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カップケーキ一つ分くらいの想い

作者: NexT

 1


 八月一日。


 いよいよ夏休みも中盤に差し掛かり、気温も三十五度を連日超えるような猛暑が続いていた。

 年が明けて、冬が終わり、春が来て——そう思ったら、もう夏だ。


 いつもこう。春に(うつつ)をぬかしていたら、笑顔の夏が手を振ってやって来て、暑さに(もだ)える。人生でもう何十回目の夏だというのに、一向に慣れる気配はなく、毎年のように苦しめられている気がする。



 そして今日もうだる暑さの最中、私、清水清香(しみずきよか)は、文化祭実行委員長として、文化祭の準備のため、一滴(ひとたま)の汗を肌に浮かばせながら、在籍する高校に自転車を走らせ訪れていた。



 午前八時から始まった文化祭実行員たちによる文化祭準備。担当ごとに必要な書類の作成やまとめ、入りようになる部材の確認や搬入、連絡系統の構築から編成まで、それぞれができることを模索し、懸命に熟す姿が見える。



 夏休みに突入した当初は、連携や一体感はなく、無駄な時間を過ごすことが多かったけれど、方針やテーマが決まり、それ以来、定例会議も活発に意見が飛び交う有意義な場になった。みんなが一枚岩となり、来たる夏休み開けの文化祭に向けて同じ方向を見始めた証拠だ。



 もちろん、文化祭実行員として、彼らの持参する書類を通覧したり、現実問題、それらが実行可能なのか、担当教諭とすり合わせて決めるなど、実行員長として私もみんなに負けず劣らずの多忙な時間を過ごしている。



 そして本日は、広報担当から持ち込まれた地域住民に配布するパンフレットや文化祭のイメージとなるポスター案を文実のみんなで決める会議をしていた。



 学校に張り出されるポスターやパンフレットは、いわば文化祭の顔。担当する広報のみんなに寄せられる期待やプレッシャーは大きく、かといって半端な物では、学校、ひいては自分たちの顔に泥を塗りかねない。


 あまり気負う必要はない——と、担当教諭の藤田(ふじた)先生はフランクにおっしゃっていたけれど、文化祭の顔となる物だ。意識するな、という方が酷ではなかろうか。




 しかし、そんな私の心配は杞憂だったと、情熱とやりがい、自分たちが文化祭を盛り上げるんだ――という熱意や気迫を込めて練り上げられた案を前にして痛感した。



 彼らが提示してくれた作品は、一つひとつが本当に力作で、どれもが目を惹く出来栄えだった。それゆえに、採用案を決議するにあたり、結局、私たち文実は、ポスターやパンフレットの採用案を決めるまで二時間近くを消費した。


 白熱した決議会や連日の準備でお疲れ気味な文実のみんなの前に立ち、黒板の前で私は口を開く。



「では、多数決により、今年のテーマは、『一意専心(いちいせんしん)〜今しかできないことを思いっきり、今しかないこの時間を最高なものに。みんなで創り上げる、僕らの、私たちの春高文化祭』——でいきたいと思います。



 この決定を踏まえまして、広報担当のみなさんは、早速このテーマを織り込んだポスターとパンフレット作成をお願いしたいです。



 会計担当のみなさんは、それに合わせたパンフレットやポスターを予算内にどれだけ刷れるのか、検討と報告をお願いします。

 今年はSNSのほうに文化祭をPRする投稿を発信したい、とのことでしたので、それをどなたが担当するか、どれくらいの頻度で更新していくのか、どういったものを発信するのか、も、検討し、報告をお願いします。



 外回り、装飾担当の方は、進捗の報告をお願いします。外装に必要な材料が足りないようでしたら、藤田先生が車を出してくれるそうなのでリストアップをお願いします。必要とあれば、私も含め、手の空きそうな方にもバックアップに入ってもらいます。遠慮なく声をあげてください。



 プログラム担当の方につきましては、昨日、藤田先生から教えていただいたプログラム計画書を元に、本番用のプログラムの作成と印刷、プログラム通りの演芸めくりの準備と作成、それと、体育館に展示される展示物の展示名の作成準備とレイアウトの確認に取り掛かってください。午後から体育館は空いているはずですので大丈夫だと思います。何かあれば私に連絡してくだされば、対応しますのでよろしお願いします。



 ……では、少し早い時間ですが、切りもいいので、ここで一旦午前の部は終わります。昼休憩後は、いつものように十三時から始めますので、この教室にご参集のほどよろしくお願いします。では、お疲れ様でした」



『お疲れさまでした〜』



 私の労いの言葉を皮切りに、口々に文実のみんなから同じ言葉が返って来た。同時に、弛緩(しかん)した空気が流れる。忙しさにかまけ、時間を忘れて作業にふけった午前の部が終わり、これらからみんな、午後の部に向けた休憩タイムに移る。



 そさくさと昼食の準備をするために立ち上がり、教室を後にする生徒もいれば、背筋を伸ばしたり、肩を回す仕草で凝り固まった身体を解し、一息ついてから動き出す生徒もいる。中には、切りが悪かったのだろう、午後の部に向け、少しでも良いスタートが切れるよう、残務をこなしてから昼休憩に入る者いた。



 最前列で文化祭実行部を仕切るようになり、早数週間。文化祭実行委員の委員長として、みんなを牽引(けんいん)しようと独り相撲していた私だけれど、多くの人たちの協力を経て、なんとかここまで形にすることができたと思う。




「みさ、ご飯いこ」


「うん、中庭で良いよね?」


「おっけ〜」



 教壇で一人、文実担当である藤田先生に提出する書類を纏める私の脇を、保冷バックを手に持った二人組みの女子生徒が喜色(きしょく)をたたえて通過し、教室を後にする。



 あの子たちは確か……装飾を担当している一年生。高校生に進学し、初めての春高文化祭ということでやる気に満ち溢れている。初回の文実の会議では結構早めに来てたっけ。



 文実の会議を重ねるごとに、私たちの間にも多くの変化があった。



 その一つとして、交友関係の広がりが大きいと思う。


 今、教室を後にした二人組の女子生徒しかり、当初から仲の良い者もいれば、この委員会を通じて、初めて顔を合わせし、作業を共にして、関わり合い、同じ目的をもって物事を進めていくことで、関係を緊密化させた者もいる。



 当然、私もその一人だ。



「あっ、清香、お昼、どうする?」



 徐々に一体感が増す文実の現状に満足していると、意識の外から、一人の女子生徒に声をかけられた。実際、その声だけで、その人物が誰なのか特定できたけれど、自分の目でも一応確認しておく。



 161センチある私より少し低い位置から、一人の女子生徒が、教卓の横で私を見ていた。



 彼女の名前は、矢尻夏帆(やじりかほ)



 私と同じく十七歳。同級生。愛嬌のある顔つきで、誰にでも分け隔てなく接する気さくな性格と物怖じしない強気な気質から、みんなの間を取り持ってくれる事もしばしばある、実に頼れる文実副委員長様だ。



 実行員長として、そして、去年は同じクラスの仲間として、過去、何度も助けられてきた。今、こうして文実が正しく機能しているのも、彼女の助力の賜物(たまもの)だと言ってもいいくらい。たまに、彼女がいなかったらと思うとゾッとする。まあ、ごく偶に、だけれど。




「ん〜……外は暑いし、ここで済ませようかしら」




 この教室は、文実メンバーの誰かが在中していることと、一応、本部を兼ね備えているため、常にエアコンが作動している。そのおかげで、燦々とした日差しを現在進行形で照りつけ猛暑を振りまく太陽に構うことなく、快適に過ごすことができる。文明の力は偉大だ。





「そう? あっ、ならさ、ベランダに出ようよ。ちょっと暑いかもだけど、日陰だし、風もあるから耐え切れないほどでもないっしょ。 それに、あれも、見れるしね」





 夏帆の含みある言葉尻を聞いた途端、別に意識したわけでもないのに、カキーンという、甲高い音が鼓膜に響いた。自然と意識は外に逸れ、追って、少年とも青年とも解釈できる快活な声が耳目を集める。




「それにさ、いくら涼しいとはいえ、ずっとここにいたら、いざ外に出たときにへばっちゃうよ。実行員長さまが倒れました〜って、なってごらんなさいな、もうみんな大騒ぎ。『あ〜、誰がこの先、この嵐のように荒れ狂う文実を仕切っていくんだあ〜』ってね」



「……それは、副委員長である夏帆でしょうが」



「うげっ、やっぱり?」



「私、聞いてるわよ? 去年、一年生がてらに嵐のような文実の仕事量をきっちりとこなし、東行西走(とうこうせいそう)の活躍で文化祭を成功に導いた縁の下の力持ちがいたって話」



