第一章【ハジマリ】第十九節-前編-
レヴィンとエウリューダが開いてくれた道を進んでから少ししてのこと。
「……スピルさん。一ついいですか?」
トラベロは口を開いた。
ぴたりと足を止め、スピルは振り向く。
「何だい?」
「その、聞かない方がよかったのかもとは思ったんですけどやっぱり気になって。
――あの時、エウリューダさんは何を言ってたんですか……?」
あの時……部屋を抜け出す時、エウリューダはスピルに何かを話していた。
スピルにしか伝える気がないから耳打ちをしていたのだろうと聞こうとすら思わなかったのだが、
ここに至るまでの過程を経てその心境は変わっていた。
無理ならいいんです、と付け加えるがスピルはくすりと笑って回答を口にする。
「別に大したことじゃないよ。トラベロ君もレヴィンも引き返そうとするだろうから引っ張って連れてけ、って言われただけさ」
「それ、ってどういう……」
「エウリューダは最初から自分だけ残るつもりだったんだ。……いや、残ることになるだろうと察していた、の方が正しいかな。
あの子の神秘力の弱点は君も知ってるだろう?」
こくりと頷き、トラベロはそのまま顔を俯ける。
わかっていた。
なんとなくだが、わかっていたのだ。
あの時、エウリューダは自らの身を呈して仲間たちを先に行かせようとしているんじゃないかと。
「"二人とも優しいから俺がやられたらすぐに助けにいこうとするから"……ってね」
「もちろん!助けにいくに決まってます」
「でも今それで全員が全員足止め食らってる場合じゃないのもわかってるだろう?」
「……それも、そうです、けど」
「つまり、そういうことさ。本当はレヴィンも引っ張ってけって話だったけどそれは所長権限で無視。エウリューダ一人じゃ荷が勝ちすぎるし」
「レヴィンさんもそれをわかってたんですか?」
「どうかな……レヴィンにとってああいう行動は当たり前のようなものだから。わかってなくても何とかするから先に行け!って言うだろうね」
「……そう、ですか。引き留めてすみません。先に行きましょう」
再び炎で道を照らして進む。
足を動かしながら、トラベロは先程の話を振り返っていた。
……理由は尤もだ。理解できるし納得せざるを得ない。
しかしそうすると逆に別の疑問が浮かんできて、表情は晴れるどころか曇るばかり。
「(……何で、僕を?)」
これを言えばスピルはきっと良い顔をしないだろう。
しかしトラベロの頭に過るのはそんな考えばかり。
決して自棄になっているワケではない。冷静に状況を鑑みれば鑑みる程疑問なのだ。
そんなトラベロの考えを見透かしてか、スピルが足を止めて声をかけてきた。
「……トラベロ君。今君、"自分があの場に残った方がよかったんじゃないか"とか考えてるでしょ」
その問いにトラベロは目を見開くが、すぐに顔を俯ける。
口は開かれることなく、ノーコメントともとれるがイエスとも取れる、曖昧な沈黙。
眉間に少し皺を寄せ、スピルは口調を強くしてこう言った。
「言っておくけど、それは僕が許さないよ。……エウリューダもレヴィンも、アキアスも。みんな口を揃えて同じ事を言うだろう」
「…………」
「君は物分かりの良い子だ。そして真面目で責任感も強い、だからこそ彼らが足止めを買って出たことが申し訳ないんだろうというのもわかってる。彼らが先に行けば有利に戦えるだろうに……ってね。
はっきり言って欲しいだろうから口にさせてもらうと、確かに君の考えの方が理のあるものだ。君は戦いに向いている子ではないからね。
……でも、それを選べないとわかった上で僕は君をここに連れてきた。他のみんなもね」
「……何で」
「何故それを承知の上で連れてきたか、かい?」
またもや心を見透かされたかのように紡ごうとしていた言葉を的中させられる。
「アキアスも言ってただろう?ファナリヤちゃん絡みで君がこのまま黙ってられるワケないじゃないか。それに……」
「それに?」
「彼女を助けられるのは、きっと君だけだ」
「……??」
理解が及ばずトラベロは首を傾げる。
ティルナノーグのみんなは自分なんかよりよっぽど強い人たちの集まりだ。
彼らならファナリヤを取り戻すことなど自分より容易なハズなのに……?
