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医師/弟子

不定期更新

 目が覚めてしまった。

 覚醒して最初の感想がそれだった。全身を支配する倦怠感に抗って頭を持ち上げると、そこは清潔な小部屋だった。ふかふかのベッドと厚手の布団にくるまれて、僕はこれまですやすやと眠っていたようだった。

 体を起こす。ここがどこなのか思い出せなかった。いや、それどころか、心の中にある空洞があまりにも大きくて、とてつもない違和感に襲われていた。

 自分の名前は有村麒一郎だ。男で、年齢は……。思い出せない。昨日何をしていたのか思い出せない。それよりずっと前のことも、何も思い出せない。



「目覚めましたか」



 扉が開いて、女性が顔を覗かせていた。僕はじっとその女性の顔を見た。まだ若い黒髪の女性で、赤いフレームの眼鏡をかけている。鼻筋通った美人だがどこか愛嬌のある顔をしている。白衣を着ていて、手首にはじゃらじゃらと紐にガラス玉を通したようなアクセサリーを幾つも着けている。歩くたびに鈴を鳴らすような音がした。



「えっと……」

「自分の名前は分かりますか」



 部屋に入ってきた女性は柔和な口調で尋ねてきた。僕は頷く。



「有村麒一郎……」

「はい、大正解です。生年月日は?」

「分かりません」

「出身地は?」

「……分かりません」

「えっと、私の名前。あなたの目の前にいる眼鏡美人の」

「ああ、えー……、分からないです」



 ふうむと女性は顎を撫でる。手に持っていた書類をぱらぱらとめくる。



「思ったより重度の記憶障害があるようですね。懸念していたことが起こってしまいました。まあこうして普通に話せているので、治療を進めていけばじきに記憶も回復するでしょうが……」

「あの……。ここはどこです? あなたは誰ですか? 僕はいったい……」



 女性はくすりと笑った。



「僕? 僕と言ったんですか? あはは、性格まで変わっているんですね、麒一郎さん」

「えっと……」

「失礼、失礼。ちょっと珍しく感じたもので。私は雫石巴菜と申します。ここフォーマルハウト基地の臨時の医師をやっております。普段はしがない冒険者として魔界をぶらぶら彷徨しているんですけどね」

「魔界……!?」

「魔界です。ここ、魔界なんですよ。そこも分からないですか」



 僕は魔界という言葉の意味が分からなかった。知っているような、知らないような。平穏極まりないこの部屋が「魔界」という物騒そうな場所にあるというのが俄かには信じられない。

 雫石が咳払いする。



「そうですね……、麒一郎さん、何も覚えていないというのであれば、きっちり説明したほうがいいでしょう。もしかすると説明を聞いている内に記憶が戻ってくるかもしれませんし」

「はあ……」

「あなたは、魔界で働く地図屋さんだったんですよ。凄腕と評判の」

「地図屋……?」

「ぴんときませんか」

「正直、全く」

「魔界開拓を進める上で、地図を作製しないことには、人員や資材を送り込んで拠点や道を作ることさえできません。地図は魔界開拓の最初の一歩と言って良いでしょうね。地図屋は魔界の未踏地域に真っ先に踏み込む、冒険者の中の冒険者なんですよ」

「はあ……?」

「麒一郎さんはチームを組んで、ここフォーマルハウト基地を拠点に、活動していました。しかしちょっとした暴動を麒一郎さんが起こしまして、魔法で拘束させてもらいました。その際、魔法の威力が強過ぎて、麒一郎さんの精神に甚大なダメージが及んでしまったようですね」

「暴動……!? 僕がですか」

「ええ」



 全く信じられなかった。自分がそんな悪行に及んだとは。身に覚えがないのは、記憶がないので当然だが、申し訳ないという気持ちがせり上がってきた。



「それは……、本当に申し訳ないことをしました。誰か傷ついていませんか?」

「一番重症なのは有村さんですよ。他の方は軽傷です」

「そうですか……。それならまだよかったですね」



 ほっと胸を撫で下ろす。そんな僕を、雫石は眼鏡越しにじっと見ていた。



「ええと……、何か?」

「あっ。いえ。その……、随分人が変わったな、と」

「そうなんですか? 記憶を失う前の僕はどんな人間だったんです」

「粗暴でしたね」



 きっぱりと雫石は言う。僕はぎょっとした。



「そ、そうだったんですか……。うーん」

「ええ。別に悪口を言いたくはないのですが、よく部下を殴ってましたし、他人をけなすこともありましたし、ライバルを暴力で排除することもありました。魔界ではそういう輩は珍しくないので、特別麒一郎さんが悪いってことはないんですが、困ったことに麒一郎さんが強過ぎたので、どんどん増長していった感じですかね。私が見ていた感じ」

