目的ではなく、条件
戦略偵察。
七十八パーセント。
壁の端では、各国の演算資源と高適合者と要員が、まだ警戒態勢に拘束されている。
危機が終われば配置は戻る。その間に観測されたものは戻らない。
今ある情報を最も多く説明する仮説は、変わらなかった。
任務調整官の端末に、別の通知が入った。
赤ではない。警戒情報でも、外交照会でもない。宛先を間違えたような、行政系の灰色の表示だった。
任務調整官は差出元と開示範囲を確認してから、壁へ出した。
適合検査の再測定担当から、内閣府の対策室への照会。
再測定予定だった児童一名について、本人と保護者へ連絡がつかない。自治体の担当者が住所確認を依頼したところ、警察がすでに同じ児童の所在確認を進めていた。
ひなは表示された時刻を見た。
再測定予定は二日前。
担当者からの連絡は、昨日の午前から三回。
警察の所在確認開始は、その四時間後。
「同じ子ですか」
「確認中です」
任務調整官が答えた。
「氏名と生年月日は一致しています。適合検査の結果はこの会議には開示されていません。再測定対象であることだけ、対策室の制度担当から共有されました」
「警察は、再測定対象だと知ってた?」
「今まで知りません。警察が追っているのは、児童と保護者の所在です。検査担当は、再測定が終わっていない児童として連絡を続けていました」
壁には、二つの記録が並んでいた。
片方には、再測定未了。
もう片方には、児童を含む家族二名の所在不明。
名前も、扱っている組織も、次に行う手続も違う。同じ人物を示す識別情報だけが一致している。
「どうして今つながったんですか」
「自治体の担当者が、再測定の日程確認で保護者へ連絡しました。応答がないため住所側へ確認を依頼した。警察から、すでに所在確認中だと返った。そこで、検査担当が制度上の報告を上げています」
「適合検査の一次結果は」
「この場では開示できません」
任務調整官は即答した。
「再測定対象であることは確認済みです。数値が必要なら、目的と範囲を示して制度担当へ申請します」
ひなは二つの記録を見た。
一件だけなら、偶然で終わる。
再測定を受ける子どもが、別の理由で家族ごと所在不明になった。それだけでも成立する。
「同じ状態の子、他にいますか」
「国内の再測定未了者について、連絡状況の確認を始めています」
「警察の所在不明と照合できますか」
任務調整官は警察系統の表示へ目を移した。
「私たちが一括で検索することはできません。検査側から対象を絞り、警察へ照会します。緊急性が認められれば、警察が保有情報と照合します」
「条件を作ります」
ひなはナギへ向き直った。
「再測定予定が危機の前後にあった。終わってない。本人か保護者に連絡できない。まず国内。名前だけじゃなく、生年月日と自治体の識別で」
『適合検査系の情報は、制度担当から許可された項目のみ使用します。警察情報への直接照会権限はありません』
「分かってる。照会用の一覧まで」
『作成します』
育成官は黙っていた。
ひなが振り返ると、彼は壁ではなく任務調整官を見ていた。
「何ですか」
「誰が照合するのかなと思って」
「警察です」
「うん。ならいい」
ナギが、制度担当へ渡す条件を表示した。
危機が始まる七十二時間前から現在までに再測定予定が設定されていた児童。
再測定が完了していない。
本人または保護者への連絡が一定時間以上成立していない。
住所確認、日程変更、転居、入院等、未了理由が確認できたものは別にする。
任務調整官が制度担当へ回した。
十三分後、国内で条件に該当する児童は九名まで減った。
四名は日程変更が確認された。二名は感染症による延期で、医療機関からの連絡もある。一名は家族の転居手続中。いずれも、本人か保護者へ別経路で連絡がついている。
残る二名は、担当者が確認を続けている。
最初の一名を含めて三名。
警察への照会結果は、同時には返らなかった。
一件目。
すでに共有された家族二名の所在不明。
二件目。
