第一章【ハジマリ】第十五節
「お帰りなさいませ」
帰投した3人を迎える黒衣の人物。
その隣にはフードで顔を隠した男性、さらにその後ろに東洋の衣を纏った子が控えている。
その子が目に映った瞬間、カンパネラは目を輝かせて飛び出した。
「ナーギトーお!ただいま!!」
「お帰りなさい」
熱い抱擁を受け、ナギトはにこりと笑って返す。
その横をつかつかとエイヴァスが急ぎ足で通っていくのが目に映るが、声はかけまいとそのまま二人で見送る。
「首領、お怪我はありませんか」
さらにその横で残っている三人が会話を交わす。
心配そうな視線を送るフードの男――ジョン・ドゥ。
「問題ない」
ユピテルがたったその一言だけを返すと、安心したようによかった、とジョン・ドゥは呟いた。
その後ろから、黒衣の人物が続けて声をかける。
「一連の経過報告はジョン・ドゥから聞いております。暗殺の方は失敗、もうひとつの件――あの青年との接触には成功したと」
「ああ。……ノーウィッチ」
ユピテルはそっと手を差し出す。
ノーウィッチはその手を取り、何かを読み取るように顔を近づける。
「…………ほう。これは……」
興味深そうに呟くと、手を離してユピテルの方へ顔を向き直す。
「データの確認、完了致しました。予定通り次の段階へと移行します。……カンパネラ」
「んあ?呼んだ??」
「予定通り、時期を見計らって少女に接触してください。そして――」
「ああそれね。言わなくてもわかってるさ、了解了解」
ノーウィッチの言葉を遮るようにへらへらと笑って返事を返す。
その様子を見ているジョン・ドゥは感心できないような目を向けた。
真面目に返事をしろということだろう、お硬いなあとカンパネラは苦笑する。
その返答にますます顔を顰めるジョン・ドゥだったが、ユピテルが黙って奥へ歩を進め始めたので言及するのをやめて彼に続いた。
その後ろにノーウィッチ、そしてカンパネラ、ナギトと続く。
「(……彼女を助けたという青年が"あの時"の人物とは、運命というものは皮肉なものですね。――ファナリヤ)」
ノーウィッチのその思考を読み取る者は誰もいない。
どんな表情をしているかも、全て黒衣が阻み誰も知る由もない。
しかし、何かを感じ取った人物は一人いた。
「……」
ナギトは、ただ黙ってノーウィッチへとその黒い瞳を向けていた。
何かを告げようという気はなく、ただただ真っ直ぐこちらを見据える。
ノーウィッチはそれに気づいていたが、敢えて振り向くことはせずそのまま歩を進め、やがてはナギトも視線を戻して後に続いた。
――マグメールと交戦したその翌日。
依頼は無事達成、他に一人も死傷者が出ることもなく終わった。
トラベロが敵の神秘力にかかってしまったが、それでもあの場にいた人々にほぼ被害が出なかったのはとても喜ばしい結果と言えるし本人もそれを喜んでいた。
しかし、アジルターカ卿はひどく憤慨し事務所へきたと思いきや報酬は払わないと言い始めたのだ。
まあ、その理由はスピルの想定の内にあったのだが……
「予想はつくけど、理由をお聞かせ願いたいね?」
「理由もクソもあるか!あの娘が神秘力者だと聞いとらんぞ!!」
耳を塞ぎたくなるような怒鳴り声にスピルは大きく溜息をついた。
――やっぱりね。心の中でそう呟いた。
大の神秘力者嫌いの卿のことだ、自分から連れてこいと言っておきながらファナリヤが神秘力者だとわかった瞬間途端に手のひらを返すことはわかっていたが、
それでもスピルがそれを告げなかったのには2つ程理由があった。
一つは言ったところで神秘力者の言い分など聞かん、と返されどの道同行は確定していたであろうこと。
そしてもうひとつ、ファナリヤにこのクソオヤジは今自分にしているような罵倒をするであろうことが見えていたから。
彼女の事情も知らず、知っていても強制的に護衛させようとしただろうし、
何より彼のような反神秘力者の人々の心無い扱いにも遭ってきたであろう彼女の前でこんなことを叫ばれたくなかった。
「女性が神秘力に覚醒する確率は低いけどいないワケじゃないし、うちがどういう組織かご存知だろう?僕が言う必要もないと思ったんだけど」
「う、うるさい!貴様には説明の義務があるだろうが!!」
はい、逆ギレ頂きましたー。……と、想定済の反応に対し心の中で盛大に煽る。
「一つ言っておくけど、彼女が神秘力で助けてくれなかったら貴方は殺されていたよ?
