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僕がファッションを論じてみる

作者: DJ克明

 今回は僕のファッション論ということで、とりあえずは僕がファッションに興味を持ちだした高校の頃に遡ってみます。自分の通っていた高校は大阪市内にある私服制の私立高校でした。なにやら、教頭先生が言うには「校長先生が自由な校風を掲げて私服制にした」ということです。そして、そこではだいたいの生徒が上品なジーパンやシャツを選んで着ている、という小洒落た学校であったわけで、僕も友人とは服の話をよくしていて、自分でも考えたり、生徒のファッションを論じたり、アメリカ村で服を選んで着たりと、わりと積極的な方だったと記憶しております。


 僕自身はアニエス・ベーから始まり、コム・デ・ギャルソンや、最終的にはマックレガーというブランドに到達しました。そのマックレガーというブランドの服は今でも最も敬愛しているブランドで、給料を貰うとすぐに天王寺のハルカス6F・紳士服のコーナーにマックレガーの服を求めて買いに行くというのがお決まりです。そのマックレガーの服というのは(これは僕の個人的なマックレガー論ですが)いわゆる『正義の服』であるというのが僕の結論です。個人的な意見になりますが、マックレガーの服はどこか『真面目』なデザインを施していて、ここで写真はアップできないのですが、対象年齢的には30代~40代の服なんだそうです。基本的に丈夫に作ってあって、だからこそ堅固なイメージがデザインにも表れるのです。


 ところで、他人のファッションをよく見たり、論じたりすることは本当に善いことなのだろうか。その問題は確かに成り立つ。お洒落な奴がお洒落でない人のファッションを軽蔑したり、お洒落でないと判別したりすることは許してはならないことだ。そういう人のファッションに対する考え方は醜い。それはお洒落であるとは云えないのだ。僕は美に関心を持った高校の初期の頃は確かに自分がお洒落でないと見えるものをそう見做していたことはあるかも知れない。ただ、それはまだ知識が甘かった時代だからで、後期になると僕は人の美的センスを見定めることすら放棄した。誰かを見て何かを思うことをやめ、自分の頭の中で次の自分の着る服の組み合わせを考えていた。


 ファッションはもはやその可能性を失っているのだろうか? 僕がお洒落というものをやめた時期は確かにあった。あれは高校だ。あれも高校で、一番最後の時期だった。僕は家にある全く平凡な服をチョイスして、全く平凡に組み合わせたのだ。しかし、本当に本当にファッションは終わってしまったのか? いや、そんなことはない。お洒落をしてはいけないという結論を、下してしまってはいけないのだ。人間は毎日、服を着て生活を営むのだし、今だってマックレガーの服を気に入って着ているではないか。だからこそ、『正義』の服だ、ファッションだ。今一度、それを哲学し、これから探求していかなくてはならないのである。こんなオチがついたところで終わりたいと思う。ありがとう。



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