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ヴォイス・マスター

作者: 田島 康裕

 都市伝説。


 長らく、声優業界でまことしやかに伝わる『ヴォイス・マスター』と呼ばれる裏家業が、確かに存在するのか?


 その業は常人の枠を超え、あらゆる俳優の特徴を完璧に複製し、俳優の穴埋めを請け負う、影の仕事人。


 その存在は、決して表に出ず、ごく一部の人間にだけ知られていた。


 そんなスレッドを昼休みに、瀬名花菜(せなかな)はスマホで見ていた。


 「花菜、何見てるの?」


 同じ学科の櫻井(さくらい)奈々(ななこ)が、興味深げに覗き込むと、花菜は、咄嗟に電源を切ろうとするが、それよりも速く、奈々子がスマホをヒョイッと取ると、


 「ふ~ん」


 スレッドを見て、一言、


 「よくある都市伝説ね、胡乱だわ」


 スマホを返す。


 「そろそろ、授業が始まるから、花菜も急ぎなよ」


 手を振ると、奈々子は、他の女友達と一緒に、授業がある地下のスタジオへ向かった。


 花菜は、分厚い黒眼鏡をそっと直し、漆黒で艶のある三つ編みを心許なく触ると、おずおずと、お弁当箱を片付け、スタジオに向かう。


 花菜が通う専門学校は、都会から離れた、長閑で広大な土地に、大学と併設された特殊な学校で、様々な分野のカリキュラムを学ぶことが出来た。


 花菜は、その中でも、芸能分野に属する、演劇声優科に所属し、二年制の最後の秋、二回目のキャリアガイダンスに挑んでいたが、未だ、プロダクションからの内定は、一つも決まらない状態であった。


