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喪失の絶望

中学校の体育館があった。

そこはあの怪物達の発生源から少し離れており、しかし怪我人や避難してきた人など、大多数の人間が集まってきていた。近くに自衛隊の基地がある為か、警察以外にも、武装した自衛隊員が沢山おり、かなり強固なバリケードによって守られていた。

そこに辿り着いたのは、イリーナ。



そう、イリーナ一人(・・)



(……ここは、安全なの……?)

視界がぐらつく。避難した人達が体育館の床にゴザを敷いて座ったり、眠ったりしている。だがその大半はあの見たこともない人を喰らう怪物に怯えており、その瞳はギラギラとしていて、今にも死んでしまいそうな程まいっている。

殆どの人間がそうだ。そして、自分も。

ゴザには座らず、体育館の端に倒れ込むように座る。

ああ、頭が真っ白だ。何も考えられない。ひどい喪失感と、絶頂しきった哀しみと、これからが分からない虚無感で身体の100パーセントが構成されているかのよう。

この首に巻かれた赤いマフラーは、それより更に赤黒く醜い液体で塗り潰されている。これだけではない、あいつ(・・・)の為に気合を入れて来たジャンパーも、スカートも、この紫がかった髪も、全て。

これは何かと聞かれてしまえば、こう答えるしかない。

―――カイトの血、と。

あんな事を言った次の瞬間に、カイトは横から飛び出してきたあの食虫動物のような怪物に喰い殺された。ちゃんと前にも横にも注意をせず、呑気に会話なんてしていた彼は、無残に目の前で喰い殺されていった。

……いや待て、その会話は誰が始めた。

もちろん―――イリーナだ。

「……あ、あぁ……」

血塗られた手を、構わずに己の額に当てて絶望する。

誰が殺した。

愛する、まだ気持ちの伝えていない彼を殺したのは、一体誰だ。

直接的にはあの怪物が殺したとしても、その原因を作り上げたのは確実にイリーナだ。

「あ……ひっ、ぐっ……あっ……‼︎」

喘ぐように、酸素を求めるように、そして救いを求めるように震えるイリーナ。あまりにも重過ぎる罪の意識の中で、それから逃れようと震え続ける愚か者の少女だ。

そしてあろうことか、目の前で恋人を殺された恐怖からか、彼女はその場から全力で逃げ去った。彼を置いて。

どうしようもないゴミ人間とは、まさにこの事を言うのだろう、とイリーナは自虐した。

「もう……嫌……! なんでアタシが……生きて……!」

だったら死ねるのか。

死ねと言われて、例えば、この百鬼夜行の如き体育館の外に飛び出して、あの怪物共に己の身を差し出せるのか。あの少年と同じ様に食い殺してくださいと、その身体を放り出す事が出来るのか。

……出来るはずがない。彼女だって人間であり、命は惜しいはずであり、それだからこそ彼女はカイトを置いて逃げ去ったわけなのだから。

もう、償えない。

そんな状況ではない。

気持ちを伝えていなかったのに。きっと伝わり、彼にも理解されていたであろう想いは、この口から飛び出る事はなく、いつまでも心の中でガンの様に燻り続ける。

彼女がイリーナとして生き長らえる限り、永遠に。

「……ごめんなさい……! ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」

終わらせようともせずにひたすら謝り続けるイリーナ。それが意味のある事とは思わないのだが、それでも彼女は無意味な謝罪を紡ぎ続ける。

と、そんな矢先、ふと上げた目線の先に、とある男が映った。何処からか持ち出してきた酒を馬鹿みたいに煽り、絶望する観衆の中、一人だけ有頂天にべろべろになっている男。

何故あんな男に見覚えがあるのかと思ったが、その男が呟いている独り言から理解した。あの声―――彼は、カイトの父親だ。

今出会うにはあまりにも最悪な人物だったが、彼にも一応カイトの死を伝えなければならないのだろうか。あんな風でも一応はカイトの肉親だ。彼の死について、一言でも言ってやらねばならないと感じた。

その妙な正義感が何処から湧いてきたのかは知らない。正義感というよりは、何も出来ないより何かやるべき事をした方が、この落胆した心を落ち着けられるのではと思ったという方が正しいのかもしれない。

有頂天に酒を飲み干す彼の目の前に現れるイリーナ。カイトの父親はその姿に気付いて、しかし酒を飲むのをやめなかった。しかし今のイリーナにそれを嫌う余裕なんてなかったし、もしあったとしても、罪悪感が邪魔をするのだろう。

