い知ったのだ。

 たった一つ。それが彼に対しての関心が薄れて行った理由。

 本当にそれだけだろうか? 

 違う――。本当はその問いの答えを解っているのだ。

 彼に対して感じているのは隔たりだけではない。

 私は劣等感を感じているのだ――他ならぬ、彼に。

 “ミーティア”の事を最初に聞かされた時、私はあれほど強く決意した筈だった。

 でも、実際は強く決意したつもりになっていただけなのだ。

 そのせいで彼の“覚悟しておけ”という警告の意味も深く理解しようとしなかった。

 この街の裏で蠢くものに報道のフラッシュを当てて、真実を白日のもとに晒す。

 私は私に出来るやり方で彼の手助けをする――それが、この街で誰かが傷つくのを防ぐ何かの一助になる筈だから。

 そんな風に思っていた私は結局、克也が身を置いている世界に首を突っ込むということがどんなことであるのかを理解することなど出来なかったのだ。

 ――お前の好きな報道と同じだ。

 口では知った風な口をきかれた事を怒ってはいても、内心では図星を突かれて絶句するしかなかった。

 そうなのだ。私が理想や目標として掲げている報道というものを実現するには避けて通れない道。

 これも解っていると思っていた。

 でも、実際はこれも同じように解っているつもりになっていただけだったのだから。

 私と同じ歳でありながら、克也はしっかりとそれを理解している。

 その事実は意識する度、私の心に重たくのしかかって来る。

 私がやっていた事といえば何だったのだろうか?

 結果的には不用意に自分から首を突っ込んだ挙句にやぶをつついて蛇を出しただけだ。

 そして、克也に助けられてばかり。

 “あいつが蒔いた種は全て俺が刈り取る……そして、この旅の果てにあいつを――。それが俺の旅の目的だからだ”

 彼は確かにそう言ったのだ。

 それが何を意味するのかは私には解らないが、少なくともこれだけは言える。

 克也は自分の役目をしっかりと全うしている。

 “旅”というからには、きっと私が彼を知るよりも前から彼は戦い続けてきたのではないだろうか。

 そう思うと、自分がどこまでも恥ずかしくなる。

 結局、自分は目標や理想という名目で報道と騒いではいるが、結局の所それを最後まで全うする覚悟すらないのかもしれない。

 現に、私は克也が佳苗を殺す事も厭わないのを見せた時に感じたのではなかったか。

 目をそむけ、耳を塞ぎたくなることにも直面する可能性のある“報道”というものを苦労や重荷と感じて忌避してしまいそうになったのではないか。

 ――こんな辛い事に直面するならいっそ……。

 そこまで言いかけて私は慌てて心の声を抑え込んだ。

 自分一人にだけ聞こえる胸中の声。

 だがそれでも、ここでそう言ってしまっては何かが終わる。

 そんな漠然とした恐怖を感じながら私は気分を変えようとマウスに手を乗せた。

 私はミュージックプレイヤーを立ち上げると、再生モードをシャッフルに設定する。

 気分を変えてくれる曲ならとにかく何でも良かった。

 パソコンデスクの背もたれに身体を預けた私はキーボードの近くにあった青色の小瓶――目薬の容器から雫を瞳に垂らしてからそっと目を閉じる。

 ずっと画面を見続けていたせいで疲れた目に冷えるような清涼感が気持ち良い。

 心地が良いのでこの態勢のまま瞳を閉じ続けていた私はスピーカーから流れる音楽に聞き入っていた。

 アップテンポながらも騒々しくないイントロがスピーカーを震わせる。

 曲調とマッチした楽器の音は澄み渡るように綺麗で思わず聞き惚れてしまう。

 歌手の声も楽器と同じく綺麗に澄んでいて、思わず心に沁み入って来るよようだ。

 久しく聞いていなかった曲だった。なにせ自分でも忘れていたのだ。

 シャッフル再生しなければ、ハードディスクの奥に眠ったままだったことだろう。

 私はこの曲が何の歌であるかをおぼろげにだが思い出した。

 去年、まだ新入生だった私が学校のことやカメラの扱いに紙面の組み方――報道部のイロハをやっと解り始めた頃のこと。

 その頃から部室の無かった報道部が漫研の部室に間借りしていた時に仲良くなった女の娘から借りたCDに入っていた曲だった。

 とあるアニメの主題歌だった気がする。

 といっても、歌詞自体は純粋な気持ちを唄い込んだラブソングなのだ。

 だから、普通に聞く分にはアニメの歌だとは気付かない。

 借りたばっかりの時はよく聞いてたのにな……。

 ポータブルミュージックプレイヤーを新しく買い替えた時に曲を一から入れ直したが、その時に入れ忘れたこの曲は当然入っていない。

 でも、前のプレイヤーを使っていた時には通学中によく聞いていた。

 CDを貸してくれた漫研の子から聞いたそのアニメのストーリーに好感が持てた私は曲自体の良さもあってよく聞いていたのだった。

 何て言うアニメだったけなぁ……。

 結局、私はそのアニメを見ようと思っていて見ていなかったせいで、今となっては聞いた筈のタイトルも思い出せない。

 ただ、覚えているのは大まかなストーリーだけ。

 感情を押し殺した工作員の少年とごく普通の女の子の恋物語――。

 私にあるのはおぼろげな記憶。だからその結末も、知らない。

 曲がサビに差し掛かった時、ふと克也の顔が浮かんだ。

 こんなことを考えていたからだろうか。

 それににしても、よりによってサビの部分で出てくるなんて。

 少しは相手に気を使いなさいよ、まったく……。

 相手には声が届かないというのをわかっていながら私は胸中で口を尖らせていた。

 自分でも何故そんなことをしたのかは、まだわかりそうにもなかった。

 

 

