人を殺してはいけない理由
「どうして人を殺してはいけないの?」
小学四年生の娘の思いがけない質問に、思わずしゃぶしゃぶをつつく箸を止めた。こういう時、果たして何と言えばいいのだろう。世の父親たちは道徳というものをどのように教えているのだろうか。
今日に限って妻は残業らしい。長年その辺を全て任せきりにしてきたツケが回ってきたのかもしれない。いや子供の純朴な疑問に対してツケなどとは何事だ。父たる者、娘の質問にはしっかりと誠実に答えなければならない。いやしかし…。箸の先。グツグツと煮込まれていく野菜をぼんやりと眺める。
「お父さん、大学の先生なんでしょ。分からないの。ケーサツの人が犯人をタイホするときのほうりつを教えてるんでしょ。分からないのに学校で何を教えてるの」
辛辣過ぎる。私の仕事は大方妻に聞いたのだろうが、何も毒舌まで教わらなくても良いだろうに。
最近、歳のせいか異様に肩身が狭い。妻には呆れられ嘲笑され、娘には毒を吐かれ、大学では昨今のハラスメント問題のせいか迂闊に学生を叱れなくなってしまったし、それなのに私の日ごと薄くなっていく髪や腹のでっぷり具合は度々ネタにされている。世の中とは理不尽なものだ。自分の今の境遇を考えていると、思わずため息が出てしまいそうになる。足に鈍い痛みが走る。しまった、本当に出ていたらしい。娘の目が冷たい。
「…命は大事なものだからな」
「しゃぶしゃぶ食べてるのに」
賢い。余計に野菜から目が離せなくなってしまった。いや子供は元来利口なものだ。とにかく何か言っておかなければと、芸も何もないありがちなことを言ってみたのだが、これでは納得のいく答えではないらしい。そう言えば娘は妻がありあわせのおかずでご飯をすませるのが嫌いだった。だったら自分で作るから、と言って数分後に何故か包丁が折れてしまっていたのは記憶に新しい。
「どうして命は大事なの。ねえ、何で。お父さん分かんないの、ねえ」
思えば子供が私にこれほど何かを必死に求めてきたことはなかった。ここでちゃんと答えを出しておかなければ後々後悔するような気がした。それどころか、子供とちゃんと向き合えないうちは親と名乗る資格などないのではないかとさえ思った。
「ちょっと考えさせてくれないか」
「へえ、娘さんがそんなことを」
「いや、今の子は中々鋭いですね。私が子供の頃なんかと比べても…」
昼時、日替わりのとんかつをつつきながら、食堂で会った同僚の先生二人に昨晩の出来事を話してみた。この二人は私よりもほんの二つ三つ年上で研究分野は違うものの、同年代同士気の合うことも多く(最近肩身が狭いこととか。全員根に持つ性質のため)、子育て歴も私の倍近くあるため、良い答えを少しばかり期待したのだ。しかし小さいのにすごいですね、とか今の子は、とかそういう答えしか返ってこなかった。自分の子供を褒められて悪い気はしない親はいないだろうが、私の求めている答えはそうではない。
「確かに、改めて聞かれると難しいですね」
「そんなこと、そこまで深く考えたことはなかったなあ」
そこで揃って黙り込んでしまい、その状態は暫く続いた。後で学生に言われたのだが、相当異様な光景だったらしい。
結局あの後はあまり良い答えが出せず、授業の合間に教科書や研究資料を眺めてみてもどうもピンと来るものもなかった。何だか違う、答えはここにはない。そもそもあれは何かのサインだったのではないだろうか。あの質問を通して人には言えない何かを伝えたかったのかもしれない。昔より人に繋がりやすくも繋がりにくくもなった時代だ。私の子供時代からは想像もできないような苦労があるのだろう。いや待てよ、ひょっとしてとんでもないことを企んではいまいか。そこまで考えて、いやそれを聞くのはルール違反だと、あの問いから逃げては駄目だと思った。逃げてしまったら何か重大なことを見逃してしまうような漠然とした不安があった。何としても答えてやらないといけない。そう、子供の質問にはしっかりと答えなければ。それが父として刑法学者としての使命だとさえ思えた。
「お父さん、お帰りなさい」
家に帰ると娘が笑顔で出迎えてくれた。ああ疲れが吹き飛んでいく。健気な娘だ。きっと妻はソファで寝転んでるだろうに。
「ねえ、あれ、何でなのか分かったの」
そう言うことか。少し期待した目でこちらを見つめてくる。笑顔なのも相まっていたたまれない気持ちになった。ああ数秒後の冷たい反応が目に浮かんで来る。
「考えてはいるんだが…」
瞬間、娘の笑顔が冷たいものになった。やはり年々妻に似てきている。
「早くして」
「すまない」
訳もなく謝ってしまった。あなたは子供に甘いとよく妻に叱られるが、こういうところなのだろうか。
あれから数日悩んでみても一向にはっきりとした答えが出せない。近くにあるのにぼんやりとしていてよく見えない。老眼がこんなところにも。いやつまらないことを言っている場合ではない。親として子の期待に応えてやりたい。そういう気持ちはあるのに言葉にできない。悔しい。
困り果てた私は、思い切って妻に相談してみることにした。寝入りかけていたところを起こされたからか、最初はいたく不機嫌だったが、それも私の話を聞いているうちにどこかに消えていったようだ。
「あの子がそんなことを?」
「ああ…ちょっと返答に困ってしまってね」
「私は、そんなに難しいことじゃないと思うけど」
私が黙り込むと彼女は続ける。
