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推しが婚約破棄されたので、悪役令嬢(透明人間)になって復讐いたします!

 ランタス伯爵家の邸宅には、今日も二人の女性の金切り声が響き渡っていた。


「セリアーナ! 部屋の隅に埃が残っていたわよ! ああ、嘆かわしいわ。掃除一つまともにできないなんて、なんて恥ずかしい子なのかしら」


 口元に扇子を当ててつり上がった眉を顰めるのは、ここランタス伯爵家の当主夫人だ。隣で腕を組み、整った愛らしい顔に令嬢らしからぬ醜悪な笑みを浮かべているのは彼女の娘ミアである。


「そのみっともない恰好、どうにかなさったらいかがなの? ねえお母様、もしかして、この汚い服から埃が出ているんじゃなくって? だから全く屋敷が綺麗にならないのよ」

「まあ、さすがミアね。その通りに違いないわ。……セリアーナ、分かるわね? 自分で汚しているのだから、きちっと美しく掃除しておくように。床に自分の醜い顔が映るまで磨き上げなさい。終わるまで夕食にはありつけないと思いなさい」

「いやだわ、お母様ったら。お姉様の食事は夕食とは言いませんわ。あんな残飯は豚だって食べませんもの」

「可愛いミアの言う通りだわ。それに、こんな木偶の棒よりまだ豚の方が役に立つものね」


 床にうずくまる少女が言い返さないのをいいことに、二人は次々と罵声を浴びせる。

 やがて悪口のネタが尽きると、ミアは蔑んだ表情で言い捨てた。


「姉様は魔能を持たない能無しなのに、うちにいられるだけありがたいと思ってもらわなきゃ困るわ。さあ、ぼさっとしてないで早くして頂戴!」


 二人は高笑いを残し、すぐにセリアーナのことなど忘れてしまったかのように、このあと出かける予定の宝飾店の話題に花を咲かせながら廊下の奥へと消えていった。


 座り込んで微動だにしなかったセリアーナは、ようやくのっそりと動き出す。


(はあ……。やっと行ってくれたわ。もう耳にタコができるほど聞かされているから、心も痛まなくなってきたわね。痛むのはずっとしゃがんでいた足だけよ)


 セリアーナは再び雑巾を絞り、冷たい床に手をついて磨き始める。彼女とミアはたった一歳しか違わない姉妹であるのに、その扱いには天と地ほどの差があった。


 妹のミアは美しいブロンドの髪と澄んだ海のように美しい青い瞳を持つ美少女で、怪我や病気を癒す魔能を持つ。一方姉のセリアーナは赤銅色の癖っ毛で、瞳の色もグレーと地味だ。華やかな色彩が魅力として挙げられるこの国では、醜い部類に入るだろう。


 それでも十歳までは、見かけ上は妹とほとんど同じような暮らしをしていたのだ。


 このようにメイド以下の扱いを受けるようになったのは、彼女に『魔能』がないと判明してからだった。ミアのように癒しの力であったり、あるいは見たものを鑑定できるとか、身体能力を強化できるとか。人それぞれ種類は違うけれど、貴族なら誰でも持つ特殊能力=魔能が彼女にはまるでない、と分かってから、一族の恥とばかりに家族は態度を豹変させ、セリアーナを虐げるようになった。


 最初は家族の変わりようや心ない言葉に傷ついていたけれど、五年も経てば悲しい顔をしながら小言を聞くふりをして、頭の中では別の楽しいことを想像するという芸当も板についてきた。

 加えて、高等学園に入学してからの彼女は大きな生きがいを見つけていたから、これっぽっちも悲しくなんてないのである。


(早く掃除を終わらせて、あのお方の元へ行かなきゃ。今日はお休みだけれど、きっといらしているに違いないもの!)


 セリアーナは目にもとまらぬ速さで言いつけられた掃除を終わらせて、汚れ切ったお仕着せから制服に着替える。これが唯一、清潔な衣服だった。

 はやる気持ちを抑えながら屋敷を飛び出し、街を駆ける。息を切らせて辿り着いたのは学園の図書室だった。


(ああ、やっぱり。いらっしゃったわっ!!)


 神に感謝しながら息を整え、何でもない顔をして入室する。

 平日も休日も図書室は閑散としていて、常連ともいえる決まった数人しか来ていない。ハアハアとした息遣いは静かなこの空間では目立ってしまうので、必死に押し殺す。


 本棚からタイトルも見ずに数冊抜き取っていつもの席に座る。目的の人物はいつも前から五番目の窓際の席に座ることに気がついてからは、もっとも素晴らしい角度から眺められるこの席がセリアーナの指定席になっていた。


(ジャレット公爵令嬢、コルネリア様! 本日もなんて凛々しいお顔をされているのかしら。美しく伸びた背筋に宝石のように高貴な紫色の瞳。憧れますわ……っっ!)


 先ほど持ってきた本を顔の前に広げ、表紙の陰から熱視線を送る。

 観察を始めたころ、我を忘れて眺めすぎてしまい、視線に気付かれてしまったことがあった。困ったように会釈をしてくれる姿も尊かったが、困らせたくはないので以後十分に気をつけている。


(お姿だけでなく、コルネリア様は心まで美しいんだもの。コルネリア様が王太子妃になるのだから、この国の未来は安泰ね!)


 家族から虐げられているセリアーナは、国内貴族が通う華やかなこの学校でも、見た目の地味さが影響して友人がいなかった。彼女の実家は弱小伯爵家だから、繋がるうまみもなかったのだろう。


 いじめを受けているわけではないけれど、クラスメイトからは存在をまるで無視されている。彼女が時間を潰すために――家に帰りたくないがために図書室に入り浸るようになったのは、ごく自然な流れだった。

 図書室はいつもガラガラだったから、居心地はよかった。自分の他には、イチャイチャして勉強や読書などしていないカップルが一組、丸ぶち眼鏡をかけた真面目そうな男子学生、そしてコルネリア様というのが固定メンバー。テスト前になるとちらほら人は増えるけれど、いつも変わらず静かなこの空間に身を置いて物語の世界に身を投げると、辛いことを忘れられた。


 セリアーナがコルネリアを『推し』ている理由は見た目だけではなかった。

 二年次の女子ナンバーワンの秀才であるとか、三年次に在籍する第一王子ユージーンの婚約者であるとか、そういうことでもなかった。


 それは、セリアーナが図書室に通い始めるようになってから間もなくのことだった。丸ぶちメガネ君が、よいしょよいしょと運んでいた本の山を派手にぶちまけてしまったのだ。

 はずみで近くの机に座っていたコルネリアのペン壺が倒れて派手に汚れてしまったのに、彼女はにこやかな微笑みをたたえたままこう言ったのだ。

「お怪我はありませんこと? 拾い集めるのを手伝いましょう」

「あっあっ。ご、ごめんなさい。汚してしまいました」

「お気になさりませんように。もう一度書けば、反復になりますので覚えが良くなりますから」

 学園のマドンナに粗相をしてしまい恐縮しきりのメガネ君に神対応をしたのだ。

 少し離れた場所から顛末を目撃していた私は、文字通りまるで物語に出てくる女神のようだと感激したのだった。


 コルネリア様の四つ前がイチャイチャカップルの指定席なのだけれど、彼らがどんなにベタベタしようとも決して心を乱すことはない。キスをしていようが怪しく手が動いていようが、コルネリア神は菩薩の顔でノートにペンを走らせる。煩悩などとは無縁の尊い存在なのだ。


 自分のような者に興味を持たれては迷惑だろうと、セリアーナは極力気配を消して推しの観察を続けていたのだけれど。彼女もまた、一度やらかしてしまったことがあった。

 日当たりのよい図書室はぽかぽかとして暖かい。その日セリアーナは、前日夜遅くまで母にこき使われていた疲れから居眠りをしてしまっていた。ビクッと身体が揺れた拍子にペンが机から落ちて、コルネリアの足元に転がっていってしまったのだ。