 ラップトップのファンが回る音で私は目を覚ました。

 目を覚ますと私はベッド……ではなく机に突っ伏していた。

 確か……昨夜は報道部の展示に出す予定の部誌に乗せるルポを書こうとして、そのまま眠ってしまったらしい。

 背もたれに身体を預けて目を閉じたら気持ちよくなって、それから眠気がどっと押し寄せてきた所まではかろうじて覚えている。

 殆ど確証のないうろ覚えの記憶だが、途中で別の楽な姿勢に変えようとしてパソコンデスクに体重を預けたのではなかったか。

 ボサボサに乱れた前髪がかかる目をこすりながら私は半開きの瞼でラップトップPCの画面を見つめた。

 結局昨日は見出しを一行書いただけだった筈なのに、今まさに私が見ている画面は数百枚のページ数をカウントしていた。

 しかも、改行もなければ行間もタイトだ。

 その文字数たるや相当に膨大なものだろう。

 とっくに部誌に最低限必要なだけのページ数は突破していた。

 ただし、それが文章になっていればの話だが。

 私はため息を一つついてドキュメントファイルの文字列を全て選択する。

 画面を埋め尽くす「ああああ」の文字列をデリートキーひとつで消去すると、パソコンデスクの前から立ち上がった。

 何でよりにもよってキーボードの上に寝るのかしら……。

 自分で自分に呆れながら、私は一階へと降りて行った。

 学校が休みである土曜日の朝は、平日と違って私がアラームのトラップを仕掛けないせいで静かなものだ。

 ベッドで寝なかったせいで眠りも浅い上に変な姿勢で余計に疲れた気がする。

 私はあくびを大きくしながら洗面所の鏡に映った自分の姿に目をやる。

 貧相な開き方をしている瞼はもう少しすれば直るから良いとして、私は瞼よりも目立つものから目が離せずに自分への呆れをより一層深くした。

 私の右頬にはまるで漫画に出てくるような寝痕がついていたのだ。

 キーボードの形のせいでどこに寝たかが一目でわかる。

 ……それはもう見事な市松模様だった。

 これが消えるまでは家にいようと心に決めた私は、顔を洗ってダイニングに行く。

 いつものように食卓のカゴからロールパンをいくつか取ってから自分の部屋に戻る。

 私はロールパンを口にくわえたままベッドの横に置きっぱなされていたバッグから愛用のカメラを取り出し、それをケーブルでラップトップPCに繋ぐ。

 何てタイトルで載せようかなぁ……この写真。

 画面いっぱいに表示された画像の一覧に目を向けながら私は思案した。

 同じ構図で撮影された写真が何枚も並んでいる中から気になった一枚をピックアップしては全画面表示でチェックするのを私は繰り返す。

 私が“銀色の弾丸”の正体を初めて知った日に撮った写真の数々だ。

 連射モードで撮影された写真たちは当然ながら連続写真のようになっている。

 私がキーボードの右矢印キーを押しっぱなしにするとパラパラ漫画の要領で写真があたかも動画のように動き出す。

 腕から鎖を伸ばして跳躍する銀色の一角鬼。

 相棒である銀色の一角獣との連携で放たれた一撃必殺のキックが赤マントの怪人に直撃するまでの一部始終が躍動感のあるアニメーションのように表示される。

 それを見ながら私は頬杖をついていた。

 大量に撮影したこれらの写真の中には、きっとベストショットもあるだろう。

 はっきり言って決定的瞬間に違いない。

 でも、果たしてこれを載せた所で何人が真実と思ってくれるだろうか。

 常識的に考えれば明らかにこれは特撮だ。

 曲がりなりにも真相報道を謳っている報道部がトリック写真を掲載したなんて噂が立ったらもう目も当てられない。

 そもそも、この写真はあの時の私が咄嗟にカメラを構えて無我夢中で撮影したものだから被写体に許可を取っていないのだ。

 せめて撮影したことへの事後承諾でも良いから得ておかないと、私としては掲載するのは気が引ける。

 端くれであってもジャーナリストとしてのモラルという奴が私にそれを許さないのだ。

「……よし、本人に直接ってのが一番早いわね」

 私は意を決してパソコンデスクの前から立ち上がった。

 掲載するしないは別として、取りあえず事後承諾は取っておこう。

 カメラの次は携帯電話をバッグから取り出すと、私は電話帳から「た行」のメモリを呼び出した。

 プッシュ回線が繋がる音の後に続くコール音が私の耳朶を揺らす。

 ただでさえ他人との関わりに消極的な克也のことだ。

 きっと長い事またされると思っていたが、意外にも早く克也は電話に出た。

「……何の用だ?」

 挨拶もなしにたった一言だけが電話口から漏れる。

 一応、休日に女の子から電話がかかって来てるんだから、それなりの反応の仕方ってものがあるでしょうに。

 苦笑と嘆息の入り混じる私の表情と心情など察した様子も無く、電話口の克也は少しも待たずに次の言葉を切り出した。

「用が無いなら切る」

 容赦ない克也の対応に私はいささか慌てながら早口で喋る。

「ちょっと……少しは待ってよ。学校休んでたみたいだから心配してあげたのに」

「心配なら無用だ。それだけなら切るぞ」

「だから、少しは待ちなさい! というか、少し落ち着きなさいよ!」

「……仕方ないな」

 つい私がぴしゃりと言ってしまったのに対して克也は渋々と言った様子で返す。

「話したいことがあるんだけど、これから会えないかな?」

「直接か?」

 どれもこれも十文字以内に収まりそうな返事ばかりだわ。

 これは本当に高校生の男女の会話なのかしら。

 私は誰か第三者に意見を求めたい気分に駆られていた。

「そうよ。直接会って話したいから。時間とかは大丈夫?」

 ほんの数秒間電話の向こうで考える気配があったかと思うと、ややあって電話口から克也の声がした。

「いいだろう。用件は会った時に聞く」

 ホッとした私は学習机の上にあった目覚まし時計を見ながら電話口に告げる。

「ありがと。それで時間と場所だけど――」



 私は近所の公園に自転車を乗りつけ、金切り声のような音を出してブレーキをかけた。

 近いうちにまた油をさしておかないといけないみたいだ。今度やっておこう。

 自分でも結構なスピードで飛ばしてきたつもりだったが、克也はもうとっくに来ていたのか、植え込みの生えた樹にもたれるようにして私を待っていた。

 せめてベンチに座ってれば良いのに。ひょっとして気取っているのだろうか。

「ごめん。待たせちゃったかな?」

 自転車を押しながら歩いてくる私に気付いたのか、克也はポケットにてをつっこんだまま私に歩み寄って来た。

「気にするな。呼び出された時点で遅れようと遅れまいと十分に迷惑だ」

 いきなりの先制攻撃ならぬ先制口撃。それでも私はぐっと堪えきった。

「だからごめんてば。でも、女の子からの誘いに迷惑はないんじゃない?」

 作り笑いを浮かべた私の顔が引きつっているのが、鏡を見たわけでもないのにありありと目に浮かぶ。

 克也は克也で先程から頬をひくつかせていた。何故だかはわからないが、似ている時の仕草を強いて挙げるとしたら、虫歯が痛いのを我慢している時の仕草のような気がする。

「出来れば週明けまでは安静にしてたかったんだが」

 嫌味というより本気でしんどそうに克也は言った。

「どしたの? 風邪でもひいてたの? ってか、風邪なんてひくことあるんだ――」

 ――バカなのに。そう続けようとした私は克也が本気で辛そうなのを見て口を噤む。

「体中が悲鳴を上げてる。正直……座ると背中が痛い」

「……大丈夫? もしかして寝違えでもした? 一体どうしたのよ?」

「前に言わなかったか……? “ファーナス”の状態になった“ミーティア”は宿主の限界や加減を全く考えずに身体を使う――だから手ごわく厄介な相手になる」

「あ……!」

 私は大きく口を開けながら得心し、広げた手で慌ててそれを隠す。

「ああ。連中に対抗するには俺も相棒にそれをさせる必要がある――そういうことだ」

 人外の速度で襲いかかる赤マントや破格の機動性で猛威を振るう銀色の天使。

 克也が見せたそれらと互角以上のアクロバットが私の脳内で即座に再生される。

 全身鎧を着てあれだけ素早く動き回っているのだ、身体を酷使しないわけがない。

「呼び出したりして本当にごめん。あれだけ動けば……そりゃ筋肉痛にもなるわよね」

 私は克也の前で手を合わせると、頭を下げて詫びた。

 どうりで事件解決後は何日も学校を休むわけよね。

「この程度なら構わない。どうせ、お前が細かいことを考えないのは既に承知だ」

 抑揚のない声で言っているせいで、妙に上から目線の物言いに感じられた私は思わず頬を膨らませる。

「ちょっと……それってどういう意――」

「そんなことより用事が合って来たんだろう? とっとと用件を話せ」

 むっとした私の声を遮るようにして克也は更に抑揚を欠いた声で言った。

「用件ね……はいはい、わかったわよ……」

 雑談も何もない殺伐とした会話にわざと大げさに辟易して見せながら、私はバッグの中から封筒を取りだした。

 適当な封筒が無かったので仕方なくオシャレなレターセットから流用したのだけど、その封筒は控えめに見ても十分に可愛かった。

 花の形をしたレース網みが浮き彫りになっている封筒は淡いピンク色だ。

 恋人同士の文通か下駄箱に入れるラブレターにこそふさわしいデザインに違いない。

 こんな殺伐とした男に持ってくるんだったら、家中をひっくり返してでも業務用の茶封筒を探してくるんだった。

 私は少し悔みながら克也に負けじと仏頂面を浮かべて封筒を差し出した、というより突き出した。

「私を“赤マント”から助けてくれた時に撮った写真。コレ、もしかしたら報道部の部誌に載せるかもしれないから。一応、被写体であるキミの許可は貰っとこうと思ったのよ」

 克也は何も言わず封筒を受け取ると、入っていた印画紙の束を順繰りに確認していく。

 相変わらずの渋面。むしろこの時は怖い顔にすら見えたが、一つ意外なことがあった。

 てっきり、全く興味も示さずに一瞥しただけで返されると思っていた私の見ている前で克也は写真を一枚一枚丁寧にチェックしていく。

 そんな対応は予想していなかっただけに、じっくり見られて、逆に私の方が恥ずかしい。

 まさか、“銀の弾丸”の正体を特定できる何かが写っていないかを念入りに探しているんじゃなかろうか。

「そんなに心配しなくたって大丈夫。キミの正体がわかるようなものは写ってないから」

 実を言うと恥ずかしさに耐えかねていた私は写真をじっくり見る彼に横やりを入れるように言った。

 声が不機嫌そうなものになってしまったのは恥ずかしさのせいなのかもしれない。

 写真の束から顔を上げた克也の表情も私の声に負けず劣らず不機嫌そうだった。

 邪魔された事がそんなに腹立たしかったのだろうか。いつも私の腹を立たせるクセにこういう時に限って露骨に不機嫌そうな顔をするのね。

 胸中で一人静かにぼやいた私から目を印画紙に戻すと、克也は写真を見ながら私と目も合わせずに言った。

「日野、露出は考えてるのか? ()と(・)び(・)がひどすぎる」

「……え?」

 私は気の抜けた声を出せただけで思わず硬直してしまった。

 彼は今何て言った? 

 “露出”に“白とび”? よく知っている筈の言葉なのに彼の口から出た事が私にとって驚きだったせいで、その意味を思い出すのにひどく時間がかかった。

「そ、そりゃ……いつもは考えてるけど、その時は咄嗟に撮ったから細かい調整は間に合わなかったのよ……」

 何故か必要以上に言い訳じみた物言いになりながら私は反論した。

「だろうな。特にこの写真は俺を撮ったつもりだろうが、これではただの白い塊だ」

 審判が出すレッドカードのように、或いは犯人を威嚇する意図を持って出された警官バッジを思わせる出し方で克也は束の中から取りだした一枚の写真を私に見せつけた。

 一角獣を思わせる愛機のサドルから飛び上がった瞬間の克也を撮影した写真だった。

 上から降り注ぐ街灯の光だけでなくストロボのフラッシュも浴びた銀色の鎧は明らかに光量過多で真っ白になっている。

 確かに彼の言う通り、これでは何だか解らない白い塊が写っているにすぎない。

「報道部なんて名乗っているのなら、もう少しは腕を磨くべきだな」

 またこの口調だ。淡々と事実だけを伝えるような、事務的というには冷淡すぎる声。

 生態の殆どが解明されていないこの謎だらけ男と私の間にあった意外な共通点を発見したことや、コミュニケーションの欠片もない彼との話がやっと合うと思って沸き立っていた私の心は彼の冷淡極まりない言い方によって一瞬で冷え切った。 

 いや、ついカッとなったという点では別の意味で沸き立ったのは間違いないが。

「な、何よ……! ちょっとは詳しいみたいだけどさ!」

 苛立ちを声だけでなく顔にも遠慮なく出しながら言った私の気持ちもどこ吹く風といったように克也は無表情だ。

 何とかこの無表情を動かしてやろうと、私が次の口撃を考えていた時だった。

 世界が滅ぶ瞬間にすらろくの動きそうにない克也の表情が一瞬にして激変する。

 緊張感もあらわに周囲を警戒する目つきは明らかに平時のものとは思えない。

 彼は足元に砂煙を立てんばかりの勢いで私の前に飛び出すと、背中で視界を遮るように立ちはだかる。

「休日に痴話喧嘩ですか。あ(・)の(・)()のご好意は無視するのに、その女の子の誘いは受けるんですね」

 丁寧さが板に付いたような落ち着いた喋り方をする声だ。

 声の主は克也の背中に隠れて見えないが、きっと彼の前方にいるのだろう。

 中性的な声質のためか、声の主は姿を見なければ男か女かは判断できなかった。

「……設楽(したら)。何の用だ? おおよその見当はつくけどな……!」

 今にも牙を剥いて飛びかからんばかりの雰囲気で克也は言った。

 ぶっきらぼうで淡々としている時とは違い、思わず後ずさってしまいそうな近寄りがたさが今の彼にはあった。

 私は恐る恐る首を傾けて克也の前方を背中の横合いから覗きこむ。

 克也の前方には一人の少年が立っていた。

 隙も乱れもなく着こなされた上着の詰襟は襟元までを覆っている。

 絵にかいたようなと言えるくらい典型的な優等生タイプの格好だ。

 声質と同じく顔立ちも中性的で、もう少し幼なければ少女でも通じそうに思える。

「お察しの通り、この街であの人が蒔いた種は銀色の天使を成形した少女――数日前にあなたが倒した個体で最後です。やはり今回もやってくれましたね」

 もはや臨戦態勢の気迫すら放っている克也とは対照的に設楽の声はあくまで穏やかに聞こえるのは私の洞察力が足りないせいだろうか?

「どうしてあの人のお気持ちを解ってくれないのです? 智久(ともひさ)さんはずっと克也さんを待っているというのに!」

 設楽は穏やかな口調で始まった口上を途中で絶叫へと豹変させた。

 彼の問いかけに克也は答えようとしない。

 今の私には彼の後ろ姿しか見えないが、頑なに口を噤んでいる彼の顔が目に浮かぶ。

 だが、遂にこの沈黙に耐えかねたのか克也が大きく口を開いた。

 ただし、その口が紡いだのは設楽からの問いに対する答えではなかった。

「日野、逃げるんだッ! 何も考えずに、出来るだけ遠くへ……ッ!」

 唐突に振り返った克也の形相は今でも忘れられない、切迫しているなんて言葉だけでは到底表現しきれないような顔に浮かんでいたのは焦りと恐れ……だろうか?