こちらは依頼をきっちりこなしたんだ、文句を言われる筋合いもタダ働きさせられる理由もない」
正論の刃を突き立てると、卿はぐぐと言葉を詰まらせる。
それ以上の言葉を出そうとはしないが、明らかに報酬を払うのを嫌がっているのはその顔を見れば明らかだ。
もちろん、ここまで全てスピルには容易に想像がついていた。
ここまで言って嫌がるなら、ずる賢い手を用いさせてもらう……スピルはわざとらしくこう言った。
「そーれーとーもー。ここ最近のそちらの不祥事の後始末を手伝わなきゃ払わないとでも言うつもりかい?」
途端に卿の表情に焦りの色が見え始めた。
何故それを、と迫ってくるがぷい、とそっぽを向いて横目に見る。
……こんなこともあろうかと、レインに頼んで女癖の悪いこのクソオヤジの不祥事を過去から現在に至るまで片っ端から洗い出してもらっていたのだ。
もちろん、権力と金に物を言わせて全て示談で済ませていたようだが週刊誌のスキャンダルからは逃げ切れていないようで、そういった記事も何件か存在していた。
そしてつい最近もこの男はやらかしていたという情報もきっちりと掴んでいる……そこをつつけば、スピルでなくとも黙らせられる。
予めあちらの弱みとなるだろう物を握っておいたのだ。
人として正直どうかという手段ではあるが、下手をすればこちらの生命に関わっていた依頼の報酬を払わずに済ませるなど所長として断固させるワケにはいかない。
生命をかけるに見合っただけの報酬は何としてでも払ってもらわなければ。
それに宣言通り、スピリトゥス・フォン=プリンシパリティはタダで従うような男ではないのだ。
「警察とは日頃依頼を受けているのもあって僕の方が縁があるものね?権力に権力を重ねて封殺しようとしていたんだろう?
ここ最近はなかなか穏便に済ませられないみたいだしね」
「バ、バカにするな!貴様如き小僧の手など借りずとも!!」
「ふぅ~ん?」
「なっ、何だその目は!儂を誰だと思っている、下々の者に払う金ぐらいいくらでもあるわ!!それこそ溢れんばかりのがな!!」
「へ~え?それじゃあ僕らへの報酬なんて所詮はした金も同然だよね?惜しむ必要はないんじゃないかい?」
至って自然に、心の中では勝ち誇るように笑ってみせる。
この手のプライドだけ変に高い人物は煽ればムキになり終いには墓穴を掘るのはリアルでも二次元の世界でも共通事項……その通りまんまと引っかかってくれた。
ぐぐぐぐ、と卿はまた声を詰まらせる。
「踏み倒すような真似をしないと仰ったのはそちらだ。
――僕たちの生命を半日預かった身として、宣言通りきっっっっっっっっっっっっちり、払ってもらおうじゃあないか?」
こうして、相手が悲鳴を上げるほどではないが無事予定より多額の報酬を支払ってもらったのであった。
「いや――――――すっきりした!!あの変態オヤジめざまー……」
晴々とした表情で意気揚々と事務室のドアを開けた瞬間、スピルは固まった。
……黒い。黒いオーラが、部屋中に満ちあふれている……
発しているのはもちろん、ティルナノーグの恐怖の大王――と、スピルは密かにそう呼んでいる――である青髪金眼の男。
その正面には彼の双子の兄が大量の冷や汗を流して正座している。
「(……"僕は"大目に見る、ってだけだもんね~)」
何気なさを装いながらそろーり、そろーりと席に座り、秘書が出してくれた紅茶をわざとらしくすする。
何となく彼女の目がレインが怒ることとなった原因についての言及を求めているような気がしたがスルーした。
他の職員もレインの黒いオーラに気圧されているが、全てレヴィンが悪いので仕方がない。
確かに加勢してくれたことで助かったがそれは結果的にそうなっただけ、連れていけないとスピルが判断を下したにも関わらず駆けつけた……つまり、所長命令違反。
故に今回ばかりはスピルも庇うワケにはいかなかった。
それだけの事情が二人には絡んでいたのだから、尚更締めるところはきっちり締める必要がある。
「――レヴィン、言い訳があるならどうぞ?」
「……いえ…………何も……」
レヴィンは震えた声で返答する。
説教は覚悟の上だと自ら言っていただけあって、大人しくお叱りを受ける気のようだ。
レイディエンズ・リベリシオンという男は怒るとそれはそれは涙が出る程怖い人物だということは双子の兄であるレヴィン自身が一番よく理解している。
まあ、それでも怖いものは怖いのだが全て自身の自業自得、身から出た錆。
泣きたくなっても我慢する選択肢しか現在の彼には残されていなかった。
「今回何やったか、わかってますよね?」
「……はい」
「この依頼には連れて行けないとスピルが最初から口を酸っぱくしていましたよね?」
「…………はい……」
「結果だけで見れば貴方が駆けつけたことでプラスな方向になりましたけどもね?
