ホクロの葬式
物心ついたころから私の頬にはホクロがあった。
薄黒く膨らんだ、直径8ミリ程度の大きなホクロ。
私はずっと、このホクロに苦しめられてきた。
幼稚園の頃、好きだった男の子にホクロの事を馬鹿にされて初恋の終わりを突き付けられた。
小学生の頃、同級生の女子に私のホクロをからかう替え歌を作られ、居てもたってもいられなくなった。
そんな記憶の断片が、ふとした瞬間にフラッシュバックしては、悪夢のように私を苛むのだった。
このホクロがあって良かった事なんて、一つも無かった。
しかし厳格な母の猛反対もあり、ホクロを取る事は叶わなかった。
中学、高校と、どんどん自信を無くして行った私は、友達も出来なくなり、常にホクロを馬鹿にされる恐怖におびえて過ごした。
――自立したら、真っ先にホクロを取ってやる。
それだけが私の希望だった。
私は高校を卒業するとすぐに独り立ちし、小さな運送会社の事務員として就職した。
出来れば入社の前にホクロを取ってしまいたかったが、両親の金でホクロを取るのは負けたようで嫌だった。
自分で稼いだお金で、私はこのホクロと決別するんだ。
鏡に浮かぶ憎いホクロにファンデーションを塗り込みながら、私は初めて希望を持てた気がした。
しかし、私にはとてもじゃないが、ホクロを気にする余裕は無くなってしまった。
事務員の仕事は私の想像を超える程の激務の連続だったのだ。
休みは月4日あればいい方、残業は毎日4時間が当たり前。
――何でこんな苦しい思いしてまで生きないといけないんだろう。
私は何もかも嫌になりつつあった。
職場の人間関係も上手く行かなくなり、自殺も考えた。
そんな私を思いとどまらせていたのは、命に対するぼんやりした畏怖だけだった。
今思うと、当時の私は過労によって奇妙な悟りを開きつつあったのかも知れない。
自分の命は、自分のものではない。
だからどんなに苦しくても、生き続けなければならない。
そんな観念にとらわれ、いたずらに仕事をやり過ごしている内に、私のホクロに対する考え方も変わって行った。
命は、全ての価値を超越した所にある。
そしてこのホクロも、私の一部だ。
だからどんなに邪魔でも、憎くても、このホクロを取る事は許されない。
嫌いだったホクロが、むしろ好きになって行った。
そっと頬のホクロの感触に触れる度、私自身も許されるような、そんな気がした。
しかし……
長距離ドライバーの方に渡す配送表にミスがあり、謝罪に向かった時だった。
「でっかいホクロやな」
その何気ない一言に、私の心は歪む様に崩れ落ちた。
やはり価値なんてないんだ。ある筈無いんだ。
私にも、このホクロにも。
その後、どう応対したかは覚えていない。
無心のまま仕事をやり過ごし、すぐに近所の形成外科に予約を取った。
こんな世界で生きていても仕方がない。
ホクロを取って、私も死のう。
そう思った。
◇
金属の目隠しをされている間に、私のホクロはレーザーで焼き消えていた。
痛みは殆ど無かった。
そのあまりのあっけなさに「自殺もこんな簡単に出来るんだ」と、そんな風に勝手に都合よく錯覚しながら、鏡の向こうに映る、縫われて赤く滲むホクロ跡を見つめた。
分かっていたが、何の喜びも無かった。
ただただ哀しさと虚しさだけが残った。
そう、私のホクロは死んだ。
次は私のホクロ以外が死ぬ番だ。
待っててね、私もすぐ行くから。
出立の旅に向けてコンビニATMで預金を確認してみると、思ったより纏まった額が刻まれていた。
大嫌いな両親に残すのは嫌だったので、何かに使うか、捨てるか。
頭を捻っていると、私の頭に「ホクロの葬式」という言葉が小さく浮かんだ。
……ホクロの葬式。
いいかもしれない。
鼻で笑われて終わるだろうが、そうなったらなったで悪くない。
きっとこれは禊なんだ。
ホクロと私の、この世界からの浮つきを明らかにして、自殺の決心を揺るぎない物にする為の。
自嘲にホクロ跡を引き上げながら、近場の葬祭場に電話を掛けた。
声のトーンが低い男性係員と当たり障りのない応答をしながらも、私は切り出す。
「実は……ホクロの葬式なんですが……」
「ホクロ……?」
「はい。皮膚に出来るあのホクロです」
「……少々お待ちください」
悲し気な保留音が響いた後、
「お待たせいたしました。栗谷明日香様ご自身のホクロのお葬儀という事で、御間違いございませんでしょうか」
「はい……」
「でしたら承り可能でございます。誠心誠意をもって、御見送りのお手伝いをさせて頂きます」
諸費用込みで40万程度の、通夜無しの一日葬コース。
日程は来週の日曜日。
驚く程とんとん拍子に話が進んで行った。
◇
栗谷明日香様之故黒子儀。告別式会場。
物々しい筆文字の看板に、私は無責任にも呆れていた。
他人事のように小さな会場に入り、右隅のパイプ椅子に座る。
誰も呼んでいないので当たり前だが、係員を除けば、参列者も遺族も私だけだ。
祭壇の方に目をやると、本来遺影を飾る額縁の中には、黒子之霊と筆文字で書かれていた。
……本当にやる気なんだ。私のホクロの葬式を。
私は何故、こんな意味不明な行為をしてしまっているのか。
自分から切り捨てたホクロの葬式を挙げるなど、寧ろホクロに対して失礼な所行ではないだろうか。
そもそも、物々しく佇む係員達は、内心で私の事をどう思っているのだろう。およそ馬鹿で能天気な小金持ち女とでも思っているのだろう。
いたたまれない赤面を、空調がゆっくりと冷やかして行く。
やがて、黒地の着物に紫の袈裟を羽織った坊主頭が、確かな足取りで祭壇の前に歩み出る。
横顔に流れる皺には、深い功徳が刻まれているようだった。
「ただいまより栗谷明日香様の故ホクロ様の葬儀ならびに告別式を執り行います」
……嘘だよね?
まさか、本気でやるつもりじゃないよね?
いまだに半信半疑だった私を窘めるように、ビブラートのこもった低音が、厳かな読経がこだましていく。
内臓まで染みていくような心地よさ。
そんな心地よさの中で、私の中である感情が弾けそうになっていた。
「う……ううぅ……」
何で……私はホクロの葬式なんか……
何で……この人たちは……私は……こんな事を……それも大真面目に……
「アハハハハ! アハハハハハハ! イヒヒウフヘハハ!」
留まる事を知らないお経と木魚のリズムが、チーンと鳴るアレの音が、私の引き笑いを加速させていく。
「ヒーッ! アーハハハ! アーハハハハハ! ホハハハハ!」
黒光りするフローリングを転げまわりながらも、笑いが止まらなかった。
やっと収まったと思っても、泣き笑いに溢れ出る涙で葬儀会場が歪んで行くのがおかしくて、また高笑いが始まった。
何もかもすべてがどうでも良くなっていく気がした。
仕事を辞めよう。そして、とりあえず生きよう。
変わらぬ調子で読経を続ける坊主頭も笑いに震えているような気がして、それがおかしくて、私はまた笑った。