 元来の引っ込み事案と、人見知りが災いして、本来の実力が出せないまま、オーディションは、箸にも棒にも掛からない現状に、益々、その表情は暗く沈んでいた。


 「……あ、時間」


 腕時計で確認すると、卒業制作のドラマCDを収録するため、行き慣れた道を、小走りで歩いて行く。


 時間には、余裕を持って来たつもりだが、スタジオには、クラスの生徒が、ほぼ全員集まっていた。


 「相変わらず、トロいなぁ、お前は」


 長身で、黙っていれば、女性が放っておかない程のルックスを持つ、杉田悠一(すぎたゆういち)が、意地悪そうに、花菜を見て笑う。


 小さな声で、


 「まだ、じゅ、授業は……」


 と、小さく反論するが、


 「はい?聞こえないぞー」


 茶化す悠一は、好きな女の子を苛める小学生のように、花菜を小突くと、周りも、面白可笑しく、二人のやり取りを見ている。


 「騒がしいぞ、静かにしないか!」


 担任の川井慎二(かわいしんじ)が入って来ると、浮ついた雰囲気が一変した。


 続くように、講師の千葉大輔(ちばだいすけ)が席に付く。


 ピンと張り詰めた空気が広がると、大輔は台本をパラッと確認して、


 「それじゃ、午前の続き、やろっか」


 本人は至ってマイペースな口調で、生徒に話し掛けると、録音ブースに、数人の男女が入っていく。


 その中には、奈々子と悠一の姿もあった。


 全員がマイクの前に立ち、慎二がミキサーを操作し、合図を送ると、各々が演じる、キャラクターの台詞を、そつなくこなしていた。


 なかでも、頭一つ抜き出ていたのは、奈々子であった。


 キャラクターの心情と、周りの役者の息遣いを、丁寧に咀嚼し、違和感なく演じる、彼女のスタンスは、プロでも通用するセンスを感じさせた。


 大輔は、ガラス越しに演じる、生徒達を見ながら、納得が行かないのか、髪を擦りながら、シーンが切り替わると同時に、キューランプを押して、生徒達に演技指導を始めた。


 何回か、リテイクを繰り返して、ようやく納得がいったのか、最低限のレベルではあるが、通し稽古が終わった。


 「お疲れ様です」


 収録が終わった生徒達が出てくると、一礼し、自分達の席に座った。


 「次の子達、やるよー」


 大輔が促すと、花菜が台本を抱え、中に入っていく。


 花菜はマイクの前で、本番前にも関わらず、極度の緊張状態となり、密閉された空間が余計に、息苦しさを感じずにはいられない状態だった。


 「花菜君、リラックス、リラックス」


 大輔は、席から立ち、タコのような動きをして、花菜の緊張を解くよう、アドバイスすると、


 「は、はい!」


 テンパった花菜が、マイク越しに返事をすると、スタジオのスピーカーから、大音量の声が響き渡った。


 思わず、その場の全員が仰け反ると、大輔だけは、


 「うん、その意気、いいねー」


 と、温かくエールを送る。


 「それじゃ、始めましょう」


 合図を送り、生徒達は、先程と同様に、各々に割り当てられた台詞を、流れるようにリレーしていく。


 花菜の順番となり、マイクの前で台詞を喋ると、終わりの言葉を噛んでしまった。


 「もう一回、行くよ」


 プロ、アマ問わず、このようなNGは、特に珍しいモノではない。


 一般の視聴者からすれば、編集され、完成された商品が提供される裏で、役者、それを支える関係者の労力は、果てしなく根気のいる、作業の積み重ねを経ることで、始めて、一つの作品となるからだ。


 しかし、NGを出すことは、それまで、役者達が作り上げた空間を、必然的に壊すことになるため、それを犯した本人が、次、同じ間違えは許されないと言う重圧は、新人、ベテラン問わず、その両肩に等しくのし掛かる。


 花菜は、台本を開き、台詞を一言一句、間違えないように再確認すると、他の役者とのタイミングをイメージ、大きく息を吸って、無理矢理にでも、肩の力を抜くよう試みるが、一向に、筋肉の強張りが解けなかった。


 案の定、花菜はNGを連発し、周りの生徒は、呆れたように、ハァッと、溜め息を漏らした。


 怒りの感情は、花菜に容赦なく突き刺さる。


 「今日はここまで」


 大輔はマイク越しに、そう言うと、ゾロゾロと録音ブースから生徒達が出てくる。


 花菜は、その場で全員が出て行くのを、呆然と見ながら、その場に留まっていた。


 大輔は席を立つと、


 「みんなは、少し休んでいなさい」


 一人、その場にいた花菜に駆け寄ると、身振り手振りをしながら、丁寧な演技指導を、時間を掛けてアドバイスした。


 ヒソヒソと、生徒達が、


 (あんな奴に、演技指導なんて、勿体ないっての)

 (先生も、あんな子に時間を割かないで欲しいなぁ)