 こんな形相で急に逃げろと言われたら落ち着いてなどいられない。

 私は事態をろくに呑みこめないまま、こともあろうに不用意に彼の背中から横に数歩踏み出してしまった。

「今度はその女の子なんですね――克也さんを繋ぎ止めているのは!」

 自分に確認するように静かで知的な声の独り言を呟くと、設楽はまたも語調を豹変させたかと思えば、その瞬間には地面を蹴っている。

 私が今まで見てきた赤マントや銀色の天使――“ミーティア”をその身に宿した者だけが持ちえる超人的な身体能力だと私が理解した時には既に手遅れだった。

 何一つ反応が追いつかない私の眼前で、設楽は手首の古傷から真鍮色の液体を放出させ、袖を濡らすように這い上がらせながら自らの全身に纏わせていく。

 “ミーティア”を纏いながら飛びかかってくる設楽は、やっとのことで私が気付いた時には顔に息がかかる程の近距離まで肉薄し終えていた。

 一足飛びに距離を詰めた勢いに乗せて真鍮色の拳が振り上げられる。

 既にその大きさはとてつもなく肥大化し、見るからに頑強で巨大な腕は中性的な彼からは想像もつかない程にごついことこの上ない。

 全身を覆うプロテクターは身長や横幅すらも何倍にも跳ね上げるようで、既に私の目の前に広がる光景は真鍮色一色に覆い隠されてしまっていた。

 私が今まで目の当たりにした“ミーティア”を鎧と呼ぶのがおこがましくなるほどに頑強極まりない鎧がそこにはあった。

 いや、こんなものはもはや鎧ではない。

 うず高く積み上げられた鉄材の山が人型になって歩いている――。

 私の前に屹立し、今まさに拳を振り下ろそうとしている相手はそうとしか言いようが無かった。

 この豪腕の前には工事用のハンマーですらオモチャにもならないだろう。

 ……きっと、痛みも感じずに死ぬんだろうな……私。

 指一つ動かせない中で私は冷静すぎるほど冷静に考えを巡らせていた。

 いつもの克也を怒れない程に冷淡で客観的な私に自分でも腹立たしくなる程だ。

 せめてお父さんやお母さんには私だって解ってほしいな……。

 一撃で破砕され、激しく損壊されて死んだ後のことまで考えていた私の心は凄まじい速さで諦念に包まれていく。

 それと並行して真鍮色の右フックが振り上げられた態勢から遂にスタートを切った。

 私の心も諦念一色になる直前までいったが、激しい衝撃が私を襲う事は無かった。

「か……は……ッ……」

 肺の中にある空気全てを押し出されたかのような苦悶の声が克也の口から漏れる。

 一瞬、いや半瞬の差で私を抱きしめるようにして庇ってくれた克也の背中からわき腹にかけて鉄球のような右フックが炸裂していた。

 我に返った私の脳裏に雑多な感情が我先にと急ぐように流れ込んでくる。

 自分が殺されかけた恐怖や、庇ってくれた彼への負い目。

 そして、同じ恐怖でも彼の身に取り返しのつかない何かが起きてしまうのではないかという恐怖が一斉に私の心へとなだれ込んできた。

 膨大な感情の奔流に圧迫されて声を上げることも出来ない私は瞬きすることも忘れて克也の姿に見入っていた。

 拳が炸裂した部分には粘土に型を押しつけたようにくっきりと拳の形が残っている。

 その衝撃は私の想像など到底及ばないだろう。彼の身体越しに伝わった相当な衝撃が私の身体をも揺らすが、それでも彼は私を抱きしめる手を離しはしなかった。

「早く……逃げ……るん……だ」

 もう息を吐くことすら殆ど出来ていない口から克也は必死の思いで絞り出す。

 克也が命がけで作ってくれたチャンス――それは痛いほど解っていた。

 だが私は聞き分けのない子供のように涙を流しながら、ただ首を横に振り続けるだけでその場を一向に動く事ができない。

「俺の事は……どうでも……いい」

 克也の声は口をついた瞬間には霧散しそうな程に弱っていた。

 一言一言を発する度に血を吐かんばかりに苦しげな顔をしながらも私に促してくれる。

「嫌……嫌だよ……都築くん……」

 なのに私はただ涙を流す事しかできず、たった一歩すら踏み出せない。

 そんな私を、まるで背中を押すように克也は軽く突き飛ばした。

 突き飛ばした時に伸ばした克也の右手首から夥しい量の鎖が生成される。

 蛇口を全開まで捻った水道のように吐き出された鎖は瞬く間に彼の隣に積み上がり、数秒と経たないうちにとぐろを巻いた大蛇すら思わせるほどになっていた。

 鉄鎖の大蛇は一瞬で銀色の水滴に変わるのを経て、黒髪の少女へと変貌していく。

「……日野を……連れて行け……ッ! 安全な所まで……早く……ッ!」

 黒髪の少女は私の腕を掴むと、半ば私を引きずるようにして走りだした。

 彼女の克也以上に無感情な瞳に意思の力は感じられないが、迷子の子供の手を引くように私を引っ張って行く腕には有無を言わさない力がある。

「姑息な手ですね。みすみす私が見逃すとでもお思いですかッ!」

 もはや丁寧な口調などかなぐり捨てた設楽の絶叫と共に、再び拳の形をした鉄槌が振り上げられる。

 そして、振り下ろされた鉄槌が風を切る音より早く、金属が金属を噛むような甲高く澄んだ音が響く。

 止まらぬ涙で滲む風景の中で、克也の左手から伸びた鎖が設楽の拳に巻きついていた。

 でも、巨大な拳に比べてそれを縛る鎖はあまりにも細くて頼りないように見える。

 右手で痛む脇腹を押えながら、克也は左手一本で必死に鎖を引いていた。

 私の意思とは無関係に引っ張られるせいで、涙に濡れる視界が大きく揺れ動いていく。

 克也の頼みを受けた黒髪の少女に手を引かれながら、私は公園を後にした。

 走りながら涙でくしゃくしゃになった顔で振り返った私は、遠ざかって行く克也の姿から目を離せなかった。

 


 河川敷の土手まで来た私たちはやっと一息ついた。

 流石にここまでは追ってこないだろう。

 無我夢中だったせいで忘れていたが、ずっと走り通しだったのだ。

 おかげで随分と距離は稼げたが、身体は疲弊しきっている。

「はぁ……はぁ……都築くん……大丈夫かな……」

 携帯電話は走りながらもかけていたが、何度かけても通じなかった。

 それが私に、より一層の不安を植えつけていた。

 克也のことを考えながら、私は去り際の光景とともに設楽の目を思い出す。

 赤マントと同じ目だ。いや、もはや彼の目はそんなものでは済まされない。

 単純にたった一つの目的を果たす事だけを考える道具としての本能。

 “ミーティア”の本能に心を染められた者だけが持つ狂気そのものだった。

 そんな相手の前に傷ついた克也を残してきたことを今更ながら私は悔いている。

 別に私が悔いた所でどうにかなるわけでもないのに……。

 後悔と自責の螺旋にはまりそうになった私を我に返らせたのは意外な相手の声だった。

「少し休んだら――人目のある――所まで走る――それに――彼なら――大丈夫――心配――いらない」

 今まで一言も喋らず、ただ一心不乱に私の手を引いてくれていた黒髪の少女。

 彼女が突然、私に向かって口を開いたのだった。

「そんな……どうしてわかるのよ……! 適当なコト言わないで……っ!」

「私の一部を――彼の――身体に――置いて――きたから」

 彼女は声も表情も克也以上に感情と抑揚に乏しく、合成音声と話しているようだった。

 にしても……抑揚も平坦なら、文節の切り方も変だ。

 きっと……これもあるから余計に合成音声に聞こえるんだわ。

「彼に銀色の血が――流れているなら――私達の意識は繋がる――まだ大丈夫」

 なるほど。克也は文化祭の説明会の最中、本当に念話で話していたのだ。

 だからこそ、銀色の天使が佳苗だと解った時もすぐに駆けつけられた。

 佳苗の羽根から庇ってくれたのもきっと、克也が彼女に頼んでくれたに違いない。

 彼女の説明に深く納得した直後、私はふと唐突に湧いた疑問に彼女にぶつけてみた。

「キミも“ミーティア”だよね? 実は人の姿にもなったり、喋れたりもするの?」

 注意して見ていても見落としそうになるほど僅かに彼女は頷いた。

 以前に克也から聞いた話だと“ミーティア”とは単純な知性しか持たないからこそ、人に寄生して知性を借りることで道具に姿を変える。

 そして、道具に変化した自分を宿主に使ってもらうか、無理に使わせる存在の筈だ。

 でも、今まさに私の目の前にいる“ミーティア”は少女の姿になって自分一人で歩きもするし、多少変ではあるけれど言葉も喋って私と会話している。

「喋れるのは――彼の知性を――借りて――いるから」

 そういえば“ミーティア”は宿主の知性にアクセスして情報を得るとか何とか克也が言っていたような気がする。

 きっと、彼女の一部を彼の身体に残していればそんなことも出来るのだろう。

 克也は彼女を身体の外に出した後も、左手から鎖を出せたのはそのためなのね。

「人の姿になる場合もある――種が宿主の身体に入った時――あなた達の言葉で言うと」 途切れ途切れながらも順調に喋っていた彼女は突然、言い淀んだ。

「あなた達の言葉で言うと――キカイ――キセツ――キセキ――」 

 感情表現が乏しいせいでよく解らないが、瞬きのペースを遅くして一点を見つづけるような表情は、ひょっとすると彼女なりの“困った顔”なのかもしれない。

「ねぇ、もしかして……“寄生”って言いたいの?」

 私が助け船を出すと、彼女はついさっきと同じように殆ど見えないほど僅かに頷いた。

「キセイされる時――最も強く意識している――情報がコピーされる――道具だけとは限らない――」

 思い出してみれば佳苗の“ミーティア”も人型になって自律行動できていた。

 昔の自分と同じ姿になったのも、地味な自分にコンプレックスを抱いていた彼女がどんな理由であれ、“地味な佳苗”を寄生された時に強く意識していたからなのだろう。

「人間のような――複雑な情報もコピー――できることがある――上手く」

 彼女はまた言い淀むと、思考錯誤するように言葉を発しては“困った顔”を浮かべる。

「上手く――キョウカイの関係――キョウダイの関係――キョウサイの関係」

「“共生”の関係、でしょ?」

 よし……流石に二回目ともなれば何とか気付けるようになってきたぞ。

 彼女が僅かに頷くのを見ながら私は胸中で小さくそう呟いた。

 私の中で一つ疑問が解決したが、今度はまた新たな疑問が生まれていた。

「……ってことは、キミの姿って都築くんが知ってる人の姿だよね? ……誰なの?」

 彼女は小さく頷いてから、“困った顔”で口をゆっくりと動かした。

「――詳しくは――私の口からは言えない――彼は人に過去を――話したがらないから」

 確かにそうだ。私にだって人に触れられたくない過去の一つや二つはある。

 あれだけ謎に満ちている克也ならば、たとえそんな過去があっても不思議ではない。

 それきりの沈黙。瞬きや身じろぎすら殆どしない彼女の姿はまさに金属の彫像のようだ。 どことなく気まずい空気を感じた私は話題を変えてみることにした。

「そうだ、キミにも名前あるよね? 良かったら教えてくれるかな? ずっとキミって呼び続けるのも何かアレだし、さ」

「――鈴美(すずみ)