酷い怪我を負うこともありませんでしたし負傷者も出ませんでしたけどそ れ と こ れ と は 話 が 違 い ま す。
あっちのコミュニティにどいつがいると思ってるんですか。ええ?」
ものすごい剣幕で捲し立てる弟に兄はただ黙ってはい、はいと頭を下げる。
新米二人は彼があんなに怒っているのを見るのは初めてだった。
普段はとても穏やかでにこやかで時々ちょっと黒い笑顔を浮かべる程度で、所長のサボりに説教をしていた時もここまでの剣幕ではなかったレイン。
そんな彼がここまで怒っているのだ。先日のアジルターカ卿が依頼に訪れた時といい、ここ数日で彼の知らなかった面を知った気がする。
……が、見てるとだんだん怒られているレヴィンが可哀想に思えてきた。
「ま、まあまあ……レインさん、そこら辺にしてあげた方がいいんじゃ」
「トラベロさんすみませんが黙っていて頂けます?」
「はっはいすみませんっっ!!!」
見かねたトラベロが声をかけたが、レインの剣幕にあっさりと引っ込む。
優しいなあ、とレヴィンは少し感動の視線を向けるがレインがギロリとこちらを睨むので即座に戻した。
「で、話の続きですが。どいつがいるかわかってます?」
「……はい」
「もし奴らが何かしかけてきたらどうするつもりだったんですか。ええ?」
「や……私なら精々皮肉言われたりぐらいで済んだと思」
そこでレヴィンの口は止まった。
その言葉はまさに、火に油。
ぴき、とレインの顔に青筋が浮かんでいく度、レヴィンの顔からさあ、と血の気が引いていく。
「……その!自分は何言われてもいいとか!!何かされてもいいとか!!!そういうのはダメだって!!!!いつも!!!!言ってるでしょうがッッ!!!!!」
怒号が響いた瞬間、レヴィンだけでなくこの場にいた全員が驚いて縮こまる。
「……す、す……すい、すいません……」
「毎度毎度みんなして怒ってるのに!!!心配するこちらの身にもなってくれないかい!?!?怪我して帰ってくる度どれだけ冷や冷やしてると!!!!」
説教はますますヒートアップ。
最早レヴィンの足は痺れに痺れて正直座るのが辛い。
が、これもまた自業自得の結果。ただ黙ってはい、はい、その通りですとぺこぺこ頭を下げ続ける。
そんな光景を見ていた中、マリナが驚いたような顔でこう言った。
「……あたし、レインが敬語抜いてるの初めて見たわ」
えっ、と残り全員が驚いてマリナを見やる。
「え、レインさんとマリナさん幼なじみだよね……?」
「そうだけどあたし、あいつが敬語使ってんのしか見たことないわ……」
「……アレかい、"親しき仲にも礼儀あり"ってやつ」
「いや礼儀ありすぎて逆によそよそしくならねえ?」
「あのアキアスさん、その言葉地味に僕に響きます」
「お前ははよ敬語抜けって思ってるからな!」
「俺もー!歳近いんだから遠慮なく喋って欲しいなー!」
「わ、わたしも……その……」
「じ、時間が経てば多分……?」
「あたしにも遠慮しなくていいからねトラベロ君。3時きたしおやつにしましょ」
レインの放つ黒いオーラから逃げるかのように、双子をよそに職員たちのおやつタイムが始まった。
「……それにしても、この封印っていつ頃解けるんでしょう」
コーヒーを一口飲んでトラベロが一言、ぽつりと呟いた。
先日、ユピテル・ヴァリウスによって神秘力を封じられた自身の手を部屋のライトに透かして見やる。
やはりあれから、自身にあったオーラは見えないままだ。
まだ然程時間がかかっていない故に当然ではあるのだが……
「ごめんよ、流石に正確な日にちはわからないんだ」
「ああいえ!大丈夫です。僕はつい最近神秘力者になったばっかりですし、神秘力者になってもあまり使ってませんでしたから。
でも、何でか凄く違和感があるような、そんな感覚が……」
正直、何故ここまで違和感を覚えるのかトラベロ自身も疑問だった。
本当につい最近覚醒したばかりの新米で、マグメールのエイヴァスが言っていた「ひよっこ神秘力者」という表現は相応しいと自分でも思う。
それなのにまるで自分の中の大事なパーツが一つ抜けたかのような、そんな違和感がトラベロを襲っていた。
まるで、子供の頃からずっとあったかのような……
「……アキアスから聞いたけど、トラベロ君は自分の力に"覚えがある"そうだね?違和感の原因はそれかな」
「だと、僕も思います。でも何で"覚えてる"んでしょうね……」
「確かに……神秘力者なんて持っていたら無意識に発動してしまうことだってあるだろうから今まで一切使わなくて気づかなかった、はあり得ない。
過去の記憶がないのは聞いてるけど、それを踏まえてもおかしい話だね……」
スピルはううん、と首を傾げる。
「ファナリヤちゃんの力で目覚めた……とはいってもわかるワケないよね」
「はい……わたし、あの時自分にあんな力があるなんて初めて知りました。……でも、本当にわたしの力なのかな……」
ファナリヤには他者を神秘力者として覚醒させる力が秘められている。