「じ、じゃあ、僕はあなたにも酷いことを……?」



 雫石はそこで吹き出した。僕はきょとんとする。



「えっと、僕、変なことを言いましたか」

「いえいえ。ただ、そうですね、麒一郎さんが私に危害を加えたことはありません」



 どうして雫石が笑ったのか、僕には分からなかった。そこも気になったが、他にも知りたいことは山ほどあった。



「あのー、僕が暴動を起こしたということは、犯罪者ってことですか? これから警察に行くことになるんでしょうか」

「え? 警察? あはははは、面白いですね」



 雫石は本当に楽しそうに笑っている。僕はもう彼女の笑いの波が去るのを待つしかない。

 涙を拭いながら彼女は手を振る。



「ごめんなさい。魔界は無法地帯なので、ここでの行為で罪を問われることはないですよ。自主的に治安維持に勤しむ団体がいますが、彼らがするのは逮捕や拘束、裁判などではなく、犯罪者の抹殺です」

「ま、抹殺……、殺すんですか」

「はい。えーと、麒一郎さんのことを恨んでいる人はたくさんいるかもしれませんが、麒一郎さん自身が極悪人ってことはないです。ただ性格が歪んでいるだけの冒険者ってだけで、治安維持部隊の粛清対象には、なっていないはずですね」



 少しだけ安堵した。記憶を失っている状態で牢屋に入れられるなんて、ぞっとしてしまう。

 まだまだ質問しようと思ったが、そのとき小部屋の扉がそろりと開いた。15歳前後の少女が、おそるおそるといった感じで顔を覗かせる。

 僕が起きていることに気づくと顔が引き攣った。体が硬直してその場に立ち尽くしている。

 雫石が手招きする。



「大丈夫だよ、真理ちゃん。今の麒一郎さん、かなりお行儀が良いから」



 雫石が手招きしている。僕も頷いた。真理と呼ばれた少女はしばらく逡巡していたが、思い切った様子で中に入ってきた。



「あのー、雫石さん。国定さんが呼んでます」

「国定さんが? 何の用かなあ。今、有村さんに色々教えているところなんだけど」

「教える?」

「記憶障害らしいの、この人。じきに治ると思うんだけどね」

「国定さんは緊急って言ってました。魔物襲撃の兆候があるとかで」

「あの人、緊急って言葉の意味分かってるのかな。どうせ優雅にコーヒーでも飲みながら言ってたんでしょ?」



 真理は頷く。雫石は苦笑しつつも、



「まあ、呼ばれたからには行ってこようかな。ええと、じゃあ、麒一郎さん……」

「ええ。行ってきてください。僕は大人しくしてますので」



 真理が大きく仰け反って驚いた。どうやら自分が「僕」と言ったことに衝撃を受けたらしい。よほど「僕」という一人称は自分にそぐわないらしい、と思った。

 雫石は荷物を抱え、



「じゃあ、お言葉に甘えて。すぐに戻ってきますから」



 雫石が足早に部屋を去っていった。真理はベッド近くの椅子にちょこんと腰かけて、うつむいている。二人だけになるとかなり気まずかった。この少女は、僕に怯えている。僕はそれをまざまざと感じ取った。



