鏡とガーベラ
※この物語には、ドメスティックな描写や心理的なグロテスクさが含まれます。苦手な方はご注意ください。
「愛しているからこそ、守らなければならない」
その歪んだ純愛は、優しさか、それとも狂気か。
密室のなかですれ違う二人の視線の先にある、あまりにも残酷な真実を巡るサイコサスペンスです。
テレビのニュースキャスターが無機質な声で告げていた。『都内で半年前から行方が分からなくなっている、綾さん(24)の捜索が続いています』
僕はリモコンの電源を切り、古びたテレビ画面を暗転させた。外の世界は相変わらず騒がしい。あんな下世話な噂話や詮索に、僕たちが踏み込まれるわけにはいかないのだ。
古い一軒家のリビングには、いつも澱んだ空気が溜まっていた。カーテンは閉ざされ、窓の隙間からは外の光が細く漏れるだけで、壁にかかったカレンダーの年月はとうに止まっている。
『痛むかい、綾』
僕はテーブルの向こう側に座る彼女に声をかけた。綾は怯えたように肩を震わせ、自分の細い腕に巻いた包帯をそっと押さえた。その白い包帯の染みには、昨夜の乾いた血がうっすらと滲んでいる。
『……ううん、平気。あなたが謝らないで、智史』
か細い声だった。彼女は僕を恐れている。いや、正確に言えば、僕のなかに棲む「もう一人の僕」を恐れているのだ。
僕たちは深く愛し合っていた。少なくとも、あの外の世界の喧騒から逃れて二人きりの生活を始めた頃は、穏やかな幸福しかなかったはずだ。けれど、いつからか夜が怖くなった。僕が眠りに落ちたあと、深い闇のなかで意識が浮上すると、部屋には狂気に満ちた気配が充満しているのだ。
そして朝が来ると、綾の身体には必ず新しいあざや切り傷が増えている。
『ごめん、綾。また僕の手が……』
『ううん、あなたがやったわけじゃない。分かってる』
綾はいつもそう言って泣く僕を慰めてくれた。彼女は知っていた。僕が解離性同一性障害を抱えていることを。僕のなかの別の人格が、夜の帳が下りるたびに表に出て、彼女に理不尽な暴力を振るうのだ。僕自身にはその瞬間の記憶が一切ない。目が覚めたときには、自分の手にも見覚えのない返り血がついていて、吐き気を催すほどの自己嫌悪に押しつぶされそうになる。
だから、僕たちは外の世界へ出られない。医者に見せれば強制的に引き離されるかもしれない。何より、僕がいつまた彼女を壊してしまうか分からない。
『外は危険なんだ、綾。僕たちが一緒にいられるのは、この部屋だけなんだよ』
『うん……そうだね、智史』
綾はかすかに微笑んだ。その健気な笑顔を見るたび、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。彼女を守るために、僕は窓を板で打ち付け、彼女のスマートフォンを壊し、誰も近づけないようにした。すべては愛ゆえの防衛だった。
その夜、異変は静かに訪れた。
激しい頭痛と、喉が焼けるような悪寒で僕は目を覚ました。暗闇のなか、隣のベッドはもぬけの殻だった。微かな物音がする。
這うようにしてリビングへ向かうと、そこには息を荒らげ、狂気に満ちた目で壁を引っ掻いている綾の姿があった。いや、違う。正確には、髪を振り乱し、冷酷な笑みを浮かべた「もう一人の彼女」がそこにいた。
『綾……?』
名前を呼ぶと、彼女はぎこちない動きでこちらを振り返った。その手には、キッチンの包丁が握られていた。
『お前だ』
『え……?』
『お前が私を苦しめるんだ。お前が私をこんな狭いところに閉じ込めて、自由を奪ったんだ!』
彼女は叫びながら、狂乱のスピードで僕に飛びかかってきた。避けようとしたが、鋭い痛みが肩を貫いた。熱い血が噴き出す。
『やめてくれ、綾! 僕は君を愛しているんだ!』
んだ!』
『嘘つき! 痛い、怖い、助けて、智史……!』
奇妙なことに、叫び声をあげながら包丁を突き立ててくる彼女の目は、恐怖に引きつっていた。まるで、自分の意思とは無関係に身体が勝手に動いているかのように。
『いやだ、来ないでくれ……!』
パニックに陥った僕は、身を守るために目の前にあった重い電気ランタンを掴み、狂うように振り下ろした。
鈍い、重い肉の潰れる音がリビングに響き渡った。
そして、部屋は嘘のように静まり返った。
朝の光が、壊れた窓の隙間から残酷なまでに明るく差し込んでいた。
床に崩れ落ちた綾は、もう動かない。その手には血まみれの包丁が固く握りしめられている。僕は震える手で自分の肩の傷を押さえながら、目の前の光景をただ呆然と見つめていた。