「ちょっ、東行西走の活躍って、誰がそんなありもしない大嘘を」



「去年の実行員長さま」



「美咲先輩か!」



「今年、私が文実の実行員長を引き受ける際、快く教えてくれたの。あの子、本当に使えるからって」



「使えるって、言い方! 酷くない!? 口さがないよ! せめてもっとオブラートに包んで抱きしめて!」



「もちろん、私はそんなこと思ってないわよ」



「さすが清香さん」



「まあ、せいぜい、役に立つなって思うくらいかしら」



「上げて落とすスタイルだ!? って、思ってること、言ってること、美咲先輩と同じくらい悪辣だから! この鬼畜、人でなし、悪魔!」



「ふふ、ありがと。そのくらいじゃないと、この文実は仕切っていけないから。ちょっと自信湧いてきたかも」



「ポジティブシンキング!? うわあ〜ん、もう傷ついた! これはもうベランダでお昼ごはん食べないとやっていけな〜い」




 言って、夏帆はしょんぼりと肩を落とす真似(まね)を演じ、とぼとぼした足取りでベランダのほうへと足を向けた。その際、ちらちらと、こちらを時折振り返りながら、わかってるよね? ついてくるよね? と私のほうを見てくる姿が何ともいかんともしがたい。




「はいはい」




 別に、最初から断ろうなんて思ってなどいない。誘われたらお弁当くらい付き合うし、なんだかんだいって、彼女といるとその陽気なテンションに引っ張られる形で、私の気分も晴れるし、肩肘張ることもなく気楽でいい。今日、ちょっと早起きして作ってきたお弁当も、彼女に見せて、感想をもらおう。あの子は、今日もきっとコンビニ弁当かなんかだろうから、おかずの交換なんてしてもいいかもしれない。




 そんなことを思いながら、教室の後方の棚まで歩く。年季を感じさせる棚上においた、今時の女子高生が持つには実用重視の地味な黒色のリュックサックを手に取り、先にベランダに出て行った夏帆を追うようにして、私もベランダへと足を運んだ。



 そんな私の姿を見て、偶然近くで昼ごはんを食べようとしていた女子グループの一人が私に話しかけてきた。




「清水さん、ベランダで食べるの? 暑くない?」



「暑いよ、きっとね。でも、夏帆がどうしてもって言うから」



「あはは、なるほどね」




 言いながら、彼女、椎名由美(しいなゆみ)の視線がベランダにてこちらに手を振る夏帆の姿を捉え、得心(とくしん)がいったのか、心配顔がすぐに苦笑に変わった。


 この数週間、文実のみんなは作業を共にしていることもあり、大方のメンバーの性格は理解してきていると思う。そしてそれはきっと、同じ目的を持つ仲間として、大切なファクターであり、文化祭を成功させる上で欠かせない鍵になると確信している。



 そんな私も、早く早くと手招きして促してくるベランダの彼女を一瞥しながら、自然と表情が綻んでいた。




「まあ、午前中はずっと、夏帆も私も涼しい環境にいたから、少しは外に出て、外気に慣れておく必要があるかも。午後からは室外での仕事もあるかもしれないから」



「うん、確かにそだね。今日も外、暑いし、熱中症とかなったら嫌だもんね」



「ええ」



「ま、不真面目なわたしたちは、この涼しい環境で、涼しい思いをしながら、お弁当を食べるから、きっと午後からみんなしてひぃひぃ言いながら作業することになるんだろうけどね」

 



 そう言う、彼女たちが担当している装飾は、文化祭のテーマに合わせ、校舎内を飾り付けるのが主な仕事だ。そのため、何かと体を動かす機会も多く、いくら自分たちで立候補したとはいえ、この時期に熟すには少々厳しく、損な役回りなのかもしれない。




「でも、あなたたちがこの暑い中、ちゃんと頑張っている姿を見せているからこそ、涼しい環境で作業できる私たちはさらに頑張らないとって気持ちにさせられるの。それに、あなたたちは午前中から暑い環境下の中、作業をしていたのだから、昼休みの間だけでも、涼しい環境にいるのは、当たり前の権利だと私は思うわ」



「うわぁ、嬉しいこと言ってくれるね! ありがと! あと、実行員長さまから正統に寛げる理由をもらえると、わたしたちも免罪符的な感じになってすっごく休みやすくなって助かる、ねえみんな〜」



「ほんとほんと、心の底からだらけられる〜」



「暑いのとか、ほんと嫌だもんね」



「午後に向けてしっかり体を冷まして備えなくっちゃね」




 由美の呼びかけに反応した仲良し四人組が声を揃えて賛同してきた。要するに、みんな、うだるような外の気温にうんざりする気持ちは一緒だってこと。





「清水さんも体を慣らすためって言ったって、暑くなったらすぐ中に入ってくるんだよ」



「そうね。無理はしないつもりよ。暑くなったら、教室に戻ってくるから、鍵、閉めないでね」



「あはは、いいかもそれ。ていうか、今、やっちゃう?」




 由美の顔に魔が差し始め、一人、ベランダに出て私の到着を待つ夏帆を貶める算段を企てだした。一見、お淑やかな外見の由美だが、その実、ノリが良く、茶目っ気のある性格の持ち主なのだ。



「う〜ん、ちょっと悩ましい提案なんだけれど、今日はやめとくわ。あの子も弁当だし、早く食べちゃわないとせっかくのお弁当が痛んで後で大変なことになるもの」



「あはは、そだね。乙女に腹痛は死活問題だもんね。じゃあ、また後でね」



「ええ。また後で」




 軽く手を振って由美と別れたあと、今度こそベランダに到着する。

 少し立て付けの悪い扉を開くと、




「おっそ〜い」




 と、さっそく不満が飛んできた。




「ごめんなさい、ちょっと話しかけられたものだから」



「知ってる。ここからガン見してたから」



「ガン見どころか手招きしていたわよね」



「だって清香、遅すぎるんだもん。清香の弁当は涼しいところにあって、さらに保冷剤でがっちりガードされてるから余裕あるけど、あたしの弁当は、この猛暑の中、ただただやられるだけの一等兵で、四面楚歌(しめんそか)状態なんだよ」



「お腹が痛くなったら清香が責任とってよね」と、夏帆が柔らかそうな頬をぷっくりと膨らませて、これみよがしに不満を表してくる。ちょっとあざとい仕草だが、愛嬌のある彼女がやると、可愛らしく思えるから不思議だ。



「はいはい、わかったから、早くお弁当を食べるわよ。責任云々は、本当にお腹が痛くなったとき考えればいいでしょう」




 言いながら、ツッコミどころ満載の夏帆の言い分はさらりと流し、日陰に置かれたベンチに腰を下ろした。すると、遅れて夏帆が私の隣に座り、手に引っ掛けたビニール袋の中身をゴソゴソと漁りながら唇を尖らせる。




「それじゃ遅いんだよぉ、お腹痛くなったあとじゃ全てが手遅れなんだから、乙女的に!」




 膝の上で広げたビニール袋の中から夏帆が取り出したのは、唐揚げ弁当と、申し訳程度に買ったであろうサラダとドレッシング。今日の昼ごはんのラインナップ的には、すぐに痛むような食材は買っていないようだ。その辺の安全マージンはしっかり取っているあたり、実に彼女らしい。ちゃっかりしている。




「それだったら、保冷剤くらい、自分の家から持ってきたらいいでしょ?」



「んー、まあ、それはそうだけど、私の保冷バック、取手のところが壊れちゃってんだよね」



「そうだったわね。あなたの保冷バック、随分前から壊れているものね」




 私の記憶が正しければ、全く同じセリフを二週間前にも耳にしている。以前から必要な物だと認識しておきながら、自分の怠慢を棚に上げて惚ける彼女に自然と厳しい視線が向くのは仕方ないことだろう。




「うげっ、そんな顔して見ないでよ。あたしだって買わなきゃ買わなきゃって思ってんだからさ」



「その言い分も、前に聞いたわ」



「ありゃ、そうだっけ?」



「……あのね、夏帆、思っているだけなら、誰にでもできるの。本当に必要としている物があるなら、ちゃんと自分の足で店舗に出向き、代金と引き換えに欲しい物は手に入れなきゃ。欲しいものが降って湧いてくるとか、勘違いしちゃダメよ」



「っ!? ちょっと待って! そんな常識、あたしもちゃんとわかってるよ!?」



「じゃあ、なんでやらないのよ」




 とりわけお金に困っているわけでもあるまいし。実際、この間なんて、欲しい化粧品を買いにショッピングモールに出向いたのは知っている。というか、夏帆の方から、良い口紅を見付けたんだ——と、教えて来たから知っている。