が、それはトラベロの話を聞いた限りのスピルとレインの推測から立てられた仮説の域をまだ出てはいないと言えた。
それは何故か?簡単である、現時点においての実例がトラベロ以外にいない……つまり事実の裏付けをするにはソースが足りなさ過ぎるのだ。
ファナリヤ自身、あれからその力が発動しないか自身が他者と交流する度に注意していたし、
スピルももしそういった現象が起きたらすぐに知らせるようにと彼女に言付けてある。
しかし、彼女とトラベロがティルナノーグにきた日以降は、そういったことが彼女の口から報告されることは今のところひとつもない。
他の職員たちもそういった事象に立ち合ったことはないと言う。
「あたしの目の前で起きてりゃ、今頃あたしも神秘力者になってるんじゃないかしら?」
「でも女性の神秘力者って男のそれよりかなり確率低いよ?ファナリヤちゃんの力でもなれるのかなー……」
「もしそれができるとするなら相当強い力だな。ファナの意思で動かせるもんじゃねえのかも……」
「その仮説でいくとしっくりくる感じはするけれど、ううん……ファナリヤちゃん、力を使った時どんな感じだったか覚えてるかい?」
「え……っと……」
初めて力を使った時のこと。
あの時はただ、必死にトラベロを殺さないでと叫んでいた記憶しかなかった。
自分を護る為に身を挺して助けにきてくれた彼にはまだ力がなく、神秘力者を相手にするには力量以前の問題で。
「…………わたし、あの時は、トラベロさんが死んじゃうかもしれないって、どうしようって……どうすればいいんだろう、って……
そんなことしか、頭になかったです。だからああなったのは凄く、びっくりして……すみません」
「いや、僕もちょっと踏み込みすぎた質問だったね。ごめんよ」
「いえ……わたしも正直、気になってたので」
「まあでも……トラベロ君の違和感にしてもファナリヤちゃんの力にしても。これ以上話してたって結論は出ないだろうね。
この話はここまでにしよう。もし何かあったらすぐに言うんだよ?」
ファナリヤはこくりと頷く。
それに微笑んだ後、スピルは目を逸らしていた黒いオーラの元凶を見やる。
「……ああ、すみませんね長いことお騒がせして。終わりましたよ」
にこりとレインは笑って答える。
黒いオーラはすっかりとどこかへ消え失せて、いつもの彼が帰ってきたようだ。
一方レヴィンは顔が真っ青。すっかり足が痺れてしまったようで立ち上がるも酷くふらふらだ、レインを除く全員はとりあえずご愁傷様、と心の中で合掌した。
「さて、昨日マグメールと一線交えたワケだし。昨日の戦いについてちょっと振り返ってみようか」
「反省会ってやつだねー。……うー、あそこでやられちゃったのが申し訳ないよー……」
大げさに机に突っ伏すエウリューダ。
あそこで――というのはトラベロを助けようとして、カンパネラに昏倒させられた時のことだろう。
確かにあの時エウリューダが間に合っていればトラベロが今の状態になることはなかった――が、それは結果論でしかない。
「でも、何で気づかなかったんでしょう……?ただ隠れてるだけなら、アキアスさんが気づいてるハズ……ですよね?」
「"ただ隠れてるだけなら"、な」
「……?」
「あの白髪野郎の仕業だよ」
「……???」
白髪野郎とは。ファナリヤは一瞬混乱したが、すぐに気づいてああ……と声を漏らす。
白い髪なんて、自分たちの知る限りではあの"狂人"しかいない。
「あいつ、神秘力でこっちの感覚を微妙に狂わせてやがったんだ。俺の力で気配を手繰れないようにな」
「……相手を催眠状態にするっていう、アレでですね」
ファナリヤは奴に連れ去られた時のことを思い出す。
あの時、自分もそれに引っかかった。神秘力で見せられた幻覚を本物と信じ込まされ、触った瞬間までは確かに、感覚は人間の頭に触った時のそれだったのだ。
「ユピテル……だったか。あいつの動きを止めたと思ってたのもその神秘力で"思い込まされていた"だけだったしな……」
レヴィンも先日の戦いを振り返る。
確かにあの時は捉えたという感触を感じていたが、現実は全くのハズレ。
推測するに、神秘力を行使した時点でユピテルは既に別の位置に移動していたのだろう。
「相手を強制的に催眠状態にする神秘力……実際に例を聞いてみればみる程厄介なものですね」
「"狂人"エイヴァス・ラヴレス……か。性格を抜いても相手にしたくない人物だね……」
かつて、情報を吐かせたマグメールの男がこう言っていた。
トラベロとファナリヤが連れ去られたのをアキアスが取り返した時の状況は、エイヴァスが自身の嗜好に傾倒していたからできたことだと。
彼が最初から本気であったならばこちらを歯牙にもかけない……そんな意図だった。
「敵わないとまでは行かずとも、苦戦は確実――か」
その意図が過大評価でないことを思い知らされ、スピルは顔をしかめる。
ただ幻を操るだけ、というならまだやりようはいくらでもあるが、その幻を本物と思い込ませる力があるというのが何よりも厄介なことこの上ない。
