アルテラ軍進発
緊張感を漂わせながらも、形だけは普通の生活が二月ほど続いたある日、その知らせがついに私たちのもとに届いた。
「ロッテ様、アルテラ軍が一昨日、帝都を進発しましたっ!」
旅芸人に身をやつしてアルテラに潜入していた隠密のアルマさんが、なんだか服もズタボロ、綺麗な肌から幾筋も血を流しながら、総督府に飛び込んできた。とるものもとりあえず、まずは私の聖女の力で、彼女の傷を癒す。切り傷擦り傷くらいなら、任せといて。
「そうか、来るものが来たか。よし、急ぎザルツブルグに援軍要請、我々は国境を閉鎖して迎撃準備だ。主力軍が至るまで、持ちこたえねばならぬからな! エグモント殿、よろしいな」
「承知仕りました」
クラウス様とエグモントさんが、勢い込んで飛び出していく。この日があることをあらかじめ覚悟していたのだ、冷静に落ち着いておられるのが心強い。だからと言って、敵が弱くなるわけでは、ないのだけれど。
「よし、シュトローブルより東の三ケ村は、住民の避難準備、責任者はマクシミリアン。補給物資の準備はできているな、再確認を急げ。責任者はローザだ、頼むぞ!」
「はっ!」「お任せをっ!」
アルノルトさんも表情を厳しくしながらも、的確に文官さんたちに指示を出していく。優秀な応援文官さんたちは、この数ケ月で完全にシュトローブル総督府の幹部として立場を確立している。彼らに任せておけば実務で混乱することは、ないだろう。
「ありがとうアルマさん。こんな傷だらけになるまで急いで伝えてくれて」
「これが私の、務めですから。私は、戦の先頭に立って敵を防ぎとめることはできませんし、魔法を放って敵兵をなぎ倒すこともできません。ただ、情報を一日でも、一時間でも早くお伝えすること、私が貢献できるのはただそれだけなのです」
茶色の眼で真っすぐ見つめられて、こんなけなげなことを言われちゃったら、ちょっとウルっと来てしまう。
「それに、こんなに早く来られたのは私の力ではなく、ヴィクトル様のお陰ですから」
ああ、そうだった。敵国の帝都から脱け出し、開戦前の厳戒態勢が敷かれている街道を戻ってくるような難事を、無事速やかになんて無理だよね。アルマさんが潜入することを知ったヴィクトルが、彼女の迅速な帰還のために一計を案じたのだ。
我々の盟友……あくまでも今はだけどね……イグナーツ様は、帝都郊外の森に別荘を持っていて、そこは彼を支持する者たちが国境へ向かう際の拠点にもなっている。その別荘に、サーベルタイガーを一頭、常に交代で配置しておくことにしたのだ。
そしてアルマさんが決定的情報をつかんだその時、サーベルタイガーの背に乗って移動する。イグナーツ様の配下が獣道をたどれば急いだって国境まで三日くらいかかるのだけど、サーベルタイガー便なら一日掛からずについてしまう。彼らの里で元気な虎さんに乗り換えて、合計一日半もあればシュトローブルに至るのだ。まともに移動したら、そもそもたどり着けるかどうかすら怪しい道程を、こんな短時間で移動する手段を考えてくれたヴィクトルにも、感謝だな。
そのヴィクトルは、今日は虎型で、アルマさんの横にいる。そう、国境からここまで彼女を乗っけてきてくれたのは、たまたまサーベルタイガーの里にいた、彼だったのだ。
(この戦は、情報がどれだけ早く伝わるかで勝敗が分かれるだろうと思ったからね。だったら、森を最速で移動できるサーベルタイガーの力を、使わない法はないよ)
そんな念話を送りつつ、真っすぐな視線を向けてくるヴィクトル。思わずその金の瞳に惹き込まれて、眼が離せなくなってしまう。そうやっていると、あの獣人村での素敵な夜が思い出され……いやいや、そんなこと考えている場合じゃ、ないんだった。
「ようし、私たちも、準備しよ!」
◇◇◇◇◇◇◇◇
シュトローブルの兵力は国軍先遣隊と防衛隊を合わせて八千、うち七千が国境地帯に向け、狭い街道を進発した。実質、全軍出撃だ。これを防ぎ止められなかったら、この街に巨大な岩石が降り注ぐのだから、絶対に勝たねばならない。
私の大事な家族たちも、最前線で戦うのだ。おっと、クララだけは身重の身体だ、せめて私の護衛をと食い下がられたけれど、みんなで却下した。今度ばかりは城壁の中で、アルノルトさんの補佐をしてもらうことにしたんだ。
もちろんヴァイツ砦に駐留する二千も欠くべからざる戦力になるわけなのだけど、相変わらずここの司令官は、おかしな人だった。
「我々は国境地域を毎日哨戒しており、異常はない。敵の斥候すら捉えていないこの状況下で、開戦が今日明日だと言われても、信じるわけにはいかぬな」
街道両側五キロの範囲についてはサーベルタイガーの出入りを拒まれてしまっていたので、ヴァイツ駐留軍が哨戒している範囲だ、あてにしていいのかな。しかし毎日探っていて何もないというなら、アルテラもまだ国境のこちら側には先遣隊を送ってきていないと考えるしかないのだろう。
「貴官の主張もわかるが、こちらも確かな情報源から敵の動向を知ったのだ。追ってザルツブルグからも指示が届くが、それまではこちらの指揮に従って欲しい」
「本官の職分は、ヴァイツ砦の防衛と国境周辺の街道警戒。不確かな情報に基づいて拠点を空けるわけにはいかぬ。ザルツブルグから直接命令が出ればやぶさかではないが……」
以前は渋々聞いていたクラウス様の指示すら、いろいろと理由をつけて従おうとしない司令官。いるんだよね、こういう、現状を変えようとするとなんだかんだ反対する人。
結局、ザルツブルグの本隊から指示が出るまで、彼の部隊はヴァイツに残ることになった。クラウス様は格上とはいえヴァイツへの直接指揮権はなかったから、妥協もやむを得なかったのだ。いずれにしろ、街道を避けて進んで我々の後方に回り込もうとする敵を警戒する部隊は必要だったから、その役目を彼らに担ってもらうことにしたけれど……。
この時は、この司令官の無能さを、まだ甘く見ていた私たちだったのだ。
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