「可愛い名前だね。嫌だったらいいんだけど……鈴美って呼んでも良い? ダメ?」

 鈴美は顎を微かに傾けて首肯するのに続いて平坦な声で私に語り始めた。

「正確には――私の名前じゃない――この姿と同じく――彼の大切だった人の――も」

 私がじっくりと耳を傾けていた彼女の声が唐突に途切れた。

 それが合図になったように、鈴美の小さくて形の良い手が銀色の塊に変わる。

「どうしたの! 大丈夫、鈴美!」

 取り乱す私とは対照的に鈴美は平静そのものだ。

 自分の身体に起きていることなのにまるで他人事のように分析するように喋る。

「彼との接続が途切れた――知性を借りられないから――姿を保てない――」

 あっという間に鈴美の手どころか二の腕の色と形までもが銀へと変わっていく。

「――でも――そのおかげで――彼に聞こえないように――話せる」

 彼女の症状(?)にどう対処したものか皆目見当もつかずにあたふたする私に向けて鈴美はあくまで冷静に淡々と一定のペースで口を動かし、声を出し続けた。

「彼ならきっと――あなたに自分の居場所を伝えるようなこと――私にさせない筈――だけど――今の彼は私がそうしても気付かないから平気――行ってあげて」

 私はもう既に流体状の金属である彼女の手を握った。

 それでどうなるものでもないとは解っているけど、何もせずにはいられないから。

 流体状の金属になった鈴美の手は硬いような柔らかいような名状しがたい感触だった。

「早く行って――途切れる前に見えた景色は――校舎と教会が一緒にある――所」

 私は彼女の手をより一層強く握りしめながら何度も深く頷いた。

「彼が無事なら――知性と情報も無事――私も大丈夫」

「わかったわ。その代わり、私と約束して」

 彼女はまだかろうじて銀色になっていない部分――首から上をほんの微かに傾けた。

「約束――?」

「そう。次に会う時もその姿になってもらえるかしら? まだ鈴美と話したいこともいっぱいあるのよ。それに――ホントのコトを言うと鎖やバイクよりこの姿の方が可愛いわ」

 鈴美を不安にさせないように私はつとめて気丈な顔と声を装った。

 彼女に不安という感情の情報があるかはこの際気にしないことにする。

「約束――する――もしかして――私のことをシンカイ――シンダイ――シンマイ――」

 また“困った顔”で鈴美が言い淀んだ直後だった。

 かろうじて人型を保っていた部分も含め、彼女の全てが銀色に流体化する。

 次の瞬間には私の前に一抱えもあるほどの銀色の玉のような塊が転がっていた。

 まるで前衛芸術のオブジェのようになった彼女の身体は私一人では動かせそうにない。

 だから、今は彼女を信じて私が克也の所にいくしかないんだ。

「“心配”、それとも“信頼”? ――大丈夫、私はどっちもしてるから」

 もう一度振り返った私は銀色の玉に向かってそれだけ言うと、今度こそ踵を返して全力で河原から走りだした。

 

 

 鈴美が教えてくれた情報で場所はすぐに割り出せた。

 この辺りで校舎と教会が一緒にある場所と言えばたった一つ。

 私は既に暗くなりつつある住宅街の中を全力疾走して目的の場所――とあるミッションスクールへと辿り着いていた。

 住宅街の奥地に建てられているだけあって、この辺りまで来るのはほぼ関係者だけ。

 そのおかげで、土曜日の夕方という時間帯の今は殆ど誰もいなかった。 

 入口に回った私は克也の姿が無いことを確認すると、迷わずに校舎の裏手へと向かう。

 正面からは勿論の事、この学校のシンボルである教会は別の角度からでも校舎と一緒に眺める事が出来るのだ。

 以前に私は、印象的なこの建物の写真を撮りに行ったことがある。 

 その時に様々な位置や角度からアングルを思考錯誤をしたのだが、それがここに来て大いに役立っているようだった。

 案の定、裏門の近くで外壁に寄りかかっている克也の姿があった。

 暗がりでよく見えなかった細部が近付くにつれてよく見えるようになった途端、私は弾かれたように駆け出していた。

 遠くからでは寄りかかっているようにしか見えなくとも、近くで見る彼は目を閉じて脱力している姿勢のまま微動だにしない。 

 これだけ見れば疲れて眠っているようにも見えるが、もしかしたら……。

 まさか彼がここで力尽きているのではないかという考えがほんの少し頭をよぎっただけで私は恐怖のあまりいてもたってもいられなくなった。

 私が急いで近寄ると、だらりと垂れ下がった手の先から伸びている鎖が何かを感知したように鎌首をもたげる。

 まるで蛇が餌を探しているように先端を動かした後で彼の鎖は地面の上でその身体を揺らしてまるで鈴のような音を立てた。

 甲高く澄んだ小刻みな音で目を覚ました克也はゆっくりと瞼を開ける。

 目を開ける瞬間こそ怖ばっているように見えたが、目の前にいるのが私だと解った途端に安心したのか、強張った表情から力を抜いて息を吐き出す。

「……日野か。てっきり、設楽の奴がとどめを刺しに来たかと思った」

 心底安堵してくれているからだろう、今の彼の声には冷淡さと気迫のどちらもない。

「良かった……本当に。もう……心配したんだから」

 私も彼と同じく安心する。その途端に言葉と涙が自然に溢れてくる。

 身体を起こそうとした克也の上着から何かの部品が幾つもこぼれ落ちた。

 破砕された携帯電話の部品のようだ。さっき、私を庇ってくれた時に直撃を受けた部分――そこのポケットに入っていたらしい。ひとたまりも無かったのは考えるまでも無い。

「無理に動こうとしないで。今、救急車を呼ぶから……!」

「いや……いい。救急車は勿論、病院はダメだ」

 携帯電話を出した私を彼は伸ばした手で制す。

 最初、私は彼の言っていることの意図が理解できなかった。

 私を庇ってくれた瞬間の記憶が映像となって否応なく脳裏に思い出される。

 鉄骨だろうが容易にへし折りそうな拳の一撃をまともに受けたというのに、彼は一体何のつもりで言っているんだろうか。

「ダメなんて言ってる場合じゃないでしょ……! あなたが心配なのよ!」

 克也は必死に身体を起こすと、私の目を覗きこむようにして目と目を合わせる。

「病院に行くと面倒なことになる。それに、俺なら大丈夫だ――ゆっくり休める場所にさえ行ければな」

 ――こんな時に何を強がってるの!

 その言葉が私の喉元まで出かかった瞬間、私は彼の意図にようやく気付いた。

 確かに、克也には“銀色の血”のことがあるのだ、おいそれと病院で診てもらうわけにもいかないのだろう。

「俺の家まで行けば何とかなる……この近くだ」

 克也は苦しそうに声を出すと、無理を押して身体を起こそうとする。

「ダメよ……! まだ無理しちゃ……」

 慌てて制止する私の前で克也は再び体重を外壁へと預けた。

 どうやら私が止めるまでもなく、今の彼は立つこともままならないらしい。

 やっぱり無理にでも病院に連れて行った方が良いのかしら……。

 でも、私には彼がただ特異な身体を見られるのを忌避して病院を避けているだけには思えなかった。

 なんというか、彼には明確な意図や公算があるような気がするのだ。

 それを考えていてもしかたない。私はあることを決心すると上着の袖をまくった。

「今日だけだからね。もぅ……女の子にこんなことさせて」

 私はいくらか冗談めかして口を尖らせると、彼のすぐ前にしゃがみ込む。

「ちょっと痛いかもしれないけど、ここは我慢して」

 私は一言断ってから彼の腕を掴み、自分の肩へと回す。

「日野……何をするつもりだ?」

 力の入らない彼の腕を胸の前で交差させると、私は彼を振り返って微笑んでみせる。

「この近くなんでしょ? だったら私が送って行くから」

 大きく息を吸い込むと、渾身の力を足腰に込めて一気に立ち上がった。

 凄まじく思い。割とスリムな体型に見えてはいてもやっぱり男の子なんだ。

 私の肩に乗った彼の腕は自重を支えられないのか、ダイレクトに重みを伝えてくる。

 ただでさえ男の子の身体は私にとって文字通りの意味で荷が重い。

 肩から始まって胸の前でクロスさせた彼の腕をより深く担ぎ込んだ私は、あたかもリュックを背負い直すように態勢を立て直した。

「いい? わざと触ったらその場に放りだすわよ」

 肩や足が震え、今にも倒れそうなのを隠そうとして私はいつも以上に冗談を言った。

 

 