 しまった、と思ってももう遅い。あのペンは妹のお下がりだからボロボロである。それでも自分にとっては一本しかない大切なペンだけど、公爵令嬢からしたらゴミ同然。

 恥ずかしさでセリアーナが固まっていると、――神はやはり微笑んだ。

「……こちら、あなたのペンかしら」

「はっ、はい! 申し訳ございません。お足元を失礼してもよろしいでしょうか」

 自分で拾おうとしたが、コルネリアはさらりと艶のある黒髪を耳のあたりで抑えながら身を屈めた。

「はい、どうぞ。……こんなに使い込んでいらっしゃるなんて勤勉なのね。お勉強、がんばってね」

「あ、ありがとう、ございます……」

 向けられた凛々しく美しい笑顔が、脳裏にくっきりと焼き付いた。

 暖炉の前に一時間も座っていた時のように、熱くぼんやりとした気持ちでふらふらと席に戻る。

 しばらく放心状態だったが、やがてじわじわと涙があふれてきた。


(初めてだわ。誰かに認めてもらえたのは)


 家でも学校でも。能無しだとか地味だとか、虐げられてきた自分にとって、初めて掛けられた肯定の言葉だった。

 コルネリア様は人をステータスで判断しない。悪い所ではなく良い所を見て下さるお方なのだと実感してから、もしコルネリア様に何か不幸が起こったら、自分は絶対に味方になろうと強く心に決めたのだった。


(――――でも。コルネリア様は王弟殿下が当主を務める公爵家のお一人娘ですし、第一王子殿下のご婚約者様ですから、そう悪い目には遭わないと思いますけれどね。それに、万が一があっても、わたくしのような小粒に何ができるというわけでもないんですけれど……)


 数刻前の床磨きで酷使した太腿をさすりながら、セリアーナは考える。

 物語の中で、自分のような人間はいつだって脇役だ。コルネリア様のように賢く美しいお姫様がいて、その隣には強くて優しい王子様がいて。自分は後ろの方に並ぶ、顔すらはっきりと見えない “その他大勢” がいいところだ。


 彼女は誰にも気づかれないように、小さくため息をついたのだった。


 ◇


 ――ところが、なんとその万が一が起こってしまったのである。

 それは冬学期の最終日のことだった。休み前の全校集会の場にて、突如ステージに上がった第一王子は高らかに叫んだ。


「コルネリア・ジャレット嬢! そなたとの婚約はこの場を以て破棄させてもらう! そして俺は新たにこのマルゲッタ嬢と婚約することを、この場で宣言する!」


 ざわり、と一気にどよめく生徒たち。なぜなら第一王子ユージーンの腕には、コルネリアではない女性の腕が絡んでいたからだ。

 ピンク色の柔らかそうな髪に、うるうるとした水分量多めの瞳。あの方は確か、自分と同じ一年生のマルゲッタ男爵令嬢ではなかっただろうかとセリアーナは狼狽する。妾の子供で平民だったけれど、諸事情により男爵の父に引き取られたということは、情報弱者の自分でさえ知っていた。


 マルゲッタ嬢は怯えた表情で殿下の腕にすがっているものの、セリアーナにはそれが演技であるということが一目でわかった。なぜなら彼女には、たいそう演技が上手いミアという妹がいるからである。


「……恐れながら、理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」

(こっ、コルネリア様っ!!)


 粛とした態度でコルネリアが前に進み出る。推しのピンチに、セリアーナの拳にも自然と汗が滲んでいた。

 ユージーンは淑女然とした立居振舞を崩さないコルネリアを鼻で笑う。


「ふん。しらを切るつもりか? 平民上がりということを理由にして、マルゲッタに陰湿な嫌がらせをしていたことは調査済みだ。よって、そなたに国母になる資格はないと判断した」

「誤解でございます。そのようなことはいたしておりません。そもそもマルゲッタ嬢とは学年も違いますし、接点がございません」


 冷静に進言するけれど、二人の世界に入っているユージーンとマルゲッタ嬢にはまるで届いていない。


「……怖いですけれど、証拠を言えとおっしゃるならば、あたし、証言いたしますわ」


 熟れた果実のようにぷっくりとした唇から、甘ったるい声が漏れる。


「無理するな、マルゲッタ。心の傷が癒えていないだろう」

「ううん。殿下との未来のために、あたしも強くならなきゃだめ。……二週間前の、雪の降った日のことですわ。放課後、コルネリア様があたしの教室で教科書を破いているところを目撃してしまったの。他にも――――」


 言い終わるとマルゲッタはよよよと泣き崩れ、レースのハンカチで目を抑えた。ユージーンはくっと唇を噛んで彼女の肩を抱きしめる。


 場の空気はユージーンらに傾いていた。マルゲッタは大根役者だったが、彼女の芝居はどこか煽情的で、妙に皆の同情を誘った。終始毅然としているコルネリアは、不運なことに、その態度がかえって傲慢に映ってしまったのだ。


 セリアーナは憤りを隠せなかった。


(ちょっと! みんな、あんな猿芝居に騙されてしまうわけ!? 自分とご友人の証言が証拠ですって? そんなの、いくらでも捏造できるじゃないの)


 全校生徒の前で突然始まった婚約破棄騒動。

 気丈に振る舞っていたコルネリアの顔がだんだんと青ざめていく。平静を装っているものの、腕は小刻みに震えていた。


 いつも凛としている推しがみせた、初めての負の感情。不安や悲しみ、混乱といったものを必死に抑えようとしている姿を目の当たりにして、セリアーナはぎゅうっと胸が締め付けられた。

 そして、気がついたら思いっきり叫んでいた。


「コルネリア様は無実ですわ! なぜなら先々週、雪の降った火曜には、放課後ずっと図書室におられましたもの!」


 一斉に自分に目が向けられる。

『誰だこの地味な生徒は?』という視線が全身を貫いていくが、セリアーナは必死でコルネリアの無実を訴える。


「他の日だって! コルネリア様はいつだって図書室におられましたわ。王太子妃になるために、いつもいつも勤勉に自習をされておられるのです。国母の器じゃないなんて、あんまりです!」


 突然叫び出した一年生に対してユージーンは白けた視線を向ける。


「戯言を。おい、誰かあやつをつまみ出せ。まったく、ブスの癖に出しゃばるなよ。そのようなことをして目立っても、俺の心はマルゲッタのものだ。浅はかだな」

「ほんとうにコルネリア様はやっていません! ちょっと……、離して! 痛いってば――――」


 ユージーンの取り巻きに引きずられて、セリアーナは強制退場させられた。締まるドアの向こうで最後に見えたのは、涙を浮かべたコルネリアの悲しそうな表情だった。


 ◇


 王都貴族街に位置する、とある伯爵家の邸宅には、ピシン! バシン! という物騒な音が響き渡っていた。

 静かな夜の帳。屋敷の外まで聞こえる鞭の音に、通りがかった人々は眉を顰める。

 激しい折檻を受けているのはセリアーナだった。


「まったく! セリアーナ、あなたってほんとうにごく潰しだわ。ユージーン殿下に盾突いたばっかりに、お父様が注意を受けたそうよ。我が家が冷遇されたらどうしてくれるのよ! このっ! このっ! 反省なさいっ!」


 鬼のような形相で鞭を振り下ろす母親。サイドテーブルに腰かけて優雅にティーカップを傾けるミアは、鞭で打たれる姉を見世物のように楽しんでいる。

 無口な父親は、日ごろ自ら手を下すこともないが、虐げられるセリアーナを助けることもない。鞭の音は屋敷中に響き渡っているが、仲裁に来ることはないだろうと分かり切っていた。


(――――後悔なんてしてないわ。だって、コルネリア様はやってないもの。あの方がいるから、わたくしはこの世界は悪人だけじゃないって知った。唯一無二のコルネリア神を傷つける者は、誰であっても許さないわ!)