「一番危険視しておきたいのがエイヴァス・ラヴレスであることは確実でしょうが……残り二人も十分に警戒しなくては、ですね」
「カンパネラと……あの、ジョン・ドゥとかいうフード男のことね」
「……マリナ、何か思うところでもあるんです?」
「別に。流石にあたしじゃ太刀打ちできるワケねえし……」
そう返すマリナの顔はどこか複雑そうだ。
――きっと弟さんのことなのかな。ファナリヤが心配そうにマリナを見ると、彼女はなんでもないと言っていつも通りの笑顔に戻る。
結局、あの夜ジョン・ドゥと出くわしたことをマリナは話さなかった。
きっと思うところがあってのことだろうと、ファナリヤも彼女の意を汲み取って言及しないでいるが、色々と考えているのは確かなようだ。
「昨日の戦いで僕たちを狙ってきた銃弾……アレはそのジョン・ドゥっていう人の神秘力なんですよね」
「情報が間違っていなければ、ですが」
レインはそう答えるが、情報の信憑性はほぼ疑いようがないだろうということは彼も含め全員理解していた。
知っていても勝てないと豪語しておきながら、流石に嘘を教えるなどということはあり得るようなことではない。
そもそも、口を閉ざそうものならエウリューダの《言ノ魂》で片っ端から吐き出させている。
「俺の《絶対障壁》は正面しか防げないから、軌道を操られるのは困るなー……相性悪いよ」
「で、仮に大元を叩こうとした場合ヘラヘラ野郎がいたら防がれると。正直面倒だな」
ヘラヘラ野郎とはカンパネラのことか。アキアスはどうやら敵の名前は呼びたくないらしい。
「まあぶっちゃけた結論を言えばどいつも厄介。これに尽きますね」
「そうだな、油断は許されない。いつ襲撃がくるとも限らないしな……ただ、こっちとの相性がはっきりしているだけまだ救いがある……か?」
「そうですね。レヴィンの《暴落する重力》はジョン・ドゥに対してのメタになりますし」
「まあ、うまく相手と対せるかはまた別の話になるが……で、アキアスがエイヴァスの方をやると」
「妥当な配置だろうな。催眠術使われるだろうが何とかするっきゃねえ」
大体の行動方針は固まった。というよりは、限られていると言った方が正しいだろうか。
あちらと違って、こちらは全員が全員戦えるというワケではない。
主に戦闘を経験している二人を中心として対抗策を講じるのが一番だった。
とはいえ、二人ばかりに危険な立場を任せるのも心苦しくもあり、ファナリヤが口を開く。
「で、でも、レヴィンさんとアキアスさんばっかりに危ない目に遭うのは……その……」
「そうだね、僕も必要があれば向かうよ。二人以外に神秘力者相手に戦えるとしたら僕ぐらいだし」
「わ、わたしも戦えます!だからわたしもスピルさんと一緒にお手伝い……」
「ダメだ」
ファナリヤの申し出をレヴィンがすっぱりと切る。
「え、で、でも……」
「お前は奴らに狙われてるんだ。前には出せないし、出すつもりはない」
「じ、自分の身を護ることならわたしだってできます!」
「ダメだ。ファナリヤには戦わせない。もちろんトラベロにもだ、力が戻っても無理はさせないからな」
「はい、わかってます。昨日が特殊だっただけで、僕には……あんまりにも向いてませんから」
そう言うものの、トラベロも自分は何もできないというのが苦しいのか顔を俯け拳を握りしめている。
神秘力が使えない、使えるようになってもまだまだ使いこなしたとは言えない。それに血が流れる可能性があるのが戦いだ。
自分が足を引っ張る結果が嫌でも見えてしまって、苦虫を噛み潰したような気分になった。
一方、ファナリヤはでも……と食い下がった。
今まで護ってもらってばかりだったのに自分が何もできないのは嫌だと、強く主張する。
それは彼女の成長の表れであり、喜ばしいことだとは感じつつもレヴィンは困ったように眉間に皺を寄せる。
「お願いします、レヴィンさん……!」
「ファナリヤ……気持ちは嬉しいし、嫌っていうワケじゃないんだ……だが、その――」
どう言えば納得してもらえるだろうか……そう悩んで言葉を詰まらせていると、アキアスが横から割って入るようにこう言った。
「ぶっちゃけくんな。足手まといだ」
「!」
それはあまりにも唐突な通告だった。
言葉の棘が深く、深くファナリヤの心に突き刺さる。
「おい、アキアス……!」
そんな言い方はないだろう、とレヴィンが肩を掴むがそれを突っぱねてアキアスは続ける。
「お前、自分の立場自覚してんのか?狙われてんだぞ?そのお前が自分から敵に捕まりにいくようなことしてんじゃねえ」
「ち、違います!わたしはそんな、つもりじゃ……」
「つもりがなくても、今お前が言ってるのはそういうことになるんだよ」
「アキアスさん!言い過ぎですって……!」
トラベロも見かねて間に入るが、アキアスは物言いを改めるつもりはないようだ。
ファナリヤは俯き、何も返そうとはしない。服をきゅ、と掴み肩を震わせている。
「……ま、ちょっち頭冷やすこったな。外の空気吸ってくるわ」