 陰口を慎二に解らないように、スマホのグループチャットで、言いたい放題ディスると、早く終わらないか、とヘイトが積み上がっていく。


 そんな事になっているとは、全く知らない大輔は、熱を帯びた指導を終えると、花菜と一緒に録音ブースから出て、椅子に座った。


 「お待たせ、次、行ってみよう」


 待ってました、と言わんばかりに、次のシーンを担当する生徒達が、中に入っていく。


 花菜は自分の席に座ろうとすると、悠一が、


 「気にすんなって」


 と一言、他の生徒に聞こえない声で、花菜を慰める。


 「あ、ありがと、悠一君」


 花菜は小さく頭を下げると、身体を丸め、自分の席に座った。


 午後の授業は、恙無く進行し、三時を過ぎた頃、スタジオの分厚い扉が開くと、補助員の女性が、


 「先生、お客様です」


 と言った。


 入って来た人物を見るなり、生徒達は歓声を上げ、女子生徒は、近くの友達の手を握り、乙女のような眼差しで、その人物を見ていた。


 「おお!規夫、どうした?」


 大輔とは、旧知の仲、ベテラン人気声優、石塚規夫(いしづかのりお)は顎髭を蓄え、ダンディーな出で立ちで、ニカッと笑うと、


 「よっ、大輔!」


 ズカズカと、部屋に入って来るなり、大輔に駆け寄って、外国人張りの、濃厚なハグをする。


 「これ、土産だ」


 大輔が好きな銘柄の煙草を、カートンで渡すと、


 「俺、いま禁煙中なの、知ってるだろ?」

 「はは、だからだよ」


 規夫は、悪戯っ子のように笑うと、裏ポケットから、シガレットケースを出す。


 「馬鹿たれ、仕舞えっての」


 大輔が武術の達人のように、無駄のない構えで、右拳を加減し、規夫の腹部に当てると、


 「うっ」


 小さく悶絶し、大袈裟なリアクションを取った。


 「生徒の前で、示しが付かないだろ」


 と大輔が言うと、


 「堅いなぁ。お前も、現場でコッソリ吸っているだろうが」


 スタジオに置かれている専門機器は、どれも目が飛び出るほど高価で、その上、扱いには細心の注意が必要であった。


 煙草の煙など、以ての外、新人が、イキって吹かそうモノなら、業界から、永久退場を確定される重罪であった。


 大輔クラスならば、自身が音響監督と、役者の両輪を熟すため、周りのスタッフも、大きな事は言えないが、それでも、褒められるモノではなかった。


 「何しに来たんだ?アポ無しで、突然過ぎるぞ」


 と言った大輔の顔を、規夫が面白そうに見ると、周囲を確認するように、生徒達の顔を見て、奥に座っている、花菜に視線を合わせた。


 唐突に、


 「今、アフレコやってんのか?」


 大輔に聞く。


 「あ、ああ。この子達の、卒業制作のドラマCDを収録してるんだよ」


 規夫は、台本をパラッと捲ると、


 「これ、結構有名な作品だぜ。よく許可下りたな」


 花菜達が演じる作品は、アニメが好きな者達ならば、必ず知っている、メジャーなロボットアニメだった。


 その版権は、とても厳格で、専門学校の実習で取り扱おうとしても、許可が下りることはまずなかった。


 大輔の功績により、特別に許可され、ドラマCD用に脚色することも許された。


 「お、この役、懐かしいな」


 台本には、かつて、規夫が演じたキャラクターも登場していた。


 「だろ?丁度、次のシーンの収録で、お前が演じたキャラが登場するんだぜ」


 大輔の口調が素に戻ると、


 「へへっ、いいねー」


 規夫は面白そうに笑う。


 「ちょっと参加してもいいか?」


 その言葉を聞いて、生徒達のテンションが一気に上がった。


 特に、女子生徒の盛り上がり方は凄まじかった。


 慎二は慌てた様子で、


 「静かにしないか、授業中だぞ!」


 そんな言葉が聞こえないほど、ますますヒートアップし、大輔は収拾が付かないな、と諦めたように、規夫の提案を飲むと、


 「ワンシーンだけだぞ」


 念を押すと、規夫は手を振って応える。


 録音ブースに、生徒達と一緒に入った。軽く身体を揺らして、ウォーミングアップをした。


 「川井君、準備宜しく」

 「ええ、楽しみですね」


 機械を操作して、キューランプが点灯すると、周りの生徒に混じって、演技を披露する。


 生徒も、二年間、専門の演技レッスンを積み重ねた自負を持って、収録に臨んでいたが、規夫の演技は、その場にいた、生徒達を圧倒するモノであった。


 持ち前の低音で、響きのある、バリトンの力強い声量、長年の役者生活で培った肺活量は、ブレスなど、必要としないほど、長台詞を一気に捲し立てると、その場の空気を、雄々しく支配した。