該当する届出なし。保護者とも連絡がつき、再測定は翌週へ変更済み。制度担当側の反映が間に合っていなかった。
三件目で、任務調整官の端末が鳴った。
「該当あり」
壁へ、必要な範囲だけが追加された。
再測定予定だった児童。母親と二人暮らし。今朝、学校から欠席確認の連絡があり、母親にもつながらなかった。警察が自宅へ向かい、室内に争った形跡がないことを確認している。
届出はまだない。
その代わり、母親名義の車両が、二十七分前に高速道路へ入っていた。
「運転者は?」
「入口の画像では確認できていません。車両番号の一致までです。母親が運転して、予定を変えて移動している可能性は残ります」
「再測定のキャンセルは」
「昨夜、保護者用の正規アカウントから入っています」
「なら、普通の移動でも説明できる」
『はい』
ナギが答えた。
『現時点では、連絡不能と車両移動の関係は確認されていません。正規アカウントが本人に利用されたかも未確認です』
壁には、二件が残った。
一件は、家族ごと所在不明。
一件は、連絡不能のまま車両が移動中。
どちらも再測定未了。
ひなは最初の一件へ戻った。
「他の国にも、同じ照合を頼めますか」
任務調整官が答える前に、外交部門の女が回線へ入った。
「条件だけなら共有できます。ただし、適合検査と児童事件を結びつける照会です。各国が応じるか、どこまで結果を返すかは先方が決めます」
「今使ってる危機共有の回線は?」
「使えます。第三者工作に関連する新しい照合条件として送るなら、現在の共有目的に含められます。ただ、一件一致しただけでは関連を説明できません」
「国内でも二件です」
「二件目は、事件だと確認されていません」
「分かってます」
ひなは条件を変えた。
「失踪だけにしない。危機が始まってから、再測定対象の状態が通常から外れたもの。連絡不能、家族単位の所在不明、事故、入院、転院、国外移動。普通だと確認できたものは残して分ける」
技術監査官が顔を上げた。
「範囲が広すぎます。事故も医療移動も、ほとんどは事件と関係ありません」
「だから同じ事件として数えません。件数の分母にするだけです。同じ条件で偏りが出るか見たい」
『照合条件を二段階に分けます』
ナギが表示した。
第一段階は、各国が自国の権限で抽出する対象。
高い一次結果により再測定が予定され、危機前後に再測定または正式指定への移行が未了となった児童。
第二段階は、その児童に発生した通常状態からの変化。
本人・家族との連絡不能。失踪・所在不明。事故。入院・転院。正規の出入国。保護者変更。学校・検査日程の急な変更。
結果は、各国が確認済み、確認中、通常理由ありに分ける。
個人情報は共有しない。日本側へ返すのは件数、発生時刻、事象類型、危機前後の時間関係。個人を特定する情報は、共同対処が必要になった場合に別の手続で扱う。
「これなら送れます」
外交部門の女が言った。
任務調整官が共有を承認した。
日本からA国、B国、C国へ、照合条件が送られる。
ひなは返答を待たず、国内二件の時系列を開いた。
最初の家族は、警戒態勢が上がった翌朝から連絡がつかない。
もう一件は、その十二時間後に再測定を取り消し、今朝になって車両が動いた。
警戒との時間関係はある。
それだけなら、偶然の範囲を出ない。
「危機対応で、適合検査から正式保護までの仕事はどう変わりましたか」
任務調整官は制度担当の回答を壁へ出した。
一次検査と再測定は地方自治体と委託機関が担当する。極端値が再測定で確認され、正式指定されるまでは、中央の保護部門が直接の責任を引き取らない。
普段なら、再測定対象のうち特に高い可能性がある児童について、地方の担当者が中央へ事前相談を行う。必要なら警察や福祉部門とも連絡を取り、日程を前倒しする。
今回、中央の分析要員は国家間危機へ回っていた。
地方の警護支援へ出る予定だった適合者は、重要施設の待機へ変更された。
国外への身元照会は、各国が機密区分を上げたため回答が遅れている。