言葉の意味がわからずきょとんとしている彼に、スピルはくすりと笑いこう告げた。
「助ける、ということは必ずしも力が必要なワケじゃないんだよ、トラベロ君」
さ、行こうかとスピルは再び前を向き、トラベロはかけられた言葉の意図に戸惑いながらもついていく。
――力を必要としない助け方、とはいったい何なのだろうか。
しかし、この言葉にはきっと意味がある。それがどういう意味なのかは、僕にはすぐにはわかりそうにない。
でもそれが、みんなが僕を先へ進ませてくれた理由なんだろう。
ならばその気持ちに応えられることをしなければ。
危険を承知の上で自分を、対して戦えもしない自分を先へと行かせてくれたのだから……!
決意を固めたトラベロの顔を見てスピルはにこりと笑う。
「うん、いい顔になった。……さ、こうしてはいられないよ、先へ――」
その時、トラベロははっと息を呑む。
スピルの背後、暗いだけの空間がぐにゃりと歪んだのをその目に捉えたのだ。
スピルもそれに気付き振り向くが、その歪みは彼に食らいつかんと手を至近距離まで伸ばしている――!
「危ないッ!」
トラベロの叫びに呼応するかのように激しく炎が立ち上り、壁となって歪みを阻む。
く、と声を上げてバックステップで距離を取ると、それはようやく姿を見せる。
サバイバルナイフを片手に持ったフードの男だ。
しかしそいつだけではない。
二人に対して何人もの視線が集まっているのを嫌という程感じる。
それと同時に強い殺意も、また。
「……なるほど、だから今までほぼ全く出てこなかったワケだ」
スピルの手にあるスクラップブックが光を放ち、細剣と盾が姿を現す。
こちらの戦力を削いで一気に畳み掛けようという寸法であるならば、アジト内でありながら敵がほとんどいなかったのも納得がいくのだ。
トラベロは真っ向から戦える程の力をまだ備えておらず、レヴィンもアキアスも離脱している今、前線で戦えるのは実質スピルだけである。
他に潜んでいる奴等もきっと刃物なり銃なりを持っていると断定するなれば、一度でも被弾すればトラベロも動けなくなるのは間違いない。
そして、そうなった先に待っているのは……
「スピルさん……!」
「……ノーミス上等、やってやろうじゃないか」
剣を構え、トラベロの盾になるかのように前に出るスピル。
「トラベロ君、絶対に前に出るんじゃないよ」
「は、はい……!でも僕も」
「皆まで言わない。援護よろしく頼むからね!」
「……!はいっ!!」
トラベロから鮮やかなオレンジ色のオーラが溢れる。
スピルも目の前にいる敵の群れを警戒するように武器を構えた。
下手に動けば畳み掛けられ一網打尽の可能性がある以上、こちらからおいそれと攻め入るワケにはいかない。
とすれば当然こちらの動きは受け身になるワケで、互いに一手繰り出すタイミングを図ることによる静寂がより緊張を煽り立てた。
――響き渡る銃声。
そして、それらが地べたに這いつくばる音も同様に室内中に反響する。
ギャラリーに立ち並ぶ狙撃手は銃弾が何度と落ちようが構わず引鉄を引き続ける――ターゲットとする紅髪の男を射抜かんとして。
銃弾がありとあらゆる軌道を描き、ターゲットに向かう。しかし近づけばあっという間に男の周りを囲う重力の壁によってまた墜落した。
「(……どこだ……どこにいる……?)」
重力の壁で自らを護りながら、レヴィンは部屋のあらゆる場所に目を配る。
銃弾が飛んでこないほんの数秒のタイミングを見計らって場所を変えてはどこに此処のボスが存在するかを血眼にならんばかりの勢いで探す。
ギャラリーには全く目もくれなかった。
それは何故か――それはああの狙撃手たちの中にジョン・ドゥがいないという確信があるからである。
銃口の位置、引鉄を引いてから次にまた引くまでの僅かながらの時間を見極めようと目をやったが狙撃手たちからは神秘力者のオーラが見えなかった。
例えどんな空間であろうと、神秘力を使っているのであればオーラを視認することができる。
視認については自由にオンオフを切り替えることができるがオーラの流出はそれが利かない。
つまり今この場にいる狙撃手たちは皆神秘力を使用していない、あるいは神秘力を持たないかの二択である。
もっとも、神秘力者のみを傘下に引き入れるマグメールにおいて後者である可能性は限りなくゼロに近いと言っていい。
ならばジョン・ドゥはこの部屋のどこにいるのか?