 一体どれくらい歩いただろうか。

 克也は渋々だが私がおぶるのを了承すると、手短に家の場所を教えて再び気絶した。

 鈴美との意識の接続が途切れるほどなのだ。

 本当は私と話しているだけでも辛かったに違いない。

 克也がこうなったのも私のせい……だからせめて今は彼を安全な所まで運ぶ。

 とめどなく溢れる自責を、前に進む力に変えて私は一歩ずつ刻むように前に進んだ。

 彼を背負って、もとい半ば引きずって歩き続けた私は遂に彼の家へと着いた。

 住宅街の一角に建てられた一件のアパート。

 見た所、特別古いというわけでもなければ逆に特別新しいわけでもない。

 高くも無ければ安くもなさそうな典型的な中流クラスのアパートだった。

 私は玄関前に置かれた洗濯機や古雑誌を何とか避けながら一番奥のドアへと辿りつく。

 彼の家が一階で良かった。ここまで彼を運んでこれたとはいえ、割と急な鉄筋の階段を彼を担いだまま上るのはいくら何でも無理そうだ。

「仕方ないか……ごめんね、都築くん」

 私は一応彼に謝ってからクロスさせた彼の腕を抑えていた右手を離すと、彼の上着のポケットへと挿し入れた。

 手さぐりな上に後ろ手なせいか、捜索は思うように進まずに難航していた。

 その間、左手一本で支えている彼の身体があやうくずり落ちそうになる度に私は肝を冷やす。

 ややあって指先に固い感触を感じた私は目的の物を取り出すことに成功する。

 彼が家の鍵を携帯電話とは別のポケットに入れてくれていて助かった。

 もし同じポッケだったらさっきの一撃で湾曲して鍵穴には到底入らなかっただろう。

 鍵の回る小さな音と共にドアを開けて室内へと入った瞬間、安心感からか急に彼の重みが増したような気がする。

 しかし、ここまで来て彼を放りだすわけにはいかない。最後が肝心なのだ。

「……おじゃましまーす」

 一応、そうは言ってみたものの背後の彼からの返事は無い。

 靴を脱いで彼の家に上がった私は点灯スイッチに触れる余裕も無いまま暗い室内を奥へと進む。

 自分の部屋を思い出した私は一歩一歩歩くたびに足の裏が気が気ではなかった。

 だが、予想に反して私は何も踏みつけることなく歩いて行けた。

 暗くてよくは見えないが、割と綺麗に片付いているらしい。私の部屋とは大違いだ。

 薄暗がりの中にぼんやりと見えるベッドを発見した私は、彼の身体を落とさないように細心の注意を払いながらそっと彼をベッドの上に横たえた。

 重荷から解放された私は、どっと押し寄せた疲れを感じながらその場にへたり込んだ。

 安堵の息と共に女の子とは思えないようなだらしない声も出してしまってから、私はすぐ横でベッドに横たわる克也に目を大慌てで向けた。

 どうやら目を覚ましている気配は無いようだ。

 私は今の声を聞かれなかったことにホッと一息をついて立ちあがった。

 まるで迷路を攻略するように壁を触れながら歩いた私は、数歩進んだ所で点灯スイッチの感触を探り当てる。

 静かな部屋にスイッチの入る乾いた音が響くと共に照らされた部屋は殺風景だった。

 私が何も踏まなかったのも当然だ。何せ、まるで入居前のように殆ど物がないのだから。

 ベッドや机など最低限の家具は揃っているが、それも家具というよりは備品という言葉の方が似合っている印象を受ける。案の定、この部屋の備え付けなのが見て取れた。

 アイドルのポスターや趣味が丸わかりの雑誌といった高校生の男の子が住む部屋には必ずありそうな物は何一つない。

 今更ながらに気付いたが、曲がりなりにも男の子の部屋に来ているというのにドキドキなどといったものは全然感じていなかった。

 もうこれでは部屋といよりは待機所のような気がする。

 そう感じながら私がふと机に目をやると、数少ない彼の私物と思しき写真立てがあるのに気付いた。

 写真の中では中学生くらいの少年二人の肩に後ろから一人の少女が手をまわしている。

 少年の一人は今よりもいくらか幼いが克也に間違いなかった。

 この写真の中では克也も屈託なく笑っていた。今の克也のそんな顔を私は知らない。

 隣の少年も克也と同じく写真の中で屈託の無い笑顔を見せている。

 克也と同じく見た目はそれなりに良いが、印象は正反対だ。

 クールな魅力が克也の持ち味だとしたら、この少年の魅力は陽気な社交性だろう。

 人懐っこそうな笑顔が克也の物静かな微笑と好対照を生み出している。

 そして、その二人と肩を組むようにして笑っている少女の顔を私はよく知っている。

 三人の中では一番大人びていて、面倒見のよさそうな雰囲気を纏う姉御肌の女の子。

「克也――それに……鈴美。いつ頃なのかな――」

 思わず呟く私の瞳に写る鈴美は、さっき約束を交わした少女と寸分違わぬ姿だった。

 ただ、弟を可愛がっているような明るく活発な笑顔だけが大きく違う。

「うう……」

 背後で聞こえた声で咄嗟に振り返った私は、我に返ってはっとなる。

 急いで浴室を探すと、何枚かのタオルを見繕ってから水で濡らす。

 取りあえずは冷やした方が良いわよね。それとも、まずは拭いた方が良いかしら。 

 思案しながらタオルの束を洗面器に入れて持ち帰った私は、克也の身体にそっと触れる。

「動かすけど、いい……? 痛かったらすぐに言ってね」

 前置きしてから私は彼の身体をそっと動かして背を向けさせる。

 上着に手をかけた私は恥ずかしさに顔が紅潮するのを自覚しながら脱がせにかかる。

 まだ上着だというのにこれでは先が思いやられる。

 恥ずかしさで卒倒しないことを祈りながら私は彼のシャツへと手をかけた。

 手を動かす前に私はごくりと唾を飲んだ。恥ずかしさのあまり手はじっとりと汗だくだ。

 オーバーヒートする寸前で深呼吸してから私は意を決して彼のシャツを捲りあげた。

 私はその下にあったものを目の当たりにした衝撃で思わず絶句した。

 もう殆ど消えかかっている古いものから比較的新しいものまで雑多な痣や傷が絶えない背中には溶けた金属のような何かが幕のように張り付いていた。

 銀色の幕はさっき私を庇ってくれた時に打撃が炸裂した場所を覆っているようだ。

 打撃の威力を物語るかのように拳の形にへこんでいるが、破損していないということは随分と頑丈なのだろうか。

 この銀色の幕が防護していたおかげで、ろくに処置もしないまま歩き回っていたにしては患部の状態がそれほど悪くないのが素人目にもわかるほどだ。

 もしかして……カサブタみたいなものなのかしら。

 思っていたよりも傷口がひどくなかった事に安心しながら、私は濡らしたタオルをもう一度洗面器の上で絞ってから彼の身体に恐る恐る当てる。

 濡れタオルの冷たさに驚いたのか克也は一度小さく震えると、ゆっくりと瞼を開けて目を覚ました。

 相手が寝ているならまだしも、克也が目を覚ました途端に急に恥ずかしくなった私は弾かれたように後ろを向いた。

「あ、あの……これは……その、ちょっと、冷やした方が良いかと思って……冷たっ!」

 しどろもどろになりながら早口でまくしたてる私は気がつくと手にしたタオルをきつく握りしめていた。

 絞られたタオルから滴った水滴が太ももを濡らし、私は咄嗟に声を上げる。

「気にするな。別に大した怪我じゃない」

 もうある程度まで回復したのだろうか、克也は一気に身体を起こすとベッドに腰掛けた。

「大丈夫なのはわかったから……せ、せめてシャツは下ろしてよっ!」

 気を取り直して振り返った途端、ほぼ半裸のような格好の克也を直視してしまった私は再び弾かれたように振り向く。

 慌てて向き直った先にあった棚にあったものに気付いた私の口をくいて思わず言葉が出ていた。

「あれ、本物のニコンF2よね……? どうしてここに……」

 調度品は他になにも無い棚にたった一つだけ置かれた一眼レフのカメラ。

 期せずして目についたそれに私の目は吸い寄せられていた。

「やはり――お前にはわかるのか。間違いなく本物だ」

 克也が人心地ついたことで安心したせいもあってか、私は重厚感溢れるボディを見た瞬間にはつい今まで感じていた恥ずかしさが吹き飛ぶ程に興奮していた。

 ニコンF2といえば身一つで現場に赴くジャーナリストにとっては必携の品だ。

 数多くのジャーナリストと共に世界中の様々な出来事を記録してきたカメラであり、画質を始めとした性能はもちろん耐久性も高い。

 動作の信頼性は折り紙つきで、三十年以上前に生産が終了した今となっても数多くの愛用者を持つ正真正銘の名器なのだ。

 私の愛用するEOS kissと比べれば大型で手には余る感じがしないでもないが、その重量感がまた高級感を感じさせる。

 高校生の私にしてみれば到底手の届かない、憧れの高級品がそこにはあった。

「親父から貰ったものだ。昔……俺もお前と同じものに憧れを抱いていた」

 ニコンF2に釘付けになる私の背後で、克也は感情の凍りついたような声で言う。

 でも、この時の彼の声はいつもより柔らかい気がした。

「私と……同じ?」

 彼の口から出た意外な一言から衝撃を受けると同時に、私は今日の昼間に聞いた言葉を思い出して胸中で深く得心した。

 写真の専門用語を用いて的確に私の写真の問題点を指摘した克也。

 今思えば、彼も私と興味の方向が同じなのだから知っていて当然だったのだ。

「ああ。俺も昔はカメラ片手に走りまわっていた――」

 ニコンF2を見たのとは別の理由で興奮する私を眺めながら呟く彼の瞳は遥か遠くを見ているように思える。

 学校の屋上で私に日常の裏側の一端を話してくれた時に見せたあの遠い目と同じ目だ。

「ねぇ……聞かせてよ。その時のこと――」

 つい夢中になって口にしてから私ははっとなって口を押さえた。

 彼は過去を語りたがらないと鈴美も言っていたではないか。

 何か重い過去がありそうなのは少し考えれば解ることなのに……。

