表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
SciFi創作論  作者: 宮沢弘
8/28

絶望は一人の上にある

 先に「絶望こそがSciFiである」を書きました。また「一週間を書け。一週間だけを書け」も。今回は、それらの続きです。

 さて、絶望とはどういうものでしょうか。ここで言っているのは、悲劇や悲惨さではありません。

 簡単に言いましょう。もし、それを共有や共感できる人が他にいるなら、とくに作中にいるなら、それが何であれ絶望でしょうか。作中にそれを共有できたり共感できる人物がいたとしたら、その絶望は多少なりとも薄まってしまいます。多少なりとも安心が生まれてしまうでしょう。そのような共有や共感や安心があるならば、それは絶望ではありません。それらの人々が傷を舐めあうにすぎないとしても、読み手にとっては絶望にしか見えないとしても、そこには共有や共感や安心があります。

 ならばこそ、絶望は一人の上にあるものでなければなりません。絶望は一人の上にあるからこそ絶望です。

 これは逆にも言えます。作中においても読み手にとっても、それは絶望ではないのかもしれません。ですが、作中の一人にとっては何かが絶望になることもあるでしょう。たとえば、「われら」や「すばらしい新世界」に描かれる世界はどうでしょう。その社会は絶望ではありません。その社会に暮すほとんどの人にとっては絶望ではありません。しかし一人にとっては、あるいはほぼ一人にとっては絶望です。

 ここで「ほぼ一人にとっては」と付け足したことについて補足しておきます。作中において絶望を持っているのは、実は一人とは限りません。ただし、複数人であったとしても、それらの人々の間には関連がないのだとしたら、それはその一人ひとりの上に絶望があることになります。

 この「一人」ということには、人称はもちろん関係ありません。それだけでなく、その一人が主人公であるかどうかにも、実は関係がありません。というのも、誰かの目を通して、あるいは誰かの近くに「そのような人がいる / いた」という構成も可能だからです。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