早く見つけなければここを抜け出すことはできない、つまりそれはスピルたちを助けに行くことができない。
エウリューダの傷もまともに治療できてもいない現状に焦りを覚えずにはいられない。
自身の体力が尽きる前に何としても見つけ出さなければ……気持ちを落ち着かせようと深呼吸し、その後息を整えるかのように軽い呼吸を繰り返す。
その頬を2,3回程汗が滴り落ちていく。
「――随分と疲れておいでですね」
そんな中、唐突にジョン・ドゥの声が再び響き渡る。
「貴方は体力は人並み以上にある方だったハズですが……その神秘力の負担はそれ程のものということですか」
「……昔から知っているような口ぶりをするんだな」
「…………敵の情報は前々から仕入れるものですからね」
レヴィンの問いかけに妙に間を空けて答えを返す。
その空白は何か思うところがあるのか、否か。
「色々と言いたいことがあるようですが、それは私を見つけることができた時に答えますよ」
「……そうかよ」
「とはいえ、貴方の体力は目に見えて落ちている。このままでは防ぐ術も無くして蜂の巣になる方が早そうですかね」
否定ができずレヴィンは拳を握りしめる。
先程から展開している重力の壁は自らの神秘力によるものだ。
自分の周り、せいぜい隣に人が一人しか立てないであろう程度の範囲だけ重力を倍にすることで銃弾の直撃を防いでいる。
しかし、その代償として自分の体力をこれでもかというぐらいに持っていかれてしまう。
恐らく今、少し走っただけで息を切らしてしまう程までにまではなっていると自分を客観的に分析していた。
故に焦りがより一層顔に出てしまうのだ。
ここを早く抜け出さなければ、自分たちのやらなければならないことすらもロクにできやしない。
早くエウリューダの傷を治さなければ。
早くトラベロとスピルの加勢にいかなければ、早くファナリヤを助けなければ。
あらゆる感情が頭の中を交錯すればする程焦りはまた酷くなる。
「……一つ、聞きましょう。貴方、わざと遠回りな道を通っていませんか?」
「どういうことだ……?」
「そこにいる狙撃手……それを全員貴方の力で潰してしまえば良いではないですか?一人ずつ、動けなくなるまで」
「……っ、それは」
動けなくなるまで、潰す――。
ただ重力で動きを止めるだけなら容易だが、一度でも解けば即座に反撃がくる。
かといって、全員を止めようとするのは今以上の負担がレヴィンに重くのしかかり動けなくなるのは明白。
倒してしまえばそれらの問題は解決が臨める、それは確かだ。
自分の拳が、脚が届く距離ならすぐにその選択をしただろう。
しかし相手は自分たちの手が届かない距離にいるのだ。
仮にこの場から相手に対し、倒すつもりで重力を使うとする。
ギャラリーごと潰さんばかりの重圧が人体に重くのしかかるとどうなるか?