 薄汚いお仕着せは破れ、血が滲んでいる。意識を失うまで鞭打たれたセリアーナは、ぼろ雑巾のように極寒の屋敷外に捨てられた。

 仁王立ちした夫人がゴミを見るような目を向ける。


「勘当よ、セリアーナ。もう二度とこの家の敷居を跨がないで。能無しなんだから、せいぜい身体でも売りなさい。まあ、大した値段なんてつかないでしょうけれど」


 言い捨てて、伯爵家の門は固く閉ざされた。


 痛みで動くことができず、セリアーナはごろりと仰向けになって夜の空を見上げる。丸い月が涼やかに自分を見下ろしていた。


(……こんな日でも月は美しいのね。……でも、なにかしら。心はすっきりしたわね。あの家にいるくらいなら、一人で生活したほうがましだもの……)


 季節は真冬。皮膚は鞭打たれたせいで熱を持っている一方で、身体の芯はひどく寒かった。

 地面に倒れたままぼんやりと紫色の空を見上げていると、白いものが舞い落ちてきた。頬にふわりと乗ったそれは優しく溶けていく。


(雪……)


 なんだか眠たくなってきた。どこか温かい室内に移動しないとまずいと理解していても、動くことがひどく億劫だ。

 自分はこのまま死ぬのかもしれない。薄れゆく意識の中で走馬灯のように見たものは、愛すべき場所だった図書館の風景。いつも真面目なメガネ君に、大天使コルネリア様。あの場所にもう一度行きたかったと思いながら、セリアーナは瞼を閉じた。


 ◇


 ぱちりと目を開けたとき、はて自分はどこにいるのだろうとセリアーナは混乱した。

 明らかに上質な寝具に、お姫様が寝るような天蓋付きベッド。両親にちやほや可愛がられているミアの部屋だってこんなに上等ではない。

 すると、タイミングよくドアが開く。入ってきたのはコルネリアだったから、ここはよもや天国かとセリアーナは目を疑い、がばりと跳ね起きた。


「おお神よ! 感謝いたします! 死んでもコルネリア様にお会いできるだなんて! わたくしはなんと幸せ者なのでしょう」


 合掌して天を仰ぐ姿に、コルネリアは微笑んだ。


「まあ、セリアーナったら。寝ぼけているの? 可哀想に、あちこち怪我をしてしまって。医師の手当ては済んでいますから、ゆっくりお休みになって」


 コルネリアは水を張った盥を置き、タオルを絞ってセリアーナの手の傷を拭き始めた。その感触は死後の世界とは思えないほどはっきりしていたから、思わず彼女は自分の頬をつねる。


「……痛い」

「あら! ごめんなさい。もっと優しくするわね」

「あっ。違うんです。これは夢かと思って……」


 夢じゃない。現実だった。どうして自分は推しの家に転がり込んでいるのだろう。しかも分不相応な寝室に寝かせられ、新品のお高いパジャマまで着せてもらっている。


(お古で十分ありがたかったですのに。コルネリア様が使い古したやつ。さぞかしいい香りがするのでしょうね。……っというか、わたくしコルネリア様と会話をしておりますわ! ああ、声まで清流のせせらぎのごとく澄んでおられますわ。聞いているだけで心が洗われる…………)


 森の妖精のように清らかで愛らしいお声だ。見た目はクール系で凛としているのに、声は鈴を転がすように可愛らしいというギャップがたまらない。


「……えっと、セリアーナ? 涎が出ているわ。顎も怪我をしているのかしら。大丈夫?」

「あっ、見苦しいものを失礼いたしました。顎は負傷しておりません」


 名前を知っていただけていたことにも感動していると、彼女は手を止めて状況の説明をしてくれた。


「あなた、わたくしを庇ったばっかりに立場が悪くなってしまったでしょう。……でも、わたくし、とても嬉しかったのよ。ユージーン殿下に物申せる人間なんていないもの。あの場で声を上げることの難しさは理解しているつもりよ。謝罪とお礼をお伝えしに伯爵家を訪ねたら、門の前で倒れているあなたを見つけたの」


 状況からすべてを察したコルネリアは、セリアーナを公爵家へ連れ帰った。

 横暴な第一王子の所業に怒り心頭の公爵は、唯一娘を庇ったというセリアーナを快く受け入れた。あちこちに血が滲んだ身体を見て、もう伯爵家へは帰さない、うちの養女にするとまで宣言している。


「だから、どうかここにいて頂戴ね。あなたはわたくしの恩人なの」


 コルネリアは天使の笑みを浮かべてセリアーナの手を握る。

 温かくてすべすべした感触に昇天しそうになるが、セリアーナは歯をくいしばって耐えた。まだまだ生きて推しを見守り続けたい。


「でっ、でも。ご迷惑ですよ。コルネリア様も大変な時にご負担を増やしたくありません」

「全く問題ないわ。それにあなた、その様子だと帰る家がなくなったのではなくて? 近所の住民の方々が、『勘当よ!』という伯爵夫人の怒鳴り声を聞いたと教えてくれたわ」

「そっ、それは……。でも、平気です。身体だけは丈夫なので、住み込みの仕事でも探します」


 家族のゴタゴタを知られてしまった恥ずかしさで顔を赤くすると、コルネリアは小さくため息をつき、再度申し出た。


「厳しいことを言うけれど、住み込みの仕事だけでは学費すらまかなえないわ。あなたが学園を辞めることになったら、わたくしとっても悲しいの。わたくしの我儘を叶えると思って、どうかこの屋敷にいてちょうだい。生活費や学費は、味方になってくれた謝礼として受け取って。もちろんお父様もそれを望んでいらっしゃるわ」


 コルネリアの表情は真剣で、心からそう思っていることが伝わってきた。


(コルネリア様がわたくしなどのためにこんなに真剣なお顔を……! ああ、どうしたらいいのかしら。働くのは問題ないけれど、学園を辞めたら女神に会えなくなってしまうわ。それは困るし……)


 金銭全面援助で推しと一緒に住むなど、セリアーナには恐れ多すぎることだった。しかし、はるか格上の公爵家からの申し出を断るというのも、それはそれでマナー違反にあたるということも知っていた。 


 何往復も問答を繰り返し、結局身体が治るまではこの部屋を使わせてもらうが、学園に行けるくらいまで回復したら、離れの古いコテージハウスに移動するということで話がまとまった。養女の件は、これこそすぐには判断がつきかねたので、ひとまず保留にしてもらった。


 ◇


 医師からは全治二週間と診断されている。

 ベッドでの暇つぶしにと、コルネリアは図書館からたくさんの本を借りて差し入れてくれた。『後輩いじめによって婚約破棄された公爵令嬢』というレッテルを貼られた彼女も辛いに違いないのに、セリアーナの前では明るく気丈に振る舞っている。


(お辛い気持ちを少しも見せないなんて。やっぱり淑女の鏡。国母の器だわ。……いいえ、この世界を統べる女神の器と言った方が適切ね。マルゲッタ嬢が王妃になったら、正直この国は“推せ”ないわ……)


 日当たりのよいベッドからふと窓の外を眺める。世界は今日もいつも通りの風景だ。

 実家に居たころはのんびり外を眺めることなんてできなかったから、実に贅沢なひとときだと思う。

 あの家でも、いつも通りに時が流れているのだろう。もともと要らない部品だった自分が抜けたところで、両親と妹にはなんら支障は生じないのだ。


 手元の本に目を戻す。手遊びにパラパラとページをめくると、裏表紙の袖が目に入った。紙製のポケットに入っているのは貸出カードで、当たり前だがコルネリアの記名がある。

 コルネリア様は文字も美しいのよねと誇らしい気持ちになりながら、その上の行に書かれた名前に目が留まる。


「アルフレッド・レオニディス……」


 それは、この国の第三王子殿下の名前だ。

 同じ学園の二年次に在籍しているらしいが、あちこちで姿を見かける第一王子のユージーン殿下と違って、アルフレッド様の姿はお見かけしたことがない。コルネリア様と首席を争うぐらい優秀だとか、無口で付き合いが悪いとか、本当かも分からない噂を時折耳にするぐらいだ。

