使命と代償.2
サッと湯に浸かり、使用人に傷の手当てをしてもらったあと、それこそ倒れ込むように初音は布団に潜った。泥のように疲れた身体が、睡魔に引きずられ沈んでいく。
こんな夜は、いつも同じ夢を見る。
夢と分かりつつ、これが夢じゃなければ良いのにと思う。
目の前にいるのは、十歳の誕生日に病で亡くなった母親。病魔に冒される前の健康的な肌をし、長い髪を結い上げている。
初音が着ているのは七歳の祝いにと仕立ててもらった朱色の着物で、小葵の地紋に四季の花や薬玉、大きな菊が華やかだ。鮮緑の帯には金糸の蝶が舞っている。
その横には、初音より数段落ちる薄紅色の毬柄の着物に、萌黄色の帯をした美琴が立っていた。
祖父母が選んだ祝いの着物には露骨なまでに差がある。
母親は二人の娘を見比べ、泣きそうに眉を下げた。
「初音、あなたはお姉ちゃんなんだから、美琴を守ってあげてね」
「うん。分かった」
「初音は皆から大事にされるだろうけれど、決して美琴をないがしろにしないで」
ないがしろ、の意味は分からないが、大好きな母親からの頼みに初音はうん、と大きく頷いた。それに納得したように母親は頷き返すと、今度は美琴を抱きしめる。
「美琴、お母さんはあながた一番大事だから。絶対に守るからね」
母親にしてみれば、祖父母から冷遇される美琴が憐れだったのだろう。
だけれど、その言葉は幼い初音を傷つけるには充分だった。
「……私は? 私のことは好きじゃないの? ほら、お母さま、見て。この着物、すごく素敵でしょう? お花もたくさんで、帯には蝶々だって……」
母親の関心を少しでも自分に向けたい。その一心で言った言葉に母親の眦が鋭く上がった。それと同時に左頬に痛みが走る。
「初音! いい加減にしなさい‼ さっき、美琴を大事にするって約束したでしょう? どうしてそんな酷いことを言うの? 豪華な着物を自慢するなんて、心が卑しいわ」
あまりの母親の剣幕に、初音はぽかんと口を開けた。ただ、頬がじんじんと痛い。
母親は美琴と目線を合わすようしゃがむと、茶色い髪を優しく撫でた。
「美琴の着物も帯もすごく、すごく素敵よ。清楚で可憐で、お母さまは美琴の方が可愛いと思うわ」
それは、祖父母から粗末な扱いを受けた美琴を気遣っての言葉だが、幼い初音に母親の真意が分かるはずもない。ただただ、悲しかった。
祖父母は初音を大事にしたが、それはあくまでも八重樫の跡取りとしてであって、日々の訓練は厳しく、優しい言葉を掛けられることはない。着る服だって男の子のような袴ばかりだ。
だから、久しぶりの華やかな着物姿を、母に可愛いと言って欲しかった。それだけなのに。
妹の頭を撫でる母親の細い指が心底羨ましい。
着物の袖を通したときの嬉しい気持ちが、しゅるしゅると萎んでいった。
亡くなるその瞬間まで、母親の心を占めていたのは美琴だった。
力なく美琴の名を呼ぶ母親の声を聞きながら、次こそは自分の名を言ってくれると待っていた。
だけれど、母親が最後にその目に映したのも、呼んだのも美琴だった。
母親がこの世を去って二年後、祖父母も相次いで亡くなった。
残った父親は母親の意志を継ぐかのように、また初音に当てつけるように美琴を愛する。
八重樫の次期当主である初音は、決して酷い扱いを受けているわけではない。三食きちんと食事は出るし、湯も用意される。破魔の力にも恵まれている。
だけれど「次期当主」として「妖を封じる」以外に自分に価値はあるのだろうか。
その疑問が、初音の心から消えることはなかった。
「あぁ、朝か」
広い屋敷の二階にある自分の部屋で初音は目を覚ました。
連日に渡る妖との戦いと破魔の力の使いすぎで熱を出し、丸三日寝込んでいたが、どうやらやっと回復したらしい。
起き上がろうとすると、身体が軋んだ。傷口は塞がったが、右腕はまだ痛む。