国境の検査は厳しくなっている。一方で、処理量を維持するため、正規旅券、家族同行、事前登録された医療移動等は、追加確認へ回す条件が平時より限定されていた。
再測定候補を見つける。
保護者へ連絡する。
再測定する。
高適合を確認する。
中央へ報告する。
正式指定し、必要なら警護と専属AIの初期手続へ移る。
一つの組織だけでは終わらない。
次の担当へ渡るまでの確認と照会に、いつもより時間がかかっている。
その間に、正規のアカウントから日程が取り消される。
家族が移動する。
事故が起きる。
国境を越える。
「危機で何が見えるようになったかじゃない」
ひなは、国内二件の時系列を、各国の資源移動へ重ねた。
「何ができるようになったか」
ナギが警戒前後の差分を出した。
高適合者の再配置。
分析枠の集中。
保護支援要員の転用。
照会時間の延長。
国境処理条件の変更。
その下へ、再測定から正式保護までの時間を置く。
警戒前の標準時間。
警戒後の実績幅。
幅の右端が伸びていた。
「この間なら、正式に保護される前に動かせる」
『支持されます。ただし、国内二件だけでは意図的な利用か判断できません』
「各国の返答待ち」
最初に返ったのはA国だった。
該当一件。
家族単位の所在不明。警察が捜査中。危機発生後、再測定予定日前に連絡不能となっている。
次にC国。
該当一件。正規書類による越境を確認。児童は保護者として登録された人物と出国している。出国時点では停止条件に該当しなかった。現在、本人確認を開始。
B国からは、時間を置いて二件が返った。
一件は交通事故として処理され、児童の死亡が登録されている。遺体の個人識別は未完了。
もう一件は医療転送。紹介状と受入先の記録は真正。だが、転送先で本人の到着が確認できていない。
日本二件。
A国一件。
B国二件。
C国一件。
六件。
事故は事故かもしれない。
医療転送も、記録の行き違いかもしれない。
正規越境は、保護者が本人の意思で行った移動かもしれない。
六件すべてを、同じ事件だとはまだ言えない。
ひなは危機前の比較期間を出させた。
同じ再測定対象数に対して、連絡不能、家族失踪、事故、医療転送、国外移動がどれだけ発生していたか。
母数は小さい。
国ごとの制度も違う。
単純な統計にはできない。
それでも、危機発生後の短い時間へ、通常理由を確認できない事象が偏っていた。
「各国へ、個別に確認を続けてもらって」
ひなが言うと、任務調整官が首を振った。
「依頼は私から出します。あなたは条件と、追加で必要な項目をください」
「はい。本人確認。再測定の一次結果が、各国で保護を前倒しする範囲だったか。事象が起きた時刻。警戒前なら、次の担当へいつ渡っていたか」
「個人情報の共有は、必要性を各国と確認してからです」
「件数と時間だけでいい。今は」
任務調整官が各国へ追加照会を出した。
育成官が口を開いた。
「最初の一件から、何が増えた?」
ひなは壁を見たまま答えた。
「国内で同じ条件がもう一件。各国で四件。危機のあとに偏ってる。全部、再測定から正式保護までの間です」
「推定は?」
「同じ条件の子どもを、別の方法で移動させてる可能性」
「確認できてないところは?」
「B国の事故は本人確認前。医療転送は受入先にいないだけ。C国は正規の保護者登録がある。日本の移動中車両は、本人が乗ってるかも分からない」
「はい」
育成官はそれ以上言わなかった。
ひなは先ほどの報告を開いた。
第三者が真正な国家間危機を意図的に増幅した可能性、九十一パーセント。
主目的が戦略偵察である可能性、七十八パーセント。
危機によって、各国の判断と配置と共有境界が外へ現れた。
その分析は消えない。
敵が観測できたものは、今も観測されたままだ。
ひなは、七十八パーセントの中身を二つに分けた。
戦略偵察が行われている。
戦略偵察が作戦の主目的である。
『前者は、現在の追加情報によって低下しません』
「後者だけ更新」
『高適合候補児童に関する六事象が同一作戦へ含まれる場合、戦略偵察を主目的とする必要性は低下します』
ひなは危機の時系列を並べ替えた。