「それは……その………」




 図星を突かれた夏帆の大きな目が、居心地が悪そうに視線を宙に彷徨(さまよ)わせる。




「『保冷バックを買いにお店に行ったら行ったで、他の物に目移りして、本来買うべき物をすぐに忘れちゃったの!』」



「あっ! それ、だれのモノマネかな!」



「愚問でしょ」




 夏帆自身、ちゃんと自覚はあったようで、私のモノマネにはすぐに食いついてきた。でも、ねめつけてくる視線に反して、彼女は口惜しそうに歯軋りするだけ。




「ぐっ、あたしのモノマネはすこぶる似てないけど、言い分については一ミリも間違ってないから変に言い返せない!」



「…………当然ね」




 一見、勝ち誇って見せたものの、内心、我ながら似てるんじゃないかと自賛していたモノマネを一目散に否定され、思わずくらってきた。ポーカーフェイス、ポーカーフェイス。




「あ〜あ、清香に正論叩きつけられたから、胸とお腹が空いちゃった。ご飯でも食べて回復しなきゃ」




「……あなたの空腹と私の正論は関係ないでしょ? それに、もともと小さい胸を私のせいにしないでくれる?」



「あ! そんなこと言っちゃうんだ! それを言ったら胸がないのは清香も一緒じゃん!」



「……ほぉ」



「……あぁん」




 私たちは互いにぐぬぬぬと視線をぶつけ合い、二・三秒の間、睨め付けあった。けど、元々がじゃれあいから派生した喧嘩もどきの諍いなど、長く続くはずもなく、次第にふたりして馬鹿らしくなり、失笑するのは時間の問題だった。




「ご飯、食べましょうか」



「そだね」



 すでに弁当を開きかけてきた夏帆に続き、私も自弁をリュックサックから取り出す。何の飾り気もない、地味なリックサックから……。




「清香、それ、やっぱり使ってんだね」




 唐揚げを頬張りつつ、何気なく放った夏帆の言葉に、一瞬、胸が飛び跳ねた。




「……そうね、経緯はどうあれ、せっかくもらった物だもの」




 使い慣れた小さな弁当箱を取り出し、ゴムバンドを取り、夏帆のように膝の上に広げ後にお箸を手に取る。




「ふ〜ん、これは前から思ってたことだけど、清香って、律儀っていうか、そういうとこ義理堅いよね。あたしなんて、小林くんからもらったわけわからんカエル? の貯金箱? あれもう押入れの中だもん」



「あれは、まあ、そうね……」



 人からもらったプレゼントを無碍にする気持ちはわからないけれど、去年、クラスで行われたクリスマス会のプレゼント交換イベントにて、夏帆が小林くんから贈られた、あの無駄に丸いフォルムで奇妙なデザインのカエルの貯金箱だけは、まぁ、何となく、というか、ぶっちゃけいらないし、私でもごめんなさいして押入れにしまってしまうかもしれない。




「それに比べて、清香は当たりだったよね。デザインはさておき、実用性はあるプレゼントが回ってきたんだから」


「私なんてカエルだよ? カエル」と、割り箸の先を突き出した唇で挟み込み、夏帆が不満を垂れる。


「清香のプレゼントを選んだのって、確か、大村くんだよね」


「……え、ええ」




 小松菜のお浸しをつまみながら、何でもないようにを意識して肯定する。




「大村くん、いいよね。イケメンで、背も高いし、野球部のエースだし。ぶっちゃけ、高嶺の花、みたいな」


「そうね」




 付け加えると、性格は真面目で、できることはできる、できないことはできないときっぱり言える強さがあり、一度決めたことは終始一貫できる強靭(きょうじん)さを併せ持っている。そんな一等地を抜く人物がモテないというほうが土台無理な話なのかもしれない。




「女子の中で結構聞くよ、大村くんを狙ってるって話。一組の古賀(こが)さんとか、三組の早見(はやみ)さんとか」




 一組の古賀さんは同じクラスなので知っている。性格は少しキツめだが、整った容姿とお洒落を武器にして、クラスの中でもかなり目立つポジションにいる子だ。逆に、三組の早見さんのことはあまり知らないけれど、きっと、古賀さんのように、容姿に自信を持ち、恋に積極的な女の子なのだろう。

 ……私と違って。




「あっ、そういえば、大村くん、午後から委員会に顔出すの?」



「ええ、一応、そのつもりだと聞いているわ」



「ほえ〜、大村くんから直接言われた感じ?」


「直接ってわけではないけれど、連絡は来たわよ。ほら、一応私、実行員長だから」




 彼との連絡交換は、一年次同じクラスだったということもあり、すでに済ませてはいた。済ませてはいたけど、今まで連絡自体は両者ともに取り合っておらず、二年次にクラスが別れ、大村くんが文実に参加することが決まってから、文実に参加できる日は、律儀にもメールを送って報告してくれるようになり、最近になって連絡を取り合うようになった経緯がある。無論、その連絡の取り合いにラブロマンス的な要素は含まれていないけれど。




「それにしても大村くん、野球部で忙しってのに、午後から文実に顔出すなんて、よくやるよね」



「私だったら絶対無理だね、死んじゃう死んじゃう」と、夏帆が感心するような、情けないような表情をしてしみじみと呟く。



「死んじゃうって……」




 でも、たしかに、野球部と文実の掛け持ちは、正直、かなり無理があると思う。




「ねえ……夏帆」



「ん?」



「……大村くん、野球部も忙しいのに、何で文実も引き受けるって言ったのか、理由、知っている?」



「んー、どうだろ……一応、知ってはいるんだけど……」




 夏帆はそう言い淀むと、眉間にしわを寄せて(うな)った。それだけで、私には少し言いづらい内容なんだろうと容易に察しがつく。




「……そう。いえ、別にいいの。言うのに抵抗があるのなら、無理に聞かないわ……ただ私は、野球部でただでさえ忙しいうえに、文実を引き受けてくれた理由を知りたかっただけだから」




 伝え聞いたところによると、彼は自ら文実に立候補したらしいのだ。担任の先生からも、野球部の練習やら試合であっちへこっちへただでさえ多忙を極めるのに、さらにそのうえ文実に参加するのは厳しいだろうと、やんわく指摘されたが、それを押し除ける形で参加すると決めたらしい。


 一体、彼の何が、彼をそこまで突き動かしているのか、その理由を私は知りたかったのだ。




「あのさ、清香」



「ん?」



「唐突で悪いんだけど、今日の放課後、ちょっとあたしに付き合ってくれない?」



「……本当に唐突ね」



 過去、ままある、夏帆からの緊急依頼。用件は多種多様で、買い物だったり、カラオケだったり、映画を見たり、カフェに行ったり、まれにバッティングセンターもあったっけ。




「まあ、今日の放課後は特に予定はないけれど……」



「ほんとっ! よし、じゃあ決まりね」



「何をするか、それだけ聞いとくわ」




 夏帆のことは信頼しているけれど、取れる安全マージンはきちんと取るべきだと思う。




「実はさ、あたし、作りたいものがあるんだよね」



「……作りたいもの?」




 バレンタインのチョコしかり、買えるものは買うスタイルの夏帆にしては珍しい出来心。




「そそ。だから、調理室は借りれる許可は得ていますとも。それでね、清香には——」



「ちょっと待って」



「あたしの——」



「待ちなさいってば」




 私の静止の声を聞かず、話を続けようとする夏帆を一旦遮り、会話の主導権を奪う。




「どしたの?」



「どうしたの——じゃないわよ。それはこっちのセリフだから」



「え? 何か変なことでも言った、あたし?」



「話が変な方向にいく前に止めたのよ……」




 まあ、すでに手遅れ気味ではあるけれど。




「ふうん。じゃあ、清香は何がわからなかったの?」



「根本的に全部よ」



「具体的に言うと?」



「まず、どうして今日の放課後に調理室を使う予定になっているのよ」



「それは、もち、ケーキを作るため」



「は? ケーキですって?」



「あっ、ケーキって言ってもカップケーキのほうだから」



「……種類の心配をしているわけじゃないわよ?」




 こめかみあたりが痛くなってきた。




「じゃあ、なんの心配?」



「心配っていうか、急にあなたがケーキを作ると決めるに至った経緯、その理由を知りたいの。夏帆、あなたがなんの理由も前触れもなく、ケーキを作りたいって言い出すわけないもの」



