中編
一ヶ月、その間に取り立てて男のすることは変わらなかった。
私のためにご飯を作り、私と会話を交えながらそれを食べ、片付け、
庭弄りをして絵を描いたり何かをしている。
それを朝から晩まで同じサイクルで繰り返し、床に入る。
私も私でそれを飽きずに毎日眺めているからとんだきちがいだろう。
最近少しだけ変わったことといえば一つくらいだろう。
薔薇ばかり描いていた男であったが、近頃私の絵を描くようになった。
真っ白い部屋の一角にある真っ白い大きな窓辺に腰かける私をモデルにして、
真っ白いスケッチブックに鉛筆を走らせる。
要はデッサンなのであるが、私は薔薇をデッサンする男を見たことがなかった。
何のこだわりがあるわけではないのだろうが、
私はもはやこの真っ白い部屋にある動く彫像のようなもので、
薔薇のような鮮やかさをこの男に植え付けられないことだけは分かった。
とんだきちがいはお互い様ということか。
そもそも、私をここに連れてきた時点で普通の神経は持ち合わせていないだろう。
幸せというものを知らなかったし、仮に分かっていたとしても
今を幸せだとは思わなかった。
平穏で、全ての生活を約束されていて、
過去に所有していたある種の自由を私は失ったけれど、
今の拘束はよっぽど体になじんだ。
拘束という表現さえ不適切な緩やかさ。
この男は私をこの真っ白な家に連れてきたけれど、
きっと勝手に去っていってしまっても何も思わないのだろう。
そんな想像を巡らして寂しいなんて感傷にひたったりはしない。
2人ででかけることはほとんどなかった。
それこそ近くのお店に必需品を買いに出かける程度なのだが、
私はその度に外の煩雑さに驚かされた。
こんなにも世界は雑然として、騒がしいものだったのか、と。
けばけばしい広告に購買意欲を掻き立てられる人間とはなんと浅はかだろう。
ふと高校時代の知り合いを思い出した。
彼女は誰かに囲まれていないと安心できない人間だった。
だから少しでも人から注目を浴びていられるようにと恐ろしいまでの執念を見せた。
飾らないで愛されないことを嘆くよりはよっぽど良いだろうけれど、
私は彼女が幸せに思えなかった。
あやふやで今にも消えてしまいそうな関係を手繰り寄せて彼女は何かを得たのだろうか。
こんな騒がしい世界で生きる幸福ってなんなのだろうか。
昔は考えもしなかった。
私は詰め替え用のボディソープを手に取った。
生活感のあるパックは
中身を無機質なプラスティックボトルの中に詰め替えたあとは何の意味もない。
男の顔にいまだ皺は走っておらず30ほどに見えた。
普段は白いシャツにデニムというかなりラフな格好をしていたが、
週に1回ほど仕立ての良い黒いスーツを着て外出することがある。
私は行き先を聞かなかったし、男は日が沈むまでに帰ってくるといって
その約束を破ったことがなかったから私は気にしなかった。
私は去年20になった。1ヶ月もすれば私は21になる。
生まれたのは雨の季節、生まれた日も雨が降っていたらしい。
その時間は確かにあったというのに、
私は小・中・高の記憶も思い出もほとんど持っていない。
いつのまにか夜の街の片隅で声がかかえるのを待っていた。
男がスーツを着てでかけていったその日、
珍しく帰りが遅くて私は窓辺から玄関を見つめていた。
ふと男の影を捕まえて、少しだけ驚いた。
今日は朝から激しい雨降りで、出掛けに紺色の傘を持っていったというのに
差さずに手にもったまま玄関の方にのそのそと歩みを進める。
タオルを掴み玄関まで向かうと俯いたまま男は立っていた。
開け放たれた扉の向こうの暗闇でざぁざぁと蠢いている。
がくりと傾いた男の体を、私はタオルと体でそれを受け止めた。
「白い服が汚れてしまう」
そんなことを気にするなんてなんてばかな男だ。
「せっかくのスーツが雨で台無し」