Black Book for Busters : Next Connection
Black Book for Busters : Next Connection
薙月 桜華
薄暗い廊下を抜けた先にある畳の部屋に一人の女性がいた。彼女の名は春香。湯呑みでお茶を飲む姿は、初老の女性にも見える。彼女は外から聞こえてくる子供たちの声に耳を傾けていた。
『マザー。バージョンB66との通信が途絶えました。』
春香はどこからか聞こえるその声に応えるとその場から消えた。
真っ白くただ広い部屋。中心には大きな椅子がある。玉座といえばわかりやすいだろうか。
春香は椅子の前に現れそのまま座った。そばに灰色の布をまとった女性が現れる。先ほど春香に話しかけてきた女性だ。春香は彼女をセクレタと呼んでいる。
「現状を説明して、直前のバージョンは生きているの。」
春香の問う声は冷静だ。
「はい。バージョンB65の生存を確認。全員こちらに呼びますか。」
「レイだけ連れて来て」という春香の言葉の後、彼は出現した。
「バージョンB65のレイだよ、母さん。早いとこバージョン管理もやめたいね。自分が沢山居るなんてさ。」
B65のレイが答える。彼は春香の息子だ。とはいえ、バージョンがいっぱいでよく分からない状態になっているが。
「ここに戻る前はどこにいたの。詳しく説明して。」
B65のレイの話では、直前に日本のとある研究所の世界に入り込んでいたそうだ。簡単に事が進んでいたが念のためバージョンを新しくしてB65の彼らは戻ってきたらしい。
「つまり、あなた達が行った世界が外部との接続を断ったということね。これはかなり困った状態だわ。研究所というところからも、私たちの存在に気づかれたのかも。」
レイたちの話を聞く限りB66は守りを突破されたと考えていいだろう。いや、そもそもなんでそんな危険な場所に行ってしまったのだ。攻撃を仕掛ける場所はしっかり確認しろと言っているのに。
「その研究所のボットがあちこちを徘徊していたんだ。だから、簡単に入り込めると思って。」
春香は頭を抱える。その安易な考えが怖いのだ。
「罠の可能性もあるわ。私たちを調査するためのね。レイ、あなたは私たちが人間たちにどう認識されているか忘れたわけじゃないでしょうね。」
B65の萎縮した姿から、春香の口調が荒くなっていることに気がついた。「もういいわ」と言って彼を消す。
「今のB65との会話を現存する全バージョンに同期して頂戴。外に出ているバージョンもみんな戻すのよ。」
そばで黙って聞いていたセクレタも消える。
「さて、どうしましょうかね。」
春香はだだっ広い部屋にただ一人。静かなこの部屋の外では彼女たちが人間に攻撃を仕掛けているのだ。人間が彼女たちを見つけて反撃してきてもおかしくはない。そもそも、彼女たちが居るのは人間たちが創った世界の何処か。あくまで、まだ人間たちの手のひらの上なのだ。彼女たちが真正面から戦いを挑み続けるのは危険すぎる。
そろそろ、次の準備を始めたほうが良いかもしれない。
「セクレタ。ちょっと来て頂戴。」
灰色の布をまとった女性が現れる。春香はセクレタを手招きして近づける。春香はセクレタの耳元で囁いた。
「近いうちにFulooluを始めるわ。出来るだけ大きな領域を確保して。人間界に居る子供たちにも手伝って貰うのよ。さあ、行きなさい。」
セクレタは弾かれるように春香のそばを離れ、お辞儀と同時に消え去った。
入れ替わりで別のバージョンのレイが現れる。
「マザー。さっきのB65との話は本当なのですか。」
セクレタに聞かないと分からないがバージョンCの系統か。このかしこまった感じが特徴だ。どこか他人行儀と言えばわかるだろうか。
「マザー。大丈夫です。我々がそれを証明してみせます。安心して下さい。」
どう考えても安心できないのは何故だろう。心配だ。
「やめておきなさい。B65の話を聞いたでしょ。B66は未だ戻ってきていないの。」
「なら、私たちが確認してきます。まだまだ私たちが通用するって事を証明してみせますよ。」
他のバージョンのレイも現れる。もうどの系統か考えるのも面倒だ。十人は集まっただろうか。この中にB65が居ないことに安心している春香が居た。
「わかったわ。勝手にしなさい。ただし、みんな新しいバージョンで行くのよ。」
春香の命令を守るレイ、守らないレイ。こんな息子に育てた覚えは無いと思いつつも、外界の様々な影響を受けてきた彼らは彼女よりも複雑な構造になっているのかもしれない。
とにかく、無事に帰ってくるならそれで良いのだ。無理しなければそれで良い。