 けれどよく知ったような気持でいるのは、この図書カードが理由だった。


(わたくしが借りる本は、九割がた先に借りられているのよね。入学に一年の差があるとはいえ、とてつもない読書量よ)


 ユージーン殿下はそう見えないけれど、本来王子とは多忙なもの。学園での勉学以外にも王族としての仕事があるはずなので、読書する時間なんてあるのだろうか。正体不明のアルフレッド殿下について、セリアーナは時々思いを巡らせることがあった。


(もしお会いできるようなことがあれば、せひ本のお話がしたいわ。お互いの読書体験について語り合いたいし、おすすめの本も教えていただきたいわね)


 図書室通いが始まってから、セリアーナは読書が大好きになった。推しの観察という理由がなくたって、世知辛い現実から素晴らしい物語の世界へ飛び立つ体験は心の大きな支えだった。失いたくないと、初めて心の底から感じたものだった。

 そしてまた、同じように日々図書室を利用しているコルネリア様にとっても、大切な場所に違いないと思うのだ。


(……わたくし、今が変わるときなのかもしれないですわ)


 ぱたんと本を閉じて、セリアーナは再び窓の外の、眩しい太陽を見上げたのだった。


 ◇


 セリアーナはその晩、覚悟を持って切り出した。


「コルネリア様。わたくし、悪役令嬢になろうと思いますわ」

「……セリアーナ。今、悪役令嬢と聞こえたのだけれど、聞き間違えよね。もう一度おっしゃってくださる?」


 菩薩の顔でコルネリアが聞き返したたため、セリアーナはもう少し大きな声で同じことを繰り返した。


「わたくし、悪役令嬢になります。ユージーン殿下とマルゲッタ嬢は明らかに嘘をついていますわ。コルネリア様を悪者にして、自分たちだけ幸せになろうだなんて都合がよすぎます!」


 登校していないのでその後の学園の状況が分からないが、セリアーナは推しの些細な表情の変化も見逃さない。どこか物憂げで気の晴れない表情から、あの二人はやりたい放題なんだろうという想像はついていた。

 政略的な婚約者だからショックはないわ、とコルネリア様は言っていたけれど、そういう問題じゃない。推しをコケにされて黙っているファンがどこにいるだろうか。


「気持ちは嬉しいわ、セリアーナ。わたくしだって、正直思うところはあります。けれどね、相手は第一王子よ。下手なことをすればあなた自身が危ないわ」

「そのご心配は不要です。……コルネリア様、わたくしのことを見つめていただけますか?」

「えっ?」


 言ってから、なんだか恥ずかしい言い回しだったわと赤面するセリアーナだったけれど。アメシストのような瞳に見つめられながら、彼女は能力を発動した。


「……あら?? 瞬きの間にセリアーナがいなくなったわ。いったいどういうことかしら」


 慌てるコルネリアの声に、セリアーナは再び姿を現す。

 淑女の仮面が剥がれ、鳩が豆鉄砲を食らったような表情の彼女に説明する。


「……実は、わたくしの魔能は『透明になれる』というものなんです。これを使えば、正体がバレることなく復讐できます」

「と、透明になれる? そのような魔能は聞いたことがありませんわ。国に一人いるかどうかの、貴重な能力ですわ」


 ――そう。だからセリアーナは『無能』ということになっていた。開いた口が塞がらないコルネリアの表情が、この能力の特異性を物語っていた。


 貴族の令嬢令息は、十歳になると魔能の測定を受けることになっている。将来の進路を考える一助とするほか、稀有な能力であればよりよい縁組にもつながる。貴族にとってはまさに人生の一大イベントだ。

 セリアーナを測定した神官は目を見開き、そしてすぐさまもう一度測定を行って結果が間違いがないことを確認すると、そっと彼女の耳元に口を寄せた。

「お嬢さん。君には透明になれる魔能があるが、この能力は諸刃の剣だ。お家の人には、魔能はなかったと伝えなさい。将来、自分が信頼できると判断した人にだけ打ち明けるといい」

 そのときは神官の言葉にピンときていなかったセリアーナだったが、帰宅して無能だったと伝えたとたん豹変した家族たちを見て、ああこういうことかと納得した。裏表があるような人に知られたら、きっと自分はいいように利用されてしまうのだろうと。

 忠告のおかげで、虐げられこそすれ悪事の片棒を担がされることはなかった。透明になって母やミアに仕返しをしようかとも思ったけれど、そんなことに魔能を使うと、せっかく自分の将来を心配してくれた善き神官に申し訳ない気がして、ぐっとこらえた。


 ――それから五年が経って、セリアーナはようやく信頼できる人を見つけた。その人のために、この魔能を使って復讐をするのである。


「――それにコルネリア様。わたくし、今が転換期だと思っているんです。実家から連れ出していただき、ここで心身を休めるうちに、自分にはやりたいことがたくさんあるのだと気がつきました。失いたくない場所もきちんと認識することができました。これからは自分がやりたいと思うことをやって生きてみたいのですわ。物語に出てくる、颯爽とした悪役令嬢のように」


 彼女はコルネリアが借りてきてくれた本を取り出してみせる。

 義に厚い令嬢がヒール役を背負いながらも、自分の信念や人助けのために奔走するという活劇小説だった。


 セリアーナの瞳は生き生きと輝き、かつて図書室で肩をすぼめ、俯くように本を読んでいた令嬢の影はどこにもない。

 特殊な魔能を目の当たりにして驚き冷めやらぬコルネリアだったが、彼女の凛として決意に満ちた声に、これ以上異を唱えることはできなかった。


「……分かったわ。でも、これだけは約束して。決して無理はしないでね。わたくしはあなたの気持ちだけで十分支えになっているのだから」

「はい! これからも推し活を……ゲフンゲフン。コルネリア様をお支えしたいので、無茶はいたしません。お約束します」

「ありがとう、セリアーナ。わたくしは幸せ者ね」


 目の端を赤くしたコルネリアが差し出した手を、セリアーナは崇めるように恭しく、そっと握り返したのだった。


 ◇


 ――かくしてセリアーナは悪役令嬢に転身した。

 身体が治った後、透明になって意気揚々と向かったのは王城だった。


(みていなさい! 山より高いユージーン殿下のプライドをへし折ってやるわ!)


 ユージーンの部屋を特定し、日が暮れるのを待つ。

 デート終わりらしき彼が帰室し、湯あみに向かったら行動開始だ。


(着替えを全部燃やしちゃうわよ! メイドを呼ぶベルも必要ないわね! はいっこれもこれも、ぜーんぶポイよ!!)


