汎人類帝国
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──汎人類帝国
1726年10月。
汎人類帝国の成り立ちは人類の危機感に由来する。
人類はかつてとても弱い存在だった。
エルフほどの優れた魔術が使えるわけでもなく、ドワーフほどのたくましい力もない。もちろん魔族にだって脆弱な獲物だとみられていたし、実際に人類は彼らにしてみればいいカモに過ぎなかった。
故に人類は滅亡を避けるために、人類同士で結託を始めた。
いくつもの国家が人類の生存と繁栄を目的として立ち上げられた人類条約の下に集った。まずは軍事同盟が締結され、それが経済、外交、宗教から文化に至り、最終的に人類はひとつの国家の下に団結したのだ。
それが汎人類帝国である。
もちろん、成立までに反発は幾度も起きたが、人類は団結したことで種としての強みである数と応用力を最大限に活かせるようになった。
今や汎人類帝国はドワーフのニザヴェッリルや、エルフのエルフィニアを遥かに上回る文明を有する国家として君臨している。
「閣下。外務省はニザヴェッリルから再び援軍の派遣要請を受け取りました」
汎人類帝国帝都ローランドの首相官邸閣議室でそう報告するのは外務大臣のエリザベト・ルヴェリエだ。40代前半であり、決して若くはないが、年齢を感じさせない外観の彼女は女性としては初めての外務大臣を務める政治家である。
「援軍は出せない。残念だが状況はさほど変わっていないのだ」
そう苦しい表情で言うのは老齢の男性だ。
白髪交じりの髪は薄いが、その青い瞳には大学教授のような高い知性を感じさせる。そんなひょろりとしたのっぽの男性こそ、現在の汎人類帝国首相たるアンドレ・ボードワンである。
彼は統一党出身である、というより汎人類帝国には統一党以外の政党は許可されていない。汎人類帝国にはその成立以来ずっと事実上の統一党による一党独裁体制が布かれていた。
「しかし、閣下。あれだけニザヴェッリルとの友好を謳いながら、これは……」
「私の目指す友好とは決して共倒れするためのものではない」
閣僚のひとりが指摘するのに、アンドレは首を横に振った。
アンドレは首相として融和外交を進めてきた。
まずはニザヴェッリルとの友好条約締結を目指し、それに成功。続いてエルフィニアとの関係改善と目指し、自国以外のところではニザヴェッリルとエルフィニアの関係改善の仲介も務めてきた。
汎人類帝国は統一党の独裁だが、その中にはタカ派やハト派といった派閥が存在し、必ずしも常に同じ政策が行われているわけではない。
その中でもアンドレはハト派として、上記のような外交による平和を目指していた政治家である。そのことは今も変わっていない。
そして、そうであるが故に、彼は祖国を戦争に引きずり込むことになるニザヴェッリルと魔王軍の戦争に軍事介入することに後ろ向きだった。
「ニザヴェッリルは劣勢のまま、戦術的な勝利のひとつもない。既に動員に伴う厭戦感情すら蔓延し始めているという。我々が今の段階で援軍を送るなどして介入しても、状況は好転しない」
アンドレはそう閣僚たちに説く。
ニザヴェッリルは既に当初の防衛線であったヴィンターシュミート=ズューデンバッハ線を完全に喪失。東部方面軍はほぼ壊滅した。
今はアイゼンベルグを中心にしたレーテ川で防衛戦闘を行っているところだが、その状況も首の皮一枚で繋がっているような状態だ。いつアイゼンベルグが陥落してしまってもおかしくない。
そんな状況で下手に援軍など出そうものならば、魔王軍に越境攻撃の口実を与えるようなものであるし、ニザヴェッリル軍にも体よく捨て駒にされかねない。
帝国陸軍参謀本部も現状での遠征軍派遣には猛烈に反対しており、アンドレもそのことを受けて援軍、遠征軍の類は出さないと決めていた。
「我々にできることは物資援助などだ。人道支援も可能ならば行おう。医療支援ぐらいであれば派遣できるということだったな、国防大臣?」
「はい。軍医と看護師の派遣について参謀本部は検討中です」
「それを進めてほしい。我々は完全にニザヴェッリルを見捨てるわけではない」
物資支援の中には軍事物資も含まれており、ニザヴェッリル軍のそれより優れた火砲や小銃、それらのための弾薬が送られている。これらはニザヴェッリル軍が未だにアイゼンベルグで魔王軍を押しとどめている要因のひとつでもあった。
「それからエルフィニアにも連帯を訴えたい。エルフィニアがニザヴェッリルを完全に見捨てるようなことがあれば、両国間の亀裂は増し、魔王軍による各個撃破が可能となってしまう」
「具体的にどのような連携を目指すのですか?」
「可能であれば我々とエルフィニアの外相がニザヴェッリル首都ゾンネンブルクを訪れ、向こうの外相または執政官と会談を開かせたい。そこで我々は魔王軍を非難する声明とニザヴェッリルの独立を尊重する声明を出す」
「対外的には意味のあるものになるでしょう。駐エルフィニア大使のフェルナン・カリエールにエルフィニアに対しての呼びかけを行うよう求めておきます」
「頼むぞ、ルヴェリエ外務大臣」
アンドレはエリザベトにそう頼んだ。
「次は軍についてだが、現在のニザヴェッリルと魔王軍の戦争についての情報収集は進んでいるのだろうか? 最初に受けた報告では魔王軍はこれまでにない規模で、さらには戦術を洗練させていると聞いたが……」
「駐留武官がゾンネンブルクで情報収集中です。確かに魔王軍は著しく近代化し、既に我々の技術水準を大きく上回っているとの情報もあります」
「あり得るのか? 魔王軍が、あのゴブリンやオークのような兵を抱えた軍隊が、我々を上回るということが?」
国防大臣の発言にアンドレだけでなく、他の閣僚たちも驚いた様子を見せている。
「既に海軍においては魔王軍も相次いで36センチ砲戦艦を配備しつつあり、近代化は著しいです。それに加えて鹵獲された魔王軍の小銃は我が国と同じ連発式のものであったという情報もあり、警戒を強めております」
「それでは我々が想定していた戦いとは大きく異なるものとなるぞ……」
これまで汎人類帝国が想定ていたのは、技術で劣るが、数において勝る魔王軍を、その技術格差によって生じる火力の違いで葬り去るというものだった。ひらすらな人海戦術に出るだけの魔王軍に砲爆撃を浴びせるだけの戦いだ。
それは魔王軍の近代化が事実であれば成立しないようなものであった。
「近代化を実現したであろう魔王ソロモンについての情報は少なく、また魔王軍が今回開戦に及んだ理由も不明なままです。我が国としては警戒すべきであるかと」
「……そうだな。そうであるからこそニザヴェッリルには存続してもらわなければならないのだ」
汎人類帝国の東に位置し、魔王軍との間に位置するニザヴェッリルは、汎人類帝国の緩衝地帯として機能している。その残酷な事実を、ハト派であるアンドレとて認識していないわけではなかった。
この後、汎人類帝国の外交攻勢は一部成功した。
エルフィニアの女王ケレブレスがアンドレとの会談に応じたのだ。
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