「もしもし清香さん、あたしも一応女の子ですよ? その自信に満ちた否定は傷つくんですが!」



 どこか確信めいた私の言い分に、夏帆が泡を喰ったように言い返してくる。



「あら、それじゃあ、夏帆は本当にカップケーキを手作りしてみたい、その一心だけで調理室を借りたのね」



「うっ」



「夏帆に良いこと教えてあげる。あのね、嘘はドロボーの始まりなのよ?」



「でも、嘘も方便って言うじゃん」



「方便なの? 夏帆、あなた、本当に何を企てているの?」



「…………ノーコメントで」



「事前説明もなく、あなたの目論見に付き合えって言うわけね?」



「そこは……ほら、友達じゃん?」



「ええ、友達ね。たしかに、私たちは友達だわ」




 疑う余地もない。夏帆と私は友人であり、今は同じ目標に向かう僚友(りょうゆう)でもある。




「だったら……」



「だからこそ、親しき中にも礼儀あり……友達だからこそ、通すべき筋はちゃんとあると思うの」



「うっ、うぅ〜……」



 私の正鵠(せいこく)を射る指摘に夏帆が頭を抱えて唸る。きっと、彼女も頭では理解している。私の意見の方が理に叶ってことくらい。



「……どうしても、教えなくちゃいけない?」



「ええ、できれば教えて欲しいわ。わかっていながら、掌で踊らされるのは釈だもの」



「……だよね、清香は、そうだよね」



 絶対に曲げる意思がないと伝わったのだろう、夏帆は嘆息(たんそく)をこぼした後、腹を割って話してくれると宣言してくれた。



「ありがと。これで私たちは初めて対等よ」



「……まあ、そうだけど、欲を言えば、あたしをもうちょっとは信用して欲しいかも」



「心外ね。私、あなたが思っている以上にあなたを信頼しているつもりよ」



「たとえば?」



「死の瀬戸際、一方は生きる道、もう一方は死ぬ道と、二つの選択肢がある場合」



「え、急に重くない?」




 夏帆のツッコミは黙殺して話を続ける。




「その答えを私を除いた二人の人間が知っていて、その一人が夏帆、もう一人が赤の他人だとして、夏帆の答えを信じてその道を行く程度には、ちゃんと信頼しているわ」



「ん〜、なんかそれ、すっごく微妙なたとえ! 嬉しいような、嬉しくないような、コメントに困る!」



「顔、ニヤニヤしているわよ。しっかり喜んでいるじゃない」



「これはそういうやつじゃないやつ」



「バレバレ」



「だから違うってば」




 言葉では否定していても私にはちゃんとわかっている。まあ、彼女がそう言うのならそう言うことにしておくのも優しさってものだろう。




「あっ、全然信じてないその顔!」



「目敏いわね」




 こういうことばかりすぐ気づくんだから。




「はぁ……まあ、それはもういいとして、いや、ホントはよくないんだけどね? あたしの沽券(こけん)に関わる問題だし」



「けれど、昼休みも有限、話を先に進めましょう」



「だね。え〜と、確かあれだったよね、今日の放課後、急にあたしがケーキを作りたいって言い出した理由」




 夏帆の再確認に、私は首肯(しゅこう)する。




「えっとね、もうこの際だからぶっちゃけちゃいますけど、あたし自身にケーキを作りたいって欲求は最初からございません!」



「……」



 清々しいくらいに暴露しきった友人の言葉に、私は否応なしに一抹(いちまつ)の不安を覚えた。思わずため息をつきたくなるというか、絶対ろくなことを考えてなかったんだろうと予想がつく。本当は今すぐにでも小言を言ってやりたいが、だからといってまだ確定的な言葉を聞いたわけでもない。お説教は彼女の企みを全て白日(はくじつ)の元に晒させてからでも遅くはないはずだ。




「……続けて」




 私が淡々とそんなことを考えるとはつゆ知らず、話の先を促すと、夏帆は滔々(とうとう)と自分の企てを話し始めた。




「う〜ん、言っちゃえばこれはお節介なんです」



「……お節介?」



「そうです。というのも、あたしの友人の一人がね、それはもう見ているこっちがもどかしいくらいの甘酸っぱい恋を割と長い間しているわけですよ」




 夏帆の目が、一瞬、私を捉えたかと思うと、すぐに手元の弁当に戻る。かと思うと、箸の先で小さめの唐揚げをつんつんと突き始める。




「それでですね、その子の友人であるあたしとしては、もう少し勇気を出してアピールしてもいいんじゃないかと思うんですよ、彼を狙うライバルは多いので」




 夏帆はそう言うと、今度は最初につついていた唐揚げの周りを大きめの唐揚げで囲み始めた。



「けれど、困ったことにその友人はかなりの奥手でなかなか関係が発展させようと動きません。だから、いっそのことあたしがアシストしてやりましょう! って考えたわけです」




 大きい唐揚げたちの間に颯爽とやってきた淡いオレンジ色の人参が割り込み、小さい唐揚げの進路が開く。




「まあ、あたしがアシストしたところで、全てを決めるのはこの子次第なんだけどね」




 そして最後に、夏帆は小さい唐揚げを箸で摘み上げると、私の弁当の中に入れてきた。




「清香」




 呼ばれて、はっと顔を上げる。

 夏帆が真剣でどこか慈しみを思わせる表情をたたえて私を見ていた。




「やる? やらない? 決めるのは、清香だよ」


「……」



 正直、友人から提示された二つの選択肢を前に、私の思考はぐちゃぐちゃだった。


 ずっと隠していたつもりだった私の片思いは、彼女に見透かされていた。いつからバレていたのか、どうして見破られたのか、そんなに分かり易かったのか、実はクラスのみんなにも気づかれているのではないか、何より、彼にも察せられているのではないか……。


 もし、そうだったら、私は、私は……




「清香」




 思考の渦に呑み込まれ、呼吸すら忘れて物思いに耽っていた私の鼓膜に友人の声が響いた。




「夏帆……」




 助けを求めるようにこぼれ出た自分の声は、自分の声とは思えないほど弱々しくて頼なく揺れていた。

 痛感させられた。私が抱いてきたこの思いは、それほどまでに強く、大切で、手放したくないものなのだと嫌でも自覚してしまう。


 そんな思いを抱え込み、動けなくなってしまった私を夏帆が見つめていた。




「清香、あんたさっき自分で言っていたじゃん? 欲しいものは、自分から動かないと手に入らないって」



「……」



「それは恋も一緒だとあたしは思うな。いつまでも手をこまねいて、大切な想いを大切なままずっと持っていたって意味はない。動かなかきゃ、動いて踠いて、自分で手繰り寄せるの。清香の恋にはただでさえ障害が多いのに、動かなきゃ他の人に持っていかれちゃうよ。千里の道も一歩って言うじゃん。今は直接想いを伝えられなくても、カップケーキ一つ分の想いくらいなら、伝えられるかもしれないよ」



「カップケーキ、一つ分の思い……」



 情けない話、胸に抱くこの想いの全部を伝える勇気は今の私にはない。……ないけど、それでも、それでもカップケーキ一つ分くらいの想いなら、伝えられるかもしれない。

 いや、違う。そのくらい伝えられなければ、きっと、この先私の思いは一生実ることなんてない。



 私は自分の弁当箱に入れられた彼女の唐揚げを摘み上げ、そっと彼女の口元に差し出す。




「夏帆、あなたの口車に乗るわ」



「へへ、そう来なくっちゃ!」




 夏帆は私が差し出した唐揚げを満面の笑みを浮かべて咥え込んだ。

「ん〜、美味ぃ!!」とご機嫌な様子で唐揚げを咀嚼する友人を横目に、少し強引なところもあるけれど、いい友を持ったな——と、つくづく実感した。



 きっかけはつくってもらった。

 あとは自分次第。


 彼との関係の変化に対する恐れや慄きといった感情はもちろんある。軋轢が生じてしまうようならば停滞を望んでしまう自分もいる。


 けれど、ぬるま湯にもなっていない今の関係を維持し続けていても、私の想いが成就することがないとも理解している。



 変化を恐れて停滞を選んだ先に、私が望む未来はありはしないのだから。




 ぬけるような蒼穹(そうきゅう)が広がるを前に、不撓不屈の心を持ち、せめて後悔のないような選択をしようと、私は一人、腹を決めるのだった。





 2





 チン——と安いっぽい音が鼓膜をわずかに震わせた。そしてそれが、百七十度で約十五分熱していたオーブンの仕事が完了した音だと、私たちにはすぐに分かった。



「お! できたできた〜」



 私の隣で、私が洗った調理器具や食器を布巾で拭いていた夏帆もその音に気づき、動かしていた手を止め、駆け足でオーブンの前まで近寄っていく。

 止める間もなく、夏帆はレンジのハンドを握り、



「あ、いい感じにできてるじゃん!」



 と、ハンドルを開け、中をそっと覗きこみ、感嘆の声を上げた。



「清香、結構いい感じにできてるよ!」



 共に生地から作り上げた作品だ。振り返ってこちらを見る夏帆の目が「早く見てよ」——と訴えかけてくる。一刻も早く感想を言い合い、その出来栄えを共有したいという彼女の気持ちがひしひしと伝わってきた。




