執着を恐れる女(転生者・戸塚優菜の場合)
赤信号で道路に飛び出して死んだはずの会社員・戸塚優菜は、気づいたらきれいな服を着て、スラム街の狭い路地を箒で掃いていた。
暗い路地のどんよりした水たまりにうつる自分は、ピンクの髪に緑の目をした、現実離れした美しい少女だ。
(これって異世界転生…?でも、これはどういう状況…?)
侍女らしき女性が「アデレード様は奉仕活動に熱心で素晴らしいですわ。お父様のエセルバッハ公爵も、いつもアデレード様を誇りに思っておられますわ」と声をかけてくれたので、自分が公爵令嬢アデレード・エセルバッハで、今は奉仕活動中なのだと理解する。
(異世界転生モノは好きだけど、アデレード・エセルバッハなんて名前は知らない。ってことは、ここは私が知ってる世界でもなさそうだし、これから何をどうしたらいいんだろう)
とりあえず臭いをこらえて考え事をしながら箒を動かしていると、突然背中に衝撃を受けた。
アデレードは吹っ飛ばされて道端に捨てられていたゴミの中に突っ込み、侍女たちが慌てて彼女を抱き起こす。
護衛が「何をする!」と怒鳴りつけた相手は、アデレードと同じくらいの年齢の、やせ細った少年だった。
長く伸びた黒髪から覗く赤い目だけが、ルビーのように光っている。
「金持ちの貴族が掃除なんてしてんじゃねぇ!見え透いた偽善なんて迷惑なだけなんだよ!」
異世界系マンガを読み漁ってきた戸塚…アデレードにはピンときた。
(黒髪赤い目…ラスボスの証…!これ…今ここでこの少年を助けたら、惚れられて執着されるのでは?そんで最終的にはこの少年が冷酷無比なラスボスで、冷酷無比なラスボスが私にだけ優しくてどうしよう、みたいな流れのやつでは…?)
アデレードは騎士に「待って!やめて!」と声をかけようとして、ためらった。
前世の元彼は戸塚に執着し、彼女を支配し、殴り、別れ話をしたら泣き叫んだ。
友達や家族の協力で何とか別れた後も、たびたび会社や家にやってきて、怖くなって逃げる途中で道路に飛び出してしまい、戸塚は死んだのだった。
(執着系ってマンガでは純愛とか狂愛みたいな感じでいいように描かれるし、執着される側も最終的には相手を受け入れてるけど…でも私はもう嫌!お互いにしんどくなるだけだもん)
アデレードがそう考えているうちに、騎士は少年を殴り、少年は腹を押さえて道端にうずくまった。
「お嬢様、もう戻りましょう」
「ええ...」
(あの子にはかわいそうだけど…執着は嫌だから…ごめんね)
ーーー
アデレードは午後の「孤児院慰問」の予定をキャンセルして屋敷に戻ってからも、殴られた少年のことを気にしていた。
(執着は嫌だよ…嫌だけど…あんな小さい子があんな場所で汚れた格好で…可哀そうすぎる。何かしてあげられないかな)
「そうだ!誰かに代理を頼めばいいんじゃない?」
アデレードはバスケットに、日持ちする食べ物と薬や包帯、それに手近にあった宝石をつめて、清掃活動に同行していた侍女のネルケを呼んだ。
「これをさっきの路地に持って行って、あの子に渡してくれない?」
「お嬢様、あの者はお嬢様を突き飛ばしたのですよ。なぜ情けをかけられるのですか?」
「あんな場所で過ごしていたら心が荒むのは当然だよ。そのうえ私のせいでひどく殴られちゃったし…お詫びの気持ちと、少しでも助けになりたいの。あの子からしたら、これも偽善かもしれないけど…」
「私からの贈り物だとは決して言わないように」と念押しして、アデレードはネルケを送り出した。
ネルケは最後まで「理解できません」と言いながら、しぶしぶ路地に向かう。
(これで執着されずにあの子を助けられたかな)
ーーー
ネルケが「渡してきましたが、あの者ったら本当に礼儀知らずで。私からバスケットを奪い取ったのですけれど、指が触れてしまうのも嫌でしたわ」とぷんぷん怒りながらスラム街から戻ってきた日から、3カ月後。
