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時間についての考察

作者: 黒銀もくめ

 時間とはどういう概念なのか。

 この世は3次元であると私は思っていたが、4次元という説もある。縦・横・高さ、これに時間を加えて4次元である。

 さて、我々は4次元に生きているが、我々が自由に移動できるのは3次元的にのみであり、時間軸を自由に移動することはできない。時間軸を自由に移動するということは、タイムスリップをすることと厳密には違うかもしれない。タイムスリップとは時間軸における瞬間移動の概念であり、我々は縦・横・高さにおいても瞬間移動することはできないのであるから、時間軸を既存の三次元のように自由に移動するとすれば、それは時間の早送り、巻き戻しというような表現になるだろう。

 これが可能であるならば、この世界は真に4次元であるということになる。そして、真に4次元であるならば、同一時間の同一位置には、同一のものが存在することになる。

 これはすなわち、運命の存在の肯定である。

 その時間、その場所でなにが存在するかは初めから決定しており、つまり「私が生まれなかった場合」などは存在しない。誰のどんな行動も、それ以外の可能性は存在せず、時間軸をいくら移動してもなんら変革することはない。

 なるほど、だからこそ我々は時間軸を移動する概念を捨てたのではあるまいか。変わらないのであれば、過去から順にみていくほかあるまい。もちろん未来から順に見てもいいし、ずっと単一時間にとどまっていてもいいが、自然な流れを考えれば因果関係のある順を追うべきであろう。

 いや、そもそも因果関係が存在するべきなのであろうか。例えば既存の3次元には、それの移動に伴う因果関係など必要ない。リンゴの横に鉛筆が置いてあってもいいし、絶対零度の物質の隣に赤く煮える鉄があるかもしれない。そういう意味では時間軸の変化にも同様のことが考えられる。ある日突然発狂する人もいれば、宝くじに当たる人もいる。宝くじは買わなければ当たらないが、時間を逆行しても当たったから買うという考え方もできる。

 わたしがいまキーボードをたたいて文章を作っているのは因果関係のある、筋道のある話だと思われるが、ではこれが時間が逆行した場合には全く意味のない、因果関係のない行為になるのか?並んでいた文章に対して、私がキーボードから指を離すとその文字が消える。はたまたエンターを離すと確定されていた漢字が変換され、変換キーを離すとそれがひらがなに変わる。それもまた、それで筋道が立っていると考えられなくはないか?そういう作業をしているのかもしれない。

 つまり我々は時間軸を手前勝手に方向付けして、自身の行っている行為に、「後から」、因果関係という名の筋道を無理やり当てはめているのではないか。


 話を戻す。


 いま私は移動可能な既存の3次元と強制移動する時間を合わせた4次元世界にあって、「縦・横・高さ・時間の4次元がまったく同一の性質を持っている世界」を想像した。

 その世界では時間を移動するという概念は無意味である。少なくとも私たちの想像するようなタイムスリップして未来を変えるなどということはできない。時間軸上のものはすでに決定しているのである。

 その世界において時間移動をするということはさながら、あるドラマのDVDを巻き戻したり、早送りしたりすることに等しい。どれだけ移動しても、変更することはできない。

 さらには、つらい時間を早送りして乗り切ったり、楽しかった時間をもう一度味わうこともできない。

 そういった時間移動によって利益が得られるということは、時間移動を記録する概念が存在するということになる。この世が真に4次元であれば時間軸上に存在するものは決定しているので、時間を移動させることによって蓄積するものは情報ですら存在してはならない。

 あるつらい時間Bにいる人間が、過去の好ましい時間Aに移動してストレスを解消し、爽快な気分で時間Bに戻ってきたとする。この時、つらい時間Bをつらく感じていた人間がAを経てつらくないBに戻ることはできない。Bの時間に存在するその人間の意識は決まっているのである。

 意識は例外とでもいうのか?否、意識も思考も究極的には電気信号であり、別次元の存在ではない。思考も一定であるはずなのだ。思考が一定ならばどれだけ時間を移動しても意味はない。というより、そもそも時間を移動したという記憶すら持てない。


 なるほど。これが我々が時間移動できない理由なのである。

 この世を4次元と定義することは、この世を単一のものであるとする概念にほかならず、我々の思考は経時的に変化しているのではなく、すでに過去から未来にいたるまで確定している。

 しかし我々はそれを知覚するすべがない。我々の思考が4次元世界になじんでいないのだ。

 それはさながらCTスキャンが3次元を2次元に落とし込む感覚に近い。CTは3次元である人体を輪切りにして2次元画像を作成し、残った次元を移動させることで、2次元画像でありながら、3次元構造を把握することができる。

 我々が観測している世界は4次元であるが、我々の意識に接続できる観測機器はすべて3次元以下である。結果として時間という次元を移動させることによって4次元構造を観測しているのではないか。


 我々の世界が4次元であるならば、我々の思考が3次元であるために、時間軸全体を同時にみることができないのである。


 逆に言えば我々の思考が4次元であれば、この世はなんとも退屈である。それはただ「ひとつの置物」として、観測者の手元にある。もし私がその観測者であれば、すぐに飽きて捨ててしまうだろう。