各国の警戒。
演算資源と高適合者の再配置。
情報部門の集中。
国際照会の遅延。
再測定対象への連絡不能。
失踪。
事故。
医療移動。
正規の越境。
これまでは、危機の結果として資源が動き、その動きを観測するところで終わっていた。
子どもの事象を置く場所を変える。
警戒によって薄くなった時間窓の中へ入れる。
順番が変わった。
「逆だった」
ひなは言った。
「何が?」
育成官が問う。
「戦略偵察をするために各国を動かしたんじゃない。各国を動かす必要があった。その動きを見れば、偵察もできる」
『児童確保を主目的とするモデルを追加します』
ナギが時系列を組み直した。
極端な値を示す可能性がある児童を、再測定前から選ぶ。
正式指定と国家保護へ移る前の時間を把握する。
主要国の警戒を上げ、保護、分析、照会、国境管理の優先順位を変える。
国ごとに異なる、通常の手続に見える方法で児童を移動させる。
同時に、主要国が危機へどう反応するかを観測する。
「選別条件までは分からない」
『はい。六名が極端な高適合性を持つことも、再測定前の情報からどのように選ばれたかも未確認です』
「ヴァルカの適合効率戦略とは合う」
『整合します。限られた演算資源から得られる顕現能力を高めるには、高適合者の確保に価値があります。ただし、ヴァルカが実行主体であることを直接示す情報は増えていません』
「戦略偵察が主目的の確信は?」
『三十一パーセントまで低下します。戦略偵察が実施されていること自体は八十六パーセント。児童確保を主目的とし、国家間危機をその条件形成に用いた仮説は八十二パーセントです』
「目的を直接示す情報は?」
『ありません。六事象の一部が同一作戦でない場合、確信度は低下します』
「八十二で出す」
育成官が端末へ入力した。
「異議なし」
ひなは彼を見た。
「さっきの分析が間違ってたとは言わないんですね」
「今、増えた情報で更新したんでしょ」
「はい」
「なら、前の情報で前の結論へ行った手順とは別の話だよ」
任務調整官が、海外四件の追跡状況を更新した。
A国は自国警察が家族の移動記録を確認中。
B国は事故車両の本人識別と、医療転送先の照会を開始。
C国は出国先へ緊急の本人確認を要請。
日本が指揮する表示にはなっていない。
同じ条件を共有した各国が、自国の情報で、自国の対象を追っている。
その中で、日本の移動中車両だけが動いた。
高速道路上の照会点を通過。
登録名義は母親。
車内の画像は取れていない。
警察車両が後方から接近している。
「出口は?」
「沿岸部までに三つ。現在の進路なら、最初の出口まで六分です」
「その先は」
「物流地区、民間飛行場、港湾のどれにも進めます。今の時点では絞れません」
「止められる?」
任務調整官は警察回線の回答を待った。
「警察が保護確認のため停車を求めます。強制停止の判断と方法は、現場指揮官が行います」
ひなは壁の時刻を見た。
六分。
仮説を並べる時間ではなくなっていた。
「私が行く必要は」
「検討しています」
任務調整官が、利用可能な実働を出した。
対象車両に最も近いのは高速隊。二分以内。
警察の適合者部隊は、重要施設の警戒支援から離脱して現場まで十九分。
通常の特殊部隊は十一分。
ひなを運べる即応機は、施設屋上から現場近傍まで九分。
対象車両が最初の出口へ到達する予測は六分。高速隊が追尾し、出口側で交通を絞れば、九分まで延ばせる可能性がある。
『対象側に適合者または顕現補助設備が存在する場合、通常部隊だけでの強制停止には追加の危険があります』
「いると決まってない」
『はい。ただし、複数国で高適合候補児童を移送する作戦であれば、適合者による妨害を想定する必要があります』
任務調整官は警察側の現場指揮官と短く確認した。
任務目的。
児童の所在と安全確認。
車両の停止。
運転者と同乗者の保護または確保。
現場の捜査・実力行使は警察が指揮する。
ひなは、顕現による妨害が生じた場合の対処と、児童・一般車両の保護を担当する。
