第二章【千里の双子】プロローグ
――時折、子供の頃の夢を見る。
そう言うと、だいたい決まってこんな問いを返される。
「へえ、どんな子供だったの?」
「…………大したものじゃあなかったな」
その度に言葉を濁して、自分なりの愛想笑い――大して顔に変化はない――で答えるのが彼にとってのお決まりだった。
……そう。
決して、大したものではない。むしろその逆である。
レヴィンゼード・リベリシオンにとっての子供時代は忌むべきもの。
叶うならば、二度と思い出したくもない過去の象徴だった。
薄暗い廊下の奥から覗かせる明かり。
聞こえてくるのは泣き声と罵声。
ああ、まただ――小さな足で床を蹴り急ぐ。
「やめろっ!!」
ドアをこじ開けて叫ぶ。
その小さな胸ぐらを掴み上げている大きな腕に飛びつき、思い切り噛みつけばその腕は壁に叩きつけてきた。
激しい痛みが背中に広がり、ずるずると壁づたいに崩れ落ちる。
「レヴィンっ……!」
震えた少年の声が名前を呼び、こちらへ駆け寄ろうとしてまた大人に首根っこを掴まれる。
そして同じように壁にぶつけられ、レヴィンの隣へと倒れ込むとそこを狙ってまた目の前の男は手を振り上げた。
「レイン!」
痛む体を押して覆い被さり、その拳を背中に受ける。
それがますます気にくわないのか、男は何度も何度も殴っては蹴って、叩いてと暴力の限りを尽くし続けた。
無理やり引き剥がされて腹を殴り、顔面を壁に叩きつけて、倒れたところをまた追い討つように蹴り飛ばす。
そこで震えた声で弟が兄の名を叫べば、今度はそちらへ矛先が向いて、弟は真横から蹴りを見舞われボールのように飛ばされた。
レヴィンの顔は一瞬にして真っ青に染まる。
「レイン……レインっ!?」
体の痛みなど忘れて駆け寄り揺さぶるとうう、と呻く声。
ああ、とレヴィンは心の底から安堵の息を漏らしたが暴力の雨が止んだワケではない。
ドゴッ、という鈍い音と共に頭に衝撃が走る。
繰り出した相手がどんな顔をしているかなど見ずともわかる。顔を歪めながらも弟を護るべく再び兄は盾となった。
悲鳴を上げそうになってもぐっと歯を食い縛って、その暴力を一身に浴び続ける。
痛い……泣きたくなる程に体中が痛い。
でも、自分なら"治せる"。この痛みもすぐになくなる。
目も見えず身体も弱い弟を殴られて、さっきのような心臓が凍りつくかのような想いをするより、理不尽な暴力の盾になる方がレヴィンにとっては何倍も何百倍もマシだった。
そう、自分はどうなっても構わない。弟が……生まれてからずっと一緒にいるもう一人の自分がいてくれればそれでいいのだ。
レヴィンにとって、家族とはレインただ一人だけなのだから。
――昔は、そうとしか思ってなかったのに。
「……」
瞼を開き、レヴィンはだるそうに身を起こす。
くあ、と欠伸をしながら背を伸ばしながらベッドから下りると、箪笥の引き出しに手をかけて服を取り出していく。
「(久々に見たな……)」
寝惚けながら昨夜見た夢の内容に想いを馳せる。
正直言うと馳せたくはないが、一度見るとどうしても頭に焼き付いて離れないのが困り者だ。
人間は深く眠れているならば夢の中身は覚えていないと聞く、なら自分の眠りが浅かったせいだろうか。
別段眠れない程嫌なことや辛いことがあったワケではないんだが、とかそんなことを考えつつパジャマに手をかけたそのタイミングでふとこんな思考に陥る。
「(……また何かあるんだろうか)」
眉をしかめる。
子供の頃の夢を見ると、いつもこのように嫌な予感が唐突にレヴィンの脳裏を過るのだ。
何故かはわからない。が、大体今までその予感が外れたことはあっただろうかと過去の事象を遡りつつ服を脱ぐ。
部屋に置いてある鏡にその素肌が写り込むのが目に入るとまた眉をしかめた。
「……相変わらず酷い身体してるよな、俺って」
自嘲しながら胸元にある大きな火傷の痕をそっとなぞる。
胸元だけではない、身体中火傷まみれでひどく惨たらしい有り様だ。
単純に焼かれたようなものから、何かで切りつけたかのようなものまで、彼の身体を包み込むかのように存在している……