「もう昔の事だ――相棒と呼んだ親友が俺にもいた……」

 てっきり冷淡に拒絶されるかと思っていた私の意に反して、彼は訥々と語り始めた。

「俺が写真を撮って、あいつが記事を書く――二人で雑誌を作ろうとしていたんだ」

 友達と一緒に雑誌を作ろうと張り切っている克也はちょっと想像しにくい。

 もちろん私はそんなことは口に出さず、黙って彼に先を促した。

「歴史に残るだの、革命を起こすだの――あの時の俺たちは朝から晩まで夢中だった」

 懐かしそうに語る彼の声を聞いていると、中学生くらいの克也が写真と記事をのりで紙に貼っている姿や、それを持ってコンビニのコピー機まで走る姿が急に私の目に浮かんだ。

 想像できないと思っていたものが自分でも意外なくらい鮮明に思い浮かぶ。

 目に浮かぶ風景を微笑ましく眺める私の頬は自然とほころんでいた。

「ちょっと羨ましいな。私には一緒に夢中になってくれる相棒がいないもん」

 微笑みながら口を尖らせるという珍妙な表情を私は冗談半分に浮かべる。  

「ね、教えてくれる? その相棒くんの名前」

 克也は腰かけたベッドから静かに立ち上がると、机上の写真立てを取って私に手渡した。

「智久――。そこに写ってるのが俺の相棒……だった男だ」

 相棒の名前を口にする克也の声は相変わらず懐しさに浸っているようだったが、瞳は真冬の屋内で取りだした金属のように鋭く凍てついていた。

「この子が智久……くん。それに、奥の子は――鈴美……?」

 私が知る筈も無い彼女の名前を口にしたことに驚いたのか、鋭く凍てついた克也の目が驚きに見開かれる。

 ほどなくして再び瞳を凍りつかせると、彼は得心したように呟いた。

「そうか、今の相棒から少しは聞いたようだな……」

「ううん、聞いたのは名前だけ。鈴美はキミが嫌がるからって何も話さなかったわ。ホントに相棒思いの良い子じゃないの」

 私は克也の問いに答えながら写真立てをそっと彼に手渡した。

「都築くん、今、写真の方の鈴美さんはどうしてるの?」

 克也は今まで私が見た中で最も冷えきった瞳になると、写真立てを机上に置いてから淡々と答える。

 底冷えするような声から一切の感情が消えたかと思うと、聞いた私が怖気をふるうほどのくらい感情が一瞬にして声を染め上げる。

 この想いは……憎しみだ。

 紐解いてはいけないものを開けてしまった後悔が私をさいなむ。

「もういない……。鈴美は、他ならぬ俺と智久が殺した――」

 彼の言葉がまるで鉄槌のように凄まじい衝撃で私の心を打ちのめす。

 でも、私は唇を噛むようにぎゅっと口を閉じると、無言で彼の述懐に耳を傾けた。

 今は無言で彼の言葉を聞く事が、彼の過去に踏み込んでしまった償いになる気がして。

「中学の頃、俺たち三人はいつも一緒だった」

 彼がそう切り出した瞬間、瞳と声に滲む感情が憎しみから哀しみに変わったのは、果たして私の気のせいだったのだろうか。

「遠足で三人が同じ班になったのがきっかけでそれ以来、学校の中でも外でも何かにつけてよくつるんでいた」

 今度はそれが哀しみとはっきり解るほど、彼の声や瞳に滲む感情が色濃くなっていく。

「その頃だ――俺とあいつが同じ夢を見ていたのは」

 語調だけは淡々と語る彼の顔は相変わらずの無表情だ。 

 それでも、私には彼が今にも涙を流す寸前で必死に堪えているように見えた。

「毎日会ってはふざけあっていた。雑誌作りに夢中になったりもしたし、鈴美との関係を互いに勘繰り合ったりもしていた――もう、既に過ぎ去った事だがな」

 誰もが目を留める凄い雑誌を作ろうと同じ夢を持つ仲間と一緒に張り切ることも――。

 自分の気になる女の子が好きなのはどっちなのかが気になって一喜一憂することも――。

 どれも想像しただけで心が温まる、大切なものに違いない。

「どうして……どうしてなの……? そんなに幸せそうなのに……鈴美さんを……?」

 黙して彼の述懐を聞こうとしながら、つい堪えかねた私は口を開いてしまった。

「俺たちが出会ってしばらくした頃、智久の親が会社の不祥事に関する責任を押し付けられたんだ。それからというもの、あいつは常に冷たい扱いに晒された」

 不用意に動いてしまった口を押さえることも忘れて私は彼の述懐に聞き入る。

「学校の奴等からのいじめも当たり前、間も置かずに大人まで智久を冷遇し始めたよ――俺には大人の事情なんぞはよく解らなかったが、これが理不尽なことだけは理解できた」

「都築くんと……鈴美さんはどうしたの? 友達だったんでしょう……?」

 またもつい動いた口が彼の述懐に横やりを入れる。

 私は自分に辟易すると同時に腹が立った。どうして彼の言葉を遮ってしまうんだろう。

「決まってるだろう、俺と鈴美はあいつの味方でいつづけた――だが……」

 きっと、それも相まって彼等三人の結束が強まっていたんだろう。

 三人が写る写真を見ただけの私には解らない絆がきっとあったに違いない。

「……だが、それだけでは足りなかった。俺は……俺と鈴美は、あいつを救えなかった」

 表面は無感動な彼の瞳と声に滲む想いがまたも変わるのが、私には鮮明に感じられた。

「その出来事がもとで智久の両親は命を落とした。そして、その直後だった――」

 今度の想いは憎しみとも哀しみとも違う――この想いは……重く深い後悔。

「俺たちが救えなかった智久は、出会ってしまったんだ……“ミーティア”に」

 無表情だった克也の顔に苦悶の歪みが微かに見え隠れするように浮かんだ。

 記憶の一つ一つを思い出し、述懐の一言一言を語る度に身を切られる思いなのだろう。

「あいつは自分を取り巻く世界の全てを憎んでいた。だから、自分の大事な両親を殺した人間たちも、そして連中が巣食った社会も全て殺して破壊した。そして、その後で……」

 いつになく克也は多弁だった。身体に滞留する毒を全て吐き出そうとするかのように彼は心の奥に封じ込めた過去を語り続ける。

「……唯一の例外だった俺と鈴美に“種”を分け与えた。それが、全ての理不尽を打ち砕く素晴らしい力だと心から信じて、な。その時だ――俺が今の相棒と出会ったのは」

 彼が一旦、口を閉じた瞬間だった。滲む感情はまたもその色を変える。

 後悔の念を塗り潰すように現れたのは……底知れない怒り。

 彼が抱くそれが業火のように燃え上りながら、どこまでも冷たい怒りであることを漠然と私は理解していた。

「“種”を受け入れようとしなかった俺たちを迷いから解き放つつもりで、智久は俺と鈴美の家族を殺した。完全に適応できていなかった鈴美はそれが引き金になって“種”に身も心も呑みこまれた結果……鈴美は鈴美でなくなった」

 底知れぬ怒りは誰に向けられたものなのだろう。

 私は彼の怒りが智久だけに向けられているのではない気がしてならなかった。

「哀しみと怒りに衝き動かされるまま見境なく牙を剥いた鈴美を止める……詭弁だな。まぎれも無く殺したのは俺自身だ。俺が最初に始末した“ファーナス”は――鈴美だ」

 彼のその述懐がきっかけで、私の脳裏に佳苗を止めた時の光景がフラッシュバックする。

 その光景を見ながら、私はその時に彼の真意をようやく理解した。

 “始末”などと簡単に言っていたように聞こえたのは、彼が心を幾重にも鎖で縛ったように抑えつけていたからだ。

 簡単に言うとか他人事だとか、そんなものでは断じてなかった。

 最も大事な人を他ならぬ自分の手で“始末”した彼自信にとってそうである筈がない。

「それからだ。今の相棒と共にあいつを追う旅が始まったのは」

 克也の瞳と声からは一切の感情が消えて、再び無感動なものに戻っていた。

「智久は行く先々で“種”をバラ蒔き続けた。あいつは今も、それが他人を理不尽から救ってやる行為だと信じ続けている。だから――あいつの蒔いた種は俺が全て刈り取る」

 世界への絶望に呑まれた智久を追って、克也は一体どれだけの旅をしてきたのだろう。

 それを問う勇気は、今の私には無かった。

「旅を続けるうちに、“ミーティア”について知る連中が俺に接触してきた。そうした連中が掴んでくる情報や諸々の助力を受けて、俺はあいつを追い続けて今日まできた」

 克也が言っていた“事情を知る大人”とはそうした人々のことだったのだ。

 私は彼が事件を解決する度にどこかへと電話をかけていたのを思い出して得心した。

「もう既に見境のない智久みたいな存在をどうにかするには、俺は都合の良い存在なんだろう。事情を知ってる連中は俺とあいつを潰し合わせるつもりなんだろうな」

 利用されていることへの怒りも、半ば捨て駒にされていることへの諦念も感じさせずに、克也はただ淡々と語った。それこそまるで他人事のように。

「そんな……どうして黙って利用されてるのよ……?」

「お互い様と言うやつだ、俺も連中を利用している。利用できるものは全て利用する――それに、俺は智久を止めるためなら喜んで利用されてやるつもりだ」

「同じ目的があるのに利用したり、されたりする関係……それで辛くないの……?」

 克也は間髪入れずに口を開く。

 躊躇も淀みも無いその口調は、何度も同じ答えを繰り返し口にしてきた事を言外に物語っていた。

「それで良いんだ。そうした関係なら、智久に“俺を繋ぎ止めている存在”とみなされることも無い。だから……もう誰も巻き込まずに済む」

 捨て駒にされていることにも諦念を見せなかった克也が、今度は諦念を込めて言った。

「日野、お前には感謝している。おかげで忘れていたものを少しの間だけ思い出せた。もう……俺とは関わるな。俺はお前に傷ついてほしくはない――」

 初めて聞いた彼の優しげな声。でも、私は嬉しいどころか哀しくなる一方だった。

「俺は今こそ一つの目的の為に動く“道具”だ。だが……いつ負の感情に心を呑まれ、単純に破壊だけを求める“凶器”に変わるかわからない……かつて鈴美がそうだったように」