「出来栄えは気になるけれど、今は洗い物をしているから手を離せないわ。こっちは私が済ませておくから、夏帆、あなたはカップケーキを取り出して粗熱(あらねつ)を取っておいてくれる?」



「おっけー。あっ、ミトンってどこにあるんだっけ?」



「一番左の戸棚の中だったはずよ」




 濡れた指先でその在りかを指示すと、夏帆が「あそこね〜」とステップを踏むような軽い足取りで戸棚へと歩いていく。



 その間に、ボウルやハンドミキサー、ゴムベラを泡が残らないようにきっちりと洗浄し、布巾で水気を取っていく。


 ちらちらと夏帆の様子も気にしながら残作業を消化していく間に、ミトンを発見した夏帆もカップケーキを載せた天板をオーブンから取り出し、机に置いた後、再度その出来栄えをまじまじと観察していた。




「確かに、上手に出来ているわね」




 オーブンから取り出されたことにより、少し離れた私の位置からもカップケーキの出来栄えを確認できた。そして、その出来栄えは、夏帆の言う通り、久しぶりに作ったにしては、無駄に焦げることもなく、狐色の生地が映えるくらいには、良い出来栄えで仕上がってくれていた。




「う〜ん、いい匂い! 早く味見したい! 清香、粗熱ってどれくらい取ればいいんだっけ?」



「明確な時間はわからないけれど……手で触れて温かいと感じれるくらいね」



「う〜、これはちょっと待ち切れないかも〜」




 完成したカップケーキを前にして無慈悲にもお預けを受ける夏帆が切なげな声を上げて自らの食欲と格闘している。無理もない。午後四時に文実の活動を終えて間もないのだ。三時間前に食べたお昼ご飯もちょうど消化されたくらいの頃合いだろう。




「夏帆、そこでじっとしていても欲望に負けそうになるだけだから、気を紛らわすためにも、効率的に片付けを終わらせるためにも、粗熱を取っている間に後片付けの手伝いをしてくれるかしら」



「……そうする〜」



 私の提案を兼ねた要求に賛同した夏帆がのろのろと動き出し、私が拭き終わった調理器具を戸棚の中へと運び始めた。


 そうして互いにできる後片付けを済ませ終わる頃には、カップケーキの粗熱も取れ、手で触れるくらいには温かくなっていた。





「清香、早速味見してみよ!」



「ええ。そのために余分に二つ種を用意したんだもの」




 今回、私たちが作ったカップケーキは全部で四つ。大村君に渡す二つと、私たちが味見する用の二つ。私たちが味見する用のカップケーキを作ったのは、味の良し悪しを事前に判別したかったのと、上手に作れた物を譲渡用にすることができる処方箋も兼ねている。




「さてさてお味のほうはどうかな……って、うわっ、これ、結構美味しいかも!」




 カップケーキの一つを手に取り、躊躇なく口にした夏帆が目を見開いた。もぐもぐと咀嚼して嚥下すると、すぐに二口目を口して、恍惚とした表情になる。



「う〜ん、やっぱりうまうま〜……出来立てってのもあるかもだけど、生地はふわふわだし、中はしっとりしてるし、甘さもいい感じで、なんていうか、美味!」



「コメントがとっ散らかっているわね」



「そんぐらい美味しいってわけ! 清香も食べればわかるって」



「はいはい」




 熱烈な猛プッシュを受け、私もカップケーキに手を伸ばす。大きさ自体は無理やり一口でいけるくらいだろうか。型越しに伝わってくるカップケーキの温かさは心地よく、手に取ったときの重さはあまり感じなかった。




「いただきます」




 小さな声に続けて、カップケーキを一口齧る。途端、プレーンの甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 



「どう?」



「……美味しいわね」



「でっしょう! 素人の手作りにしてはいい線いってるよね!」



「私も久しぶりに作ったけど、これは成功と言っていいと思うわ」



「イエス! まさかの一発成功、最高!」



「……なぜ急に韻踏み?」




 妙なテンションで韻を踏まえた感想を口ずんで喜ぶ友人をぎょっとした目で見る。




「いやいや、そのくらい嬉しいってこと! 材料や時間もあんまりなかったし、清香がいるにせよ、あたしに至ってはこれが初めてのお菓子作りだったんだよ! しかも初作品がこんなに上手くできてテンション上がらないわけがないじゃん!」



「え、ええ……確かに、そうよね」




 ぐいっと顔を近づけて力説してくる彼女の圧にたじろぎ、思わず納得してしまったが、別に韻を踏む必要性はなかったと思うのは私だけだろうか。




「それに、このカップケーキは大村君に渡すんだから、美味しいに越したことはないっしょ」



「……」




 忘れていたわけではないけれど、多少薄れていた目的を再認識させられ、わずかに鼓動が高鳴り、そのテンポを早める。




「あっ、清香、やっぱり渡さないとか今さら思ってないよね?」



「………………当然よ」




 心境の機微が表情に出ていただろうか。それにしても、こういうとこだけ本当に目敏い。




「ほんと? 今、答えるまでにすっごい間があった気がしたんだけど?」



「……気のせいよ」 




 できるだけ平常心を意識しながら、今度は淡々と答える。




「ふうん。まあ、こんな美味しいカップケーキを作れたんだし、渡さないってのは、ちょっともったないよね」



「そこまで言うんだったら、夏帆が大村君に渡してもいいのよ?」



「……それ、本気で言ってる?」



「うぐっ」




 すっと細めた目が容赦なく私の失言を咎める。





「はあ〜、清香さん、ここまできて、それは履行違反じゃないんですかねえ〜……」




 ジトっとした夏帆の視線は妙に痛かった。




「んまあ、清香の気持ちも、わかるけどさ〜」




 誰だってそうだろう。私だけじゃないはずだ。誰かに何かするーーという行為自体、勇気を伴い、覚悟を問われ、カロリーを消費するもの。逆説的に、躊躇い、慄き、足踏みしてしまうのもまた、自然な心理ではないだろうか。




「でもさ、清香、後悔後に立たずなんだよ? 今、このカップケーキを渡せなければ、清香の想いは想いのまま……重いままなんだよ。試しに清香が言うように、あたしがこのカップケーキを『あたしたちで作りました! ぜひ食べてください』——って大村君に伝えたところでさ、あたしの気持ちも混じった、ある意味不純物混じりなカップケーキになっちゃうわけ。せっかくこんなに美味しく出来たのに、気持ちを込めたのに、それじゃあなんか、もったいないと思わない?」



「………………そうね、いえ、きっとそうだわ」




 夏帆の言う通りだ。最後に残っていた、心の片隅に居座っていた不安や危惧を、彼女の至言が優しく取り除いてくれた気がする。

 やらずに後悔するより、やって後悔しないほうを、私は選びたい。

 



「夏帆、ありがとう。お陰様でようやく覚悟を決めることができた気がするわ」



「じゃあ、あとはこれを綺麗にラッピングするだけだね」



「ええ」


 


 ラッピングの際に使用する袋やワイヤータイ、ラフィアフィラーは、夏帆が事前に家庭科部から譲り受けているため問題はない。というか、そのあたりの準備の余念のなさに彼女の本気度をひしひしと感じる。ちょっと、いや、かなり怖いというか、一体、この子はいつからこんな計画を企てていたのだろうか……。




「さっ、いよいよ大詰め——って、清香、そんなに離れていたら一緒にラッピングできないんですけど!?」






 3




「ところで、夏帆」



「ん?」



「今日、作ったこのカップケーキ……いつ大村君に渡せばいいのかしら」



「んー……普通に考えて、明日じゃないかなあ」



「あ、明日?」



「そそ。明日は野球部の練習はお休み。大村君も朝から文実の準備に参加するらしいから、空いた時間を見つけるか、作ったりして、手渡すのがベストだと思う」



「手渡すのは当然、私、よね?」



「もちのろん」



「そう、よね……」



 カップケーキのラッピングも終わり、家庭科室での用事の全てを済ませた私たちは、二人揃って昇降口まで足を運んでいた。

 静まり返った校舎の廊下に響くのは、私たちの足音と話し声のみ。



 文化祭に向け、夏休みだというのにこうして学校を訪れる頻度が高いせいで忘れがちになるけれど、この寂然(せきぜん)とした校舎にいるとそれを如実に感じる。



 人によっては夕暮れ前の少しミステリアスに変容する校舎を苦手と思うかもしれないが、私はその枠に収まらない。というか、むしろちょっと好きな分類に区分されるかもしれない。そして恐らくそれは、隣を平気そうな顔で歩く夏帆も同様に。