 暖炉に夜着を投げ込み、ベルは窓の外に放り投げる。身体を隠せそうなタオルやシーツ類も、漏れなくみんな処分した。

 素早く仕事を終えたセリアーナは、脱衣室から上がる慌てふためいた声ににやりと口角を上げた。


「なんだこれは! 服がない。ベルもないじゃないか。おい、誰か! 来てくれ!」


 浴室のドアが薄く開き、濡れたままのユージーンが居室に顔を覗かせる。タオルもシーツもないという状況を理解すると、彼は羞恥に顔を赤らめ、ぐるぐると全裸で部屋を歩き回ったものの、やがて意を決したように廊下へ出た。


「キャ――――ッ!!!! 変質者っっ!! 誰か来て! 殿下のお部屋の近くに素っ裸の変態が!!!!」


 廊下で行き会ったのは、運悪く勤めて日が浅いメイドだったらしい。

 第一王子の顔も知らぬ彼女は、まさか全裸で登場した男性がご本人だとは思わない。びしょびしょに濡れて前髪で顔が隠れていることもあり、ユージーンは駆け付けた近衛騎士に拘束された。


「このっ! このっ! どこから入ったのよ! 不届き者めっ」


 新人メイドは職務意識に溢れた勇敢な人物だったようで、近衛の腰から警棒を抜き取ってユージーンをめちゃくちゃに叩いた。おそらくすぐに正体はばれるだろうけれど、実に愉快な光景だった。


「いてっ! こら、俺を誰だと思っているんだ。ただじゃ済まされないぞ!」

「うるさいわねっ! 反省なさい! 裸になるならねっ、もっと立派なものをつけてからしなさいよっ!!」

「なっ、なんだとっ……!! このアバズレめっ」


『小さい』と言われてしまったユージーンは顔を真っ赤に染め上げる。


(うふふ。確かにご立派とは言い難いものですわね)


 夏場に川で水遊びをしている幼児ほど、とまではさすがにいかないけれど。なんだかお可愛らしいものがついているわね、と思ったのは事実だ。あのメイドとは気が合うかもしれない、とセリアーナはほくそ笑みながら公爵邸に帰った。

 顛末を話したコルネリアは顔を赤くしていたけれど、「それは痛快でしたわね」と心からの笑顔を浮かべたので、セリアーナは推しを少しでも元気づけられたことにホッとしたのだった。


 立て続けに事件を起こすと不自然だと思ったので、セリアーナは十日に一度のペースで復讐を行うことにした。

 次に実行したのは『蜂蜜作戦』。これ見よがしに学園の中庭でイチャイチャしている二人の背中にそうっと蜂蜜を垂らす。ジャレット公爵家の領地では養蜂が盛んなので、蜂が好む特別上等なものを融通してもらったのである。

 中庭には見事な花畑が広がっている。さっそく匂いに反応した蜂たちが、ブゥーンと不穏な低い音を立てて二人の背中に群がり始める。


「きゃっ! 蜂ですわ! 殿下、怖いですっ!!」

「うわっ!? いきなりなんだ、こんなにたくさん! って、マルゲッタ。そなたの背中に蜂蜜がついているぞ。そのせいだ!」

「あたしの背中に蜂蜜が!? いったいどうして。……あっ、痛い! やだ、刺されたわ。痛い痛い、あっちに行ってったら!」

「こっ、こちらに来るなマルゲッタ! 俺の方にも蜂が来るだろう!」


 裏手の森からも蜂が誘引され、暴れる二人を容赦なく刺していく。

 自分の背中にも蜂蜜がついているとは知らないユージーンはマルゲッタが元凶だと思い込み、彼女を置き去りにして自分だけ逃げるように走り出した。


「すまない、マルゲッタ!」

「あっ、殿下! あたしを置いて逃げるのですか!?」


 呆然としたマルゲッタの顔は、コルネリアへのいい土産話になったのだった。


 ◇


 十日後。次の復讐日がやってきた。

 セリアーナは今日も悪役令嬢として暗躍する。


 昼休み、ユージーンとマルゲッタが噴水前のベンチで乳繰り合っていることは周知の事実だ。

 互いの腰に手を回し、濃厚なキスを重ねる。蜂蜜事件のあとマルゲッタは立腹だったらしいが、ユージーンが高価なバッグを買い与えたことで和解したという話を聞いた。

 彼らの逢瀬の邪魔をするとコルネリアのように排除されかねないので、噴水前には人っ子一人いない。――透明になったセリアーナを除いて。


「今日も美しいね、マルゲッタ。コルネリアのように何を考えているか分からない冷たい女より、百倍も愛らしい」

「ユージーン様のいじわる。他の女性の名前を出さないでくださいまし」

「悪かった、すまない。詫びのキスだ」


 男と女の唇が近づいたところで、二人の目の前で息を潜めていたセリアーナは、手に握りしめていた糊の容器にぎゅっと力を加えた。


「――――!?!?」


 とろりとした感触に気がついたときには、二人の唇はぴたりとくっついて離れなくなっていた。


「ふんあなんんななな!? (なんだこれは!?)」

「ななななんんんっっ! (離れませんわっ!)」


 上手くいった。笑い声を押し殺しながらセリアーナは現場を離れ、遠巻きに事態を見守る。

 騒ぎに気がついた生徒たちがなんだなんだと集まり始めたが、熱烈なキスをかましている二人をみつけると、気まずそうに去っていく。盛り上がっているところ申し訳ないといった表情だ。

 助けてほしいユージーンとマルゲッタは必死でうめき声を上げるが、なかなか伝わらない。最終的にはキスをした状態のまま、どよめく学園内を移動して救護室に入っていった。


 ほとんど全校生徒に失態を目撃され、「なあに、あれ?」「さすがにはしたないわね」「見境がなくって嫌ね」と後ろ指差されたことで、大衆の面前で婚約破棄された時のコルネリア様の気持ちが少しは理解できたかしら、とセリアーナは胸がすいたのだった。


 一仕事を終えて満ち足りた気持ちのセリアーナは、放課後いつものように図書室に向かう。

 席について課題を取り出そうと鞄を開けると、思わず口から声が漏れた。


「うわっ! あ~、やっちゃった……」


 昼間に使った糊が鞄の内側にべったりと付着している。蓋をきちんと閉めていなかったのだ。


(洗って落ちるかしら? 新しいものを買うとなると、コルネリア様にご迷惑をかけてしまうわ)


 コルネリアはもちろん許してくれるだろうが、そういう問題ではない。

 推しに余計な迷惑をかけるなんてファン失格だ。

 泣きそうな顔をしていると、恐る恐る彼女に声を掛ける者があった。


「あっ、あの。どうかしましたか? いや、あの。やっちゃったと、声が聞こえたので。なにか困っているのかと……」


 丸ぶちメガネ君だった。牛乳瓶の底のような曇ったメガネに、銀色の輝くような髪。こんなに近くで見るのは初めてだからか、セリアーナには、その二つの組み合わせがどこかアンマッチに見えた。

 彼も図書室常連組だから互いに存在は知っているが、会話するのは初めてだ。


 以前コルネリア様とやりとりしていた様子から、コミュニケーションは苦手そうだったのに。そんな人物が勇気を出して声を掛けてくれたと思うとなおさら嬉しく感じられて、半泣きだったセリアーナの目からはとうとう涙がこぼれ落ちた。

 どれだけ鞭打たれても涙は出なかったのに、親切ひとつで涙腺が緩むなんて不思議なことねと胸が熱くなる。


「あっ、えっ! ごめんなさい。僕、何か余計なことを言いましたか?」

「……いいえ。すみません。なんでもないんです。えっと、鞄に糊があふれちゃって。思わず声が出ちゃったんです」


 ごしっと制服の袖で目をぬぐい、にこりと笑ってみせる。メガネ君は自分が失言したわけではないと分かり、引き結んだ形のよい唇の端をほっと緩めた。


「よ、よかった。それで、鞄ですね。失礼。ちょっと拝見しても? ……あっ、この糊だったら、確か中和剤の作り方がありますよ」


 メガネ君はまっすぐに三列目の本棚に向かい、一冊の分厚い本を持って戻ってきた。目次を参照して当たりをつけ、綺麗な指でパラパラとページをめくる。


「あっ、よかった。載ってました。これですね」


 メガネ君はぽりぽりと頬かいた。


「……よかったら僕、作ってきましょうか? こっ、これ、差し上げます。食べて待っていてください」


 机の上に置かれたのは、りんご味のキャンディだった。

 セリアーナはこの赤い包装紙を知っていた。妹が食べたい食べたいと騒ぎたて、買いに走らされた人気店のものだ。完熟りんごの果汁を最高級の砂糖から作った水あめで練って固め、サクサクの糖衣をまぶしている。ミアと母が食べるのを見ていただけだが、芳醇なかぐわしい香りだけで喉が鳴った記憶がある。