初音は畳に敷いた布団の上に寝たまま、ぼんやりと天井を眺めた。
顔を横に向ければ、枕元に古びたお守りがある。
どのようにしてこれを手にしたか、覚えていない。
でも、初めて妖を封じ家に帰ったとき握っていたから、祖父母がくれたものだろう。
神社の名前も書かれていない紺色の生地は、あちこち擦れて角も歪んでいる。
初音はそれを手にし、指の腹でそっと撫でる。なぜか分からないが、そうすると心が休まるのだ。
このお守りが、いつも自分を見守ってくれているように感じた。
お守りをぎゅっと握ると、初音は痛む身体に眉を顰めながら布団から起き上がる。
そうして衣桁に掛けておいた着物に袖を通した。子供の頃は祖父母が選んだくすんだ色ばかり着ていたが、自分で選ぶようになってからは自然と明るい色を好んで着ている。
今日は薄桃地に桜が舞う袷に紫の袴だ。袴帯をぎゅっと結ぶと、帯の間にお守り挟んだ。
初音が寝込んだことで、帝からの勅令は代わりに分家が引き受けてくれているらしい。
お見舞いがてらそれを伝えにきた春人は、元気になったら公会堂で開かれる劇を見に行こうと誘ってくれた。彼もまた勅令で忙しい身だが、一日ぐらい融通が効くと言う。
数年前から年に一度、帝都で一番大きな公会堂で西洋の劇が行われる。
西洋文化が入るようになったとはいえ、煌びやかな洋装を目にする機会は乏しく、流行もの好きの貴婦人を中心に話題となっていた。
昨年と一昨年も春人は誘ってくれたが、初音に勅令が届き行けなかったのだ。
(そういえば、春人さんは一人で行ったのかしら? たしか指定席を用意したと言っていたけれど)
そのあと、春人から観劇の感想を聞いていないので、行かなかったのかもしれない。
玄関扉の開く音がしたので急いで階段を下りると、階下で春人が待っていた。
「春人さん、お待たせして申し訳ありません」
「いいえ、見舞いがてら早く来たのでまだ約束の時間ではありません。今日は体調はどうですか?」
「はい。おかげさまですっかり良くなりました」
明らかに強がりだったが、春人は気づくことなく「それは良かった」と笑う。
朝食がまだだと伝えれば、付き合うとまで言ってくれた。
いそいそと居間に向かい、座卓を挟んで向かい合うように座ると、使用人が初音に粥と味噌汁、おひたしを、春人にはお茶を持ってきてくれる。
春人に見られていると思うと緊張するので、手近にある新聞を進めると春人はそれを読み始めた。
初音はほっと肩の力を抜き、お茶碗を手にする。
春人は口数の多い男ではない。でもいつも穏やかに微笑んでいる。そんな風に笑ってくれるのは春人だけで、だから初音は春人が許婚で良かったと思う。
食事を半分ほど食べたところで、初音が話しかける。
「やっと、演劇を観にいけます」
「去年も、一昨年も行けませんでしたからね。帝から届く勅令の数も落ち着いてきたので、僕も今日は休みをもらえました」
分家の中で破魔の力を持つ者は十人足らず。その中で一番強いのが春人だった。
美琴は破魔の力自体は初音と同等なほどあるが、身体が弱いためにそれを使いこなせず戦力外となっている。
時計に目を遣れば、起きた時間が遅かったのかもうすぐ十時になろうとしている。そろそろ出ないと間に合わない。
初音が橋を急がせていると、廊下を歩く足音が近づいてきて障子に影が差した。「お姉さん」と声がして遠慮がちに襖が開けられる。
「元気になったと聞いて会いにきたの」
「ありがとう。もうすっかり回復したわ」
最後の粥を飲み込み、初音が答えた。美琴は春人にも声をかける。
「おはよう、春人さん、お姉さん」
「おはよう。美琴。今日は顔色が随分といいね。牡丹柄の着物も良く似合っている」
「ありがとう。お父さまが買ってくださったの」