……人命が保障される可能性は限りなく低い。
だからレヴィンはその選択をしなかった、否。できなかった。
そして、ジョン・ドゥはそれを見抜いているからこそ敢えて問いかけたのだろう。
拳を握りしめる力がさらに強くなる。
「……貴方は優しい方だ。いや、優しすぎると言った方が良いでしょうかね。我々は本気で殺しにきているというのに、命を奪うことを嫌うとは」
「それは貴方も同じなんじゃないの?」
唐突に割って入る青年の声。
それと共にエウリューダが柱の影から姿を見せる。
未だに傷口が塞がってはいないがしっかりと両足で地面を踏みしめ、どこにいるかわからないジョン・ドゥに対して強く視線を向けるかのように見上げている。
「エウリューダ!?バカっ、何で出てきた!」
「ごめんね。もう大丈夫だよ、傷は大分よくなったから」
「そういう問題じゃないだろう!!」
エウリューダを庇うようにレヴィンは彼の目の前まで走り、先程と同じように神秘力を使おうとして――止められる。
「"いいの、大丈夫だから"」
そう言霊を紡がれ、溢れる真紅のオーラは意志に反してなりを潜めていく。
「っ、でも!お前の力じゃ」
「でもそれ以上使ったらレヴィンさんが倒れちゃうでしょ?そしたら、誰が俺やみんなが怪我した時治してくれるの?」
「……それ、は。だがこのままじゃ」
「――きっと、あの人は本気で俺たちを殺すつもりなんてないよ。そうでしょ、ジョン・ドゥさん?」
え、とレヴィンの目が丸くなる。
エウリューダの顔は真剣以外の何者でもない。
いや、顔を見ずともはっきりわかる。彼はこんなことで嘘をつく人間ではない、きっと何か考えがあるのだろう。
それが何なのかまではレヴィンには考えが及ばないが、ここは彼に任せた方がいいということだけは確かだった。
何しろこのような状況においてのエウリューダはレインと同等、あるいはそれ以上の冷静さで目で周りを見ているのだ。
それこそ普段の振る舞いからは想像もつかない程に。
「はて、どういうことでしょうか。私が貴方たちを殺さない理由はないと思うのですが」
「えー?それなら貴方の行動ってちょっとおかしくないかなー?」
「……何が言いたいのですか?」
「思ったんだけどさあ。そもそも最初から俺たちを先に進ませない、もしくは倒すのが目的なら普通真っ当な勝負なんて仕掛けないんじゃないのー?
まあ、貴方が卑怯なやり方したくないーって人なのかもしれないけど……それにしてもおかしすぎるんだもん」
「……エウリューダ。どういうことだ?」
「振り返ってみてよ、ここにきてから今までのこと」
この部屋にきてから、今この状況に至るまで……状況を一つずつ思い返してみる。
ジョン・ドゥはこちらに、この部屋を抜け出せるか否かで勝負を決めようとしていた。
制限時間以内に攻撃を掻い潜り、抜け出すことができたならばこちらの勝ち……
命のやり取りに対する言い方としては相応しくないが、つまりはある種のゲームといったようなものだ。
トラベロとスピルはそのゲームに勝って先へ進み、レヴィンとエウリューダは負けた。
故に敗者復活戦として、もうひとつゲームを持ちかけられたのが現在の状況。
「……ん?」
レヴィンはここで違和感に気づく。
自分たちはファナリヤを助ける為に敵のアジトへ攻め入っており、ジョン・ドゥたちマグメールの神秘力者たちはそれを阻止する為にこうして立ち塞がっている……
というのが今回の戦いのそもそもの前提として存在している。
であれば、ジョン・ドゥが最初に仕掛けた"ゲーム"の存在意義はどういうことなのだろう。
何故わざわざ、時間内に抜け出したら勝ちなどという条件を設けたのか。
普通はそんなことしないし、仲間からすれば裏切りにも取られかねない行為では?
「……なる程、確かに」
「でしょ?ここで起きてることの"全部が無駄"なんだよ、マグメールにとって不利益以外の何者でもないし。
そもそも俺たちを本当に進ませないつもりなら最初っから何も言わずに不意打ちで銃を撃ってればよかったんだよ。
――でも、貴方はそれをしなかったよね?」
ジョン・ドゥの声は返ってこない。
エウリューダはそれに対してくすりと笑い、こう言った。
「貴方、嘘吐くの苦手でしょ」
「……何故そう思うのです?」
「だって普通そこで黙っちゃわないよー?違うんならそこではっきりと否定するか、俺の考えを真っ向からひっくり返す理論を返すとこだもん。
それにさっきレヴィンさんに昔っから知ってるみたいな口ぶりだって言われた時も妙に間を開けて答えてたしね」
「生憎と喋るのが苦手でしてね、咄嗟に答えを返せないのですよ」
「それはあからさますぎる嘘だよ。さっきまでとっても饒舌に喋ってたじゃん」
「む……」