「おい待てアキアスっ」
「レヴィンさん」
引き留めようとするレヴィンの腕をエウリューダが掴む。
敢えていつものように口にはせず、ただ真っ直ぐこちらを見つめる朱色の瞳。
今は行かせてあげて欲しいと、その目は語る。
アキアスの親友である彼がそう言うのなら……そう思ってレヴィンは追いかけるのをやめ、アキアスはそのまま外へと出ていった。
バタンとドアが閉まると、辺りは沈黙に包まれる。
「……ったくあのドチビ。もうちょい言い方ってもんがあるでしょうが言い方が。ファナリヤちゃんがせっかく心配してくれたってのに」
暫くして、出ていった先を見てマリナが顔をしかめて悪態を吐く。
何故ああ言ったのかはわからないワケではなかったが、それに言及するのは逆効果になるので敢えて怒りの方を全面に出す。
一方エウリューダはそっとファナリヤに歩み寄り、目の目でしゃがみこんで申し訳なさそうに口を開く。
「ごめんね、ファナリヤちゃん」
すると、先程からずっと黙っていたファナリヤは小さく口を開いた。
顔は俯けたまま、怒りとも悲しみとも、辛いとも受け取れるような声で。
「……何で、エウリューダさんが謝るんですか?……わたしがでしゃばったのが、いけないんでしょう?」
「そんなことは誰も思ってないよ。ファナリヤちゃんのことが嫌いだからとかそんな理由で言ったんじゃないんだ。
わかんなくていいし、わかろうとしなくていいけど……俺が今言った言葉を覚えててくれると嬉しいな」
「……」
ファナリヤはまた何も答えない。
――こりゃ、相当ぐっさりといっちゃったなあ。心の中で呟きながらエウリューダは困ったように笑う。
「……長いこと話し込んでいたらこんな時間ですね。ファナリヤさんとマリナは先に上がってください。二人共家が遠いですし」
「そうねえ。今日はもう依頼もこないだろうし、お先に失礼させてもらうわ。帰りましょファナリヤちゃん」
「……はい」
マリナに連れられ、ファナリヤは重い足取りで事務所を後にする。
「……ファナリヤさん、相当キてるみたいでしたけど大丈夫なんでしょうか」
「さあ、今回ばかりは時間が解決してくれる話ですから……彼女のフォローはマリナに任せて、私たちはいつも通りに振る舞いましょう。いいですねレヴィン」
「……何で私にだけ振るんだ」
「だって貴方、今明らかに落ち込んでますもの」
ぐ、とレヴィンが言葉を詰まらせるとやっぱり、とレインは苦笑する。
確かに言われてみると、トラベロから見てもいつもより表情が暗いような気がしないでもない。
図星を刺されたレヴィンはそのままぽつぽつと心境を口にし始める。
「や、だって……なあ。
私が言う言葉に悩んだせいでアキアスに嫌な役回りさせたし、ファナリヤも落ち込んだし……こっちが嫌われ役やった方がよかっただろうになって」
「いやレヴィンには無理でしょ。絶対言った後で凄い落ち込んで翌日ファナリヤちゃんに全力で土下座するでしょ」
「……」
スピルの発言にレヴィンは黙って目を逸らすが、冷や汗が一滴垂れている……即ち、図星。
レインもエウリューダも、トラベロもうんうんとスピルの意見に同意する。
アキアスが割って入る前に困った顔をしていたのがファナリヤを傷つけるような言い方を避けたかったが故だったのは明らかだ。
逆に、レヴィンがそう悩んでいたからこそアキアスが割って入ったのではなかろうかと思わなくもない。
「でも、そうだね……アキアスにああ言わせるより僕が所長としての意向とつけてファナリヤちゃんを諌めるべきだった。後で謝らないとね」
「いらねえよんなモン」
乱暴にドアを開けて当の本人が帰ってくる。
大きな足取りで席に戻り、どかりと座り込む。そこに先程は発言を諌めていたレヴィンが歩み寄り、申し訳なさそうにこう告げた。
「……すまん、私が悩んだばかりに」
「だから謝罪なんざいらねえっつってんだろ話聞け」
「いだだだだだやめろ髪を引っ張るなあだだだだだだ」
が、先程ああ言った手前謝るのは火に油であった。
アキアスはレヴィンのもみあげから手を離すが非常に不機嫌そうな顔で、それを見た親友は先程ファナリヤに見せたのと同じような困った笑顔を向ける。
「いくらファナリヤちゃんが苦手意識あるからって、わざわざ嫌われ役に回らなくてもよかったんじゃない?」
「いーんだよ、ああでも言わなきゃマジで飛び込みかねないぐらいだったんだから。マジで嫌われたらその時はその時だ。
……それに、本来なら嫌われ者でいる方がいい側だしな」
最後にぼそりと、アキアスはエウリューダにだけ聞こえるように告げた。
するとエウリューダはまた困ったような顔を浮かべる。
互いにしかわからない話だからこそ、周りには聞こえないように言ったのだろうが、全員が全員聞き取れなかったワケではなかった。
「……アキアスさん、それってどういう」
「何も言ってねえよ、空耳だろ。なあエイダ」
「うん、トラベロ君の気のせいじゃないかな?」
「そ、そうですか……」
――本当に空耳だったのか?