 克也の声は優しさと共に恐怖を内包しているように聞こえる。

「俺が刈り取られる側に回るならまだいい……それよりも、俺はそうなった自分がお前を傷つけてしまうのが怖い。だから日野……俺のそばには近寄らないでいてくれ……」

 ずっと頑なに彼が他者との関わりを持たずにいたのは、誰も巻き込まない為だったのだ。

 決して人が嫌いなのではない。むしろ、その逆――。

 他者を大切に想うからこそ、鎧を纏うように自分の心を覆い隠し、鉄鎖を張り巡らすかのように他者との間に隔たりを作り続けてきた。

 彼の気持ちを知った私は心が引き裂かれるような痛みを止められなかった。

「どうして……どうしてそんなこと言うのよ……」

「それに……俺と関われば、先程と同じく設楽のような輩が襲い来ることになる。もとより潰すか潰されるかの戦いが絶えない日々だ。お前に迷惑はかけられない――」

 痛いほど伝わる彼の気持ちに触れたその時、私の中で堪えていたものが遂に溢れ出した。

 とめどなく溢れだす涙を拭いもせずに、私は右の平手で克也の頬を叩いていた。

「……迷惑? 冗談言わないでよ! それとも、キミの事を迷惑に感じるような女だと思ってたの? そんな冷たい女だと思われてたなんて心外だわ!」

 克也は私の態度が意外だったのか、呆けたように私を見つめている。

「私だってキミには感謝してるのっ! 私のことを二度も助けてくれたし、デートにも付き合ってくれた……なのに、いまさら関わるのをやめろなんてあんまりだよ……」

「お前の気持ちは嬉しい。だからこそ、日野が傷つくのを見たくはないんだ」

 克也の優しげな言葉を聞く度に、鎧のような決心や鉄鎖のような覚悟を感じる。

 でも、今はその向こうにある彼の心に触れなければならないと思う。

 たとえ堅い鎧を引き剥がし、強靭な鉄鎖を引きちぎってでも――。 

「傷ついてほしくないだったら……身を引くんじゃなくて全力で守りなさいよ! さっきだって、キミのせいで襲われたなんて全然思ってないんだからっ!」

 私は間髪入れず彼の手を掴むと、想いを込めるように強く握りしめた。

「それでも私に関わるなって言うの? なら……もう意地でもキミのそばを離れたりしないからね! 私に傷ついてほしくないんだったらキミが全力で守るしかないわよ!」

 私が一気にまくし立ててから、いくらかの間をおいて克也はゆっくりと微笑んだ。

「ありがとう……この旅でお前と出会えてよかった」

 克也はその言葉を私に贈ると共に、私の手を強く握り返してくれた。

「だから――お前が全力で守れと言うなら、俺はそれを貫こう。――それで、お前を失わずに済むなら」

 私も満面の笑みを浮かべると、更に強く彼の手を握る。

 泣き笑いの私が流す涙が嬉し泣きに変わっていくのが自分でもわかる。

 まるで握手するように、互いに強く手を握り合ったまま私は言った。

「私の方こそ、ありがとう――信じてるから。よろしくね、克也」

 下の名前で呼ばれて驚いたのか、克也は言葉に詰まっているようだった。

「せめてもうちょっと喜びなさいよ。女の子から下の名前で呼ばれてるんだよ?」

 冗談めかして言った私は、克也に向けて悪戯っぽい笑みを浮かべて更に続けた。

「それとも、私に名前で呼ばれるのは嫌かしら? だったらやめるけど?」

 克也は微笑する表情を更に柔らかく穏やかにする。

「嫌なわけないだろ。誰かに名前で呼ばれたのなんて久しぶりだったから驚いただけだ。そういうことならお前のことも――」

 彼はそこまで言いかけると、困った顔で思案しながら言い淀んだ。

 私は彼の意図を素早く察し、苦笑と共に彼へとささやく。

「真桜よ。日野真桜。教えたからには忘れないでよ?」

「ああ、忘れない――よろしくな、真桜」

 私たちは見つめ合った後、大声で笑い合った。

 今の克也に冷たい金属のような雰囲気はもう無い。

 私はようやく本当の克也に出会えたのだ。

「そろそろ涙を拭けよ、真桜」

 私が脱がしたままベッドサイドに置きっぱなしになっていた上着からハンカチを取り出すと、克也はそれを私に差し出した。

 受け取った私は畳まれたのを開いた時に初めてそのハンカチの絵柄を知った。

 等間隔でテディベアがプリントされた少女趣味のハンカチ。

 とても、克也の私物とは思えない。

「可愛いじゃない。克也にも意外な趣味があったのね」

 涙を拭く私の顔とハンカチを交互に見ながら克也は昔を懐かしむような遠い目で言った。

「あの日、鈴美に返しそびれてからずっと借りっぱなしのハンカチなんだ」

 ずっと大事に持ち続けてきたのか、ハンカチにはしわのただ一つとして無い。

 私はハンカチを丁寧に畳み直しながら、克也へと問いかけた。

「そうだ……鈴美のことだけど――」

「ああ。あいつならさっき、俺の心の中で笑ってくれた」

 泣き笑いのような顔で写真立てを見ながら克也は呟いた。

「じゃなくて、今のキミの相棒の方の鈴美のことよ。私を逃がしてくれた後で銀色の玉みたいになっちゃって……大丈夫かしら?」

 克也は私の目を真っ直ぐに覗きこみながら柔らかく穏やかに微笑む。

「相棒なら心配ない。きっと大丈夫だ」

「随分信頼してるのね。そういえば、あの子が言ってたわよ。“寄生した時に克也がもっとも意識していた姿になった”って。なら……あの子の中には鈴美さんがいるの?」

 克也は当然の事実をただ述べるだけというように躊躇なく言った。

「確かに姿と名前は鈴美と同じだが、あいつは鈴美じゃあない」

「そんな……。何もそんな言い方しなくたっていいじゃない……」

 私の言葉に克也は清々しく微笑んでから、優しげな声で私に囁いた。

「だが、それで良いんだ。あいつは俺の大切な相棒――そのことに何の変わりも無い」

 私は改めて二人の絆が宿す信頼の強さを知って、自然と微笑ましい気持ちになる。

 良いコンビじゃないの。でも、ちょっとだけ鈴美には妬けちゃうな……。

 克也に気付かれぬように胸中だけで苦笑した時だった――。

 突然、凄まじい揺れが起きたかと思った瞬間には壁が轟音と共にぶち破られる。

 空いた穴から外の景色と共に夜風が室内へと入り込んできた。

 そして壁に覗く景色の中心には、月明かりと住宅街の家々から漏れる明かりに照らされる真鍮色の巨人が屹立していた。

「探しましたよ。克也さん、やはりその子はあなたを繋ぎ止めるようですね――!」

 重金属の仮面に覆われているせいか、設楽の声はひどくくぐもっていた。

「真桜ッ!」

 叫ぶと同時に私を抱きしめると、克也はそのまま部屋の中を転がった。

 一瞬遅れて私が立っていた部分の床に巨大なクレーターが穿たれる。

 克也が助けてくれなかったら私は今頃……。考えただけでもゾッとした。

 私を抱えたまま引き戸を開けて、克也は庭へと飛び出した。

 彼の咄嗟の判断には一瞬の迷いもなければ遅滞も無い。

 流石はこうした場に慣れているだけのことはある。

 だが、感心する私をよそに設楽は鉄材の山を思わせる姿が嘘のような俊敏さですぐ近くまで迫っていた。

 その巨体のせいでくぐれない引き戸を破壊しながら設楽は庭へと降り立った。

 ただ歩いて行くだけで、肩が触れたサッシはひしゃげ、手先に触れたガラスは粉微塵だ。

 別に殴る必要も何もなかった。もちろん、彼の身体には傷一つ刻まれてはいない。

 私たちを見下ろす設楽の巨体と比しては、アパートすらも小屋にしか見えない。

 設楽は先程破壊した壁の破片を軽々と拾い上げると、無造作に持ち上げた。

「このまま智久さんの邪魔をし続けるなら、僕はあの人に何と言われようと――克也さん、あなたをここで……殺します!」

 克也は毅然とした表情で設楽を見据えると、声高に言い放つ。

「俺は何度だろうとあいつの蒔いた種を刈り取ってやる。もう――誰にも傷ついて欲しくはない……そして、俺のような思いはさせやしない!」

 設楽は絶叫するような声を張り上げた。重金属の仮面の中で彼の叫びが幾重にも反響しているのか、金切り音のようになってひどく耳障りだ。

「全てその子が原因なのですねッ! ならばその子もろとも葬って差し上げましょうッ! 

残念ですが……これで終わりですッ!」

 設楽の巨体からすれば小石程度でも、常人にとっては大の大人が数人がかりでやっと運べるような岩塊なのだ。

 片手で軽々と放られ、砲弾のような速度にまで加速したそれに当たりでもすれば間違いなく無事では済まないだろう。

 だが、克也は微塵も臆した様子を見せずに私の正面へと立ちはだかる。

 言ってくれたよね、全力で守るって――キミを信じてるから。

 そう胸中に呟くだけで不思議と恐怖は消えていく。

 私と、私の盾となるように立つ克也の身体に岩塊が迫った瞬間、先程とは違う轟音が辺りを揺らさんばかりに響き渡った。

 その音はまるで――猛り狂うほどの闘志に湧き立つ獣が上げる咆哮。

 鳥肌が立つほどの音に身を震わせた私の眼前を一陣の閃光が通り過ぎる。

 続いて響き渡る更なる轟音。

 銀色の閃光が直撃した岩塊は大音響と共に木端微塵に砕かれた。

 私は瞬きするのも忘れて銀色の閃光――獲物へと飛びかかるように車体をジャンプさせ、額の一角に任せて岩塊に体当たりした克也のバイクに見入った。

 鋼鉄の一角獣の背には長い黒髪が印象的な一人の小柄の少女が跨っている。

 克也ですら軽々と乗せてしまうような車体に小柄な少女が乗る光景はなかなかに現実離れしたものだったが、処女に対しては大人しくなるというユニコーンの伝承を思い出した私は妙に納得してしまった。

 なるほど。確かに彼女はあのモンスターバイクを完璧に乗りこなせているようだ。

 ……ま、ああ見えても、実を言うと自分の身体だもんね。

 そう考えるとおかしくなって、私は状況も忘れて思わず笑いを小さく吹き出してしまう。

「待ってたぜ――相棒」

 克也は鋼鉄の一角獣に跨る少女――鈴美に信頼のこもった声をかける。

 鈴美はバイクから降りると、無表情のままで克也の横へと並び立った。

「しかしなんでまた、その姿でバイクに乗るなんて回りくどいことをする? 俺と合流するなら自走形態で十分だろう?」

 一度だけ首を動かして私を見ると、鈴美は相変わらずの抑揚と音節で言った。

「次に会う時もこの姿――彼女と――そう約束――したから――友達との約束は守るもの――貴方の知識に――そうあった」

 克也も彼女の目線と言葉から意味を察したのか、苦笑と微笑がない交ぜになった笑みを浮かべる。

「まったく……お前ら、いつの間に。まぁ、いいか。行くぞ――相棒ッ!」

 気迫に満ちた克也の声に鈴美は見えないほど小さく頷く。これも相変わらずだ。

「キャスト・イット・アップ!」

 バイクは彼等の後方でそのまま残り、今回は掛け声と共に克也の隣に立つ鈴美だけが銀色の水滴となって霧状へと変化する。

 前に鈴美がバイクへと変化したの見たことあるが、やはり鈴美の姿から銀色の霧になる光景は衝撃的だった。

 本当のことを言うと、少女がバイクだの鎖だのに変形するなんて光景は慣れるまでもうしばらくかかりそうなのだ。

 前方から迫る銀色の霧の中をくぐった克也は一瞬で鋼鉄の一角鬼へと変身を遂げる。

 月光の下で対峙する銀色の一角鬼と真鍮色の巨人は牽制しあうように一度距離を取った。

 太く長い真鍮色の腕の射程から抜け出たと解るが早いか、先にしかけたのは克也だった。

 右手首から生成された鎖の根元を掴み、鞭のようにしならせて設楽の両手両足、そして胸や顔面を乱れるように打ち据えていく。

 鮮やかな銀色の鎖が月下に舞う度、短く澄んだ風切音の後を追うように重金属の外皮を鉄鎖が鳴らす甲高い音が夜の帳の下りた庭に響き渡る。

 設楽はそれをガードする事もせずに平然と受け続けた。

「無駄ですよ、克也さん。そんなものでは僕を倒せはしない」

 あたかも自分の前には何もないと言わんばかりにわざと棒立ちしていたであろう設楽は、急にその態度を豹変させて克也の鎖を掴んだ。

 片手一本で鎖を引っ張って克也の身体を至近距離まで引き寄せると、設楽はもう一方の手で何発ものパンチを繰り出した。

 パンチを一発受ける度に克也の身体が大きく揺れ、鎧の表面に拳の痕が刻まれていく。

 隙を見て克也も果敢に殴り返すも、全てが真鍮色の装甲に防がれて甲高い音を立てる。

 設楽は微動だにせず、遂には鎖ごと克也の身体を片手一本で振り回す。

 縦に円を描く落下軌道で地面へと叩きつけられた克也と鎧が盛大に音を立てた。

 意思が朦朧とするのかかぶりをふって克也が立ちあがろうとするのを許すまいと、再び鎖が設楽によって力任せに振るわれる。

 またも宙を舞う克也は咄嗟に鎖を霧状に分解して捕縛から脱する。

 しかし、唐突に空中で制御を失った克也の身体は振り回された勢いのまま飛んで行き、アパートの敷地を囲うブロック塀を突き破って道路へと転がり出た。

 克也はふらつく足取りながらも何とか自分の足で立って戦場へと舞い戻る。

 あちこちがへこんで歪み、ひしゃげた装甲が一角鬼の鎧の表面で月光を不規則に乱反射させているのが痛々しい。

 一部始終を目の当たりにしながら私は何度も目を逸らしたくなったが、その度になけなしの度胸と自制心で自分の瞳を不動のもとする。

 ――傷ついて欲しくないなら全力で守る。

 彼はそれを貫くと言い、私はそれを信じると言った。

 ならば、後はただ見守るだけだ。たとえ何があろうとも。

 おぼつかない足取りの克也にダメ押しの追撃をかけようと、設楽は上半身を大きく振りかぶってから拳を鉄槌のように振り下ろした。

 まるで局地的な地震が起きたような凄まじい衝撃と振動が周囲を一斉に襲う。 

 洗濯用の物干しざおは軒並み倒れ、一階の窓ガラスは大半が割れて散る。

 ギリギリの所で克也は垂直飛びで数メートルは跳躍して難を逃れたものの、私はそんな真似が出来るはずもない。

 振動に足をすくわれて見事に尻もちをついた私は痛みに顔を歪める。

 涙目になる私の視界に鋼鉄の一角獣がエグゾーストを吹き鳴らしながら飛び込んだ。

 地震のような振動にも負けずに後方から疾走してきたらしい。

 流石と言うより他ないこの重量感と馬力に私は驚愕を禁じえなかった。

 真鍮色の巨人に向けて疾走する銀色の一角獣の頭上に同色のきらめきが舞い降りる。

 上方に跳んでいた克也が愛機のサドルに着地し、文字通りの意味で飛び乗ってみせる。

 タイミングや速度、全てにおいて完璧なライディングテクニックだった。

 それを間の足りにした私は、もはや飽和状態になった驚愕を持て余す寸前まで来ていた。

 大振りな一撃を放った為に、設楽はしゃがみ込む態勢にならざるを得ない。

 地面とほぼ同じ高さまで降りてきた設楽の上半身に向けて銀色の一角獣が疾駆する。

 耳をつんざくような金切り音を打ち鳴らしながら、槍の如し一角と重金属の外皮がせめぎ合う。

 真鍮色の鎧、その胸元には槍すら鈍器に感じるほどに鋭き一角が突き立たんとする。

 通すか阻むか二つに一つ――巨人の剛力と一角獣の馬力、二つの力が正面から激突した。

 擦れ合う鋼材と鋼材が文字通り火花を散らす戦いは完全に拮抗したように見える。

 だが、その拮抗した戦況を打ち破ろうとするべく設楽が渾身の一撃を繰り出した。

「克也さん、あなたでは僕に勝てないッ!」

 重金属の仮面の下でくぐもり、濁った絶叫はもはや人間の物とは思えなかった。 

 勢いよく立ち上がる勢いを利用して設楽が放った渾身のアッパーカットはバイクを弾き飛ばし、克也を上空へと舞い上げる。

 横倒しになって庭を転がるバイクは先程の克也のようにブロック塀に激突してようやく止まった。

 停止してもなお空転を続ける車輪が先程のせめぎ合いの凄まじさを雄弁に物語る。

 ちょっと……女の子になんてことするのよっ!

