表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

特に何もない、森田荘の休日

作者: 龍郷みさき


「いけませんよ、コウガミさん。ここは、通ってはいけないのです」


二度寝も過ぎて、四度寝に差し掛かった私の耳に、何かに怒っている女性の声が響いてきた。

聞き覚えがある。

ころころとよく笑う、いまどき珍しく穏やかな人のそれだった。


「あっ、またそんな顔をして! 今だけ謝って、やりすごそうという気ですね。騙されませんよ!」


東京都内、「森田荘」。

私が店子として世話になり、彼女が大家として守っている家である。


「いつも、誰がコウガミさんのお食事を用意しているか、分かった上でのこの仕打ちですか?

 だとしたら、ひどすぎます!」


生まれは遠く北海道、親戚の大家業を引き継ぐために東京に出てきたという彼女であったから、

それはそれは色々と大変だったろう。

けれどいまだに人を疑うことをせず、人見知りもなく、

休日にひがなぐうたらしている自分などにも優しく接してくれる不思議な人だった。


以前、向かいの部屋に住む学生の斉藤君が


「親切が笑顔を張り付けて、幸せの押し売りをしてくるような人ですよ。

 そろそろ天然記念物に指定して保護しましょう」


と冗談半分酒半分に笑っていた。

うっかりこくりとうなづいてしまうほど、確かに彼女はほやほやしていて、

ようするにこんなに何かに対して激しく怒りの感情をあらわにしている姿を見たことなど

自分がこの「森田荘」にやってきて以来、一度もなかったのだ。


「……何時だ、今は」


冬先の冷気がたまっているひやりとした床へ、そっと足をつけてみる。

波紋のように広がる埃に、前に掃除したのはいつだったかとぼんやりと考え、

いまだ夢の端が残る頭を二、三度振った。

今日ぐらい良い天気なら、大掃除をするのも悪くない過ごし方だと思いつつ、

少しばかりかみ合わせの悪い窓をガタリと開け放つ。

目下、彼女は続けた。


「聞いているのですか! 私は、あなたに言っているのですよ、コウガミさん!」


はて。

コウガミ、なんて名前の住人は、この森田荘にいただろうか。

自分の知る中で一番の古株は、二階最奥に陣取っている「長老」こと八十四歳の長岡朝老氏で、

次いで自分だ。

新しい入居者にしても会話の内容が合わないし、となると近所の住人か、と思ったところで、

彼女がほうきを手にして立ち上がった。


「もう……」


はて。

彼女の目線の先には誰もおらず、まさかオカルトな展開か、とも思ったが、

疑問はコウガミさん本人の声によって納得させられることになる。


「ナー」

「いけません。今日は罰として、お食事はご用意いたしかねます」


事件は人が起こすとは全くで、分かってしまえば何のことは無い。

コウガミさんとは、猫なのであった。

彼女の、「人間」と「それ以外」とに対する分け隔てない態度は、今に始まったことではない。

けれど、それに対してきちんと応対をしているコウガミさんも大した猫である。


「大家さん。スズカケユキノさん」

「……え。あら、ごめんなさい。お休みなのに、起こしてしまいましたか?」

「いえいえ。その、コウガミさんとやらは、いったい何をやらかしたんです?」

「あぁ、実は……」


名前の通りに白く細い人形のような指が、壁の上を指す。

並んでいる鉢植えの間が、ぽこんとあいていた。


「並べて置いた植木鉢の間を無理やり通ろうとして、落としてしまったらしいんです」

「ナー」

「ナー、ではありませんよ! もし落ちた鉢で怪我でもしたら、どうするつもりだったんですか?

 こんなに素敵な肉球をお持ちだというのに…」

「……落とした張本人の肉球の心配とは。なんというか、今日も……相変わらず、ですねえ」

「いえいえ! もちろん、この鉢植えは長岡さんが丹精込めてお育てになっているものですから。

 そこに対しても、怒っているのですよ? 聞いていますか、コウガミさん!」


コウガミと呼ばれるぽったりとした猫は、彼女に叱られることすら楽しいのか、

ふよふよと尻尾を動かして耳を立てたり伏せたりを繰り返していた。

その余裕の態度に、一層彼女の悔しそうな声が飛ぶ。


「し、しばらくお食事さしあげませんからね!?」


その言葉をまるで理解したように、一度ピクリと大きく耳を動かしたコウガミさんは

とてとてと壁に近寄って、自身が落としたことで空いた鉢植えの間へするりと飛び乗ると、

一度だけ大家さんへ長く鳴いた後、音もなく向こう側へ去ってしまった。

野良猫には、野良猫にしか理解できない言葉があるのだろう。

生きるか死ぬかに直結していてとてもシンプルだから、むしろ好感すら感じるくらいだ。

けれど彼女はそうではないらしい。


「まったく……」


どうやら、これがはじめてではない様子。

腰に手を当て、ほうきを旗のように握り立てて持つ彼女はさながら武将だが、

相手は飄々として身軽な智将なのであった。


「スズカケさん。スズカケユキノさん」

「はい?」


怒りはそのままに、けれど少し困ったような眉で振り返る姿があまりにかわいくて、

頬が緩むのをうまく抑えられていたかどうか。


「せっかくの良い天気ですので、新しい鉢植えでも買いに、商店街までデートしませんか」

「!」


春を祝う少女のように、ほんわりと頬を染める彼女のために、

おいしいケーキと紅茶の一杯もおごって差し上げねぱなるまいぞ、と、寝癖のはねている頭で思った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