王都にはしとしとと雨が降り続いていて、アデレードは前世で好きだった「紫陽花寺」を思い出しながら、傘を差して公爵邸の庭園を散歩していた。
(そういえば、あの子用のバスケットに、お気に入りだった紫陽花のイヤリング入れちゃったんだよな…ネックレスは残ってるけど…ちょっと惜しいことしたかも)
と、門のあたりが騒がしい。
「どうしたの?」と門に近づくと、あの赤い目の少年がそこにいた。
「弟が熱を出したんだ。今までにないくらい辛そうで…死んじまうんじゃないかって。ネルケさんに助けてほしいって伝えてくれないか。前にくれた薬をまたもらえたら治ると思うから…」
(可哀そう。だけどここで助けたら、また執着チャンスじゃない)
アデレードは一歩引いて、くるりと背を向けた。
ちらりと振り返ると、護衛が彼を門から引き離し、彼が自分を睨んでいるのが見える。
かすかに「冷酷貴族!」と叫んでいるのが聞こえた。
(前と同じように、あとでネルケに頼んでお医者さんを連れて行ってもらえばいい。そうすれば彼に執着されることはないはず)
屋敷の中に戻ると、アデレードはネルケに指示を出した。
「お医師様と一緒にスラム街に行ってもらえない?あの子の弟が病気みたいなの」
「またですか?」
ネルケは医薬品や食品や清潔なシーツを持たされ、医師と一緒に、雨のスラム街へ向かった。
しかし雨のスラム街は臭いがひどく、汚物を踏んでしまったネルケは顔をゆがめて毒づいた。
「もう嫌!お医者様、これを渡すのでおひとりで行ってきていただけます?」
「俺だって行きたくないよ…」
「あなたは手当をもらっているでしょう?私は通常業務の範囲でやらされているのよ、たまったもんじゃないわ!じゃ、彼の家はあそこですから!」
赤い目の少年は、医師の登場と、医師が「ネルケから預かった」という物資に、目をぱちくりする。
(ネルケさんって、なんて優しい人なんだろう)
前にパンや宝石を届けてくれたとき、用事だけすませてさっさと帰って行ったネルケの様子を思い出す。
変に恩着せがましいところがないのが、彼にとっては逆に好ましかった。
彼の身体がかあっと熱くなってきて、ポケットの中でネルケにもらった紫陽花のイヤリングを握りしめた。
(彼女にふさわしい人になりたい)
ーーー
赤い目の少年が、それ以降公爵邸に現れることはなかった。
美しく成長して20歳になったアデレードは、社交界の華として称えられ、又従兄にあたるクラウスと婚約し、穏やかな日々を送っている。
クラウスは何ひとつ不自由なく育ってきた高位貴族の青年らしく、朗らかで、穏やかだ。
話し合いたいときにはきちんと耳を傾けてくれ、意見はストレートに伝えてくれる。
やきもちは焼くが粘着質ではなく、ある程度心配はしながらも、友人や侍女との外出は推奨してくれる。
だからアデレードもクラウスを信頼でき、彼が長期で王都を離れるときも安心して送り出せた。
試し行動も、粘着もない、健やかな関係。
(こういう関係が理想だったの…ほんっとに。波風なんてなくていい)
「アデレード、聞いてる?」
クラウスに話しかけられて、アデレードは我に返った。
「ごめんなさい、少しぼーっとしていて」
「大事なウェディングドレスの話だよ、集中して?世界で一番美しい花嫁になってもらいたいんだから」
長く続いた戦争が「鬼神のごとき赤い目の将軍」のおかげでようやく終わり、戦時中だからと慶事を控えていたアデレードとクラウスも、ようやく結婚に向けて動き出した。
「なにを着てもアデレードは似合うからな」「派手過ぎるのは嫌みだし、シンプル過ぎるのも物足りないし」などと言いながら、クラウスのほうがアデレードよりも真剣にデザイン画に目を通している。
「ブーケはどうする?」
「紫陽花がいいな」
「いいね」
(幸せだなぁ)