「貴方は普段から法律を勉強しているんだし、きっと難しい考え方しかできなくなっているのよ。もっと簡単に考えていいと思う。確かにあなたの仕事のことは聞かれたけど、そんなんじゃなくて、もっと老婆心からというか、年食った人生の先輩としてとかそんなことから考えてみたらいいんじゃないかしら」
成る程、人生の先輩として、か。
「君には一生勝てる気がしないな」
「あら、今更気付いたの?」
そう言って彼女は微笑った。それはいつもの嘲笑とは違ったもので、悪くないなと思った。
お父さんが朝突然部屋に飛び込んできた。スーツはしわくちゃだし、髪はボサボサだし、何てデリカシーがないんだろう。
「ノックくらいしてよ、馬鹿」
そう言ってまだ息切れしているお父さんを睨む。
「馬鹿はないだろう。いやそれはどうでもいい。聞いてくれ、答えが出たんだ。それで玄関から慌てて飛んで来て…」
「だからって靴履きっぱなしなのはちょっと」
ああ、すまないなんて言って申し訳なさそうに靴を脱いで、そのままその場に座った。気づいてなかったのか。ドアの前だし部屋は汚れてないから私はいいけど、お母さんがツノを生やすのは想像できる。今日は塾の後コンビニに寄り道していこうかな。そんなことを頭の隅っこで考えながらお父さんの前に座った。
「人間であろうとなかろうと命は大事なものだ。だから私たちは食事の前や後に『いただきます』『ごちそうさま』と言うだろう。それは動物たちや農家の人たちに感謝を伝えているというのはもう教えてもらったのかな」
「うん、幼稚園のときに」
「でもその中でなんで人間が特別なのかって言ったら、人間は考えることができる、感情があるだろう」
「うん」
お父さんの小さい目に私の顔が映る。あ、嫌だ。私の悲しそうな顔。お父さんに見られてるのか。そう思うとやっぱり嫌だと思った。私の考えてることなんか全てお見通しって感じがして。
「誰かを大事に思ってそのために行動することができるだろう。それが他の動物との大きな違いだ」
「…だから人を殺してはいけないの」
何それ、つまらない。期待して損した。お父さんから目を逸らした。
「まあ聞いてくれ。道徳的に何故そうしてはいけないのか、その理由は僕には上手く説明できない。だが法律はね、人のためにあるんだ。人を悲しませないためにある。いつだって人に寄り添っている、人の強い味方だ」
俯いた娘に、必死で言葉を紡ぐ。こんなに頭を回転させたのはいつ以来だろうか。
「例えば、人の生活のことを決めている法律があるんだが、そこには、家族は互いに助け合わなければいけないっていう決まりがあったり、親は子供のために子供を守らなければいけないっていう決まりがあったりする。ちゃんと法律に書いてあるんだ。
ああ勿論そんなことから君を守っているんじゃあない、あくまで大事だからと私たちの意思で君を守っている。でもそうじゃない親がいるかもしれない。それでも子供はどうしたって1人で生きていくのは難しいから、法律はそのためにちゃんとルールを作っているんだ。
私が教えている法律もそうだ。人のものを盗んだ人や、人を殺した人は罰を受ける。もしそれが許されたら周りの人やその人自身を悲しませることになるだろう。
だから僕は人を悲しませないためなんだと思う、勿論自分も含めて。そりゃあ確かに苦しくて辛いときは周りの人の悲しみなんて知ったこっちゃないとも思う。それでも自分の好きな人、大事な人にはできるだけ悲しい顔をして欲しくないじゃないか。少なくともお父さんはそう思う」
ひとしきり語り終えると、ほうとため息が出た。ここ数日のモヤモヤが一気に晴れたような気がする。ちらと娘の方を見るが、俯いていて表情はよく見えない。
「お父さん」
「なんだ」
「…遅刻するよ」
手元の腕時計を見て私は慌てて駅へと向かった。タクシーを使いたかったが、仕方あるまい。かかあ天下の財布事情は複雑なのだ。これはまた後日腰に響くぞ。しかし想像を超える意地っ張りだなと笑みを漏らす。いや笑い事じゃないぞ。あれだけ素直じゃないと将来が心配だ。
階段を駆け下り、駅員の制止を振り切って電車に飛び乗った瞬間、ドアが閉まった。
ジャケットがドアに挟まったが、まあ着くまでには何とかなるだろう。
そうだ、私と妻の娘だ。何とかなるだろう。何とかするだろう。できるさ。あの子は妻によく似ているから。きっと苦難も乗り越えていく強さを持っている筈だ。だから、大丈夫だ。そう語りかけるように車窓から空を見上げた。冬の朝らしい晴れ渡る青空だった。
「もう!お父さんってばドジにも程があるんじゃないの!あら、悠。ぼんやりしちゃって。そろそろ準備しないと遅刻するわよ」
お母さんはやっぱり鬼のツノを生やしてお父さんの靴跡を拭いている。なかなか消えないみたい。私の顔を見ても何も聞かないでくれるお母さんはやっぱり優しいと思う。
「お母さん」
「なあに」
「私ね、将来法律を勉強しようと思うの」
私がそう言うとお母さんは声を上げて笑った。大笑い。私もつられて大笑い。
暫く笑って、大笑いの波が収まってから、窓の外を見ると、なぜだか何でもできる気がしてきた。空はカラッとして雲ひとつなくて眩しかった。私は、大丈夫だ。お父さんとお母さんの子どもだから。だから私は、きっと、大丈夫、だ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
最近の衝撃的なニュースを見て半ば衝動的に書いたので、主人公の熱くなっていく思いとか、きちんと書けたかどうか不安です。
初投稿に加えてこのサイトの初心者ですので、もしアドバイス等ありましたらどうぞよろしくお願いします。