 次の台詞を喋るはずの男子生徒が、規夫の演技に飲み込まれ、物語上の登場人物の関係性にリンクし、直立不動で立ち竦んでいた。


 「カット」


 大輔が芝居を止めると、我に返った男子生徒が、大先輩の規夫の演技を止めてしまったことに、オドオドと、挙動不審になるが、規夫は、


 「気にしなさんな、もう一回、もう一回!」


 豪快に笑って、男子生徒の背中を優しく叩くと、一気に緊張が解けたのか、


 「お、お願いします!」


 と、その懐の深い人間性に触れ、心の底から、自分の演じるキャラクターに向き合わなければ、とテンションが高まり、今まで見たことのない、精悍な面構えになっていた。


 「相変わらず、人を乗せるのが上手いな」


 ガラス越しに、その光景を見ていた大輔が、思わず笑い、慎二が、


 「あの子達の、あんな顔、見たことないですよ」


 長い間、生徒と共に、同じ時間を過ごしてきた慎二は、僅かな時間で、見る見るうちに成長する、生徒達を目の当たりにして、言い知れない熱い感情に、思わず武者震いする。


 「僕達が学校でやっていることなんて、プロの現場からしたら、子供の手習いにもならないってことさ」


 大輔は、慎二を見て、それ以上語らなかったが、その思いは痛いほど、慎二の胸に響いていた。


 昨今の声優ブームで、全国各地に、養成所や専門学校が、次々と乱立し、玉石混交の様相を呈していたが、本当に、プロとして通用するような、教育の場を提供する施設は、残酷だが、1%も存在しないのが現状だった。


 なかには、高額な授業料だけ取り、就職活動後のフォローなど、ロクにしない、無責任な教育機関も、平然と存在していた。


 大輔が専任講師を務める、この学校は、その中でも、信頼と実績が、広く、内外に知れ渡っていた。


 それは偏に、学科の責任者、清水俊明(しみずとしあき)の存在によるものだった。


 自身も俳優として、長年に渡り、研鑽を重ね、その手腕は、学業の場でも、遺憾なく発揮していた。


 収録が終わり、規夫が録音ブースから出てくると、


 「お疲れさん、いい演技だったよ」


 大輔が短く、規夫を労うと、


 「ここの連中も、なかなかだったぜ」


 その一言に、後ろから出てきた生徒達は、顔を紅潮させ、思わずガッツポーズを取った。


 規夫は大輔の横に座ると、熱に浮かされた空間は、暫く冷める気配は無かったが、おもむろに、大輔が規夫を見て、


 「ホント、今日は何しに来たんだ?」

 「あん?」


 ただ顔を見るだけなら、大輔が授業を行う、都市部から離れた、辺境の地まで、わざわざ来る理由が解らなかった。


 規夫は顎髭を擦ると、小さく笑い、


 「理由が知りたい、ってか」


 と、言って立ち上がると、花菜のいる方向へと歩み出す。


 海が割れるように、生徒達が道を開けると、規夫は花菜の目の前に立ち、


 「約束通り、来てやったぜ」


 花菜を見る規夫は、父親のような、温かな眼差しを送る。


 「え?」


 規夫の言っていることが、理解出来ない花菜は、戸惑ったように、視線をキョロキョロさせる。


 周りの生徒達も、その言葉を聞いて、その、予測不能なやり取りに、好奇の目を向けていた。


 「はは、やっぱり覚えてねぇか」


 規夫は花菜にグッと近付き、耳元で、何か呪文のような言葉を囁く。


 「!」


 途端、花菜は項垂れ、糸が切れたマリオネットのように、意識を失うと、


 「お、おい!」


 慌てた様子で、大輔が、不安げな表情を浮かべ、規夫に声を掛ける。


 「心配すんなって、後催眠暗示を解いただけだよ」


 耳慣れない単語だったが、それは、催眠療法で使われる、技術の一つであり、予め、特定のキーワードを設定し、その言葉が鍵となり、覚醒後、その心理的な封印を解くものだった。


 異様な雰囲気が立ち籠めるなか、その静寂を破ったのは、花菜本人であった。


 「ああっ、やっと表に出れたぜ!」


 大きく伸びをして眼鏡を取ると、男言葉になった花菜は、自分の髪を見て、


 「ダッさいなぁ、ったく」


 無造作に髪をクシャクシャにして、荒っぽい、ボーイッシュな髪型にセットすると、


 「こんなモンか」


 胡座を掻き、欠伸をすると、


 「オッサン、久し振りだな」

 「ああ、二年振りか」


 花菜が拳を、胸の前へ突き出すと、規夫も、自分の拳を差し出し、コツンと合わせ、


 「お勤めご苦労さん、莉菜(りな)