そのむ、という声も図星を突かれた時の反応以外の何者でもないだろう。
流石言霊使いと言うべきか、もはや完全にエウリューダの勢いにジョン・ドゥが呑まれている。
その勢いに自身も圧倒されながらも、ふとレヴィンはもう一つ違和感に気づき、横槍を挟むように口を開いた。
「……なあ、何でここにいる狙撃手は今撃ってこないんだ?」
「……!」
「今俺たちは無防備だ、簡単に撃てる。というか普通お前の指示がなくとも撃ってくるんじゃないのか?」
――銃声が全く聞こえない。
いくら部下とは言えマグメールに所属する者たちが攻撃をしないなど有り得ない。
むしろジョン・ドゥの行動に違和感や反感を覚えて一人や二人命令無視をする方が選択肢としては大いに有り得るだろう。
固定機銃は彼が直に操作をしているからとしても、ここにいる狙撃手たちが一切の引鉄を引かないというのは随分とおかしな話だ。
「さっきお前は何故俺が遠回りな選択をしていると言ったな。
ああその通りだ、実に遠回りなやり方だし下手すれば自滅する。でも俺たちはファナリヤを助けにきたんであって、殺しをしにきたワケじゃない。
でもそれは、あいつらが例え敵であっても"人"だからと思ったからだ」
レヴィンから再び真紅のオーラが溢れ出す。
「だが、人じゃないなら……話は別だ!」
刹那、ギャラリーに立っている狙撃手一人に強い重圧がのしかかり――潰れた。
人間を潰したのであれば決して立たない音を立てて。
そう、それは例えるなら機械がショートしたかのような……
それに加えて火花がバチバチと散るのも視界に映り、レヴィンは確信めいたように目を細くした。
エウリューダもわかっていたのかその光景を見ても一つの動揺もしない。
……そこにあったのは人ではなく、人に見せかけた固定機銃だった。
「なあジョン・ドゥ。お前はどこにいる?お前は本当にこの部屋にいるのか?それとも……」
「…………ふう」
溜息をつくのが聞こえてくる。
その息を吐くだけの音が、何故か安堵しているかのようにレヴィンには思えた。
程なくして、突如大きな音と共に向こうの扉――トラベロとスピルが進んだ先への道が開き、それと同時に部屋の中央の床が動き出す。
床の下には階段があり、それはここよりさらに地下へと続いている。
「……私の負けです、レヴィンゼード・リベリシオン」
かつ、かつと靴音を立て、ジョン・ドゥが階段から姿を現す。
自分たちより一回りも小さいその男の瑠璃色の瞳にレヴィンは既視感を覚えずにはいられなかった。
フードと帽子の間から覗かせる髪色も、どこかで何度も何度も見たことがある。
ただ頭も顔もほとんど隠れているせいで確証はない。
だが、それでもレヴィンは目の前の男をこう呼んだ。呼ばずにはいられなかった。
「……トゥルケ……!!」
「はあ……その名で呼ばれたのも二回目ですよ。余程似ているのですね、そのトゥルケさんとやら」
ジョン・ドゥは溜息をつきながら手に持っているものをレヴィンたちへと放り投げる。
レヴィンは何の危なげもない動きでそれを掴んだ。
何を投げたのかと疑うこともなく受け取ってしまっていたが、別に疑う程のものではなかった。
受け取ったそれは救急箱と毛布。前者の中身は消毒液からガーゼ、包帯、風邪薬など一般的に救急箱と呼ばれる物に入るには相応しいものが全て揃っている。
それどころか本来入ってはいないのではないだろうかといった医療用具もチラホラと見受けられた。
「毛布はそこの彼にかけてあげなさい。血を見ると倒れてしまう仲間がいるのでしょう?」
「……何でわざわざそんな気遣いをするんだ」
「さあ、貴方がたのお好きに解釈すればよろしいでしょう。今の私に言えるのはそれだけです。
ただ、先程のエウリューダ・ブリージスの質問には回答しておきましょう……いえ、言わずともわかりますか」
「最初から確信めいたものはあったけどね」
受け取った毛布を身に包みながらエウリューダは答える。
「ねえ……貴方の、っていうかマグメールの目的って何?本当にファナリヤちゃんを利用して、神秘力者を増やすことだけが目的なの?」
「さて、ね。私は首領から下された命に従うだけですからね、細かいところまでは存じていません。故に答えられることはない」
わざとらしくジョン・ドゥは帽子をより目深に被り、二人から目を背ける。
「さ、行きなさい。今頃仲間は戦っていますよ」
それ以降どのような質問を投げかけようがジョン・ドゥは何も答えることはなかった。
だが二人がこの部屋を抜けるまで、一つも視線を外すこともなかった。
「……すみません。今はまだ話せないのをどうか、許してください」
最後に彼がそう呟いた言葉は、当然レヴィンの耳に届いてはいない。
あれからどれほどの時が経っただろうか?
