新しい生活.2
*
初音が襖をしめると同時に、帆澄は深く息を吐いた。
「盗み聞きとは悪趣味だな」
視線を向けた先の窓ががらりと開き、棟馬が顔を出す。
「俺がいると分かったうえで、口説くとはなかなかやるなぁ」
「何の話だ? 俺は口説いてなどいないぞ」
帆澄の口調はいたって真面目だ。嘘でも誇張でもなく本当にそう思っていると察した棟馬は、身をのけ反らせる。
「それが本音なら、相当な罪作りだぞ」
そう言うと、窓枠を越え部屋に入ってきた。一応、草履は脱いだらしく、素足で畳を歩くと帆澄の前で胡坐をかく。
「お前、初音ちゃんのことをどう思っているんだ」
「おい、どうして急に呼び名が親し気になっているんだ?」
「帆澄が寝ている間にいろいろとな。で、どうなんだ?」
いろいろとはなんだ、と帆澄はぼやきつつ答えた。
「妹のような存在だ。ただ、実際に会って、随分大人になったと思った」
「それだけ?」
「そうだ」
「それだけの感情で見守ってきたのか? 身を挺して守ったのか?」
当たり前だとばかりに帆澄が真顔で頷いたので、棟馬は深いため息を吐きながら額を押さえた。
「だったら、どうして初音ちゃんに髪飾りを贈ったんだ? あのリボンを外して欲しいからじゃないのか?」
まるで幼い子に道理を教えるかのような口調だ。
穂澄は魍魎を通じ、初音が毎日身に着けているリボンが、春人からの贈り物だと知っている。指摘され、帆澄が顎に指を当て唸った。
「それは……自分でも理由が分からないが、あのリボンを見ると苛立つんだから仕方ないだろう」
だからその気持ちが、と棟馬は畳みかけようとするも、開けた口を閉じる。妖を滅してばかりで色恋と縁のない男だったと、諦めの境地に至ったようだ。
項垂れる棟馬に、帆澄は本題を切り出す。
「で、妖狐の動きはどうなんだ?」
「相変わらず地方で阿紫霊や地狐が頻出している。何を企んでいるのか不明だが、分家がこぞって地方に向かわされているこの状況は良くない」
帝都に残る破魔の力を持つ人間は、今や初音、帆澄の他に数人程度だ。
「初音ちゃんの足の傷はほぼ治ったが、問題はお前だな」
「なに、明日には身体が動くようになるだろう」
「動くが、全快ではないぞ」
棟馬が念を押す。帆澄は問題ないとばかりに左手を振り、布団に横になった。
「寝ていれば治る」
「それで治れば、俺はいらない」
「お前のいいところは、薬草に長けているだけではない。信用しているぞ」
「あぁ、そうかい。帆澄は妙なところで人っ垂らしだな」
そう言いながら、棟馬は後ろに手を付き天井を見上げた。
帆澄の無自覚な口説き文句に真っ赤になっている初音の顔を思いだし、思わず口が緩む。気長に楽しむことにしよう、そうぼやいた棟馬の言葉は、布団に遮られて帆澄の耳には届かなかった。
*
初音は二階の自分の部屋の襖を閉じると、ぺたんとその場に座り込んだ。
まだ赤い頬に手を当て、ふぅ、と息を吐く。
(帆澄様は、私に理解してもらおうと思って、長屋へ連れていってくれたんだ)
みせかけだけの夫婦になるのだとばかり思っていたが、帆澄はきちんと向き合おうとしてくれている。ならばそれに誠意をもって答えるべきだろう。
そう決意し顔を上げると、窓に映る自分の姿が目に入った。その髪には春人に貰ったリボンが結わえられえている。さぁ、と顔から血の気が下がった。
(お守りの中の魍魎を通して見ていたなら、帆澄様は、これがリボンの送り主を知っているのでは……)
自分はなんて不義理なことをしてしまったのかと、胸が塞がる。
春人のことを好いていたのかと問われると、即答できない。ただ、結婚したら自分を一人の女性として見てくれるだろうと期待していた。
恋慕と断言できないまでも情はある。だから餞別にくれたリボンは初音にとって特別なもので、それこそお守りのように毎日身に着けていた。
でも、帆澄の真摯な気持ちを知った今、これを結んでいるわけにはいかない。