「清香、わかっているだろうけどさ、もう弱気になるのはなしだからね」



「……ええ」



 再三のご忠告を耳に、昇降口で上履きを脱ぎ、ローファーへと履き替える。



「ならよし。じゃあ、行こっか」



 私がローファーに履き替えるのと同時に、夏帆も履き替え終わり、私たちは揃って昇降口から外に出た。



「うわっ、八月だから当たり前だけど、外まだ明るくて、あちゅい〜」



「これでも気温は落ちたほうね」



 日中に比べると二、三度は下がったと思うが、それでも肌をねっとりと覆う熱気は健在だった。



「日中は灼熱(しゃくねつ)と言っても過言じゃないよね」



「灼熱はさすがに過言じゃないかしら」



 (しかめ)めっ面で辟易(へきえき)と愚痴をこぼす友人を横目に突っ込む。残暑(ざんしょ)が厳しいとか、酷暑(こくしょ)とか、表現の仕方は他にもあるだろうに。




「三十五度を超えたらそれはもう灼熱なんですぅ」



「はいはい」



 友人の謎のこだわりを適当にあしらいながら、数十段ある階段を下り、盛夏(せいか)の陽光を避けるため天井付きの渡り廊下を、私が半歩前を歩く形で歩く。


 そして——



「「あ」」



 校門へと向かう途中、校舎の正面に広がる第一グラウンドから出てきた一人の男子生徒と顔を見合わせたのはまさにその時だった。




「へ? どうしたのーーって、大村君?」




 私の異変に気づいた夏帆も、男子生徒の存在に気づき、はたと小首を傾けた。なぜ彼がまだ校内に残っているのか、不思議に思っているのだろう。




「よっ、さっきぶりだな、お二人さん」



「え、ええ」



「さっきぶりだね〜」




 小麦色に焼けた肌に白い歯を覗かせて爽やかに笑う彼を前にして、私は少したどたどしく、夏帆は気の抜けた挨拶を以って返す。




「二人は今から帰りか?」



「そうだよ〜。ありゃ、大村君は違うの?」



「んにゃ、俺も今から帰るとこ」



「そっか。じゃあ、一緒なんだね〜」

 



 ベストタイミングだ!——なんて、一人はしゃぐ夏帆の隣で、彼が先ほど浮かべた疲弊混じりの笑みが、私は少し気になった。いや、ずっと前から不安視していた、危惧していた。


だから。



「……大村君はーー」



はたとそんな言葉が口を衝いてしまっていて……




「ん?」




 不覚を取った——と気づいた時には、一度口にしてしまった言葉は、もう、なかったことにするにはあまりにも遅すぎた。




「俺が、なんだって?」




 彼の涼しげな目が真っ直ぐ私を見つめ、なんだか、夏帆が隣で笑っているような気が無性にした。



 拳をきゅっと握る。




「お、大村君は……この時間まで、野球の練習をしていたの?」



「うん? ああ、この格好か」




 彼が今の今まで野球の練習に打ち込んでいたのは、身に付けた練習着を見れば一目瞭然だった。それでも、たとえわかっていても、私は尋ねずにはいられなかった。




「あっ、もしかして俺、汗臭い?」



「え? あ、ううん、全然、平気、よ?」



「清香、それ、どっちかわからない答えになってる」



「え?」




 横からひっそりと指摘されるも、咄嗟(とっさ)にその意味を理解できず、眉を顰めて頓狂な声を上げる。

 そんな私の視界の隅で、野球部のエースな彼が一際動揺していた。



「ちょ、矢尻、俺汗臭いのか? 大丈夫か?」



「あっ、ううん、全然平気平気! ノープロブレム!」



「ほんとか? 嘘だったら俺、普通に泣くぞ?」



「ほらぁ、清香が紛らわしい反応しちゃうから、勘違いした大村君が傷心(しょうしん)しちゃってるよ〜」



「え? え?」




 戸惑う私の両肩がぽんっと軽く前に押され、私と大村君の距離が半歩縮まった。自然と胸の前に両手が来て、十五センチほど視点の高い位置から私を見下ろす彼の不安げな瞳と視線が交わう。



「清水、俺、まじで臭ってないか?」



「え? え〜と……」



 いつものように上手く言葉が出てこない。錆び付いた回路のように思考の伝達が鈍いみたいに。




「正直に言ってくれ、ファブれる準備はできている」




 言い淀む私を前に、袈裟懸けにかけた鞄の中から、いつの間にか取り出した消臭剤を手に大村君が意気込む。

 その姿を目にしてようやく自分の落ち度を悟った。




「あ、いや、全然大丈夫! 大丈夫だから! 大村君は汗臭くないわよっ!?」




 ぶんぶんと両手を横に振り、必死の弁明。自分でも笑っちゃうくらい、私は狼狽していた。



「ね、夏帆もそう思うでしょ!」



 すでに意見を述べ、状況を伺っていた背後の友人に問い直すくらいには、恐慌していた。



「はいはい、平気平気。ていうか、あたしはさっきから平気だって言ってるから。だから大村君、清香もこう言ってるし、そのファブはもうしまっちゃっていいと思うよ」



「……臭わないだったら、まあ……」




 夏帆と私に視線を交互に向け、その真偽(しんぎ)を自分の目で確認した後、彼はそう呟いて素直に夏帆のアドバイスを聞き入れた。




「ところで大村君や」




 間髪入れず、夏帆がすかさず大村くんの名を呼んだ。




「ん?」




 ファブを鞄にしまう大村君の目がちらっと夏帆を見る。




「さっきの話の続きなんだけど、こんな時間まで野球の練習をしていたんだっけ?」



「ん? ああ、まあな。大きい試合も近いし、俺個人としての練習だな」



「ほうほう、自主練ってやつだね」



「もちろん全体練習はやってはいるけど、それだけじゃ補えない個人的に不足している部分はやっぱりあるし、そういうとこはやっぱり全体練習じゃ改善できないからな」



「ほうほう、練習熱心ですなぁ」



「そうか? 普通だろ?」




 感嘆を述べる夏帆の言葉に、大村君は淡々と言い返す。それがまるで、本当に常識的であるかのように。周囲の人間も、同じであるかのように。




「ていうか、帰ろうぜ。俺たちだけだろ、生徒で校内に残ってんの」




 さっと周囲を見回しても私たち以外の影は見当たらない。残っているといったら、今も校内で仕事をこなす教師の自動車が二、三台駐車場にあるくらい。その中には、文実担当教諭の藤田先生の車もあり、残務をこなしている彼の帰りを律儀に待っている。



 生徒が夏休みで登校していないこともあり、先生方も遅くまでは残らないはずだ。いつまでもこんなところで世間話に(きょう)じていれば、いずれ帰宅するためにやって来た先生に「早く帰れよ」と声を掛けられるだろう。




「そだね」



「ええ」



 先に(きびす)を返す大村君に続く形で、私たちも校門に向けて再び歩き出した。



「夏帆、さっきはありがとう」



「え?」


 なんのこと?ーーと、首を傾げる夏帆に、「うんん、なんでもない」と告げ、私たちは静まり返った高校を後にするのだった。






 4






「じゃあ、また明日な」



 何気ない雑談を交えつつ、途中で駐輪場に寄り、私の自転車を回収した後、大村君が私と夏帆に向け、そう別れを切り出した。私も、彼とはここでお別れだと思っていたし、夏帆もきっとそうであろうと無意識に考えていた。



 だから、




「ええ、また明日——」




「あっ、そうだあたし、今日行かないといけないとこがあるんだった!」




 と、私の言葉に被せるような形で夏帆がそう発言したときは、一瞬、何を言っているのか本気で理解できなかった。




「この時間からか?」




 それは大村君も同様だったのだろう。怪訝を表情にたたえて夏帆に問う。




「この時間からって……まあ、時間的には十八時くらいだけど、外はまだまだ明るいから問題ないっしょ!」




 スカートのポケットから取り出したスマホで時間を確認した後、まだ少し高い位置にある夕日を見て、夏帆が意気揚々と主張する。

 ……まあ、確かに、日が沈むまでざっと一時間くらいの猶予(ゆうよ)はあるかもしれない。あるかもしれないが、




「いくらまだ明るかったとしても、気づいたら日は沈んでいるものよ。今はまだ良くても帰るときに暗くなっていたら安全だとは言い難いわ」





 もっと言えば、薄暮(はくぼ)時間帯は、他の時間帯に比べて交通事故に遭う確率が高い傾向にある。実際、夕暮れ時は、昼間に比べて死亡事故が三・六倍ほど多く発生しているらしいので、なるだけその時間帯での移動を含めた行動は控え、可能であれば翌日に予定を回すような対策をするべきだと思う。




 それを夏帆にも伝えよう——と、口を開きかけたとき、




「んっもぅ! 大丈夫だって。私だっていつまでも危なかしい小さな子供じゃないんだし、学校の近くにママも迎えに来てくれる予定だから、私の軽率な行動で事故る可能性は少ないよ」