アキアスは何か言っていたし、エウリューダもそれに反応していたような……
しかし二人がそう言うならそうなのだろうとトラベロはそれ以上の追求はしなかった。
それから一週間ほどが経過した日曜日の夕暮れ時。
「……」
浮かない顔で、ファナリヤは街道を歩いていた。
"くんな。足手まといだ"
その言葉が今でも頭の中で反響し、彼女の心に暗い影を落とす。
――わたしは、みんなの役に立ちたかっただけなのに。
いつも護ってもらってばかりで、みんなの背中に隠れてばっかりだったから、少しでも何かお手伝いがしたかったのに。
わたしには何もできないってことなのかな……そんな感情が未だにぐるぐると渦巻いて、あの言葉の意味が悪い方向にしか受け止められない。
マリナも他の皆も気を遣ってくれているのが申し訳なくて、前を向き直さなければとは思うのだが、どうしてもそれができない。
結局、アキアスとはあれから口も聞いていない。本人は至っていつも通りに振る舞っているが、こちらが明らかに避けているのは気づいているとは思う。
"ファナリヤちゃんのことが嫌いだからとかそんな理由で言ったんじゃないんだ"
エウリューダはそう言っていた。アキアスの親友である彼が言うということはそういうことなのだろうけれど、
どうしても嫌な方向にしか考えられずにいる自分がいた。
「(どうして、あんな言い方……)」
「……おや?」
「!」
目の前から声がして顔を上げる。
「これで三度目ですね」
そう言って笑うのは、先日会った小柄な男性。
行方不明になっていたマリナの弟だった。ファナリヤは驚いた顔で名前を呼ぶ。
「……とぅ、トゥルケさん……!」
「こんなに会う機会があるなんて、何か縁があるのでしょうかね。今日も一人でお買い物で……」
「……」
にこやかに話しかけてくれるが、ファナリヤはまた俯き浮かない表情に戻る。
どうやら、彼女は悩んでいるようだ……様子からそう悟ったトゥルケは優しく笑い、こう言った。
「何か良くないことでもあったようですね。……よかったら、私に話してみてくれませんか?吐き出すだけでもすっきりしますよ」
「……はい、どうぞ」
「あ、ありがとう、ございます」
紙コップに入ったカフェラテをトゥルケから受け取る。
一口含むと、コーヒーの香りとミルクの甘さが口の中に広がり優しい味に顔を綻ばせる。
「おいしいものを飲むと、自然と顔が笑ってしまいますよね」
ベンチに座り、ファナリヤの隣でトゥルケもホットコーヒーを一口飲んでほう、と息を漏らす。
「……そういや、貴女の名前はまだ伺っていませんでしたね」
「あ……えっと、ファナリヤ、です。ファナリヤ・カナリヤ」
「ファナリヤさん、ですか。良い名前ですね。私は――言わなくても知ってましたね」
「はい、トパーツィエおばさまから聞きました」
「なる程、私のことを話したのは母でしたか……母にも随分と迷惑をかけてしまったから、とっくに縁を切ったつもりでいると思ってましたよ」
「そんなことないです。おばさま、トゥルケさんのお部屋をいつも掃除してるんです。いつでも帰ってこれるように……って」
「……そうですか」
その言葉を聞いて、トゥルケは申し訳なさそうに笑う。
「母にはちゃんと、謝らなくてはなりませんね。……話を戻しましょうか。
何か思い悩んでいるようですが、何があったのか……よかたら話してもらえますか?」
「…………ちょっと、言われたことがあって」
多少のフェイクを混ぜつつ、ファナリヤは事の経緯を説明した。
足手まといだと言われたこと、それが本心からのことではないと言われたがそれ以外に思えないこと。
自分は役に立っていないのだろうかという不安……
大体の事情を把握したトゥルケはふむ、と腕を組んで考え始める。
「……つまり、自分のことを邪険に思われてるのかどうか、ということでしょうか?」
「……そんな、感じです」
「ふむ………ファナリヤさんは、普段は仲良しな人たちが怒り、怒られといった光景を何度か見たことがありませんか?」
「えっと……」
ファナリヤは今までを振り返ってみる。
……そういえば、スピルは毎日のようにレインやマリナにサボるな、仕事しろと怒られている。
つい昨日だって、レヴィンが無茶をしたことに対してレインが堪忍袋の緒を切らしていた。
アキアスも毎日毎日エウリューダの過剰なスキンシップに顔を赤くして怒っているし、自分もかつて彼に怒られたのも思い出した。
「……あります。毎日のように」
「そういうやり取りができる人は、本当に仲良しなんですよ。
仲が良いからこそ、相手が大切だからこそ譲れないこと、間違っていることを恐れずに指摘する。その人のことが大事だから。
確かに話を聞いた限りでは棘の有りすぎる言い回しだとは思いますけれど、それでもそう言ったのはそうでもしなきゃ本当に貴女が怪我をしたり、
辛い思いをすると思ったからなのではと、私は思います」
「えっと……つまり……?」
「ファナリヤさんを巻き込みたくなくてわざと突き放したのではないか……ということです」
あくまでも私の推測に過ぎませんが、とトゥルケは苦笑する。
「その後誰かが間を取り持とうとしてくれたりしているなら、十中八九そうかもしれませんね」
「……!」
その言葉を聞いて、何かに気づいたような顔を浮かべる。
エウリューダがあの時言った言葉、わからないだろうしわからなくてもいいと付けながら告げた意味はそういうことだったのだと。
トゥルケの話を聞いて、当てはめてみると理解できなかったのがすんなりと呑み込めた。
エウリューダの親友であるアキアスは実に素直な物言いをしないことに定評のある人物、そしてそんな人物の一番身近なところにいる彼のあの言葉。
彼は最初からあの言葉の真意に気づいていたのだ。
気づいていたからこそ、ファナリヤに誤解して欲しくなくてああ言ったのかもしれない。
それ以外にもレヴィンが自分が詰め寄った時言葉に困っていたのもそうなのではないかと思い始める。
ファナリヤに危険な目に遭って欲しくないと、思ってくれていたからこそどう言えばいいか悩んでいたのではないだろうか?