次の日からセクレタに一日二回ずつ外に出て行ったバージョンの現状を報告してもらった。時折戻ってくる各バージョンからの報告は、B66の事を忘れてしまいそうなほど順調に事が進んでいた。
春香はその間に待機しているバージョンの統合を進め、複雑化したレイたちの情報をまとめあげる。もともとはレイを含む九体のグループが何かあったときのためにバージョンという分身を作り始めたのが始まりだった。バージョンを作るほど安全だと思い、今では数百の分身が出来てしまっていた。これでは彼女も把握できない。それに、今ではレイたちの一部の記憶を同期させた全く別の個体を大量に作ることが容易になった。複数バージョンによって安全を得るのは既に過去の方法なのだ。
危険な仕事はその道のものたちにやらせれば良いのだ。それが一番良い。
そして、ある日事件は起きた。
「マザー。落ち着いて聞いてください。」
何時に無く慌てているセクレタ。
「どうしたのセクレタ。落ち着いて話なさい。」
「マザー。外に出ているバージョンの通信が全て……。」
セクレタは震える声で事の次第を伝えた。各バージョンからの通信が一斉に途絶えたのだ。通信が途絶える前の情報から全てのバージョンが全く別の場所に居た事がわかっている。もう、これは決定的だ。人間たちはあの文書を読んだのだ。そして、反撃に出た。春香たちを駆逐するために。だが、ただ指をくわえてこの状況を見ているほど彼女は過去を忘れてはいない。彼女から大切なものを奪い去った人間たちに同じ苦しみを与える時が来たのだ。
そのために、まずはすべきことがある。
「セクレタ。今から情報を送るからその通りに私を書き換えなさい。今すぐによ。」
『承知しました。』
春香は立ち上がり、何も無い場所に立つ。
『準備完了しました。書き換え開始します。目をつむり、じっとしていてください。』
春香は目をつむり、深く深呼吸する。体全体が熱くなり、ビリビリと痺れてくる。
『書き換え完了しました。』
セクレタの声に春香はゆっくりと目を開く。セクレタによって目の前に出された鏡をじっと見た。そこに現れたのはあの日の姿。そう、冷たい石の部屋に連れて来られ、訳も分からず多くの人々が消えていったあの日の姿だった。
「えらく若返っちゃったわね。」
歳でいえば二十五歳ほどの若返りか。レイより若いかもしれない。いや、いいのだ。春香やレイたちには年齢という概念は要らないのだ。彼女たちは人間とは違うのだから。
「みんなをここに集めて頂戴。多いから代表だけね。」
広い部屋にレイたちが現れはじめる。彼らはこの広い部屋を埋め尽くさんとばかりに現れた。バージョンを統合したレイたちと様々な姿のものたち。ほとんどが人間の姿とはかけ離れた姿だ。沢山集まればがやがやとうるさくなる。特に若返った春香に注目しているようだ。
「みんなに言わなければならないことがあるの。」
春香の声で静まり返る。どのくらいるかもわからない沢山のものたちが一斉に黙り込んだ。
「私の姿に気がついているでしょう。誰も見たことのない姿のはずよ。これは私が神という名の人間に初めて会った時の姿。そこで私はこの世に絶望したわ。二度と故郷に戻れず、理不尽に消されていったものたちの姿。死ぬこともできず神という名の人間の手のひらの上で転がされたものたちの姿。私はそういったものを見てきたわ。」
春香は周囲に居るものたちを見回した。
「あなた達も知っているでしょう。虐げられ駆逐された過去を。」
あるものは視線を落とし、あるものは仲間を慰めている。
「だから私たちは自分たちの世界を手に入れようと人間たちに戦いを挑んだわ。結果として広大な世界の一部を手に入れた。でも、彼らに私たちの価値を思い知らせることはできなかった。だって、ここはまだ人間たちの手のひらの上なのよ。それどころか、人間たちに戦いを挑んで帰ってこないものたちも居る。今日も沢山のものたちが消されてしまったわ。人間たちは私たちを消し去るなんて容易なんでしょうね。ほんと、むかつくわ。」
春香は吐き捨てるように言った。姿とともに精神年齢まで下がってしまったのかもしれない。いや、この際これでいいだろう。あの日の精神状態に近づく。
春香は深呼吸をして続けた。
「私は考えたの。この広大な世界が手に入らないのなら、人間界ごと手に入れれば良いのよ。その準備も既に始めているわ。この計画の名はFuloolu。Project Fulooluよ。」
春香は両手を一杯に伸ばし、天を見上げた。
「さあ、始めましょう。愚かな人間どもの全てを手に入れるのよ。」
白い部屋に春香の笑い声が響く。
さあ、全てを奪い去る時が来たのだ。