48 クーナ
北皇大陸の中央に走る氷の山脈には、古くより恐れられる氷の竜が棲むという。
そんな竜がもたらした者か、その山には角の生えた子が独りで暮らしていた。
竜はいたずらに人と交わりたがる生き物だが、人の子を成した時、竜はその子供を育てないという。
故に竜と人、両方の血を受け継ぐ者はその出自を知らぬまま育つ。
竜の赤子は強く、頑丈で、たとえ見捨てられたとしても、そう簡単には死なないからだ。
草木も生えぬ銀色の地獄の中、わずかな獣を狩って暮らしていた竜人の子を、麓の村の人々はクーナと恐れて呼んでいた。
北皇の言葉で"死なぬ者"を意味する言葉だった。一糸まとわぬ姿で雪山を駆けるその姿は、村人たちにとってある種恐ろしいものとして映ったのだ。
そんな珍しい子供の噂を聞きつけて、奴隷商が山を登った。
四日にも及ぶ闘争の末に奴隷商の私兵たちに捕らえられたクーナは、それから北皇の地を転々と旅する事となる。
見世物小屋に売られ、物好きな収集家に売られ、闘技場にも売られた。
しかしクーナはその凶暴性と強大な力によって常に抗い、多くの買い手たちを悩ませては売られていった。
その過程で人の言葉を知り、人を理解するようになったクーナは、同時に人を度し難いと思う様になっていった。
異なる種族であるために決して理解し合う事の無い存在として、人間を敵と見なした。
特に最後の飼い主は、クーナにとって最も理解しがたい存在であった。
ホランドというその男は、同族殺しを厭わず、大義の為には自分の命も捨てると言った。
人の多様な在り方を見てきたクーナにとって、人の思想を統一しようとする男の大義には、酷く虚しいものを感じたが、それを指摘するたびに、ホランドは獣には分からない事だと返したのだ。
その言葉通り、ホランドはクーナを獣として扱い、兵器として扱った。
殺し合いの道具として徹底的な訓練を行い、技術を授け、決して逆らえぬように魔法で行動を縛った。
そうして間もなく国が崩壊する。
革命家たちと国家との間で戦争が起こった。クーナはホランドと共に戦い、多くの市民を虐殺した。
それでも彼らは敗北した。解放を望んだ人民たちの力に屈したのだ。
結局ホランドは望んだ戦地に戻ることなく、その大義の導を失った。
男の絶望した姿を見た。クーナはその在り方を、酷く哀れだと感じた。
国が亡くなったのなら、その思想は自分が受け継ぐと男は言った。一人になっても戦い続けてみせると。
そして男は海を渡った。遠く離れた新たな大陸で、かつての上官に呼ばれたのだという。
そこは男が望んだかつての戦地で、そして彼が死ぬ場所なのだと言った。
クーナはただ、男の道具としてその傍らに在り続けた。
ある日ホランドはクーナに、上官の護衛を命じた。
カリアビッチというマフィアに扮したその上官を守る事が、クーナの仕事になった。
ホランドの手先であるクーナに、カリアビッチは自分の仕事を見せようとはしなかったが、それでもクーナは薄々勘づいてはいた。
カリアビッチはホランドを利用しているだけで、彼の望む戦争を起こす気は無いのだと。
だが、それをホランドに話す義理も無い。それ以降一度もホランドはクーナの前に現れなかったからだ。
やがてカリアビッチはそれを良い事にクーナすら自分の所有物として扱い、売り物にしようとした。
クーナはただ、いつも通りそれに従うだけ。
人に売られ、買われ、望まない事を強いられる。
それに疑問を抱かなくなっていた自分に気づいたクーナは、唐突に思い立ち、カリアビッチの目を盗んで逃走した。
自由の為に戦う事を忘れた自分を、愚かだと感じた。愚かと蔑んだ人間に使われているだけの自分は、もっと哀れな存在だと。
彼女は心の奥底で一つの疑問を抱いていた。人を殺し、戦争を生き抜いた彼女は、二度と人を傷つけたくないと願っていた。ならば、自分は人とどうあるべきなのだろうかと。
そんな彼女を救い出したのは、一人の無力な若者だった。
英雄の様に武力を持たず、闇の住人たちの様に技術や金を持つ訳でもない。
ただ、口八丁にカリアビッチを言いくるめ、クーナを救い出したその若者は、初めて彼女に手を差し伸べた。
彼女に意思を訊ね、望むのなら家族になろうと言った。そんな人間は初めて出会った。
クーナにとって人間は、命じるだけの存在だったから。
その若者を、クーナは試してみたくなった。どうせこの男も自分を裏切る。どうせ自分を道具の様に扱い出す。どうせ、いずれは見捨てるのだと。この若者で、人類を見定めようと。
だが、若者は裏切らなかった。彼とその周囲の人々と関わり、人の別の側面を知った時、クーナは無性にその若者の事が恋しくなったのだ。
ホランドの元に連れ戻された今、クーナはレイズが自分を探してくれているのだと信じられる。
その自分の変わり様が、何よりもクーナには嬉しい事なのだ。
◇
崩れた壁の際に立ち、空に昇る二つの月を見上げてクーナは佇んでいた。
その様子を遠目に眺めていたホランドは、彼女に食事ができた事を告げる。
「肉が焼けたぞ。こっちに来い」
クーナはホランドに差し出された肉の皿をもぎ取る様にして受け取り、かぶりついた。