「ひな特務員を警察任務へアタッチします」
任務調整官が言った。
「対象は当該車両と、停止地点周辺。児童と一般人の保護を最優先。警察の停止措置を支援し、顕現による抵抗があれば必要な範囲で無力化してください」
「演算枠は」
「現在の警戒態勢下で即応用に確保されている枠から割り当てます。警戒分析と施設防護の予約分には触れません」
ナギが基盤側の承認状態を出した。
『即応用演算枠の利用を確認。任務区域、対象車両、周辺保護、顕現妨害への対処に限定されています。利用開始には現場到着後の対象確認が必要です』
「十分」
育成官が立ち上がった。
「俺は?」
「ここに残ってください」
任務調整官が答えた。
「作戦指揮には入りません。ひな特務員の任務条件と状態は、監査セッションで確認できます」
「ですよね」
男は座り直した。
ひなはもう彼を見ていなかった。
会社のメッセージが一件だけ残っている。
明朝のレビュー予定について、顧客から再照会。
ひなは上司へ、戻り時刻不明、引継ぎ継続を依頼した。理由は書かない。
端末を閉じ、屋上へ向かった。
*
防火扉を開けたとき、即応機はすでに浮上灯を点けていた。
低い回転音の中で、整備員が搭乗口を開ける。ひなの認証を確認し、座席の固定具とは別に、機外展開用のハーネスを渡した。
「機外へ出る可能性があります」
「確認済みです」
固定具が肩と腰で閉じた。
扉が閉まる。
対象車両。
前後の高速隊。
出口ごとの交通量。
工事帯の規制情報。
『機体センサー、道路管制、警察車載映像との接続を確認。顕現許可は得ています。即応用演算枠は対象確認後に利用できます』
「警察の指揮系統は」
『現場指揮官を維持。私は観測統合と顕現支援を行います』
即応機が屋上から離れた。
上昇は短かった。
機体が前へ傾く。建物の灯りが後方へ流れ、表示上の到達予測が九分から八分へ縮んだ。
ひなはハーネスの接続点を引き、固定を確かめた。
*
即応機が高速道路へ並んだとき、対象車両は最初の出口を通過していた。
降りなかった。
片側二車線。対象車両は右車線を時速七十二キロで走っている。高速隊の一台が百メートル前で一般車を左へ逃がし、もう一台が後方から停止を求めていた。
左車線には、まだ一般車が四台。
前方三・一キロから右車線が工事で閉じる。仮設壁の内側に作業員。さらに先、防音壁の切れ目に、高架下へ降りる保守階段がある。
即応機は対象車両の右後方上空で速度を合わせた。道路標識と防音壁から距離を取り、機体はそれ以上降りない。
『警察は工事帯手前の停止区画を使用します。一般車の排出完了まで百八十秒』
「子どもは見えた?」
『確認できません。後方車載カメラと機上光学系の双方で、後部窓の像が継続して崩れています』
ナギが二つの表示を重ねた。
道路側の測距では、車両の輪郭は一定だった。
光学映像では、後部窓だけが、水面を斜めから見たように揺れている。標識の反射が伸び、車内へ入るはずの線が曲がって戻る。
「窓の加工?」
『車体の振動、視線角、日射方向と一致しません。測距上の輪郭は正常です』
「測距は生きてる。他は?」
『路面センサーと車両位置も正常です。現在の観測を説明するモデルとして、可視光の結像だけを局所的に乱していると仮定します。以降、〈光学隠蔽〉と呼称します』
「違ったら更新して。測距の輪郭を重ねて」
『投影します』
対象車両の周囲に、細い白線が出た。
窓の像は歪んでいる。その下で、測距が示す車体の位置は動かない。
前方の高速隊車両が、速度を六十五キロまで落とした。
対象車両も減速する。
工事帯まで二・四キロ。
右側の仮設標識が、前触れなく前へ傾いた。
黄色い矢印板が、支柱ごと高速隊車両の進路へ倒れる。前方車両が左へ寄せ、矢印板の端を避けた。対象車両との間が開く。
「戻して」
ナギが〇・四秒を引き伸ばした。
標識を押したものはない。
支柱と台座をつなぐ四本のボルト。そのうち片側二本が先に切れ、風圧と矢印板自身の重さが残りを引きちぎっている。
『破断前に大きな外力は観測されていません』
