【序章】クサの村―開戦―
◇魔物豆知識◇
【グール】
墓場の中の屍が動き出し、人を食らうようになった魔物。語源は、古代アラビア語で『恐怖』を表す言葉とされている。
元々の伝承では主に砂漠に出現。男のグールは醜い姿をしているが、女のグールは「グーラー」とも呼ばれ非常に美しい姿であり、その美貌でたぶらかした男を食らうとも言われている。
伝承によっては思うままの動物に変身できるとされ、特にハイエナの姿を好むらしい。
この嗜好は現在では屍肉を喰らうイメージの強いグールの特徴と合致する。
(ただし、ハイエナが腐った残り肉を食い横取りばかり狙う一般的なイメージは誤りであり、集団から狙った一匹を引きずり出して仕留める抜群のチームワークを誇るので実はライオンより狩りが上手い。現実ではこうして仕留めたハイエナの獲物を、ライオンが横取りする光景も多々ある)
その晩、クサの村の番兵担当の傭兵が、身軽なぶん無防備な箇所の多い軽装備で見張りをしていた。
元々、昨晩行方不明になった奴隷の少女には嫌がらせで重い装備をあてがっていたに過ぎなかったのだ。
尖った鼻に鉄製の輪飾りを嵌めた面長の顔には、退屈極まりない役回りへの不満が有りのままに表れており、ひっきりなしに欠伸している始末である。
「……?」
暗闇に慣れた目が、いつのまにか現れた人影が少しずつ大きくなっていることを伝える。
(あの女か……? いや、ゴブリンの類か?)
この仕事でクサの村に向かうまでの道中で、この辺りには大して危険な魔物がいないことは把握しており、唐突に現れた人影にも彼は大して動じていなかった。
むしろ、向こうからやってくるような好戦的な獲物に飢えていたほどである。
彼は嬉々として剣を構えた。
「へっへ……阿呆のゴブリン一匹でも、丁度いい退屈しのぎになるぜ」
野太い声をあげて棍棒を振り回す緑色の亜人「ゴブリン」は、多少腕っぷしはあるものの基本的に長々と思慮にふけるのは苦手で、粗末な罠にもかかりやすい。
ゆえに頭の回るならず者達には「遊び相手」にされてしまっており、基本的に人間には馬鹿にされているのだ。
人影は更に近づき、大きく映るようになる。
それが筋骨粒々とした体つきであることも分かってきた。
(おっ? こりゃそこそこ大柄っぽいな。もしやオークかもしれない)
豚のような鼻と潰れた顔が特徴のオークは、ゴブリンより大柄で頭がよく槍の扱いに長け、少し手強い亜人である。
だが、歯ごたえのありそうな獲物の予感に番兵は更に嬉しそうに剣を構えた。
「へっへ……こういうのを待ってたんだよな!!」
のっしのっしと肩を怒らせて、止まることなく人影は迫り、大きくなる。
「ははっ、こいつは大捕物かもしれねえ!」
オークよりも更に上の怪物の可能性があると知った時、番兵はギラギラと目を強烈に輝かせる。彼には今や手柄を独り占めすることしか頭になかった。
「へっへ……さあ来い! 遊んでやるぜ!!」
かつて首を掻ききったゴブリンの醜い悲鳴を思いうかべ、番兵は興奮のあまり叫んだ。
……彼が余裕綽々としていられたのは、この時までであった。
「……なん、だ? でか、い……?」
人影が、想像していたより遠く離れていたことに気がついた時、番兵の顔が凍りついた。
暗闇と、この辺りにこれほど巨大な魔物がいるわけがないという思い込みのため、その人影と自分との距離を錯覚していたのだ。
人影が、少なくとも樹木より巨大な「巨人の影」であることは既に明らかだった。
――小さな地鳴りの音が、番兵の耳に伝わりだす。
「……冗談、だろ」
人影が一歩踏み出すごとに伝わる地鳴りが、歩くだけで大地が揺れる巨人の巨大さを表していることは言うまでもない。
次第に地鳴りの感覚が縮まり、番兵は徐々に見上げるように顎を上げざるをえなくなっていった。
目を逸らせずにいる間に、迫る巨人の姿が明らかになっていく。
「…………!」
血走った巨大な一つ目が番兵を見つけた時、巨人は牙を剥き出して笑った。
笑みで盛り上がった頬肉にすら腰を下ろせそうな、大柄ではすまない巨大な姿を許容できなかった男の精神が軋みを立て、
――耳をつんざく悲鳴を、喉の奥から轟かせた。
油断しきっていた傭兵達は既に村の建物の中で酒盛りを開いており、地響きは彼らの歓声の中に掻き消え、誰一人気づく者はいなかった。
だが、賭けで負けた罰として番兵をさせていた仲間の絶叫が轟いた時には、流石に誰もが異常事態の到来を悟った。
「……今の声、デューイの奴に何か……!?」
「ボサッとするな! 全員武器を持って門の前に向かえ!! そこのお前は他の家にいる奴らにも知らせるんだ!」