 メガネ君も流行りの菓子を買っているのかと思うと、失礼ながら意外だった。

 けれども、ここは貴族の子供が通う学園だ。世間知らずなのは自分だけだろうと考え直す。


「これ、有名店のお菓子ですよね。こんな高価なものいただけません。お気持ちだけで十分ありがたいです。中和剤も、やり方が分れば自分でできます。ご迷惑おかけしました」

「いえ、これは貰い物で……。あっ。ごめんなさい。貰い物を貰っても嫌ですよね。ああ、これだから僕は……」


 上手く話せない自分にメガネ君は幻滅していた。存外広い肩を落とし、しょんぼりと項垂れている。

 その様子がおかしくて、自然とセリアーナは笑顔になっていた。


「ふふっ。……あなたとお話ししていたら、なんだか元気になってきました。いつも図書室にいらしていますよね。もしよかったら、本の話でもしながら一緒に中和剤を作っていただけませんか? 生憎お礼できるものはないんですけれど、おすすめの本でしたらお教えできますよ」

「あっ! えっ! い、いいんですか。ぜひ!!」


 メガネ君は不思議なくらい喜んだ。きっととても本が好きなのだろうと、セリアーナは温かい気持ちになった。

 実験室に移動して、和やかな雰囲気で中和剤を作り始める。本についての会話は弾み、お互いに好きな本を教え合った。好みの傾向が似ていることでさらに盛り上がり、メガネ君は「この本がお好きなら、あの本もおすすめですよ」などと豊富な知識でセリアーナの興味を引いた。


(いつも座っている姿しか見ないから、立って並んでみるとすらりと背が高いのね)


 入学してまもなく一年が経つ。初めて友達のような存在ができたことが嬉しかった。背の高い彼を見上げるような形で隣に立ち、二人はいつまでも話に花を咲かせていた。


 ――べちゃべちゃの鞄がすっきり綺麗になるころには、窓の外は茜色の夕焼け空になっていた。


「ごめんなさい。わたくし、楽しくて喋りすぎてしまいました」

「ぼっ僕も楽しかったです。今日はもう、か、帰りましょうか」


 連れだって校門を出て、帰路につく。


「……あっ、あのう。つかぬことをお伺いしますが……。あの糊は、もしかして第一王子に?」


 メガネ君も昼間の騒ぎは知っていたらしい。

 セリアーナは彼になら打ち明けてもいいかと思い、肯定した。


「はい。……褒められたことではないと自覚しておりますが、大好きな推し――ゲフンゲフン。敬愛するコルネリア様が悲しんでいるお顔を見たら、居ても立っても居られなくなりまして。これまで自分のことならいくらでも我慢ができましたけれど、大切な人が傷つけられて黙っているような人物にはなりたくないと思ったのです。悪役令嬢の見習い中なのですわ」

「あっ、悪役令嬢?」


 突飛な話に驚くメガネ君。このことは秘密にしてくださいね、と念を押されると慌てて頷いた。

 しばらく沈黙が流れ、夕焼けがゆっくり歩く二人の影を黒く伸ばす。

 この話はもう終わったのだろうとセリアーナが思っていたとき、ふいに彼は立ち止まった。


「悪役令嬢、ぼっ、僕は悪くないと思います!」

「えっ」


 力強い言葉に驚いて、背の高い彼を見上げた。

 沈みかけた夕刻の太陽が、いつもどんよりと曇ってみえる二つの硝子をきらきらと浮き上がらせる。

 メガネから透けてみえたのは、熱々の溶けたバターのように濃厚で、澄んだ黄金色の瞳。彼の白銀の髪と夕焼けの赤が混じり、手を伸ばしたら消えてしまいそうな儚い彩りの美青年がそこにいた。


 ――どきん、と強く胸が鼓動した。


「……まっ、まあ! ありがとうございます! 頑張りますわね」


 彼を直視できなくなったセリアーナはぱっと目を逸らす。ドキドキを誤魔化すように早口で返事をした。

 そのあともぽつりぽつりと何てことない会話をしたものの、全く頭に入ってこなかった。


「それでは。本日はお助けいただきありがとうございました」

「僕こそ、た、楽しかったよ。鞄が直ってよかった」


 メガネ君の自宅は公爵邸より中心部だと言うので、家の前で彼と別れたのだった。


 ◇


 ユージーン殿下が婚約破棄されたらしい、というニュースが飛び込んできたのは三日後のことだった。

 放課後コルネリア様から驚きのニュースを聞いて、「ええっ!?」と大きな声を上げる。今日も今日とて二人の世界に入っているイチャイチャカップルには聞こえていなさそうだったが、真面目に書き物をしているメガネ君に申し訳ないことをしてしまった。

 声を潜めて口元に手を当てる。


「ユージーン殿下が、マルゲッタ嬢に振られたと。そういう解釈で合っていますか?」


 あのプライドの塊のユージーン殿下が振られる? にわかには信じられない話だった。


「そうなのよ。わたくしも驚いたわ」


 コルネリア様もこそこそ声で応じる。


「どうも、マルゲッタ嬢は別の男性と浮気をしていたらしいの。告発文がユージーン殿下の元に届いたのですって。それで彼女を問い詰めたら、逆上しちゃったみたい。開き直ったあげく、“あんたみたいな『小さい男』は願い下げよ”と言って婚約破棄を宣言したのですって。ほら、あなたの見事な悪役令嬢っぷりで殿下は失態続きでしょう。蜂の件もあったし、マルゲッタ嬢は不満を募らせていたのでしょうね」


 へえぇ!! と肺の底から感嘆する。

 マルゲッタ嬢は思ったよりしたたかだった。乗り換え先は西方の国から留学中の侯爵令息らしく、国内ではもう自分の嫁の貰い手はいないだろうということを正しく理解しているように見受けられた。


「殿下が捨てられるなんて意外ですね。二人でずっとお花畑に居続けるのかと思ってましたから」

「浮気の情報を殿下に漏らしたのは、セリアーナ、あなたじゃないのね? てっきりわたくしは、そういうことかと思って。なんでも、告発は真っ赤な便箋だったらしいの。赤は復讐の色って言うでしょう?」

「いえ、わたくしではありませんよ。そういう探偵みたいなことができるほど有能ではありませんからね。いったいどなたがタレコミしたんでしょうか……」


 謎は残るが、ユージーン殿下が大きなダメージを被ったことは確かだ。二兎追う者は一兎も得ず、という東方のことわざが頭に浮かんだ。

 コルネリア様と話し合い、殿下にとってこれ以上の打撃はないだろうという判断になった。

 心優しい女神の意向で復讐はもう十分だろうということになり、悪役令嬢としての役割は予想よりもだいぶ早く終わりを迎えた。


(コルネリア様の名誉が直接的に回復したわけではないけれど、瀕死の者を追撃するほど悪趣味ではないわ。悪役令嬢は義に厚く、去り際も潔くなければならないといけませんからね!)


 一連の騒動はこれで終わりかと思われたが、しかし、その晩公爵邸に招かれざる客人が訪れた。

 激怒して今日も王の元へ抗議に行っている公爵の不在時を狙い撃つように現れたのは、ユージーン殿下だった。

 屋敷の者は「うちのお嬢様を弄びやがって!」という明確な不歓迎オーラを出したものの、王子ゆえ追い返すことはできない。仕方なしに応接間へ案内しましたと、コルネリア様付きのメイドが知らせに来た。


(今更なんの御用かしら? コルネリア様に謝罪したいというのなら話は別だけれど、そんな風には思えないわ)


 ひどく嫌な予感がしたので、同席させてもらうことにした。

 応接間の椅子でふてぶてしい表情を浮かべる彼が放った言葉に、耳を疑った。


「なんだ。その……。そなたがどうしてもと言うならば、再婚約してやってもよい。どうせ嫁の貰い手などいないのであろう?」


(なっ!? なに言っているのかしらこのタコ助野郎殿下は!? 寝言は寝て言いやがれですわよっっ!!)