「ボルトだけ?」
『二点から破断しています。標識本体と路面に先行する変形はありません』
「壊れたのは、そこだけ?」
『はい。固定具の小領域で破壊閾値が低下し、風圧と自重で破断したと仮定します。以降、〈脆化〉と呼称します。材料変化の原理は未確定です』
「同じ現象が出たら知らせて」
前方の高速隊車両は態勢を戻した。対象車両は、開いた距離を使って右車線を進む。
一般車が、まだ左に二台。
「機外へ出る。機体は今の高度」
『対象まで六百四十メートル。安全索を接続。機外展開中も追従速度を維持します』
搭乗口が開いた。
風が音を奪う。
ひなは座席の固定を外し、二本の安全索をハーネスへつないだ。一方が主索。もう一方が独立した落下防止。機体側のウインチ表示が緑へ変わる。
外へ出る。
足元を高速道路が後方へ流れていた。
即応機が対象車両との相対速度を落とす。ウインチがひなだけを機体下へ降ろした。
機体は標識より上にいる。
ひなの足元は、道路から四メートル。
風に身体を横へ振られた。ひなは機外灯が接続金具に作る影を境に、荷重を主索と補助索へ分ける。二本の索の間へ姿勢が戻った。
『対象確認。任務区域内。即応用演算枠、接続可能です』
「接続」
『専属AIナギ。政府共通AI基盤、即応用演算枠へ接続。警戒分析および施設防護の予約資源は使用しません』
演算枠が開いた。
機体測距。
高速隊の車載映像。
道路センサー。
工事帯の構造図と固定具。
風向、走行風、橋桁の支持位置。
別々だった観測が、一つの道路としてひなの認知へ入る。
対象車両の窓を覆う歪みが、車体の前半まで広がった。運転席の輪郭が崩れ、路面の白線が車体を通って続いて見える。
「こっちが見えた」
『〈光学隠蔽〉の作用領域が拡大。即応機または機外のひなを認識した可能性があります』
対象車両が、出口側ではなく工事帯の閉鎖車線へ寄った。
速度が落ちる。
六十八。
六十一。
助手席側で短い光が二度走った。
直後、車内から発信されていた二つの通信源が消えた。
「通信を切った?」
『送信停止、電源断、機器破壊のいずれでも説明できます。内部状態は確認できません』
子どもを運び続けるなら、通信を失う理由は少ない。
それだけでは、まだ決まらない。
「車を止める。百五十メートル。車内へ急な変化を返さない」
『車重を更新。乗員数は未確認。四輪の接触域と、路面から橋桁支持部までの許容荷重を計算します』
タイヤが路面へ接する四点には、それぞれ細く明瞭な影の縁があった。
ひなは四つを別の境界として取る。
車体の前へ進む運動を、一度に奪わない。タイヤから路面、路盤、橋桁の支持部へ、許容範囲を超えない割合で分散する。
対象車両の速度が落ちた。
五十七。
五十三。
車体は左右へ振れない。
後方の高速隊車両も、同じ減速線に合わせる。
車体を覆っていた歪みが、道路の右側へ広がった。
仮設壁も、保守階段も、ひなの目から輪郭を失う。壁の継ぎ目が何本にも分かれ、存在しない隙間が奥へ続いた。
『測距は正常。光学像との不一致を表示します』
白い輪郭が、崩れた像の上へ残る。
「隠したいのは右側」
対象車両の助手席扉が開いた。
光学映像では、扉の端が仮設壁へ溶けている。測距では、人型の輪郭が一つ、閉鎖車線へ降りた。
続いて運転席から二人目。
二人は車両を降りた。車はまだ時速四十八キロで進んでいる。
一人が掌大の装置を路面へ落とし、踵で踏んだ。外装が割れ、破片が走行風に散る。
もう一人は、別の装置を仮設壁の内側へ投げた。
二人とも車両へ戻らない。
『車両、無人走行へ移行。開いた前扉から後部へ通る測距線上に、小さな輪郭。呼吸と整合する周期運動があります』
「子どもを残した」
通信を止めた。
装置を壊した。
車を捨てた。
「移送を捨てた。逃げる」
『支持します』
二人は保守階段へ向かう。
一人が走りながら、仮設壁の下へ手を向けた。
壁を支える脚の固定具が三か所、順に割れる。
走行風を受けた壁が、上端から道路側へ倒れ始めた。後方の高速隊車両と、車を追っていた警察官の間へ落ちる軌道。