まるで何日も経過しているかのような時の流れの緩やかさを感じる。
体中の感覚という感覚が正常でないのだろうとアキアスはやけに冷静に分析していた。
何故なら今自分に馬乗りになっている少年は、それができる人物なのだ。
「おーい。生きてる?――いや、生きてなきゃこんなに息切らさないか」
くすくすと笑いながら、エイヴァスはアキアスの頬を叩く。
たったそれだけでも体中の痛覚が反応し、痛みに顔を歪める。
あれからというもの、アキアスは痛みに意識を飛ばすことも抵抗することも許されずエイヴァスの遊び玩具にされていた。
腕を、足を、脇腹を……人体のあらゆる所をナイフで刺され、切られ。
既に人の上半身は簡単に包んでしまえるであろう血溜まりがそこにできていた。
この血溜まりがさらに広がれば失血死にも繋がりかねないが、そんなことはもちろんエイヴァスはお構いなしだろう。
それよりも、どこまで嬲ればアキアスが死ぬのかが気になって仕方ないと言わんばかりにまたもやナイフを腹に突き立てる。
「がっ……ぁ……!!」
かすれた声が口から飛び出る。
もう呼吸するのも辛い程に体中が痛い。正直意識が飛びそうになったがその痛みがアキアスを再び現実に引き戻す。
自分でも感覚が狂い始めているのかもしれないが、痛みで目を覚まさせられるのは幸いでもあった。
意識がある、ということは考えられるということ。
現在の瀕死にも近い状態で考えられることなどたかが知れているが、頭を回せることが今の彼にとって最も安堵できることだった。
「あはっ、痛い?まだ痛いのかい?凄いねえ、感覚まだ抜けてないんだ」
「……白々しいこと、言いやがる……!」
「さあ、何のことかな?」
アキアスが吐き捨てるように言うと、エイヴァスは首を傾げて嘯いた。
――本当にいい趣味してやがる。独りごちて唇を噛み締める。
本来なら感覚がないものを、エイヴァスが神秘力で脳に暗示をかけて飛んでいこうとする感覚を無理やり引き戻しているのだから。
「それにしても本当に頑丈な体だ。普通の人間なら死んでもおかしくないんだけどね……」
先程からエイヴァスの目にはアキアスから放たれる鮮やかな黄色のオーラが映っている。
神秘力でこの場にある氣を取り込んでいるのだろうと見た。
どんなに感覚を過敏にしようが、普通身に余りすぎる激痛を受ければ気絶する。
それを意識を呼び戻すトリガー扱いにしているのはエイヴァスの所業ではない。
疲弊しきった体力をアキアスが自分で補おうと空気中の生命の力を取り込んでいるのだ。
何が何でも意識を飛ばさまい、こいつの思う通りにはなるまいと抗うその姿が面白おかしく見えて仕方ないのかエイヴァスは笑った。
「そんなに死にたくないのかい?意識が飛んでしまえば楽になれるよ?」
「……ああ、嫌だね……俺は、死ぬつもりなんて……ねえ」
「あっはは、冗談言える程頭が回ってるんだ、凄い……ねッ!!」
エイヴァスのナイフがアキアスの頬を再びかすめる。
ご丁寧に最初に傷つけた傷口を再び開くかのように、狙ってその位置にナイフを落としたのだ。
血溜まりに飲まれて赤く染まった金の髪を僅かに巻き込んで地面に突き刺さる。
止まっていた血が再び頬を流れ出し、身が裂かれる程の痛みがまたアキアスを襲う。
しかし口から出たのは悲鳴ではなく、
「――抜かせ、バーカ」
という挑発の一言だった。
エイヴァスは顔をしかめ、訝しげにアキアスを見る。
「まさか、本気だというのかい?本当に?」
「言っただろうが白髪野郎……半日も経ってねえやりとりぐらい覚えとけ。
てめえが俺を殺す前に、俺がてめえをぶっ飛ばして終わる、ってな……!」
ふっと、アキアスは意地悪く笑ってみせる。
正直口角を上げるのすら辛い程に顔も痛いのだが、それでも今までの行為など屁でもないと言わんばかりに笑い飛ばしてやる。
何しろこの"狂人"は他者からの挑発に弱い。
事実ギリ、と歯軋りの音が聞こえてきていることからエイヴァスの怒りが早くも沸騰していることは明白だ。