焚火を挟んでホランドの向かいに座るようにし、さりげなく距離を取っている。そのささやかな抵抗に、ホランドは薄っすらと笑う。
「これから大舞台だ。きっちり食っておけよ」
今は奴隷魔法の抑制効果を弱めているので喋れるはずなのだが、クーナは何も発さない。
二人が潜伏しているのは街中に在る廃屋だ。声を発せば助けくらいは呼べるだろうに、それをしないクーナがホランドには不思議だった。
「……一つだけ気になる事がある。お前はどうして、俺の正体をアイツらに言わなかった? ギルドで俺を逮捕した時、お前は俺に気づいただろう?」
クーナは食事の手を止めて、ホランドを見た。
「貴方が、別人に見えたから。髪型も変わっていたし、髭も無くなっていたし、それになにより、そんな生きた目をした貴方を、私は知らない」
クーナは淡々と、冷たく言葉を並べた。普段の彼女とはやや雰囲気が異なる。まるで別人のように冷めている。
その物言いが祖国に居た頃の自分と重なって、ホランドは可笑しくなった。なるほど、確かに自分は死んでいたかもしれないと。
「フッ―――祖国に居た頃の俺の目は死んでいたか?」
「貴方を最初に見た時から、リビングデッドみたいだと思ってた。貴方は、大事にしている思想とやらを語る時ですら、死んだ顔をしていたから。でも、今は楽しそう。そんなに活き活きとした顔もできるんだ」
「そうだな。確かに楽しいな。やはり戦いは良い。新大陸に来て、俺にはこれしかないと実感したよ」
嬉々として語るホランドを、クーナは理解できないという目で見つめた。
「そんなに殺し合いが楽しい?」
「それもあるが、おそらくこれは破滅願望だろう」
クーナの見るホランドは、より一層不可解なものに変わっていく。
「死にたいの?」
「華々しくな」
「そんな生き方、救いが無い」
吐き捨てる様に、クーナは断じる。
「人間は誰しもそういうものだ。お前だってそれは知っているだろう」
「みんながみんな、そんな愚かな訳じゃない」
少しだけ声を強めて、クーナは言った。
かつて人を度し難い生き物だと断じた異形種の小娘が、人の在り方をその様に庇うまでに変化した経緯を、ホランドは知らない。それが彼の興味を惹いた。
「レイズはそこまで人格者だったか?」
その名を出され、クーナは眉をひそめる。そんな彼女の反応がすべてを物語っており、ホランドとしてはこれ以上に愉快な返答は無かった。
「お前も人の事は言えないさ。俺のところに居た頃より、よほどいい顔をする様になった。俺の奴隷魔法を摘出し忘れるくらいには平和ボケしてるのさ」
「私は魔法の事なんて知らないもの。憲兵が魔法は解呪したから大丈夫なんて言うから……」
「はははっ、人間の言葉を鵜呑みにする時点でだろう。お前は人間を恨んでいただろうに」
「別に、恨んでいた訳じゃない。ただ、理解する価値は無いと思っていただけ」
「レイズには、その価値があったのか?」
ホランドに問われ、クーナの視線が鋭くなる。レイズに手を出すなという無言の威圧を感じて、ホランドは嗤う。
「……どうしても、レイズと戦う気なの?」
「そうなってしまう。結果的にな。俺はこの街を相手に戦争を仕掛けるつもりだ。そうなれば間違いなく、俺を追い詰めるのはあの男だ。その時は手伝ってもらうぞ、クーナ」
クーナとは別の意味でホランドもまた、レイズを信じている口だった。
「私とレイズを戦わせる気?」
身構えるクーナに、ホランドは当然だと言う。
「お前は俺の武器だからな。俺はただ負けたいわけじゃない。戦って死にたいんだ。レイズが俺を倒せないというのなら、それまでだ」
それを聞いて、クーナは呆れたように息を吐いた。
「はぁ――愚かな人。レイズは負けないわ。私たちはレイズを信じてる。竜の私も、人の私も」
「それが大人しく俺についてる理由か?」
「まさか。貴方が魔法で縛ってるんでしょう」
「逃げたり襲い掛かったりは確かにできないな。だが、今なら助けくらいは呼べるだろう」
「……」
沈黙するクーナを、ホランドは嘲笑う。
「なんだよ。アイツを試してるのは、お前も一緒じゃないか」
「私はね。表は違う。ずっと貴方から離れたがってるから」
「昼間のうるさい方か。俺はあっちより、今のお前の方が良いな。昔なじみの顔だ」
「私はそうでもない。表の私は、人を愛しているから」
クーナの言葉に、ホランドは爆笑した。
「あははははははっ! ふざけてるのか? 殺すしか能の無かった竜が、人を愛してるだって?」
「貴方には分からないでしょうね。私だってこうなるとは思わなかった。ただ人間を試すために作った仮の人格が、本当に私の一部として動き出すなんて」
「その理由が、人への愛だって?」
馬鹿にするホランドへ軽蔑の目を向けて、クーナは堂々と宣言する。
「そう。私たちはレイズを愛してる。今までいろんな人間に出会ったけど、私の事を救おうとした人間なんて、あの人だけだったもの」
「なるほどな。お前はとっくに、アイツにいかれちまってたんだな」
「悔しい? 前の飼い主として、嫉妬でもした?」
挑発するクーナへ、ホランドは愉快そうに笑顔を向けた。
「いいや。だが、レイズの事は俺も気に入った。お前をそこまで壊した平和な男が、俺とどう戦うか知りたくなったよ。俄然、戦いたくなったぜ」