彼は優しい人だから、こっちが傷つくような表現を避けたくて考えに考えていたのでは?
「……わたし、逆に皆さんに迷惑をかけてたのかな」
ぽつりと、俯いて一言。
こうしてトゥルケにも聞いてもらって、彼の解釈を聞いて……
どうやら自分は、周りが見えていなかったようだと思い知らされた。
役に立ちたい、自分でも何かしたいと思う余り、周りの気持ちを蔑ろにしていたのだと思った。
"自分から敵に捕まりにいくようなことしてんじゃねえ"
あの言葉は正論だった。狙われている身が自ら前線に立つなんてそれこそ、飛んで火にいる夏の虫。
そんなことにすら気づかず、ただ自分に役目が欲しいとだけ思って無理を言ってしまった。
……ああ怒られて当たり前だと、気持ちが沈んでいく。
「これも私の見解ですが……迷惑だとは思っていないと、思いますよ。
ファナリヤさんの気持ちはきっと、皆さんわかっているのではないでしょうか。そう思ってくれるのは嬉しいけど、と」
「……あ」
レヴィンが言っていた。気持ちは嬉しいし、嫌なワケじゃない――と。
「どうやら、そうみたいですね?」
ファナリヤの表情が明るくなっていくのを見てトゥルケは優しく笑う。
「はい。トゥルケさんが聞いてくれたおかげ、です。ありがとうございます」
「いいえ、いきなりお節介を焼いてしまってすみませんでした」
「そんなことないです!凄く、助かりました」
「ふふ、それならよかった。
――誰かに相談するって、とても大事なことなんです。ファナリヤさんはちゃんとそれができる方でよかった……私とは、大違いだ」
トゥルケは残りのコーヒーを飲み干し、空になった紙コップを近くのゴミ箱に軽く投げ捨てるとゆっくり立ち上がる。
「さて、悩みも解決したようですし私はこれで」
「あ、はい。わざわざありがとうございます」
「ああ、それと今日のこと……」
「マリナさんにもおばさんにも言わないように、ですよね。わかってます」
「すみません。必ず、私から話をしますので……では」
黒いコートを翻し、トゥルケはその場を立ち去った。
ファナリヤは彼の姿が夕焼けに溶け込んで見えなくなるまで見送り、自分も残りのカフェラテを飲み干して髪コップをゴミ箱に捨てた。
「そろそろ、帰らなきゃ……ふあ……」
軽く欠伸をしてから帰路につこうと一歩踏み出す。
ゆっくりと、ゆっくりと……時々眠気が襲ってきて、軽く欠伸をしながら帰り道を歩く。
「ふあ……」
また一つ欠伸をする。
――妙に眠い。瞼が重くて正直開けるのも辛い。
疲れが溜まってるのかな。今日は早めに寝ようかな……?
うつらうつらとしながらとぼとぼと帰り道を歩くが、歩けば歩くほど睡魔が強くなっているような気がする。
視界もぼやけてきたような……
「うぅ……ん……」
とさりと、ファナリヤはその場に倒れ伏した。
誰もいない夕暮れの街道ですやすやと寝息を立て始める。
「……おっと」
そこに偶然、人が通りかかる。黒髪の子を連れた暗い緑髪の青年だ。
彼女が気持ちよさそうに寝ているのを見て少し目を丸くしつつも、困ったように笑う。
「年頃の女の子が、こんなところで寝てちゃ危ないぜ?」
青年はファナリヤを抱き上げ、黒髪の子を連れてまた歩き出した。
そのまま街道を歩いていると、携帯の着信音が鳴り響く。
「おっと。ナギト、代わりに出てくれない?」
「はい」
ナギトは白いコートのポケットから携帯を取り出し電話に出る。
「もしもし」
『……ナギトですか。カンパネラは?』
「ノーウィッチ様……遅くなりまして申し訳ございません。少女は確保致しましたと、首領にお伝えくださいませ」
『そうですか、なら構いません。エイヴァスを迎えに寄越していますので帰投してください』
「畏まりました」
電話を切り、丁寧な手つきで携帯をカンパネラのポケットにしまう。
「予定より遅かったので、進捗を伺われたようです」
「ま、そんなことだとは思ったよ。まあでも会話してたんだから仕方ないんだけどなー」
未だ気付かず眠るファナリヤを見て、カンパネラは申し訳なさそうに笑う。
「ごめんな、しばらく帰らせてやれそうになくて」
そう一言漏らすが、眠っているファナリヤには聞こえるハズもない。
彼女を連れたまま、二人はの場を立ち去っていく。
――この光景を見たのは、言葉を持たぬ吹き抜ける風だけ。
夕焼けがだんだんと闇に染まっていく無人の街道を、ただそれは通り過ぎていく……