 今すぐ透明になって目の前のクズ男のみぞおちに一発食らわせてやりたい気持ちでいっぱいだった。けれども生身で目の前に出てきてしまっている以上、突如姿を消すことはできない。

 とはいえ静かに座ってなどいられない。無言ですっくと立ち上がるとコルネリア様が制止した。


「ありがとう、セリアーナ。わたくしは大丈夫よ」

「ほう。さすがは王子妃教育を受けているだけある。話が早いな」


 それみろと言わんばかりのタコ助殿下は、満足そうにゆっくりと足を組んだ。

 けれども、コルネリア様の話は終わっていなかった。顔に淑女の笑みを浮かべたまま、いつもの鈴を転がしたような声で尋ねた。


「殿下。どの面下げていらっしゃいましたの?」

「――――??」


 一瞬何が起こったか分からないような顔をした殿下は、「んっ?」とだけ言ってわざとらしく椅子に座り直した。


「お耳が遠くてあそばせるようですので、もう一度。調子に乗るのも大概にしてくださらないかしら、と申し上げているのですよ」


 顔は笑っているだけに、ひどく恐ろしい。

 女神は今、世界の終末を告げているのだと思うと、ぞくりと背に震えが走った。


「それと、殿下はなにか勘違いをしておられますね? もともとこの婚約は国王陛下が当家に頼み込んで成立したもの。お父様はあなた様のような放蕩男に娘はやりたくないと、最後まで反対しておられたのですよ。国王陛下は必ずわたくしを幸せにするからと、本来あなた様が言うべき台詞を口にされたため、とうとうお父様も折れました」


 ですから、とコルネリア様の艶のある唇の端が上がる。


「今宵お父様が登城しているのは、婚約破棄への抗議ではございませんわ。賠償金の請求でもございません。……理由はおわかりになりますか?」

「いっ、いや……」

「その座っている椅子を差し出せと、そう迫っておられるはずですわ。王の座る椅子。この意味、あなた様でも理解できますわよね?」


 殿下の顔は真っ青になっていた。事態の深刻さ、自分がしでかしたことの重さにようやく気がついたのだ。


「当家はこのラランデル王国の軍をつかさどる将軍家です。これはあくまで例えばの話ですけれど、お父様が右と言ったら百万の騎士達は全て皆右を向くのですよ。騎士は皆、王ではなく将軍の声を聞き命を差し出します。当家はそれに見合う報酬と生活の保障をしてきましたからね」


 ジャレット公爵家は間違いなく国内最大の貴族だ。

 当主は勇猛果敢で漢気に溢れた将軍。社交界一の華と呼ばれる夫人は慈善事業に力を入れているお優しい方だが、蝶のように舞い蜂のように刺すやり手で、公爵家の繁栄は夫人の立ち回りのおかげとも言われている。


 夫妻の愛娘であるコルネリア様は、なるべくして至高となられた。

 タコ助殿下は耳をかっぽじって天啓を聞くがいい!


「――そのくらい統率が取れているからこそ、戦に負けることなくここまで豊かな国に発展できたのです。手前味噌で恐縮ですけれど、王様の椅子の一つや二つ手に入れることぐらい、容易いことかと存じます」


 軽蔑の色を浮かべた紫色の瞳は、メドゥーサのように、目が合っただけで死んでしまいそうなほど尊かった。


(ああ、コルネリア様! 淡々と追い詰めていく姿も素敵ですっ……!!)


 背筋のぞくぞくが止まらない。いつもの優しく穏やかな姿も素晴らしいけれど、新しい一面も文句なしに推せる。

 恐怖と衝撃で一言も言葉を発せない元婚約者に、女神は引導を渡した。


「ご理解いただけましたなら、どうぞお帰りくださいませ」


 ◇


 図書室には再び平和が戻ってきた。

 大きな窓から温かな午後の日ざしが差し込む。コルネリア様はいつもの前から五番目の席、自分はその三つ斜め後ろ。前の方に睦まじいカップルがいて、メガネ君は一番後ろの端の席。各々が自分の好きなことに打ち込み、邪魔をする者はいない。

 婚約破棄に端を発する事件から二か月が過ぎ、ゆったりと時間が流れていた。


 国王陛下は問題の元凶であるユージーン殿下を廃嫡とすることで公爵様の怒りを収めた。多くの取り巻きを引き連れて校内を闊歩していた殿下はぱったりと姿を見せなくなった。辺境に流されたという噂があったが、真偽は定かではない。


 王族のちょっとした事件の影で、実は我が家――元実家の伯爵家にも異変が起きていた。なんと没落してしまったのである。

 長年にわたる母と妹の無駄遣いに加え、領地の大凶作で収入が激減。ないなら領民から搾り取れという短絡的思考で重税をかけたところ、ストライキが発生し、支払いの首が回らなくなったのだそうだ。

 〝うちのセリアーナがお世話になっていますわね″から始まる、援助を要請する図々しい手紙が公爵様宛てに来たけれど、どの口が言うのか。「セリアーナが希望するなら尊重するよ」と親切な公爵様はお声を掛けてくれたけれど、丁重にお断りした。その次の日には没落の知らせが入ったから、いずれにしろ間に合わなかっただろう。


 本当の意味で家がなくなったわたくしは公爵家の養子となって引き取られ、形式的にはコルネリア様の妹になった。涙を流して神に感謝し、数日間は興奮で眠れなかったことは言うまでもない。


 世の中こういうこともあるのねとぼんやり考えていると、視界に映るコルネリア様がペンを横に置いた。これは休憩の兆しであるから、すすっと歩み寄って隣の席に腰を下ろす。


「お疲れさまです、コルネリア様」

「ありがとう。セリアーナも休憩かしら? いつもタイミングが合うわね」


 後ろから見つめているからです、とはやっぱり言えない。妹になったからって、コルネリア様が尊く不可侵な存在であることは変わらないのだ。コルネリア様という女神と出会い、そして悪役令嬢になったことで、自分の人生は大きく変わったと思う。もちろん、いい方向に。


「そういえば、セリアーナ。殿下の件は一段落しましたから、もう悪役令嬢は引退でしょう。次の夢はおありになるの?」


 コルネリア様に笑顔が戻ったので、おのずと悪役令嬢は出番を失った。

 もう男はこりごりだと言うコルネリア様は、卒業後は隣国に留学して外交官を目指してみたいのだと夢を教えてくれた。語学の魔能を持つ彼女にぴったりな展望だけれど、離れてしまうことはすごく寂しい。

 今の自分にコルネリア様のように立派な夢と言えるものはないけれど。ずっと心に秘めていた憧れが、強いて言えばそれに近いのかもしれない。


「はい。実は、アルフレッド殿下に会ってみたいんです。図書カードにいつも名前がありますでしょう? 王子ですからそうそうお目にかかれないでしょうし、私なんかがおこがましいですけど」

「えっ? それなら――」


 何かを言いかけるコルネリア様。

 すると、ちょうど横の通路を通りがかったメガネ君がビクッと肩を揺らし、バラバラと本を取り落とした。


「あっあっ。ご、ごめんなさい!」

「大丈夫ですか? 拾いますね」


 中和剤を作った日以来、なんとなくきっかけがなくて彼とは話していない。

 

(もろもろ落ち着いたことだし、このあとお茶に誘ってみようかしら? まだお名前もお伺いしていなかったし、本のお話もまだまだ話し足りないもの)


 そんなことを考えながら床に散らばった本や文房具、赤い便箋などを拾い集める。

 ――筆箱から飛び出た万年筆には、流れるような筆記体で『アルフレッド・レオニディス』と記名があった。


「えっ? このお名前……」


 第三王子殿下と、同じ名前??