 規夫は花菜と違う、名前を口にすると、


 「え?」


 奈々子は、急変した花菜と、規夫が発した言葉を聞き、この場で起きた現象に狼狽えていた。


 そんな事、お構いなしに、莉菜は周りを見回して、生徒達の顔を見ると、


 「そんなに驚くことねぇだろ」


 近くにいた男子生徒を軽くツッコむ。


 「一体、何なんだ、規夫」


 大輔が疑問に思うのは無理もない。規夫は振り向く。


 「お前も、ヴォイス・マスターの存在は知ってるよな?」


 都市伝説でしかないワードを、規夫は口にする。


 「ああ、表に出ない、その存在は秘匿されている、裏家業のことだろ」


 二人の言葉に、生徒達は、固唾を呑んで見つめている。


 奈々子は昼休みに、花菜が見ていたスレッドを思い出し、まさか、本職の二人から、その言葉を聞くことになるとは、夢にも思わなかった。


 「そのヴォイス・マスターが、莉菜さ」


 誇らしげに語る、規夫とは対照的に、大輔は信じられない、といった表情で、莉菜を見ていた。


 まだ、十代の彼女が、業界を影から支える、屋台骨たる存在である事実を、素直に受け入れることが出来なかった。


 「莉菜の家系は、代々、そのお役目を果たしているのさ、そうだろ?」


 規夫が莉菜を見ると、


 「まぁな」


 別段、大した事でもない様子で、莉菜が頷くと、大輔は、疑問に思ったことを口にする。


 「この学校に入学する理由が解らない」


 その言葉は当然であった。


 既に、ヴォイス・マスターとして活動している莉菜が、わざわざ、催眠暗示を掛けてまで、学校に入学する理由などない。


 規夫は、その疑問に答えるよりも先に、


 「お前も、ヴォイス・マスターの実力、見てみたいだろ?」


 規夫の提案に、大輔を始め、生徒達も、興味深げに、莉菜の姿を追うと、


 「しゃーねぇな、特別だぜ」


 ヒョイッと立ち上がり、スタスタと、録音ブースに入っていく。


 先程までの、オドオドした雰囲気は一変して、自信に満ちた、充溢したオーラを放ち、マイクの前に立つ。


 「あ、あの、一人で演技するんですか?」


 他の生徒を中に入れようと、慎二が声を掛けるが、規夫が視線で制すると、


 「一人で十分さ」


 そう言って、大輔を促す。


 慌てた様子で、


 「あ、ああ、キッ、キュー!」


 流されるように合図を送る。


 静まり返った空間に、莉菜の姿が、陽炎のように浮かび上がる。そして、演技が始まった。


 ドラマに登場する、老若男女のキャラクターと、オリジナルの俳優の特徴を、的確に複製し、尚且つ、その人物の癖や、ブレスを完璧に再現すると、息つく暇もない、台詞の掛け合いを、圧倒的なパフォーマンスで演じ切った。


 「……う、嘘だろ」


 悠一は、目の前で繰り広げられる神業に、自身の目を疑った。


 今迄、花菜の演技は、同級生の中でも、断トツに最下位のカースト。


 皆から、馬鹿にされる対象だった彼女が、都市伝説として、神格化された存在であることに、否が応でも、認めざるを得なかった。


 「か、カット!」


 その妙技に思わず、大輔は、莉菜の芝居に引きずり込まれ、録音ブースにいた、莉菜のハンドサインで、ようやく我に返ると、慌てて合図を出した。


 「どうよ?」


 規夫が、顎髭を擦りながら、大輔に声を掛ける。


 「これは、もう、人間の業を越えている」


 椅子に凭れると、ヴォイス・マスターの実力に、思わず眼鏡を取って、呆然と莉菜の姿を追っていた。


 莉菜は、録音ブースから出て来るなり、


 「クソッ、久し振りで、ナマってやがる!」


 口を大きく上下に噛むと、納得が行かなかったのか、不満げな表情を浮かべ、規夫を見ながら、苦笑いする。


 「は?」


 あの演技で、満足出来ない?冗談にしても笑えなかった。


 先程のパフォーマンスは、プロの声優達が、何回もリテイクを繰り返し、ようやく、辿り着ける境地、それ程の演技でも、当の本人は、全く納得していない様子に、大輔は、自分の価値観では計れない、莉菜の存在に、畏怖の念さえ抱いていた。