『どうして……どうして君が僕を刺そうとしたんだ、綾……。僕は、君を守りたかっただけなのに……』
涙が止まらなかった。なぜ彼女があんなふうに暴れたのか。なぜ彼女のなかの凶暴な人格が、僕を殺そうとしたのか。分からない、何も分からない。僕はただ彼女を抱き締めようと、冷たくなった身体に手を伸ばした。
そのとき、玄関のドアが激しい音を立てて蹴破られた。
『警察だ! 動くな!』
踏み込んできた制服警官たちが、一斉に銃口をこちらに向ける。男の一人が部屋の惨状を見て、息を呑み、そして信じられないものを見る目で僕を睨みつけた。
『おい、確保しろ!……おい、お前、しっかりしろ!』
冷たい手錠が僕の手首にかけられる。パニックになりながら、僕は必死で叫んだ。
『違うんだ! 彼女が、彼女が多重人格で、夜になると暴れて……僕は被害者なんだ! 彼女を止めるしかなかったんだ!』
刑事は、床に横たわる綾の遺体と、血まみれの僕を交互に見下ろした。その目には、同情の色は一切なく、ただ底知れぬ冷酷な憐れみだけがあった。
『何を言っているんだ?…君は』
刑事は低く、吐き捨てるように言った。
『この家は、半年前に彼女が失踪して以来、ずっと空き家だったはずなんだよ。近所の住民も、君が彼女を連れ込んで監禁していたって通報しようとしていた矢先だったんだよ。』
頭の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
『……え?』
『君が言う「彼女が夜に暴れた」とか「彼女が多重人格だった」とか言っていたよね。でも、日常的に暴力を振るい続けていたのは、君なんだよ。もう一度聞くよ?自分で何をしたかすら覚えていないの?』
その瞬間、僕のなかの何かが激しく拒絶した。
違う。そんなはずはない。僕は毎日、怯える彼女を優しくなだめ、傷を手当てし、外の危険から守り続けていたはずだ。暴力なんて振るうはずがない。僕が彼女を傷つけたことなど、人生で一度だって。
けれど、脳裏の奥底で、記憶のパズルが音を立てて組み替わっていく。
夜の暗がり。自分の手で押さえつけた、細い肩の確かな感触。泣き叫ぶ彼女の口をふさいだときの、熱い血の匂い。
『あ……』
僕が「多重人格のもう一人の僕」だと思い込んでいた凶暴な殺人鬼は、他ならぬ、僕自身の昼の人格だったのだ。僕のなかに別の人間などいなかった。彼女を痛めつけ、恐怖のどん底に突き落とし、そして最後には自分の手でその命を奪い去ったのは、すべてこの「優しい僕」の仕業だったのだ。
静寂が戻った。
僕はただ、彼女を愛していた。愛して、愛して、愛し抜いたつもりだった。なのに、僕の手は――。
僕はゆっくりと、リビングの壁にかかった古びた鏡に目をやった。
そこに映っていたのは、被害者ぶって涙を流す無辜の青年ではない。
ただ、血まみれの手で狂ったように微笑み、誰の姿もない冷たい空間にしがみついている――気味の悪い血がへばり付いた手と、歪みきった僕自身の顔だった。
数日後の夕方。どこかの家のリビングに置きっぱなしになったテレビから、無機質なアナウンサーの声が流れていた。
『続いてのニュースです。半年前に都内で失踪し、その後の行方が分からなくなっていた会社員・綾さん(24)ですが、本日、都内の空き家となっている一軒家から、遺体で発見されました。警察は、殺人容疑でこの家に立てこもっていた無職の男を逮捕し、事件の詳しい経緯を調べています。なお、発見当時、現場となった部屋には、数カ月にわたって放置され、すっかり枯れ果てた三輪のガーベラが残されていたということです……』
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、「解離性同一性障害の男と、彼に怯えながら寄り添う監禁被害者の女性」という構図からスタートし、ラストの警察の介入によってすべての視点が反転する叙述トリック(ミステリー×ホラー)を狙って執筆しました。
「優しいもう一人の自分」と信じていたものが、実は「現実から目を背けるために作り上げた、残酷な加害者の自分自身」であったという残酷さ。そして、ラストのニュースで語られる「枯れ果てたガーベラ」というモチーフに、二人の間に流れていた冷酷な時間の重みを感じていただければ幸いです。
また次回の作品でお会いしましょう。