 偶然……ではないだろう。レオニディス姓は高位王族にのみ与えられるものだから。

 万年筆に手を伸ばしたまま固まっていると、コルネリア様は上品に笑い声を上げた。


「うふふ。セリアーナったら、知らなかったのね。糊の中和剤を一緒に作ったと聞いたから、てっきり把握していると思っていたわ」


 面白そうに笑うコルネリア様と、恥ずかしそうにうろたえるアルフレッド殿下。


(いやいやいや! アルフレッド殿下と知っていたら中和剤の調合なんて絶対にお願いできないですし!)


 お名前は知っていても、学年は違うしどういう見た目かなんてもっと分からない。母とミアによって社交界と無縁な生活をしてきた弊害がここで明らかになってしまうとは。

 無礼を働いてしまったことに憔悴していると、殿下は少しだけ震えた声で切り出した。


「ぼっ、僕もずっと気になってたんです。あなたの名前」


 もちろん女神コルネリア様に対する発言かと思ったら、なぜだか自分と目が合った。


「えっ? わたくしに言っておられます???」

「鈍感ね、セリアーナったら。アルフレッド殿下とわたくしは同じクラスですし、ユージーン殿下の関係もあって幼いころから顔なじみですわ」


 赤面して頷くアルフレッド殿下に、今までで一番面白そうににこにこと微笑むコルネリア様。


(どっ、どういうこと? どこかに隠しカメラでもあるんじゃないかしら??)


 目を泳がせていると、アルフレッド殿下はもじもじと一生懸命に話し始めた。


「いっ、いつも一所懸命勉強していて、気がついたら目で追ってました。それに、コルネリア嬢のために勇気ある行動をしているところも、すごいなって。勝手に僕と似たような性格なのかなって思っていたから、行動力と義理厚いところにどんどん惹かれていって……」

「もしかしたらあなたは気がついていないかもしれないけれど、伯爵家の門の前であなたが倒れていたとき、わたくしとほとんど同時に殿下が駆け付けていたのですわ。ユージーン殿下の件で、家の中で立場が悪くなっているのではないかと心配になったと」

「えっ……。あれは、夢ではなかったのですね!」


 痛みと寒さで薄れゆく意識のなか、最後に見たもの。それは大好きなコルネリア様とメガネ君の顔だった。

 今思えばどうして彼がいたのだろうと、違和感を感じるはずなのに。それだけあのときは心身が麻痺していたのだろう。


「殿下は城で手当して保護するとおっしゃったんですが、ボロボロの貴族女性を連れ帰るのは色々とまずいでしょう? 誤解から妙な噂が立ったらあなたも悲しむと思ったから、渋る殿下を説得してわたくしが連れて帰りましたのよ」

「そうだったんですか……」


 なんだか恥ずかしくなってくる。

 見た目も地味だし、実家は今や没落している。コルネリア様への情熱以外何にも持っていない自分が、アルフレッド殿下によくしていただけるなんて。

 興が乗っているコルネリア様はいつもより饒舌だ。何が面白いのかは分からないけど、推しを楽しませられているのであれば、恥をかいている甲斐はある。


「毎日図書室の隅から送られる熱視線を無視するのは、なかなかタフな作業でしたわよ。それにセリアーナ。あなたはずいぶん美しくなりましたわ。悪役令嬢業を始めてから以前より自信がついたように見えますし、表情も生き生きしていますもの。同性のわたくしですらそう思うのですから、もともと好意を抱いていた異性が見たら、どう思うでしょうね?」


 コルネリア様がわざとらしくアルフレッド殿下をチラ見すると、彼は耳まで真っ赤になった。


(ううっ。恥ずかしすぎるわ!)


 さすがに供給過多だ。顔が熱い。逃げ出したい気持ちでいっぱいになったため、無言ですうっと透明になった。


「あっ!? えっ。あっ、やっぱり、嫌ですよね僕なんて」


 殿下の悲壮な声が響く。


「いっ、嫌じゃないんです、お会いしたかったのはほんとうなんですが、心の準備が……」

「でっ、でも。中和剤を一緒に作ったときは、普通にお話ししてくれたじゃないですか」

「あれは、まさか憧れの人だなんて思わなかったから……っ!」

「あらまあ、セリアーナったら。うふふ」


 おっとりとしたコルネリア様の言葉に、もしかして自分はとても恥ずかしいことを言ってしまったんじゃと顔に汗が吹き出す。

 案の定、アルフレッド殿下も赤面して硬直している。ただでさえ温かい図書室の温度が真夏のように感じた。


「あ、あはは。暑いですね、この部屋」


 眼鏡を外しておでこの汗を押さえる殿下。

 牛乳瓶の底みたいな硝子のうしろからでてきた、溶けた蜂蜜のように甘い瞳に釘付けになる。

 あの日と同じように高鳴る心臓。推しを見るときのドキドキとは違う種類の鼓動に戸惑いを隠せない。


 ハンカチを丁寧にポケットにしまった殿下は、寂しそうに笑った。


「へ、変なことを言って困らせましたね。僕は父上の命令で隣国の大使になることが決まってるし、ま、万が一、億が一、親しくなれても異国に越してしまうことを考えたら、セリアーナ嬢に申し訳ないことをしてしまう。だから、これでよかったんだ」


 己に言い聞かせるような言葉だったが、ちょっと待って。聞き捨てならない単語があった。


「ちょっと待ってください。今、なんとおっしゃいましたか?」


 真顔ですっと透明を解除する。いきなり姿を現したため二人は目を丸くした。


「えと、隣国の大使になるって話かな?」

「アルフレッド殿下。わたくしで宜しければ、ぜひお友達から始めさせてくださいませ」

「えっ? いいのかい!?」


 喜ぶ殿下に、にやつくコルネリア様。


「あらあらセリアーナったら、どういう心境の変化かしら? でも、喜ばしいことね。わたくし応援いたしますわ」


 心境の変化? とんでもない。理由はただ一つ。推しのコルネリア様に着いて行くためだ。女神のようなこのお方が立派な殿方を見つけて幸せになる姿を見るまでは、本当の意味で安心できない。


 えっ? それは建前で、ほんとうはアルフレッド殿下に恋してしまった照れ隠しなんじゃないかって?

 ――否定はしません。確かにそういう気持ちはございます。だって彼と中和剤を作ったとき、ほんとうに楽しかったのですから。博識な彼の魅力に惹かれましたし、好きな本の傾向も一致していて、このまま中和剤が完成しなければいいと思ったくらいだったもの。

 彼が王子でなくとも、好意を打ち明けられなくとも。好きになるのは時間の問題だったと思うから。


 したたかと言われても結構ですわ。

 だって、わたくしは悪役令嬢ですからね。

お読みくださりありがとうございました!

ページ下部の☆☆☆☆☆にてご評価いただけますと大変助かりますm()m


(3/11追記)ご好評下さったことが嬉しく、長編化することにしました。

王子の溺愛モードや透明人間の活躍を掘り下げていきます!

(連載版)https://ncode.syosetu.com/n4084ic/

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 図書館のカップル。 何か役割が有るのかと思ったら何も無しw [一言] セリアーナの悪戯もっと読みたかった! アルフレッド殿下とコルネリア神とのほのぼのエピソードももっと読みたかったです…
[良い点] 殿下が正体バレしても豹変してイケメンムーヴかましたり、王太子になってセリアーナの玉の輿展開になったりせず 照れ屋なコミュ障のままでほのぼのとした関係を育めそうなのがとても好感度高い。 セリ…
[良い点] セリアーナがとてつもなく微笑ましかったです。 これはコルネリアもセリアーナを微笑ましく見ていたかなあ。 あと、コルネリアもぽややんしているところがありそうなので、セリアーナがフンスフンスし…
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