「あの……」



 声をかけると、真理がびくりとして背筋を伸ばした。顔がまだ引き攣っている。僕はそんな彼女を不憫に思った。



「……僕って、きみに酷いことをしてしまったのかな? だからそんなに怯えて……」



 真理はぶんぶんと首を振った。それはもう凄まじい勢いで。



「……そんなことはないです。有村さんのこと、よく知らない人は、極悪非道の山賊みたいに言ってましたけど、さすがにそこまでは」

「さ、山賊……!?」



 真理は上目遣いに僕を見る。



「あ、あの、本当に記憶がないんですか?」

「ない。自分の名前しか覚えてないね……」

「……その、有村さん。一つお願いがあるんですけど……」

「お願い?」

「ほっぺたをつねっていいですか」

「は? つねる?」



 真理はこっくりと頷く。



「頬を? ええと……、まあ、いいよ」



 真理は椅子から降りた。そしてトコトコと歩み寄ってくる。少しうつむき加減に、ゆっくりとその小さな手を伸ばしてくる。

 僕の右頬を控えめに掴む。そしてギリギリとつねり始めた。

 正直相当痛かったので、すぐにやめさせたかった。だが僕は少女の泣きそうな顔を見てしまい、何も言い出せなかった。

 恨みのこもった、ささやかな攻撃だった。どうやらこれまで僕に酷いことをされてきたようだった。これで恨みが少しでも晴れるなら……。僕は限界まで我慢することにした。



「ごめんなさい」



 しばらくして、少女は攻撃をやめた。そして椅子に腰かける。僕が自分の頬をさすると、爪の形にくぼんでいた。血は出ていないようだ。



「いや……、別にいいよ。僕はきみから恨みを買っていたみたいだしね」

「……有村さんは、私の雇い主だったんです」

「雇い主……。僕がきみを雇っていた? きみみたいな女の子を?」

「はい。私の才能を認めてくれて……。それで魔界に連れ出してくれたんです。私も魔界には興味があったので、その点に関しては恩人です」

「そうなんだ」

「でも、毎日毎日、しごかれて……。演習でへとへとになって。正直嫌いになっちゃいました。いつも高圧的で、けして自分の非を認めないナルシストって感じで……、ろくでもない人間だと思ってました」

「うわあ、確かに嫌な人間だね」

「い、今の有村さんは、優しそうですけど……。でもあまりに人が変わってるので、正直気持ち悪いかも……。あ、悪い意味じゃなくて」

「ええと、うん」



 僕は苦笑するしかない。



「いつか記憶が戻ると思うので……。それまでにせいぜい仕返しをしてやろうと……。えいって頬をつねってしまいました。ごめんなさい。でも、今の有村さんはただの良い人なので、あまり復讐した感じがしないですね……」

「ああ……、うん」



 それきり真理は黙り込んだ。僕は色々と質問したかったが、それより彼女自身僕の変貌に戸惑っている様子があり、その混乱を少しでも解いてあげたいという思いが強かった。自分に何ができるだろう……、ベッドの上でじっと考え込んだ。

 二人して黙り込んでいたとき、突然、部屋が揺れた。轟音が届き、僕はベッドから転がり落ちそうになった。

 だが真理は俊敏に立ち上がり、扉に目を向けた。



「な、なんだこれ。地震!?」

「砦の防御魔法が攻撃されてるんです」

「防御魔法……」

「はい。魔物か、あるいは魔族かが、襲ってきてるんでしょうね」



 そうか。そういえば、魔物、魔族。そういう奴らがこの世界にいるんだった。僕は漠然とながら思い出した。



「何か手伝えることは?」

「ないです。有村さんは今、スキルを全て奪われているので、全くの無力です」

「スキル?」

「あっ、有村さんは恰好つけて『エフェクタ』とか呼んでましたね。魔界に埋まってる、なんか不思議な石を貴石と呼んでまして、それを使うと色々なことができるようになるんです」

「なんか不思議な石?」



 どうもいい加減な言い方だ。しかし今はどうでもいい。またもや部屋が揺れて、僕はベッドの上で倒れ込んだ。



「うわっ、くそ、体がふらふらする……」

「有村さんはゆっくりしていてください。今、砦の戦力が手薄なので、私も加勢しに行ってきますね」

「あ、うん、気を付けて」



 真理は素早く部屋を出て行った。僕は、なんとかベッドから降りようとしたが、眩暈がしてうまくいかなかった。どうも記憶だけではなく肉体も結構なダメージを受けているようだった。横たわっていると気分は悪くないのだが、体を起こすだけで具合が悪くなる。やはりじっとしているしかないのか。

 何度も部屋が揺れる。衝撃がここまで伝わってくる。どんな戦闘をしているのだろう。真理は大丈夫なのだろうか。

 何度も揺れている内に気分が更に悪くなってきた。やがて揺れは収まり、砦内は不思議な静寂に包まれた。

 僕の脳裏には魔物の返り血を浴びて戦場に立ち尽くす真理の姿が浮かんでいた。あんな少女を戦わせているのは過去の自分。僕は申し訳なさで胸が痛んでいた。記憶なんて戻らなくていい、僕は残虐な自分に戻るのが、魔物に殺されるより恐ろしかった。

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