絶望は一人の上にある
先に「絶望こそがSciFiである」を書きました。また「一週間を書け。一週間だけを書け」も。今回は、それらの続きです。
さて、絶望とはどういうものでしょうか。ここで言っているのは、悲劇や悲惨さではありません。
簡単に言いましょう。もし、それを共有や共感できる人が他にいるなら、とくに作中にいるなら、それが何であれ絶望でしょうか。作中にそれを共有できたり共感できる人物がいたとしたら、その絶望は多少なりとも薄まってしまいます。多少なりとも安心が生まれてしまうでしょう。そのような共有や共感や安心があるならば、それは絶望ではありません。それらの人々が傷を舐めあうにすぎないとしても、読み手にとっては絶望にしか見えないとしても、そこには共有や共感や安心があります。
ならばこそ、絶望は一人の上にあるものでなければなりません。絶望は一人の上にあるからこそ絶望です。
これは逆にも言えます。作中においても読み手にとっても、それは絶望ではないのかもしれません。ですが、作中の一人にとっては何かが絶望になることもあるでしょう。たとえば、「われら」や「すばらしい新世界」に描かれる世界はどうでしょう。その社会は絶望ではありません。その社会に暮すほとんどの人にとっては絶望ではありません。しかし一人にとっては、あるいはほぼ一人にとっては絶望です。
ここで「ほぼ一人にとっては」と付け足したことについて補足しておきます。作中において絶望を持っているのは、実は一人とは限りません。ただし、複数人であったとしても、それらの人々の間には関連がないのだとしたら、それはその一人ひとりの上に絶望があることになります。
この「一人」ということには、人称はもちろん関係ありません。それだけでなく、その一人が主人公であるかどうかにも、実は関係がありません。というのも、誰かの目を通して、あるいは誰かの近くに「そのような人がいる / いた」という構成も可能だからです。