 と、不服を表情いっぱいに滲ませた夏帆が、先に不都合のなさを証明してきたが、



「夏帆、あなた今、唐突に思い出したような態度だったけれど、お母さんが来てくれる予定になっているの?」



「っ!?」



「ああ、確かに、言われてみればそんな感じだったな」




 言動の齟齬(そご)を私に指摘され、しまった!? と言わんばかりに華奢な肩をびくっと震わせる。こういうところに爪の甘さが出るのがなんとも夏帆らしいけれど……。




「夏帆、あなた、何を企んでいるの——」



「清香」




 またしても、全てを言い切る直前に言葉を遮られる。先ほどと異なるのは、私に身を寄せ、私にだけ話しかけようとしているとこか。大村君に内緒話をするみたいで、なんだか後ろめたいというか、無性に気恥ずかしさを覚える。


 そんな私の心境の機微に気づかず、夏帆がボリュームを抑えた声で、されどどこか鬼気迫るような口調で続ける。




「今、今でしょ!」



「は、は?」




 夏帆の言葉には具体性が欠けていて、さも某現代文講師のようなフレーズを口にされても、言わんとすることが理解できなかった。




「もっと具体的に言ってくれる?」



「だ・か・ら! カップケーキ、渡すんだったら今が好機でしょうって話!」



「…………」



「清香もわかるでしょ? 渡すんだったら絶対今だってこと!」



 無論、夏帆の主張も理解できる。降って湧いてきたような理想的シチュエーションを、夏帆さえこの場にいなければ容易に整えられるのだ。協力する側の気持ちとしてはやらない手はないし、立場が異なれば私だってそうする。そうするはずだけれど——



「清香、心の準備はできてる?」




 問題の全ては、計画を実行に移せるかの全ては、余すことなく私次第。全部、私の勇気次第……。




「……それとも、やっぱり今日は、やめとく?」




 視線を下げて黙りこくる私の鼓膜に、私を気遣う友人の甘言(かんげん)がこだました。臆病で惰弱(だじゃく)で繊細な私は、そんな友人の優しさに縋りたくなる。その手に導かれ、楽な方へと逃げたくなる。なるけれど、




「……やるわ」




 きっと今、行動しなければ弱い私は弱い私のまま——。



 変化することを恐れて怯え、後悔して終わる、私のまま——。



 何かを変えようとすることは、確かに怖くて恐ろしい。



 何かを変えようとすることは、現状を変えること。すなわちそれは、良くも悪くも未来を変えてしまうということだから。



 でも、掴みたい未来がある者は、その未来を変えるため、自ら行動しなければ始まらない。



 ここまでの筋書きは友人の手を借りて導いてもらった。だからせめて、願った未来を掴むため、足を前に踏み出す勇気を、未来を変える覚悟を決めるのは、他の誰でもない、私自身だった。






 5





「じゃあね、お二人さん。また明日〜!」



 三人で国道へと続く下り坂を下った先で、宣言通り、母親が送迎に来た夏帆とは別れることになった。


 私と大村君は、夏帆の母親が運転するコンパクトカーのテールランプが見えなくなるまで、なんとなくその場に立ったまま見届けた。


 薄暗くなり始めた街の中に車体が完全に見えなくなった頃、少し高い位置から声を掛けられる。




「じゃあ、俺らも帰るとするか。つっても、清水の家ってどのあたり?」




 思い出すように問われ、一瞬、質問の意味を考えた。でも、その真意は直ぐに察せられ、わずかに口ごもりながらも、それでも確かに、言葉を紡いでいく。




「紅谷町の……ここから、自転車で、十五分くらい……です」




 私の足なら徒歩で三十分くらいかかる。




「紅谷町ってことは、方角は一緒か。うし、じゃあ、送ってくよ」



「え? いや……けれど、悪いわ、そんなの」



 言ってしまったあとに後悔をした。私の、もとい私たちの計画を成功させるには、彼と帰路を共にするのが好ましいはずなのに。

 頭ではそれを理解していた。理解していたつもりだったのに、気づけばほぼ条件反射の如く断り文句が口をついてしまっていたのだ。




「いいって。気にすんな。ていうか、逆に清水を送っていかないと、矢尻の奴に俺が後から詰られることになる」




 なんだろう……随分と理由が殺伐としている。日頃、夏帆がどんな風に大村君とコンタクトを取り合っているのか非常に気になるので、今度教えてもらうことに決めた。




「……ごめんなさい」




 一応、友人の無礼は、友人の友人としてお詫びしておく。だからといって、あとから夏帆に小言を告げることもしない。今回は、大村君に接する普段の彼女の態度によって救われたのだから。内心で感謝を抱いても罰は当たらないはずだ。




「清水が謝ることじゃないだろう。それにこれは俺の……まあ、男としての義務? 責任? ……違うな。自己満足——……みたいなもんだから」



「……なら……それなら、よろしくお願いします……」



「おう。それと、自転車」



「え?」



「俺が押すよ」



 袈裟懸(けさが)けに掛けたスポーツ鞄を掛け直し、大村君は少し強引に私と自転車の間に両手を伸ばしてハンドルを握った。




「よし、いくか」




 おずおずとハンドルを手放して戸惑う私に振り返り、ニカッと快活な笑みを浮かべ、紅谷町方面へと続く国道沿いの歩道を、私より半歩前先に、自然と通路側を歩かせてくれる配慮を以って進み出す。



「……」


 

 ずるい。

 ずるすぎる……。



 こういう気遣いや心配りを自然とこなす人間性が、周囲の好感を高め、そして、ますます私の感心をも惹きつける。



 正直、私を自宅まで送り届けるーーそれが、彼の本望だと思えないけれど、そう思うほど、自惚れているわけでもないけれど、本来の狙いを考えれば、願ってもいない絶好の機会ともいえる。



 素直に送り届けてもらうのが、この場合の正解で……。あとは、この鞄に入ったカップケーキを、私の自宅に到着する間に手渡せる機会を私が作れるかどうか……全て、私の状況判断能力と積極性とカップケーキ一個分くらいの勇気に懸かっている。


「清水?」



「え、ええ」



 二メートル先でその場に突っ立ったままの私を振りる彼の隣に走る私の両手は、自然と固く握られていた。






 私たちが暮らす町、紅谷(べにや)町へと伸びる国道沿いの歩道は、お世辞にも栄えているとは言えない。



 道中に軒を連ねるのは、ファミリーレストランやコンビニ、ドラックストア、全国チェーンの有名な靴屋さんくらい。

 けれど、そのおかげで交通インフラは比較的に整っている方なので、道が暗くて大変な思いは抱く機会は少ない。



 女性一人でも、まあ、深夜にならない限りは、大して怖くはないし、実際、ビジネススーツ姿の女性が一人で歩いている光景は、割と目にする機会も多かったりする。



 それくらいには人通りの多い道だけれど、国道から一つ脇道に逸れ、住宅街に入っていけば、その限りではなくなってくる。車の走行音やすれ違う人の数が減り、先行く道を照らしてくれていた街灯の量も次第に少なくなる。



 建物の数に比例するように、その陰の濃さが増していき、周囲の家々の窓ガラスには、暖色系統の灯りが目立ち始め、夜に備えて生活の在り方を徐々に変えていくのがわかる。


 家々の間から吹く南風には、空腹を誘う夕飯の香りも混じり、時折すれ違う人たちの手にも食材を詰めたビニール袋やエコバックが目立つ。



「あ〜、腹へった〜……」



 他家が漂わせる香ばしい夕飯の香りにあてられ、半歩前を歩く大村君の呟き声を、私の耳は聞き逃さなかった。


 いや、ずっと、カップケーキを渡すタイミングを伺っていたから、何気なく放ったであろう彼の言葉に気づけたのかもしれない。

 無意識に、鞄の持ち手をきゅっと握り締めた。



「そういや、清水」



「は、はい!」



 唐突に名前を呼ばれ、反射的に発した声は大きく、裏返ってしまった。途端、頬に熱が集まりはじめる。



「うぉっ、びっくりした……大丈夫か? というか、びっくりさせて悪い」



「え、ええ……私は大丈夫。それで、どうしたの?」



 頬がみるみる熱くなるのを自覚しつつ、薄暗い夕暮れ時でよかったと、内心胸を撫で下ろした。




「いや、一緒に帰るの、何気に初めてだよなって思ってさ」



 大村君も特に追求してこなそうなので、その気遣いにあやかってしまおう。



「え、ええ……そうね、初めて、よね……」



 初めてだから、こんなに緊張している。



 初めてだから、こんなにも浮かれている。



 初めてだから、こんなにも、胸の鼓動が高鳴るなんて、知らなかった。




「一年の頃は同じクラスだったよな」



「え、ええ……」



「じゃあ、あれ覚えてる?」



「あれ?」



「クラスで開催された、あのクリスマス会」



「もちろん、覚えているわ」




 冬休み前の最後の登校日。クラスの総意により、駅前のカラオケ店で開催された放課後のクリスマス会。総名三十七名の一年一組の生徒が大部屋を三つほど埋め、お店の迷惑にならないよう細心の注意を払い、節度をもって催された。