薄卵色の地に淡い桃色と朱色の牡丹が鮮やかに咲いていた。美琴はその柄が良く見えるように両手を少し上げるとくるりと回る。その姿は初音から見ても可愛らしかった。
初音は自分の着物を見る。いつ勅令が来ても大丈夫なようにと袴姿だが、春らしい色と柄を選んだ。でも、美琴と並ぶとどうしても見劣りしてしまう。
そこに追い打ちをかけるように美琴が言葉を続けた。
「お姉さん、この帯、春人さんが選んでくださったのですよ。素敵でしょう?」
「えっ、春人さんが?」
「この前、帝都に出掛けたときに買った帯だね。当主が仕立てた立派な着物に合すような代物ではないと思うんだけど」
「そんなことないわ。萌黄色が春らしくて素敵だもの」
ふふ、と美琴と春人が笑いあうのを、初音は唖然としながら見ていた。
親し気な二人の姿に、胸に黒いものが広がる。
だけれど慌てて頭を振り、それを追い払う。
春人はよく本家に来ている。たまたま一緒に出かけようという流れになったのだろう。
それに春人だって帝の勅令を受け妖を封じているのだ。気晴らしに帝都に行くこともあるに違いない。
初音はふぅ、と小さく息を吐くと、意識して口角をあげた。
「春人さん、そろそろ時間です。お父さまが人力車を使っていいと言ってくれました」
少し声が弾みすぎたかと後悔したが、言ってしまったものは仕方ない。
じゃ、と春人が立ち上がると、その袖を初音が引っ張った。
「二人で、どこに行くの?」
「観劇だよ。公会堂でする西洋劇を見に行くんだ」
「うわぁ。今話題になっている悲恋の二人の物語よね。私も観たいと思っていたの」
はずむ美琴の声が廊下に響いた。それを聞きつけたのか父親までもが居間へ来た。
「それなら美琴も連れていってもらったらどうだい」
「いいの? 嬉しい。春人さん、お姉さんいいわよね」
美琴が胸の前で手を組み、頬を薔薇色の染める。
初音はぎゅっと紫色の袴を握りしめた。今日は春人と二人で出かけられると楽しみにしていた。去年も一昨年も駄目だったから、今年こそはと思っていたのに。
断って欲しい、そんな願いを込め春人の着物を引っ張ろうとしたのだが、
「構わないよ。観覧券は買ってあるけれど、三人席に変更できないか聞いてみよう。少し場所が悪くなるかもしれないが、おそらく大丈夫だ」
それより先に春人が返事をしてしまう。思わず初音が声を大きくした。
「で、でも。帝都の中心までは人力車で一時間程かかります。美琴が体調を崩すんじゃ……」
「大丈夫! 今日はとても気分がいいもの。こういう日は少ないから、是非、お出掛けしたいわ」
朗らかな美琴の声が初音の言葉を遮る。どう言えばいいのかと思案していると、父親が口を挟んできた。
「初音。美琴がこう言っているんだから一緒に行きなさい。美琴はお前と違って病弱で出かけられる機会も少ないのだから」
冷たい視線に、初音は背中がぞわりとする。これ以上反論するようなら、妹をないがしろにする気かと怒鳴られるのは経験で知っている。だから、「分かりました」と頷けば、初音以外の皆が満足そうに笑った。
まるで自分一人が悪者になったようで、初音は下を向く。
新しい白い足袋が、やけに白々しく感じた。
「じゃ、行きましょう」
春人の言葉に顔をあげると、目に飛び込んできたのは愉しそうに微笑み合う美琴と春人の姿。
先に廊下に出た二人を、窓から入ってきた光が淡く照らす。美琴の淡い栗色の髪がキラキラと輝き、それが眩しいかのように春人が目を細めた。
(あんな風に私を見てくれる人がいたら)
どんなに心強いだろうかと思う。
何もかも受け止め、守り、分かち合える。一連の枝に咲く花のように一生を共にできる人に出会えたら……。
さっきまでの弾んだ心が萎んでいく。
初音はそんな二人から目を逸らすように玄関へと向かった。
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