 「お疲れ、莉菜」


 規夫が親指を立て、莉菜を見ると、


 「大したことじゃねぇって、オッサン」


 謙遜ではなく、そう思っていた莉菜は、こそばゆくなったのか、頬を擦ると、


 「そ、それで、彼女が、この学校に入学した理由を教えてくれ!た、頼む!」


 先程の疑問と、好奇心が入り交じり、顔を真っ赤にした大輔が、興奮気味に規夫に詰め寄る。


 「そんな慌てんなって」


 規夫は莉菜の頭を、ポンと、子供のように撫でると、


 「簡単に言えば、スカウト、だな」

 「!」


 その四文字を耳にして、生徒達の目の色が変わり、ザワついた空気が、期待の色を帯び、視線は莉菜に、一点に集中する。


 「あんまり、ジロジロ見るんじゃねぇよ」


 莉菜は煙たがるように、手で振り払うような仕草をして、


 「オッサン、種明かしが早いっての」


 詰まらなそうに腕を組むと、莉菜は口を尖らせる。


 「で、釣果はあったか?」


 規夫の言葉に、莉菜は、


 「まぁな」


 と言って、視線を奈々子に向けた。


 「奈々子は、直ぐ現場に出せるぜ」


 その言葉を聞き、奈々子の鼓動が、急激に高まると、続いて、


 「……後は、気に入らねぇ性格だが、悠一ぐらいかな」


 指名された悠一は、思わず椅子から飛び上がると、今迄の非礼を詫びるように、立ち上がり、深々と頭を下げる。


 「へー、二人もか、大漁だな」


 規夫も満足そうに微笑むと、莉菜は、人差し指をビッと、規夫に突き出し、


 「俺の貴重な二年間を使ったんだ。オッサンが、責任持って鍛えろよ、いいな?」


 その言葉を受け止め、規夫が、


 「ああ、任せな」


 こうして秘密裏に、人格を変えてまで、優秀な人材を探し出す、大仕事を終えると、莉菜は、


 「まぁ、この学校は、他のチンケな所より、粒揃いの連中がいて面白かったけどな。ここを紹介した、ばあちゃん、見る目あるぜ」


 祖母の初代ヴォイス・マスターのフネは、業界の表も裏も知り尽くし、その影響力は絶大だった。


 そのフネの頼みならば、流石の莉菜も断ることが出来ず、二年という貴重な時間を捧げる事も了承した。


 「それじゃ、今呼ばれた二名、少し時間を貰えないかな」


 規夫が早速、二人の顔を見て、今後の話し合いの場を設けようとすると、二人は、


 「お、お願いします!」


 綺麗に揃うと、他の生徒達の羨望と、嫉妬の眼差しが、二人に視線を外すこと無く、ジッと見つめていた。


 「面倒は、オッサンに任せたぜ」


 莉菜はスタジオの扉の前に立ち、二人に、


 「今度は、プロの現場で会おうぜ!」


 そう言って振り向いた莉菜は、これからの二人の活躍を期待するように、にこやかに笑うと、スタジオを後にした。


 それ以降、彼女が学校に姿を見せることはなかった。


 都市伝説である。


 長らく、声優業界でまことしやかに伝わる『ヴォイス・マスター』と呼ばれる裏家業が、確かに存在するのか?その真実を知る者は、こう言う、


 『これは、もう、人間の業を越えている』


 卓越した技能と、才能を持ち合わせた彼女の存在は、これからも声優業界と言う、限られたフィールドで、表舞台に立つことなく、影の存在として生きていく。


 莉菜の旅路に、思いを馳せながら、この物語の幕を下ろそうと思う。


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