「……はっ、これだけでもうキレてんのかよ。簡単な奴だな」
「うるさいッ!!」
怒りに身を任せたエイヴァスの拳がアキアスの顔に見舞われる。
最初に顔を叩きつけられてから大分経ったおかげでせっかく止まっていた鼻血がまた出てくるが、それをものともしないかのようにアキアスは笑って次の言葉を口にした。
「……さっきの質問に答えてやる。ああそうだよ、俺はちょっとやそっとのことじゃ"死なねえ"よ。
ましてや、てめえ如きにやられて簡単にくたばっちまう程度のヤワじゃあねえ」
「何……?」
「てめえが俺を殺す以前に、てめえには俺は殺せねえって言ってんだよ白髪野郎。
散々人にまたがった状態で好き勝手してくれやがって……そろそろこの状態で寝てんのも疲れたんだ、いい加減……」
ますます怒りに呑まれたエイヴァスの手がアキアスの首を掴む。
突然な器官の圧迫に顔を歪めるが、その目は死ぬと思ってはいない。
いや、むしろ死ぬどころか勝ちを確信しているかのようだ。
事実、首を絞められていても尚アキアスはふっと笑っている。
故にエイヴァスは気づくのが遅くなった。
アキアスを包む黄色いオーラが輝きを増していたことに……
「――いい、加減……どけってんだよッ!!!!」
エイヴァスが気づいて息を呑んだ時にはもう遅かった。
叫びと共にアキアスを起点として眩い閃光が放たれ、フィールド上に拡散する。
同時に巻き起こった突風がエイヴァスの身を軽々と吹き飛ばした。
光が、風圧が、フィールドであるアリーナのあらゆる設備を飲み込み、破壊する。
残っていたライトも粉々に電球が砕け、暗闇が辺りを支配した頃には光も風も収まっていた。
「……っ、ぐ……ク、ソ……ったれェッ!!!」
それからすぐに渾身の力を振り絞り、アキアスは突き刺さるナイフと共に地面から手を引き剥がす。
どくどくとまた血が溢れるが、痛みは然程感じない。
傷つけられすぎて痛覚が鈍っている故痛くないと錯覚しているのは自分でもわかっている。
先程まで感じていた痛みが次々と消えていくのを感じると共に、視界が暗闇の中でありながらもはっきりとしてきた。
……どうやら、エイヴァスの神秘力が解けたようだ。
ナイフの柄を口に加えて引き抜いて、アキアスはふらふらと立ち上がって周りを見やる。
観客席だった残骸の中にエイヴァスはいた。
額から血を流して倒れている……気を失っているだけだろう、彼の氣が感じられることから死んではいないことだけは確実だ。
「……ふう」
アキアスは安堵するかのように息を吐く。
ぶっ飛ばして終わるとは言ったが、今の攻撃で死なれてはぶっ飛ばして終わるということにはならない。
もっとも、その程度で死ぬような神秘力者ではないだろうが……
「……っぐ……がは……っ!!」
痛みに呻き、吐血する。歩こうとして足を滑らせ転んでしまう。
体中が悲鳴という悲鳴を上げている、あんな拷問にも近い嬲り方をされればそれが当たり前だ。
先程は氣を取り込んで無理やり痛覚を意識を戻す引鉄にしていただけで、それは先程の一撃を見舞う為の伏線でもあった故に今はアキアスの体からほとんど抜け出ている。
体が重い、視界がぼやける。今度こそ意識が飛ぶかもしれない。
「――ッ!!」
その場に遭った石を拾い、額に思い切りぶつける。
我ながら中々痛いやり方だとも、顔の痛覚は正常なようで助かったとも思いながら立ち上がり、
ふらふらと仲間が進んだ先へおぼつかない足取りで向かう。
「……しっかりしろ……目を閉じるな…………!」
自らに言い聞かせるようにアキアスは呟きを繰り返す。
ここで目を閉じれば死ぬ――そんな確信めいた思考が頭から焼き付いて離れない。
「……死ぬワケにはいかないんだよ……俺は……だから…………!!」
歯を食い縛り、何度も何度も言葉を繰り返す。
繰り返しすぎて呪詛めいてくる程に、生への執着のようなものを口にしながら、血の足跡を作りながら先へ進んだ。