 ◇


 タイムスリップ、そしてそれによる時間変革が可能だとしたら、それはどんな世界なのだろうか。

 少なくとも4次元世界ではない。時間移動を観測し、4次元世界の同一座標に別のものを配置しなおすということになる。それはその時点で4次元とは言えない。

 それは仮定するならば「場合」という次元が追加された世界である。

 過去にタイムスリップして、過去の同一時間に別の行動をする。それによってタイムスリップを決行した時間(現在?)の世界を変革する。

 それはつまり、座標指定として(縦・横・高さ・時間・場合)を考える必要があるということである。我々の観測できる3次元を「時間軸上を移動する点」と仮定すると、その線の列が平面をなすイメージがわかりやすい。つまり「今この瞬間」という点が無限に連なることで線となる。これが時間軸である。さらにその線のすぐ隣には同じような線があり、それが無限に敷き詰められることで平面となる。となりの線に移動することがすなわち「場合を移動する」=「タイムスリップして未来を変える」ということである。

 これがジョンタイターの世界線の概念と一致する。

 既存の3次元(つまり我々の意識)を内包した、縦軸に時間、横軸に場合をとった平面。これがタイムスリップが可能な世界である。


 さて、我々の意識という3次元を内包した点が時間-場合平面を移動するにあたり、時間軸方向の移動はすでに理解できる。問題は場合軸を移動する方法である。これは多くのフィクション作品においては「行動」によって、ある種オートマチックに行われる。これは「世界線」という概念とはかけ離れている。

 そもそも時間軸を一定として場合軸を移動できるのであれば、なにかをやり直したいから過去に行って未来を変えよう、と考えるのではなく、現在を場合軸的に変更して現在の現在から、現在とは違う現在に直接行くべきである。

 そうなると時間軸と場合軸のような2つの対等な変数で語ることはできない。そもそも世のフィクションでは過去を変えると未来が変わるが、未来を変えても過去は変わらない。

 ここで再び、時間の方向性の問題が発生する。

 そこで、私は時間場合平面の座標指定方法を次のように変更した。それは単純なx-y平面ではない。

 それは基準点を中心に、同心円状に同一の時間をとる。中心から周囲に延びる無数の直線が時間軸である。場合は直線の角度を決定する。

 つまり、過去を最大限にさかのぼると、それ以上さかのぼれない一点に収束するが、未来は無限に拡散する。これが時間の方向性という点において、我々の意識と一致する。

 この平面においては場合軸ならぬ場合角を移動する場合、時間軸的に中心に向けて移動したのちに場合軸を移動したほうが直線距離としてはより遠い時間軸に移ることが可能かもしれない。とはいえそれは場合角の移動に必要なエネルギーが角度に依存せず、距離に依存することになってしまうが。


 しかし、もしフィクションのように場合が単に「その時間における行動」でたやすく変化するのであれば、それは「場合を移動する」という概念の否定である。場合軸の存在自体を疑わなければならない。

 そうなれば話は時間軸と既存の三次元に戻らなければならない。その4次元世界が、しかしそれは観測者にとって単一のものではなく、時間軸を移動させて観測すると、絶えず変容するもの。つまり、場合を持っている4次元世界(それはすなわち5次元世界、という点では正しいのだが)だとすればどうか。

 それは我々の感覚で言えば万華鏡に近い。

 万華鏡の中に見えるカラフルな2次元世界が、我々にとっての既存の3次元世界である。我々はタイムマシンでもってして時間を移動する。これすなわち万華鏡をある方向に回転させることを意味する。右に回すと景色は変わる。しかし、元に戻そうとして左に回したからといって、さきほどと同じ絵柄になるとは限らない。これが場合を持った3次元を時間軸に沿って移動させるという概念である。

 これはいわばシュレディンガーの猫における生死の重ね合わせが、たとえ観測した後であっても重ね合わせの状態である、ということをも示唆する。

 世界は常に、たとえ同一時間であったとしても変容する。

 なるほど。これなら最初の命題であった現世4次元の軸的同意性を保ち、観測者の退屈を紛らわせることができる。

 そしてこれはすなわち運命と偶然の解釈を意味する。

 運命が物事を決めるならこの世界は4次元である。偶然が物事を決めるならこの世界は5次元である。


 しかし、我々の意識はどこまで行っても3次元である。

 これが世界五分前仮説を生み出す。世界五分前仮説は正しい。この世界が場合を持った四次元=五次元であるなら、同一の時間であっても時間停止したまま変容する。いま、2000年以上の歴史があるかに思えるこの世界とて、五分前にできた可能性はある。というより、世界が5分前にできた事実も、世界が10分前にできた事実も、世界が無限の過去に生まれた事実も同時に存在する。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 私は、ビッグ・バンとその後の巨大インフレーションにより宇宙が出来た事から、丁度、ビリヤードの最初の一付きで、盤上の全ての玉の異動が決まるように、この世の、時間、運命は既に決まっていると、考…
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