新しい生活.4
土手を歩き階段を下り、暫く進むと長屋が道の脇に増えてきた。
その行き止まりにあるコの字型の長屋の敷地に足を踏み入れれば、なつみが目ざとく見つけ駆け寄ってきた。
「帆澄様、また来たの?」
「酷い言い草だな。あざみは?」
「今日は仕事に行ったよ」
なつみは黄色の格子柄の着物の裾をたくし上げていた。手と足が濡れている。洗濯をしていたのだろう。
道中、なつみは人間と妖の半妖だと帆澄が教えてくれた。父親は亡くなり、今はあざみ一人で育てているらしい。だから妖気に違和感を感じたのだな、とお思いつつ初音が身をかがめ声をかける。
「こんにちは」
「お嫁さんだ! もう元気になったの?」
なつみの問いに困惑していると、帆澄が助け船を出してくれる。
「この前は体調が悪くなったので帰ったが、今日は元気だ」
そういう理由にしたのかと察し、初音は改めてなつみに向き合った。
「心配させてごめんなさい。もう大丈夫よ」
「そう、良かった」
にっこり笑うと、今度は目ざとく帆澄の持っている岡持ちを指差す。「それは?」と聞くので帆澄が蓋をとって中を見せる。
「うわぁ、蓬生餅だ!」
「皆で分けてくれ」
子供らしい歓声に、帆澄があたたかく笑う。と、初音が「あっ」と声を上げ口を押さえた。
「帆澄様、餡子を忘れてきました。取りに戻りましょうか?」
「いや、必要ない。他の者が作った餡子をここに持ってきたら勘助が怒るからな」
「勘助、という妖もこの長屋の住人ですか?」
「ああ、小豆とぎだ。この前会ったひょろっとした男だが、覚えているか?」
そういえば、初老の女性と一緒になつみの家を訪れた男がいたな、と思い出す。
手足が細く、肩まであるくせ毛を首の後ろで一つに纏めていた。目立った皺はないがどこか老成した雰囲気をしてた気がすると記憶を呼び戻していたら、一番手前にある家の引き戸ががらりと開いた。
「餡子と聞こえたが、帆澄の旦那かぁ」
「勘助、相変わらず餡子の言葉にだけは耳がいいな。蓬生餅を持ってきた。皆に配ってくれ」
「おぉ、それは有難い。この前の蓬生餅は左近がほとんど食っちまったからなぁ。あいつ、酒だけじゃなく甘いモンにも目がない。でも、餡子はまだまだあるから、この蓬生餅と一緒に配りやしょう。そうだ、帆澄の旦那も持って帰ってくださいなぁ。儂の餡子は日本一ですから」
そう言って、勘助は一度家に戻っていった。
帆澄がほらな、としたり顔で初音を見る。たしかに持って来なくて正解だ。
勘助は小判型のわっぱを手に戻ってくると、それを初音に差し出す。
「この前は食べてもらえませんでしたからねぇ。これを食べたら他の餡子は食えなくなる」
「ありがとうございます」
「あざみも、つわりで他のものは食えなくても、これは美味いって食べていたからなぁ。今度沢山作って持っていきやしょう」
うんうん、と勘助が頷く。
話が見えず、初音がうん? と首を傾げる。そこに慌てた様子の帆澄が間に入った。
「おい。何か勘違いしていないか?」
「帆澄様も、やっと嫁さんが来たからといって、祝儀もまだなんでしょうに。ま、めでたいのには変わりありません」
「待て、話が飛躍しすぎだ」
眉間に皺をいれた帆澄に、勘助がきょとんと目を瞬かせる。
「嫁さん、この前はつわりで具合が悪かったんでしょう? 皆がそう言っとった」
そうなんでしょう、と勘助に同意を求めれられた初音は、真っ赤になって首を激しく横に振った。
「ち、違います」
「そうだ。あれは本当に体調が悪くてだな」
「はいはい。人間には体裁ってものがあって面倒ですなぁ。じゃ、そういうことにしましょう。あっしは蓬生餅と餡子を配ってきますんで」
勘助は帆澄の言葉を聞き流すと、岡持ちを受け取り自分の家の隣へと向かった。がらりと引き戸が開けられ、中から陽気な声が聞こえてくる。
「……すまない。今度あざみからきちんと説明してもらう」
「はい。お願いします」
嫌な汗を搔いたと初音は額を拭おうとして、自分が手ぬぐいを頭に巻いたままなのに気がついた。しまったと焦りながら結び目を解き、丁寧に畳んで袂に入れる。
歩いたのは人気のない土手だし、長屋では手ぬぐいを頭に巻いた女性は珍しくない。
大丈夫、なはずと記憶を遡ってると、帆澄がじっと自分を見ているのに気がついた。
「あの、何か……?」
「いや、その。俺が贈った簪をつけていると思って」
帆澄が初音の髪を指差した。初音の頬が淡く朱に染まる。
「そ、その。ご存知でしょうが、あのリボンは春人さんが餞別にくださったものです。失礼をしました。気分を害されていたのではありませんか?」
恐る恐る聞かれ、帆澄は少し目線を上にしながら頬を搔いた。
「いや、春人は初音さんの許婚だったし、割り切れない気持ちもあるだろう」
「そんなことは!」
「無理はしなくてもいい。それを分かったうえで聞くが、どうしてその簪を挿してくれたんだ?」
どうして、と聞かれた初音は顔を真っ赤にして俯く。
自分にまっすぐ向き合ってくれる帆澄が嬉しくて、自身もそのようにしようと思った。そう言えばいいのに、なぜか羞恥が口を重くする。
「そ、その。帆澄様が宮應のことや、妖について話してくださったから。それなら私も誠意で答えるべきだろうと……。それがどうしてこの簪なのかと聞かれたら、答えに困りますが。あの、これからもこの簪をつけていいですか?」
おずおずと上目遣いで聞かれ、帆澄はうっ、と言葉を詰まらせた。耳朶がじわじわと赤くなっていく。
だけれど、初音はその変に気づかず帆澄の目をじっと見る。
帆澄は照れ隠しのような咳ばらいをすると、ぎこちなく頷いた。
「もちろんだ。似合っている」
「良かったです」
ぱっと花が咲いたような笑顔に、帆澄が目を瞬かせる。ついで、ふわりと微笑んだ。
それを引き戸の向こうから何匹もの妖が盗み見ていた。
どこかで鶯が鳴く、うららかな春の昼下がりだった。




