もうひとつの防波堤
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──もうひとつの防波堤
1738年4月。
汎人類帝国外務大臣エリザベト・ルヴェリエはエルフィニアの王都アルフヘイムを訪れていた。彼女は鉄道でアルフヘイムに入り、まず大使館へ向かった。
「ようこそ、ルヴェリエ大臣閣下。お待ちしておりました」
「カリエール大使。出迎えに感謝します」
エルフィニア大使はエリザベトが続投したように、引き続きフェルナン・カリエールが引き受けていた。彼の続投はエリザベトが望んだものだ。
「事前の連絡にありましたが、今回はエルフィニアとついに全面的な軍事同盟を締結し、エルフィニアとの関係を強化すること。それが目的ですね?」
「そうです。ジャック・デュヴァル首相は我が国の安全保障に、エルフィニアが完全に同調することを強く求めています」
これまでのエルフィニアとの軍事同盟は防衛同盟であった。すなわち攻撃を受けた場合には発動するが、汎人類帝国かまたはエルフィニアから攻撃を仕掛けた場合には発動しないものだ。
新しく首相になったジャックはこの同盟に不満を覚え、攻守両方に適応される全面的な軍事同盟とすることをエルフィニアに求め、エリザベトを派遣した。
「エルフィニア政府の反応はどうですか、カリエール大使?」
「難しいところです。我々が今になってそれを求めるのに、何か裏があるのではと慎重意見が目立ちます。特に、その、デュヴァル首相閣下はこれまでエルフィニアと敵視する発言が目立ちましたから」
「やはり、そうですか……」
ジャックのこれまでの言動は明らかにエルフィニアを敵視したものだった。
汎人類帝国とエルフィニアに間には未解決の領土問題がある。
それはカサンドラ地方という場所で、汎人類帝国とエルフィニアの双方が領有権を主張していた。今現在において実効支配しているのはエルフィニアであり、そのことをジャックは批判していたのだ。
カサンドラ地方はエルフィニアにとっても重要な場所であり、手放すことはできない。それを執拗に取り戻すと主張するジャックの存在は、エルフィニアにとって不快以外の何物でもなかった。
そして、今そのジャックがエルフィニアに軍事同盟を持ち掛けている。
エルフィニア政府がこれをどう思うかは明白であろう。
「何としても彼らを説得しなければなりません。今はちっぽけな領土をめぐっていがみ合っているような贅沢は許されないのですから」
「ええ。しかし、交渉材料はどうなさるのですか? 何かしらの譲歩を?」
「譲歩はします。ですが、カサンドラ地方については絶対に譲るなとデュヴァル首相は言っています。その件で譲歩すれば軍事同盟は締結できても、国が荒れるとして」
「でしょうな。デュヴァル首相閣下がいきなり失脚しかねない」
カサンドラ地方を奪還すべきという意見は何もジャックだけではない。彼はそういう主張をする人間がいるから、それを声高にアピールしているにすぎないのだ。
そして、それは同時にカサンドラ地方に関して譲歩すれば、ジャックは支持を瞬く間に失って失脚することを意味した。
「しかし、軍事支援について譲歩してよいという指示を受けています。無償の軍需物資の提供などです。我々が譲歩でき、その譲歩が我々の利益になるのは、こういうことだけでしょう」
「そうですな。そのようなところでしょう」
カサンドラ地方問題では譲歩しないが、エルフィニアに無償の軍事支援を行うことをジャックはエリザベトに手札として渡していた。
「問題は彼らがニザヴェッリルと同じような扱いを受けているのではないかと、そう思ってしまうことですな」
「……デュヴァル首相は防波堤はふたつ必要だと言っています」
「本国はそのような意見を持っていましたか」
ひとつの目の防波堤はニザヴェッリル亡命政府とその下にある自由ニザヴェッリル軍で、今はヴェレンホルム島を巡る争いでリヒテンハイン政権とそれを支援する魔王軍の注意を引いている。
そして、ふたつ目が南部のエルフィニアだとジャックは言っていた。彼はエルフィニアを魔族から汎人類帝国を守るための緩衝地帯程度にしか思っていないというわけだ。
「その意図を知られれば軍事同盟など結べなくなります。エルフィニア政府には決して悟られぬよう交渉を進めなければなりませんな」
「防諜上の面で大使館は問題ありませんか?」
「問題はないとの報告は駐在武官から受けております。それで用心を重ねて損はないでしょう。これからこの件を話し合う場合には、地下の倉庫を利用しましょう」
「そうですね。気を付けて損はないです」
こうしてエリザベトとフェルナンはエルフィニアとの交渉に備えた。
そして、交渉の日が訪れる。
エルフィニア政府でエリザベトに応じるのは外務大臣のティリオンで、彼はエリザベトとアルフヘイムの迎賓館に案内し、そこで会談を粉うことにした。
「我々はエルフィニアに無償の軍事支援を行う準備があります」
交渉の最初にエリザベトは早速そう持ち掛けた。
「魔王軍の脅威は現実のものです。そして、あなた方はその最前線にいると言っていい。我々は友邦を守るために力を尽くすつもりです。それをまずは無償の軍事支援という形で示しておきたい」
「ふむ。軍事支援はありがたいですが、その用途について制限は?」
「ありません」
「カサンドラ地方に関しても?」
「ええ。そこはそちらが良識ある行動を取ってくださると信じています」
ティリオンは与えられた武器をカサンドラ地方問題で使うかもしれないと言ったが、エリザベトはそれについて異論をはさまなかった。
これは想定済みの質問だ。未だにエルフィニアはジャックを疑っている。彼が魔王軍との戦争のどさくさに紛れてカサンドラ地方を掠めとるのではないかと。
確かにジャックはカサンドラ地方について直接の譲歩はできない。
だが、こうしてエルフィニアに供与する武器は、カサンドラ地方問題に使っていいとすることで、間接的に譲歩することはできるのだ。
「そちらの意志は十分に伝わりました。ですが、我々は危惧しているのです。汎人類帝国は本当に我々と対等の立場で同盟を求めているのか、と。我々を体のいい防波堤に従っていると陰口を叩くものもいます」
「もちろん、全ての面において対等です。軍の駐留などを強制するつもりはありませんし、これに乗じて不平等な経済協力を強いることもありません。お約束します」
「いや、失礼を。我々としても完全に疑念は払拭しておきたかったので。少しでも齟齬があれば、のちのちに大きな問題になることもあります」
「理解しています」
ティリオンの見込みは正しい。ジャックはエルフィニアを防波堤にするつもりだ。
だが、それを読んだのは何もティリオンの勘が優れているからではない。魔王国国家保安省の仕業だ。
国家保安省は汎人類帝国駐エルフィニア大使館にスパイを潜り込ませており、そこからエリザベトが何を目的として、エルフィニアに来たのかを把握していた。
そして、その防波堤にしたいという意図を意図的にエルフィニア外務省に流したのだ。それを受けてティリオンはジャックのたくらみを知った。
「では、我々も軍事同盟に賛成しましょう」
だが、それでも魔王軍の脅威が迫る今に軍事同盟は必要だとティリオンは判断し、同盟を結ぶことに同意したのだった。
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