クラウスを見ながらふっと微笑んだその先に、アデレードはネルケの姿を見た。
ネルケは悲しそうにクラウスを見つめていて、アデレードは本能的に悟る。
「ネルケはクラウスが好きなんだ」と。
それでもどうにかなる問題ではない。
クラウスとアデレードの結婚はもう間近だし、ネルケは公爵家の遠縁だが傍流も傍流なので、クラウスの妻にはなりえない。
ネルケはアデレードの視線に気づき、ぐっと唇を噛んだ。
(自分がクラウス様の妻になれるなんて考えたこともない。でもお嬢様とクラウス様が結婚されて、夜を過ごすためのお世話を私がすることになったら…耐えられない…)
ーーー
ネルケのもとを戦争の英雄であるボルシア伯爵ラルフが訪ねてきたのは、アデレードとクラウスの結婚が1週間後に迫った日だった。
「冷酷無比に敵を蹂躙する、赤い目の悪魔」と呼ばれるボルシア伯爵。
「いかに苛烈な攻め方をするか」「自分を裏切った将校・兵士への厳しい処罰」「一兵卒から伯爵にまで成り上がった出世譚」については新聞にもさんざん書き立てられていて、ネルケももちろん知っている。
しかしネルケはラルフに「会いたかったです」と言われても、ピンとこない。
「伯爵様と私は、お会いしたことが…?」
「スラム街であなたに助けてもらいました」と言われて初めて、すえたような臭いとともに、赤い目の少年の記憶がよみがえった。
「ああ、あの…」
確かにアデレードの指示通り、物資を運び、医者を連れて行ったのは自分だ。
ネルケ自身に彼を助けたいと言う意思は微塵もなく、スラム街の汚い少年を心底馬鹿にし、関わりたくもなかったのだけれど。
そんなネルケに彼は「あなたの隣に立つために貴族の身分を得ようと、最も過酷な部隊に入って、戦場を駆けずり回った」と驚くべきストーリーを語った。
自分のために命の危険を冒し、スラム街から伯爵まで上り詰めてきた男。
身分制社会にどっぷりつかっているネルケには、伯爵だからといってスラム街出身の男の妻になる気はまったくない。
しかし戦争の英雄が自分のことを「救済の女神」かのように崇めているなら、「勘違いであり、本当の恩人はアデレードだ」と教えるのはあまりにもったいない。
ネルケはニヤリと笑った。
(私が彼を救ったのなら、恩返ししてもらわないとね?)
ーーー
アデレードは結婚を控え、エセルバッハ公爵の先祖の墓所を訪れて、先祖たちに結婚を報告していた。
墓所は王都郊外の静かな森にある。
アデレードは公爵邸から摘んできた紫陽花を、墓標のひとつひとつに手向ける。
(私がこの世界に来て、クラウスと結婚すること…誰に感謝すればいいんだろう。でもアデレードのご先祖様には、やっぱり感謝だよね)
最後の墓に紫陽花を手向けて立ち上がったとき、シュッという風切り音とともに矢が飛んできた。
アデレードについていた護衛たちが、バタバタと倒れていく。
(なに…なにが起こってるの!?)
「ミケル!パトリック!」
倒れている護衛の名前を呼んでも、返事は返ってこない。
慌てて彼らに駆けよると、もう脈はなかった。
「嘘…こんな…」
ガサリと音がして、アデレードはハッと顔を上げる。
目の前には、黒髪に赤い目をした背の高い男。
すっかり風貌は変わっているが、間違いない。
「あなた…あのスラム街の…?」
「はっ」と男は鼻で笑った。
「覚えていたか」
「もちろん。私のせいで殴られたから申し訳なくて…」
アデレードは思い当たった。
「まさか、これはあのときの復讐…?」
男はまた笑う。
「違う、これはネルケのためだ」
「ネルケ…?」
(どうして思いつかなかったんだろう。ネルケに代役をお願いしたら、この人はネルケに執着しちゃうじゃん)
「ネルケが『クラウスと結婚したいからアデレードを殺して』とでも頼んだの?」
「違う!お前はネルケを虐待していただろう!あんなに優しい人をどうやったら憎めるんだ!?」
(はい?)