初音は急いで髪のリボンを解き、丁寧に畳み引き出しにしまった。そうして代わりに帆澄から貰った簪を手にすると、部屋の片隅にあった鏡の前に座り、髪に挿してみる。
濃紺の簪は初音の髪に溶けこみ、桜の花が髪に散ったようだ。
「綺麗……」
少し大人びた意匠だ。これなら年上の帆澄の横を歩いても、見劣りしないかもしれない。そんなことを考えていると、襖の前に妖の気配がした。
「青女房、入って」
声をかけると襖が開き、青女房が顔を出した。すすっ、と畳の上を滑るように移動すると、初音の前できて小さな陶器の器を手渡す。中には棟馬が薬草で作った軟膏が入っていた。
「薬を塗る時間ね。ありがとう」
初音の言葉にびっくりしたように、青女房が顔を上げる。
いつも俯いていたので、見えるのは髪の間から覗く青白い肌と、落ち窪んだ目だけだった。初めて青女房の顔を真正面から見た初音は、ぽかんと口を開け固まってしまった。
「……あなた、そのような顔をしていたの」
うりざね顔に、細く涼し気な目元。儚げなのに香るような色香が漂う美人だった。
恥ずかしそうに青女房が両手で顔を隠し、俯く。
「突然ごめんなさい。でも、あの、よければ、もう一度顔を上げてくれない?」
初音から命じられたことはあるが、頼まれたのは初めてだ。青女房は戸惑いがちに両手を下ろし、おずおずと視線を上げた。
やはり美人だ。陰鬱に見えていたのは、顔を隠すように落ちた髪の影のせいだったのだろう。初音は長屋で出会った妖に名前があったのを思い出し、青女房に問いかけた。
「あなた、名前はあるの?」
「……はい。涼と、言います」
初めて聞く青女房の声だ。質問しておいてなんだが、声を出せると思っていなかった。少し低めの落ち着いた声音は、しっとりとして耳に心地よい。
「そう。では、これからは涼と呼ぶわ」
涼の細い目が丸くなり、信じられないとばかりに目を瞬かせた。
「あたしのようなものの名を、呼んでもらえるのですか?」
「涼さえよければ。それに、会話もできたのね」
印を結んだ妖は話さない、というのが八重樫の常識だった。
でも考えてみれば、棟馬はうるさいほど話かけてくる。昨日なんて「初音ちゃん」と呼ばれた。慣れ慣れし過ぎて指摘すらできないでいると、さらに何度も呼んでくるので閉口したものだ。
棟馬は常識外すぎて省くとしても、印を結んだ妖は本来なら話せるようだ。
「名前を呼んでいただき個として扱われれば、言葉も意思も持ちます」
「そう。だとしたら、今まで酷いことをしてきたわね」
頬に手を当て、しみじみと初音が息を吐く。ずっと命令口調で接してきたが、さぞ嫌な思いをさせていただろう。でも、涼は首を横に振った。
「初音さまはお優しいです」
「私が? 優しい? 厳しいの間違いではなくて?」
「ええ、だって、熱いお茶をかけたり、苛立ちを吐き出すように折檻したりしません」
ちょっと待って、と初音が口を開け閉めする。
誰だ、そんな酷い所業をしたのは、と問いかけようとしてやめた。
(きっと、八重樫の人間すべてがそうだ)
初音がもの心ついたときから、涼は掃除や洗濯をしていた。青女房と一括りにされ、命じられたことを繰り返す日々。
その姿に、当主としてのみ存在し、孤独に妖を封じ続けた自身が重なった。
「……これからは、こうして話をして欲しい。それから、棟馬のように出かけてもいいわ。でも夕暮れまでには戻ってきてね」
そう言いながら、初音は涼の手の上に自分の手を翳した。ほわりと橙色の光が初音の手から鈴の身体へ吸い込まれていく。新しい印が結ばれたのだ。
涼が呆然と手を表裏し眺める。心なしか顔の血色も良くなっていた。
今までの自分を全部否定する苦しさは、依然として胸の奥で蠢く。でも、目の前で嬉しそうに微笑む涼に、こんな関係も悪くないと思えた。
(これで、私が今までしてきたことが許されるわけではないだろうけれど)
封じなくてもいい妖を、どれだけ封じてきただろう。
その事実は、これから先もずっと背負っていかなくてはいけない。
でも、今笑った涼の顔は一生忘れないでおこうと思った。