――と、そこで唐突にガチャリとドアが開く。
「!?!?!?!?!?!??!」
レヴィンはびくっ、と体を震わせて顔を真っ赤にして人が出せるものではない速さで布団の中に突っ込んだ。
「…………レヴィン?」
「………………」
やってきた自分と全く同じ顔の弟が恐る恐る声をかけると、もぞもぞと布団にくるまった状態で顔を出す。
「…………レイン」
「着替えてるなら着替えてると言ってくれたらよかったのに」
「ノックしなかっただろ」
「しましたよ?かれこれ9回程」
「…………」
もぞもぞとレヴィンは布団に潜る。
しかしすぐにレインの手が伸びて、顔だけはその布の加護を剥がされた。
髪の毛と同じぐらい真っ赤に染まった顔を見て、レインは困ったように笑う。
「全く、何がそんなに恥ずかしかったんです?」
「や、その…………条件、反射で」
「何の条件ですか……」
「…………放っとけ!」
顔を赤らめたまま目を逸らすレヴィン。再び苦笑するレイン。
「……それで、どうしたんだ?」
「朝ご飯ができたので呼びに来ただけですよ」
「ああ、もうそんな時間だったのか」
「今日は休みとはいえ、朝食を取るのは大事ですから。ちゃんと食べてくださいね」
「すまんな。着替えたら食べる」
では、着替えを邪魔したら悪いので――と、少しわざとらしさを含めながら言い残してレインは部屋を出て行った。
ばたんとドアの閉まる音を聞いた後、レヴィンははあとため息をつく。
「全く。昔の頃より随分と図太くなったな、お前は」
そうつぶやくと、再び布団から出て着替えを再開した。
部屋を出た後、レインはまっすぐに廊下を進み玄関へと向かいドアを開く。
現在の季節は春。青空が広がり小鳥が囀る中、太陽が草花や道路を光で彩るその光景はまさにその季節に相応しい。
程よく冷たい風も気持ちよく、一日が今日も始まったのだという気分にさせられる。
一つ深呼吸をしてその空気を味わってから、ポストに放り込まれている新聞と郵便を取り出して――
「……!」
一通の手紙が視界に入った瞬間、レインは目を見開いた。
やけに質の良い紙が使われているそれに書かれてある宛名を見た瞬間、ぐしゃりとそれを握り潰す。
「…………性懲りもなく。何度言ってもわからない低能が」
乱暴にドアを開け、リビングに戻る。
朝食を食べる兄をよそに、ずかずかとゴミ箱まで進んでいき、その潰した手紙を引き裂いて捨てるとまた乱暴な手つきで新聞を机に投げる。
放り投げられた新聞は机に着地する前にレヴィンの右手に受け止められ、ぱさりと音を立てた。
「どうした、いきなり」
「……いえ、すみません。何でもないですよ」
「手紙、いいのか?捨てても」
「ええ。別に目を通さなくても良いものですから」
そう言ったレインの表情はいつもと同じにこやかな顔で、そうかとだけ告げてレヴィンは再び朝食を口に運ぶ。
何もなかったワケではないということを察しなかったのではない。
あのいつもの笑顔を貼り付けている以上自分が何を聞こうとこれ以上口は割らないだろうと詮索を諦めたのだ。
流石情報を操る神秘力者といったところか、嘘で誤魔化す、延々と口を閉ざし続けるといったことはレインの十八番。
例え双子の兄であるレヴィンが相手でもそれは決して変わらない。
しかしそれだけでそれ程レインにとって、あるいはレヴィンにとって耳に入れても益どころか害しかないものだということが推測できる。
それだけで問題はない。
少なくとも、レヴィンにとっては。
「…………――ああ」
朝食を食べ終えて片付けた後、ゴミ箱に捨てられた手紙の断片を見てその推測が当たっていたことを確信する。
「………………いつになったら、諦めてくれるんだ。あいつらは」
辟易したように呟いて、ゴミ箱からテレビへと目を向ける。それからもう一度焦点を当てることはなかった。
"レイディエンズ・ハルフェーズ=リベリシオン"
最早内容もわからぬ程に引き裂かれた手紙の中で、そう書かれた宛名だけが偶然にも形を残していた。