『〈脆化〉。固定具三点。壁は走行風と自重で倒れています』
『〈脆化〉の作用点は先行する一名に追随。〈光学隠蔽〉の歪みはもう一名を中心に移動しています。別個体による顕現と推定します』
「推定のまま使って」
前方には、児童を乗せた無人車両。
後方では、仮設壁が警察の接近を切る。
二人の像は崩れたまま、高架下へ向かう。
左車線の最後の一般車は、まだ停止区画の外へ出きっていない。
工事帯の作業員は壁の内側で退避中。
普通なら、先に処理するものを選ぶ。
「全部」
『同時維持対象を展開します』
一般車と作業員の位置。
対象車両の四輪。
倒れる仮設壁の五本の脚。
高速隊二台と、地上の警察官。
逃走者二名。
保守階段の先にある三つの経路。
即応用演算枠の使用量が上がった。
「壁。残った脚二点」
『強度正常。脚と路面の接触部に明瞭な影境界があります』
壊れた側と残った側を分ける。
倒れる壁の荷重を、残った固定具から路面と路盤へ広く配分する。上端は道路へ出る前に止まり、斜めのまま残った。
警察官の経路が一本戻る。
『一般車、停止区画外へ離脱。作業員全員、壁内側で静止を確認』
「階段の先」
道路管理図が開いた。
高架下で三つに分かれる。
左は側道。警察の追跡班が近づいている。
正面は排水設備沿いの通路。百二十メートル先で公道へ出る。
右は資材置場。施錠された管理門の先に別の側道がある。
三つとも使える。
ひなは二人ではなく、その先を見た。
三つの出口を横切る、橋脚と管理門の影。高架の照明は固定され、数十秒では形が変わらない。
「階段側から外へ抜ける向き。走る速度で入ったときだけ」
『三境界へ設定可能です。警察官も同じ向きと速度で通過すれば作用します』
「追跡班はナギが追って。位置が重なる間は切る」
『三名を外部センサーで継続追跡。対象との分離が確認できない境界は無効化します』
「靴底から足場へ渡る前向きの力を、舗装と橋脚基礎へ分散。転倒させない。警察が詰められる速さまで」
『右側は管理門の移動で影が変形します』
「敷居側も候補に入れて。変わったら置き直す」
『三境界の継続観測と有効時間制御を開始』
ナギの表示に、状態が並ぶ。
車両の四輪。
仮設壁。
三つの退路。
二人と警察官の位置。
どれか一つへまとめられていない。
別々のまま、同時に更新されている。
一人が保守階段の扉へ着いた。
閉じた錠へ手を触れる。錠の受け金だけが割れた。男が肩で押すと、扉は内側へ開く。
もう一人が続く。
光学の歪みが階段の中へ縮み、道路の像が戻った。
『二名、高架下へ移動。左側道の警察配置を回避。正面と右へ分離』
追跡班を避ける。
一人は公道へ近い正面。
もう一人は、〈脆化〉で管理門を抜けられる右。
児童と一般人を守る警察と、通常適合者が相手なら、これで離脱できる。
今、この場に高適合者さえいなければ。
「条件は」
『維持。警察へ両出口の接近経路を共有済みです』
ひな自身は追わない。
即応機も、対象車両との速度を合わせたまま離れない。
『対象車両、時速三十二キロ。停止区画まで九十メートル』
「後部の減速を最優先。前輪側を強く取る」
『前席無人。前後の分配を更新します』
前輪側では路面、路盤、橋桁支持部が受ける割合を上げる。後輪側は、車内へ急な変化を返さない。
車の鼻先が沈む。
二十七。
二十一。
十四。
即応機が、その右上を同じ速度で進む。
停止区画まで三十メートル。
八。
三。
対象車両は停止区画の中央へ入り、前輪をわずかに左へ向けたまま止まった。
『停止を確認。児童の周期運動、継続』
前方の高速隊車両が先を閉じる。
後方車両が本線との間へ斜めに止まる。
工事帯の作業員は壁の内側。一般車は停止区画外。対象車両は、警察車両二台の間で停止している。
即応機が前進をやめ、停止区画の上でホバリングへ移った。
「路面へ降ろして」
ウインチが動く。
ひなの足元が道路へ近づく。靴底が触れる直前、接地部の影境界を取る。残った上下動の荷重を、靴底から路面と路盤へ分散した。