 胸中でその一言が口をついて出るなり、私は設楽を睨みつける。 

 しかし、私の視線などには気付いていない様子で設楽は余裕の所作で屹立していた。

 それでも、彼の胸には同心円状の亀裂が穿たれていた。

 もし、あと少し馬力が強ければ堅い鎧も貫いていたかもしれない。

 二人の攻撃が一歩のところで及ばなかったのを嘆きながら、私はせめて安否を確かめるべく上空の克也を目で追った。

 既に嘆きを始めた私と違い、克也はまだ諦めてはいなかった。

 空に吸い寄せられていくかのように上空へと吹っ飛んでいく最中、克也は握った右の拳を大きく振り上げていた。

 彼の右手首に銀色の霧が生まれ、月光を照り返す。

 銀色の煌きは瞬く間に鎖の形をとると、ひとりでに克也の拳へと巻きついた。

 何重にも巻かれた鎖で防護された拳はさながら鉄塊てっかいと化していた。

 それで終わらず、更に左手にも銀色の霧が生まれ出た。

 右手に同じく鎖となった左手の霧は一目散に設楽へと延びていく。

 獲物に狙いを定めた獰猛な大蛇を思わせる動きで設楽の左腕に巻きついた瞬間には、鎖が凄まじい速さで上腕まで這い上がる。

 肩口に辿りついた鎖は先端を遠心力の力で回転させ、何度も周回する。

 設楽の肩を軸に蒔きついた鎖はもはや車輪にすら見えるほどに厚みを増していた。

 間違いない。この鎖は完全に固定されたのだ。

 固定が完了するが早いか、鎖全体がくかのような音を一斉に発した。

 鼓膜を裂かれるかと思うくらいの高音の正体は鎖が収縮している音だった。

 克也と設楽を繋ぐ鎖は、私の目にも解るくらい明白に縮んでいるのだ。

 まさか巻き取るつもり? ……いえ、違う! これはッ――!

 いかに克也の鎖が強靭とはいえ、流石に設楽ほどの巨体を引き寄せることはおろか、動かすには至らなかったようだ。

 だが、それも克也の計算のうちなのだと私は直感した。

 克也はこの鎖で巻き取るという方法で引き寄せようとしている。

 ただし、自分のもとに設楽をではなく――設楽のもとに自分自身をだ。

 落下の勢いと鎖の収縮が生み出す二重の加速を味方につけた克也は一直線に降下する。

 鎖を接続したのは他ならぬ設楽の身体だ、その落下地点に狂いなどあろうはずも無い。

 設楽は克也の意図に気付いたのか、鎖に捕縛されていない右腕の拳を握った。

 振り下ろされる鉄塊の如し克也の拳と振り上げられる鉄槌のような設楽の拳。

 二つの拳は同時に放たれたように見えたが、ほんの僅かな差で克也の方が早い。

 渾身の力を込めて放った克也の拳が設楽の胸元へと吸い込まれていく。

 ――そうか……! さっき突いた場所にっ……!

 私が克也の意図を確信したまさにその瞬間、鎖を纏った克也の拳が設楽の胸元に炸裂した。

 同心円状に破損した個所にピンポイントで打撃を叩き込まれた設楽の身体は、打点を中心として線が延びるように亀裂が広がっていく。

 金属が砕ける高音を盛大に響かせながら設楽の身体を覆う鎧は全て砕けて四散する。

 辺り一面に飛び散った破片は落下した先で、あるいは宙を飛びながら真鍮色を赤錆色へと色を変じた後で砂のように崩れ、間も置かずに朽ち果てていく。

 一瞬にして生身へと変えられた設楽は前方へと倒れ込みそうな勢いで膝をついた。

 膝をつく小さな音に遅れて、鋼鉄の靴裏が地面を叩く大きな音が響く。

 すぐ前に着地した銀色の一角鬼を見上げながら設楽は観念したように呟いた。

「流石ですね。あの人が待ち続けるだけのことはある――僕の完敗です」

 ――え? どういうこと?

 私は胸中で疑念の声を上げ、設楽の姿から目が離せなかった。

 耐えられないほどのダメージを受けた“ミーティア”が赤錆色に変色してから朽ち果ててるのは実際に見てきたが、今回はそれだけではなかった。

 四散した鎧の破片と同様、設楽の手も指先から赤錆色への変色が始まっていた。

 まるで手から入って胴体へと這い上がるように赤錆色が広がっていく。

 やがて完全に赤錆色に染まり切った指先から崩れるように朽ち、落ちていった。

「三日後……あなたが彼女を殺した日、殺した場所にあの人は来ます……」

 朽ちていく身体に取り見出しもせずに設楽は口を動かし続けた、

 まるで、そうすることが自分の最後の役目であるとでも言うかのように。

「本当はあの日をまた向かえてしまう前にあなたを連れていくつもりでした――でも、そうもいきませんでしたね……」

 克也が鎧を霧状に戻して解除すると、傍らには鈴美が出現する。

「お二人で共に歩むなり……決着をつけるなり……ご判断は克也さんご自身に任せます。行って差し上げてください。全てはあなたが彼女を――」

 息も絶え絶えに紡がれる設楽の声は乾いた音に断ち切られる。

「彼が殺したのは――“ファーナス”――であって――彼女じゃない」

 無表情で設楽の頬を叩いた鈴美が抑揚の無い声で淡々とそう言い放った。

 既に手が朽ちているせいで叩かれた頬を押さえることも出来ずに、設楽は苦笑いだけだ。

「はは……あの人から聞いていた通りの気の強さ……ですね」

 その一言を最後に微かに残っていた上半身も遂にで赤錆色の砂となって崩れた設楽の身体は完全に世界から消滅した。

「ねぇ……克也、どういうこと? 赤く錆びるのは“ミーティア”だけなんじゃ……?」

 克也は風に吹かれて散っていった設楽の残滓を目で追っていたが、やがて私を振り返ると、どこか嘆くような声で言った。

「際限無く“ミーティア”の力を求めたまま連中との共生を続けた者は、共生を超えて融合を果たす。そして――更なる力を手に入れることになるが、その一方で……」

 克也と鈴美の二人がかりでやっと倒せるほどの強さ、今更ながらに私はその理由を理解した。

「……その一方で?」

「……“ミーティア”が死ねば宿主も死ぬ。完全に一蓮托生の関係になるんだ」

 まさに道具存在になってしまう……そういうことなのね。

 私は胸中で得心しながら、自分に言い聞かせた。

 大丈夫。克也はきっとそうはならない。

 私は彼を信じると言ったのだ。

 共生の先にある存在を知らされた所で、それを止めるつもりなど毛頭無かった。

「にしても……鈴美、さっきのアレなんだけど……」

 思い出す度に鮮明な驚きで私の表情が驚愕の形に動くのがわかる。

 私はもちろんのこと、克也も相当驚いたようで目は瞬きを忘れて鈴美を注視している。

 結構、感情豊かになったじゃないの。うん、やっぱりこっちの克也の方が良いわよ。

「お前が自分からあんなことをするとは思わなかった。何かあったのか?」

 問いかける克也に対し、ぎこちない動作で首を巡らせると鈴美は抑揚のない声で呟く。

「冗談じゃないことを――言った男は――頬を叩いて――黙らせる――貴方の知性に――新しく入った――ばかりの知識に――そうあった」

 克也は何かに気付いたのか私の方を何度か確認するように見やる。

 それに続いて鈴美も彼の疑問に答えるかのように私をじっと注視する。

 当惑気味の克也の目と、瞬き一つしない鈴美の目。

 二つの目に見つめられた私は思わず自分の右手をじっと見つめた。

 何よ、これじゃあまるで私のせいみたいじゃないの。

 私の方を注視しながら鈴美は、ごくごく僅かにそっと頷いた。

 ……やっぱり私のせい?

 鈴美の首肯は、きっと……私の気にしずぎが見せた錯覚に違いない。

 私はそう思う事にして克也へと向き直り、彼の瞳を真っ直ぐに見ながら問いかけた。

「行くんでしょう?」

「ああ。勿論だ。次で俺の旅を終わらせる――」

 私は先程生まれたばかりの決意を胸に、彼の瞳から目を逸らさずに告げる。

「私もついていくわ。言ったでしょ、キミのそばを離れないって。それに、私は見届けることにしたの――キミの旅の結末を」

「それはさせられない。正直な所……生きてあいつを止められるかは俺にもわからない」

「だったら尚更よ。誰にも知られないで、記憶にも残らないまま死んだら……それこそ本当にキミは死んじゃうんだよ。他に誰もいないなら、私がキミのことを覚えてる人になる」

 克也は私の瞳を覗きこむように見つめてくる。

 今にしてやっとわかった。

 彼は滅多に人と目を合わせるほど深く話すことが殆ど無かったから、数少ない機会に一生懸命に目を合わせようとするんだ。

 この妙な癖も、今は恥ずかしさでなく安らぎを私の心に生むようになった。

「真桜、わかってくれ……俺はお前には傷ついてほしくないんだ」

「だから全力で守ってくれるんでしょ? それに――」

 私は自分の決意を最後にもう一度だけ確かめると、瞳を逸らさずに彼へと告げる。

「ここで見届けなかったら、きっと一生後悔すると思う。見届けたいんだよ、一人のジャーナリストとして……それに、キミのことを大切に想う一人の女の子として」

 私の揺るがぬ瞳に決意を感じ取ったのか、克也はそれきり何にも言わなかった。

 互いに言葉は交わさず、ただ交わしたのは小さな微笑みだけ――。

 ――信じてるから。

 交わした微笑みに込めた言葉は彼にきっと届いたと私は思う。


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