「分かりました、団長!」
黒い眼帯で左目を覆った大柄な男が、大声で周囲にいる男たちに指示を出す。彼の硬そうな頭の剛毛と毛深い手足は、野生の大熊を連想させた。
慌しく外に飛び出していく仲間を何人か見送ると、傭兵団の団長である男は一人、この喧噪の片隅で未だグラスに葡萄酒を注いでいる男に近づいていく。
威圧するように大股で、一歩一歩踏みつけて。
「オイ、お前も加勢しろよ。何かあったって分かってんだろ」
低く静かな声で団長が言うが、一人用のテーブルに腰掛けた男は席を立つ代わりに、眼前に赤紫色の酒が入ったグラスを掲げただけであった。
黒いローブで頭から全身までを覆ったその姿は外見も表情も曖昧に隠されている。
浅黒く焼けた肌の傭兵ばかりがいる中で、葡萄酒を口にするべく傾けられたグラスを握る手は異様に映るほど白く細かった。
少しだけ中身の減ったグラスをテーブルの上に置くと、ローブの男はろくに団長の側を向きもせず言った。
「どうして、私があなた方を助けなければならないのです?」
「何だと……!?」
怒りに眉を吊り上げ目を剥く団長に対し、ローブの男は薄い唇に上品な笑みを浮かべてその様子を明らかに楽しんでいた。
彼は慇懃無礼という四文字が相応しい馬鹿丁寧な、それでいて遠慮のない口調で続ける。
「私が受けた仕事はあくまでトスタの洞窟の攻略であって、あなた方のお仲間になることではありません。生憎今回はそれに及ぶほどの報酬は頂いておりませんのでね。……交渉であれば私とではなく、雇用主であらせられるコリンズ伯爵となされるべきでしょう」
「寝言は寝て言え……伯爵お抱えがナンボのもんか知らねえが、今ここで殺して洞窟に捨ててもいいんだぜ? 魔物の餌にすりゃ俺が殺したかどうかなんて分からねえからな」
「ご冗談を。わざわざご説明して下さらずとも、初めからそうなされば宜しいでしょう。あなたにお出来になるのであれば」
「……分かった、斬り捨てていいんだな?」
急に無表情になった団長が鞘と金属の擦れる音を豪快に立て、身の丈に合わせたような大きな剣を引き抜いた。
――ローブの男は椅子に座ったまま動かない。だが、上品な笑みが山賊のように歯を剥き出しにした下卑たものに変わっている。
その歯の隙間から、更に凶行を煽るような無礼が呟かれようとする直前、
「団長!! お急ぎください、我々だけでは歯が立ちません!!」
「チィッ、すぐに行く!!」
飛び込んできた若い傭兵の言い分を無視することは出来ず、団長はローブの男を一睨みするだけして、外に飛び出していった。
中に残ったのは、ローブの男一人きり。
「……全く、下らぬ連中ですね。流石の私も『この件』について贅沢は言えませんが……。しかし、それももう一息の辛抱です」
地響きで揺れる赤紫色の水面に映る、己の顔。ローブに隠れた目と目を合わせようとするように、男はそれを見つめた。
外に飛び出すと、何が起こったのかはすぐに分かった。
村を囲う城壁のように頑丈な塀を易々と超える背丈の、人の形をした巨大過ぎる影。――背後にある門は扉どころかその周囲を覆う石壁ごと砕かれている。
巨人はまるで草むしりでもするような気軽な様子で、地面に手を伸ばして何かを握りしめては空高く放り投げていく。
影に向かって駆け抜けていくごとに、空中を舞っているものが手足をバタつかせる傭兵……己の同朋であることがはっきりと見えてくる。
「くそっ、サイクロプスだと!? 勇者レテが倒した伝説の怪物が何で生きて……!?」
「ぐ、剣が効かな……ぎゃああああっ!」
紙のように薙ぎ払われようとも、足元から長槍を持った別の同朋が果敢に突進していくが、巨人の足を貫こうとした槍は岩を突いたように弾かれた。
わけのわからぬ悲鳴を上げて剣を投げつける者もいたが、巨人の腹筋に命中して落下したそれは掠り傷ひとつ作ることもかなわない。
押されるどころかこちらの攻撃が全く届いていない状況に、傭兵団長は舌打ちする他なかった。
あちこちに倒れ伏す大勢の同朋たちは、おそらく目の前の光景と同様に高々と放り投げられ地面に突き落とされたのだろう。
今の武器では全員が死力を尽くしても勝ち目はない。
「後ろの四人は俺と大砲を取りに行くぞ! 今は二つだけだが倉庫にあっただろう! 残った奴らはそいつが整うまで持ちこたえるんだ!!」
洞窟攻略用に準備していた車輪付き大砲なら、流石の巨人も直撃を受ければただではすまない。
団長は四人の傭兵を引き連れて巨人に背を向け、倉庫のある場所向かって一目散に駆け出した。