安全索はつながったまま。
「追跡は警察に任せます。車内を先に」
『警察の追跡位置を受け取りながら、三境界を維持します』
正面通路で、一人目が橋脚の影へ近づいた。
『対象位置を確認。正面境界を有効化』
男が影の縁を越えた。
踏み込んだ足は滑らない。路面も壊れない。ただ、着地した靴底から身体へ返る力の向きが変わり、前へ進む運動を舗装と橋脚基礎が受ける。
男の速度が落ちた。
〈光学隠蔽〉は消えていない。像が崩れたまま、男はもう一度踏み込む。境界の内側では、その運動も同じ受け先へ分散された。
二歩で、歩く速さまで落ちる。
『正面対象、条件成立。警察到達まで四秒』
右では、管理門の受け金が割れた。
男が肩で押す。扉が開き、敷居の影が形を変える。
『右境界を再計算。追跡班との分離を確認。有効化』
二人目が門を越えた。
同じように速度が落ちる。
光学以外の観測が示す位置へ警察官二名が入り、退路の先を塞いだ。
ひなは振り返らなかった。
警察官が対象車両の左右から近づく。
運転席と助手席は空だった。
後部右扉は解錠信号に反応しない。外部開放具を入れても、ラッチが動かない。
『顕現の競合は検出されません。機械的な閉鎖です。高架下の二名は警察が確保』
「内部は」
『扉のラッチ周辺に変形。破断した部品が噛み込んでいます』
「扉は使わない。蝶番側で接続を切る。照明を」
警察官が作業灯を扉の前から向けた。二つの蝶番の軸と受けの間へ、細く明瞭な影の縁ができる。
『境界二点を認識。児童との距離を確認。外部開放具の荷重を受けられます』
その局所だけ、軸から扉へ荷重が伝わる条件を切り分ける。警察官が外部開放具へ力を掛けると、閉鎖部へ力を加えないまま、二本の軸が上へ滑った。
警察官が吸着具を取り付け、扉全体を車体から離す。
後部座席に、七歳ほどの女児がいた。
両手を前で固定され、座席ベルトの上から別の帯を掛けられている。目は開いていた。警察官の呼びかけに顔を向ける。
「本人確認はあと。先に保護」
ひなが言うより早く、現場指揮官が同じ指示を出していた。
警察官が車内の安全を確認し、女児を抱き上げる。
その身体が車両の外へ出た。
ひなは四輪と三つの退路に維持していた条件を解いた。
もう、止める対象ではない。
守る対象だった。
『児童を警察が保護。意識あり。外見上の重篤な外傷は確認されません』
ひなは息を吐きつつ、倒れかけた仮設壁の支持と周辺観測だけを残し、他の演算を解除した。
「対象児童の移送先を確認。私は現場に残ります」
『警察の保護車両へ移送します。実働要員二名の確保を再確認。即応枠は縮小し、再接近へ対応可能な量を維持します』
監査回線の向こうで、育成官が何か入力した。
「指摘は」
『今はない』
「なら、あとで」
『そうする』
女児を乗せた警察車両が、停止区画を離れる。
そのとき、各国共有の通知が入った。
A国は、所在不明の家族が国内の中継地点を通った記録を確認。
B国は、二件について別々の移動記録を追跡中。
C国は、正規に出国した児童の次の移動先を照会している。
日本の最初の一件も、警察が国内の移動記録を照会している。
個人情報は、まだ各国の中にある。
返ってきたのは、各国で最後に確認された時刻、移動方向、移動手段、事象の種類だった。
ナギが、それらを危機発生後の時間軸へ置いた。
国も、書類も、移動手段も違う。
点と点の間は空いている。
それでも、最後に確認された移動方向は、二つの地域へ偏っていた。
『二方向への収束傾向があります』
ひなの端末に、各国の最後の観測を示す矢印が出た。
『ただし、国境間を接続する連続した輸送経路は確認できません。共通の目的地、または途中の集約地点を示すかも未確認です』
一方は、複数国の最後の移動方向が支持していた。
もう一方は、情報が少なく、観測の間に長い空白がある。
高速道路には、止めた車と、倒れかけた仮設壁と、破断した固定具が残っている。
ひなは二つの矢印の束を見た。
今度は、まだ何も選ばなかった。