「虐待なんてしてない…」と反論しようとしたとき、すでにラルフの剣はアデレードの腹に突き刺さっていた。
「彼女は泣きながら、お前がどれだけ腹黒いか、どれだけネルケを苦しめてきたか話してくれた。食事を抜いたり鞭で叩いたりするのは日常茶飯事で…そんな辛い状況なのにネルケは俺を気遣ってくれた!」
アデレードは地面に倒れ込む。
(ああ、私はきっともうだめだ…だけど彼をネルケへの執着から解き放ってあげたい…)
アデレードは血を吐きながら、「見て」とハイネックドレスの胸元から紫陽花のネックレスを引っ張り出す。
ラルフはポケットから、どうしても売れなくて手元に残しておいた紫陽花のイヤリングを取り出した。
アメジストで紫陽花を表現した、ネックレスとイヤリング。
アデレードがそっとラルフの手を動かし、ネックレスの中央にある紫陽花にイヤリングを重ねると、ピッタリと重なった。
「これはネルケがくれた…なのになぜこれをお前が…?」
「これは私のお気に入り。あなたにバスケットを用意したのは私。ネルケには運ぶのをお願いしただけなの…」
ラルフの赤い目が、大きく揺れた。
(俺のことを助けたはずのネルケは俺を覚えていなかったのに、俺のことを見捨てたはずの彼女は俺を覚えていた...)
全てを理解した彼の顔から、血の気が引いていく。
「医者も…?」
「うん...弟さんの熱は下がったのかな…?ネルケは教えてくれなくて…」
ラルフの手が震え、アデレードは目を閉じる。
「待ってくれ、逝かないでくれ」
「ううん…私はもう…」
ラルフはアデレードを抱き寄せた。
「クラウスにごめんねって伝えて…一緒に生きたかったって…あなたの幸せを願ってるって…」
「わかった」
「あとあなたにも…助けてあげられなくてごめんね、ラルフ…」
アデレードの呼吸が止まり、ラルフの咆哮が森に響いた。
ラルフはアデレードの遺体をきれいに整えてエセルバッハ邸に出頭し、その場でネルケを切り殺した。
そしてクラウスに「殺してくれ」と頼み、クラウスは悩んだすえにラルフを騎士隊まで届けた。
「どうしてですか。どうしてあなたの手で俺を殺さないんですか。誰も文句は言わないでしょう」
クラウスは悲しそうな顔で紫陽花のリングを見つめる。アデレードのために準備したものだ。
そして考えた後に、こう言った。
「アデレードはきっと、僕が彼女のために君を殺すなんて望まないだろうから。彼女はそういう人だから」
「俺には理解できません」
「うん…だから彼女は君を遠ざけたんだろうね」
◆◆◆
「以上、転生者番号1172・戸塚優菜さんの転生後ストーリーとなります。この後、クラウスは喪失を乗り越え、別の女性と結婚します」
イセカイエージェント株式会社・本田の報告が終わると、パチパチとまばらな拍手が起きた。
「アデレードは悪くないのに、結末が悲惨すぎる」という声が会議室に広がる。
「でも執着を回避した心理がよくわかんないな。自分だけを好きになってくれて、いつでも溺愛して助けてくれるんだから最高じゃない?」
「クラウスは確かにイケメンで優しいけど、ラルフの病的な愛情のほうが刺激度高めで良き」
そんな声が聞こえて、本田はちらっと同じ会議室にいる、社内恋愛中の恋人・吉川を見る。昨日吉川に殴られた背中が、じくっと痛んだ。
確かに異世界マンガを読者として読んでいるだけなら、執着はいいコンテンツだ。
相手は自分だけを一途に想ってくれて何があっても裏切らず、いつだって承認欲求と優越感を満たしてくれるからだ。
しかも読んでいるだけなら、読者は安全圏にいる。拳が飛んでくることも、鎖でつながれることもない。
でも現実での執着は、束縛や監視、依存や暴力を伴う。
そしてたいてい、執着してくる男性はハイスペックなように見えて未熟で不安定で、相手を大切にしているように見えて支配的なのだ。
「自分だけが相手を変えられる」と錯覚することもあるが、現実はうまくいかない。自分も相手も執着の沼から抜け出せず、長く苦しむことになる。
(執着のリアルを知っている人なら、回避して当然だよね。私だって最初からわかってたら…)
吉川と目が合って、本田は反射的にほほ笑んだ。