 今でも瞳を閉じれば思い出せる、みんなの楽しげな笑い声や多種多様な歌声、そして、大村君の、マイクを握って歌う、あの姿……。



「あれな、めっちゃ良かったよな」



「本当ね。最初は大所帯で大丈夫か不安だったけど」



「だな、清水、終始一人でハラハラしたような感じだったの、なんか覚えてるわ」



「特に矢尻が何かするたんびにな」ーーと、付け足してけらけらと大村君が笑った。



「あれは……笑い事ではないのだけれど……」



 当時の私としては、夏帆だけではなく、参加者全員に問題を起こさせない、他のお客さんの迷惑行動になるような言動はさせない——という、クラスの学級委員長としての責任感があった。


 まあ、常習犯的要素を持つ夏帆の手綱はきちんと握っておりましたけれど。それに、男子の手綱(たずな)は大村君がある程度コントロールしてくれていたこともちゃんとわかってる……。


 やや色気ばむ私の呟きを、大村君は苦笑をもって応え、かと思えば、慈しみを思わせる笑みを浮かべてこちらを見て。



「んで、清水は、楽しめたか?」



 と、尋ねてきた。



「……そうね、もちろん、楽しかったわ」



 私は、嘘偽りなく、そう、断言できた。



「うし、なら、問題なしだな!」



「ええ。終わりよければ全て良し、にしときましょう」



「俺的には始まりも良くて終わりもよかったけど?」



「……そう言ってもらえると、当時の私は報われるわ。結果的に、みんなの高校生の楽しい思い出の一つになったのなら開催して正解だったかも」




「間違いないな。ていうか、何だったら今年も何か普通にやりたいよな」




 名案だと言わんばかりに要望を口にする大村君だが、今年はそう簡単にいくだろうか。




「今年、私はクラスが違うから、夏帆に頼んでみたらどうかしら?」



「げっ、そうだった! 清水いないのか!」



「……」



 大村君が私を頼りにしてくれていたという事実に浮かれそうになる自分を抑える。いやほんと、こういう不意打ちはずるいと思う……。


 きゅんと高鳴る鼓動をひた隠す私をよそに、顎に手を添えた大村君がぼそりと呟く。


 


「う〜ん、清水が手綱を握っていない状態の矢尻が企画するイベントか……謎に嵐の予感がするな」



「ふふ、夏帆に対する大村君の評価、ちょっと酷くないかしら。あの子、私がいるときは制御してくれる人がいると思ってはっちゃける場面が多いけれど、そうでない時は、割と節度を守ってはちゃけるわよ」



「いやいやいやいや、どちらにしろ、はっちゃけるんだな、あいつは」


「残念ながら」




 むしろ、お(しと)やかで大和撫子な夏帆を前にしたら、夏帆ではないとすら疑ってしまうのではないだろうか。それほどまでにあの子は陽のイメージが強い。




「清水、今からでもウチのクラスに来ないか?」



「ふふ、嬉しいお誘いだけれど、先生たちが頑として認めてくれそうにないわ」



「ま、そうだわな。言ってみただけ」




 私としては、その言葉だけで十分すぎるほど浮かれた気持ちになってしまうというのに、大村君は呑気にそう言って笑うのだ。



 本当にどうしようもない。



 彼の一挙手一投足が。



 何気ないその言葉でさえ。



 彼に抱く想いの丈の強さを痛感させてくる。



 もはや、この想いを止める手立てを、私は知らない。




「あの……」




 話の途切れたタイミングを見計らい、先に話題を切り出すことによって会話の主導権を握る。




「ん?」




 大村君の涼しげな目が横目に私を捉えたのがわかった。


 今も、その瞳に映っているのが、他の誰でもなく私である現実がにわかに信じられない。


 それでも、このチャンスを活かさないという選択肢は持ち合わせていないのだ。


 今、私はかねてから疑問に感じていた質問ができる機会に恵まれたのだから。


 口を二、三度開閉した後、どもりながら、大村君への疑問を打ち明けていく。



「……大村君は、どうして野球部もあるのに、文実を引き受けてくれたの?」



「…………」



「お、大村君?」



 質問に対する返答のレンスポンスが遅いことを不思議に思い、隣を歩く青年の横顔を覗いた。

 気に触る質問を言ってしまったかと、不安な気持ちに心が揺れる。

 つい先ほどまで浮かれていた気持ちがみるみる萎んでいくのを如実(にょじつ)に感じた。



 そしてそのうち、テンポ良く進んでいた私たちの歩みは——というよりも、大村君の歩幅のほうが徐々に小さくなり、やがて完全に止まってしまう。



 少し俯き、きゅっと口を噤む彼を前に、肌がひりひりとした。


 口内の水分が失われていき、心に重い感情が容赦無く募っていく。


 大村君が口を閉ざしていたのは、時間にして五秒も経っていなかったと思う。

 けれど、その五秒が、片手で数えられてしまうその刹那の五秒が、私には極めて長く、ゆったりと流れているように感じたのだ。




「清水」




 名前が呼ばれた。他でもない、私の苗字。そしてそれは、悠久(ゆうきゅう)に抱いていた不安の終わりを意味していた。



 彼の呼びかけに、開きかけた口を私は閉じた。



 彼の、私を見つめる真剣な眼差しがそれを許さなかった。




「…………俺、さ…………」




 ゆっくりと、ゆっくりと、言葉を紡ぐその姿はまるで、何かを堪えるような、もう一人の自分と向き合うような、見ているこちらがもどかしくなるような、心落ち着かない様子だったけれど、それでも彼は、私が想う青年は、私が見つめていきた大村君は、たどたどしくもその思いを口にしていく。





「来週、野球の試合があるんだ。その試合は、俺がずっと目標にしてきた大会でさ……その試合のために、俺たちは今日まで練習を続けてきてるんだけどさ……」





 そこまで口にして、私の自転車のハンドを握る大村君の目が右へ左へと泳ぐ。何かを言いかねて、それでも口にしようとしているのが、私にはわかった。



 一秒、二秒、と時間は流れ、そして、彼の目が、私を捉え——





「清水にも、その試合、観に来て欲しんだ!!」





 途端、風が吹いた。


 青々しい葉々の、爽やかな香りだった。





「…………」





 今度は私が押し黙る方だった。いや、ちょっと違う。彼の言葉の意味を理解できず、呆然と立ち尽くしているといったほうが正確か。とにもかくにも、大村君の言葉を理解するまで、私はただ漠然としていることしかできなかった。




「し、清水? 大丈夫か?」


「えっ」




 声をかけられ、はじめてはっとした。その後、取り繕った態度で問題ないと言わんばかりに、こくこくと頷いて大村君の問いに応える私だけれど。



 本当は、一ミリだって大丈夫ではなかった。



 私の胸を打つ鼓動はこんなにも早く、高鳴っている。


 見栄っ張りで意地っ張りな自分が、今でも溢れそうなる想いを必死になって抑え込んでいるのだ。


 けれど、私はそんな自分を嫌いになれない。


 こんな自分もまた、私なのだと思えるから。


 否定なんてしないし肯定だってしない。


 これが当たり前、これが自分なんだって、認めて一生付き合っていくのもまた、私自身なのだから。



 だから私は。



 今、自分の気持ちに正直になろうと思った。




「大村君」




 ずっと握っていたせいで、すっかりあたたくなった鞄の取手を握る手を緩める。

 ファスナーを開き、ぱっくり口を開いた鞄の中に手を入れ、私は緩慢な動作で『それ』を取り出した。




「これ、は……?」




 二つのカップケーキが入れられた袋を差し出された大村君がぽかんとした表情で私を見る。さすがに理由も伝えられずに差し出された物を彼も受け取ってはくれなかった。というか、そんな都合のいい展開、あるわけがなかった。




「これは……その……」




 口ごもりつつ、どんな説明をしようかと言葉をこねる。


 今は、どう頑張っても想い丈の全てを打ち明けられないのはわかり切っている。


 けれど、手に持ったこのカップーケーキくらいの想いなら、今の私でも、きっと——。


 覚悟を決め、私は言った。



「試合、絶対応援に行くわ」



 カップケーキ一つ分の想いくらいは、伝わってくれている、そう願い、手渡した袋を、彼の手がそっと受け取ってくれたのを、私は一生、忘れる日はないだろう——。






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