「……カイトのお父さん、ですよね?」

静かに、無意識にドスの利いてしまった声で呟くイリーナ。それに返答をした父親は、しかし彼女の予想の斜め上をいくセリフを言った。

「あ? バカ息子がどうしたよ? ……ってかお前誰だ?」

こんな非常事態なのに、こんなふざけた態度を取っている事に、不甲斐なくも腹立たしくなる。

が、真実は告げなくてはならない。この真実が彼を、確実に酔いから覚ますだろう。

「……カイトは、その……死んじゃって……ホントに、その、なんというか……!」

ダメだ、上手く伝える事が出来ない。この事実を人に告げようとすれば、それはその事実を受け入れたということになると、心の中で気付いているから。例え今更嘘なんかで誤魔化しても仕方の無い事なのだが、なにぶん彼女の心は往生際が悪かった。

一方それを聞いた父親は俯き、表情が伺えない。が、哀しんでいるのは確かだろう。

―――と、そう思っていたのだが。



「……ああ、そうか。ようやく、これで楽になった(・・・・・)。あんなバカ息子、居ない方がせいせいするぜ」



気付けば、その頰に一発かましていた。火事場の馬鹿力というやつか、思った以上に吹き飛んだカイトの父親は、その口元から微量の血と酒を吐き出す。

「……アンタは……こんな非常事態に何を言ってんの⁉︎ カイトはアンタの息子でしょ⁉︎ なのになんで……悲しんでやりもしないで、それどころか喜んでんのよ‼︎‼︎」

「何しやがる……このガキが!」

彼が起き上がろうとする前に、イリーナは彼の下腹部を思い切り踏みつけた。がっ、という嗚咽と咽せが織り混ざった声を聞きながら、彼女は何回も何回も、その身体を踏みつけた。その青色の瞳に涙を浮かべ、その唇を固く結びながら。

彼も太っているためか運動は苦手らしく、踏みつけられて起き上がる事も出来ずに悶えている。イリーナはまだまだ我慢出来ずにその腹部に馬乗りになると、その拳を固く握って彼を殴りつけた。

「許さない……許さない! カイトはアンタの為に……! あんなに悩んで、将来を捨ててまでアンタを養っていたのに‼︎‼︎ それなのに……アンタは……‼︎‼︎」

がすっ、と。

ごっ、と。

歪で聞き苦しく、嫌な音だけが周りに響き渡る。それは衝突音と同時に破砕音でもあり、それはイリーナの拳から血が滲むのとカイトの父親の口から血が飛び出すのと同じタイミングだった。

イリーナは頭の中で連呼する。

死ねばいい。

死ねばいい。

こんな人間の屑、さっさと消えてなくなれ。何故カイトは死んで、こんなのが生き残るんだ。こんな……人間とも呼べないような―――猿、そう猿。猿のように欲望に身を任せて暮らす汚ザルのような人間が。

何故カイトの代わりに、生きてるんだ‼︎‼︎

「……っ、」

ふと掌を見ると、べちゃりと大量の血が付着していた。汚らしい血。猿の血。カイトと同じ血が流れているとは思えない程獣臭くて、泥臭くて、腐りきった血。

「……汚いわね、この汚ザルが」

周囲は皆止めに入ろうともしない。彼女の青色の瞳が、余りにも光を帯びていないからだ。その瞳で睨まれた瞬間凍り付いてしまうように見える程、それは冷たかった。瞳の中の絶対零度、とも例えられるか。

これはもう、遺伝子レベルで埋め込まれた行為のようにすら思えてくる。この死に損ないを殴りつけ、意識が消え失せる程に殴りつけることが、まるで生まれる前から決まっていたかのようだ。

そして一種の感覚が目覚める。

―――気持ち良いのだ。心地良いのだ。自分という『正義』がこんな『絶対悪』を、復讐の為に殴りつけている事が、半殺しにしている事が、限りなく愉悦なのだ。

「……泣きなさいよ。喚きなさいよ。アンタはカイトの代わりに生きてる。アンタが存在してるから、カイトは死んだんだ。―――アンタが、アンタがカイトを殺したんだ‼︎‼︎‼︎」

超理論に聞こえるかもしれない。

バカに見えるかもしれない。

それでも、この猿が存在しているからカイトは死んだのだと、そう思わずにはいられないのだ。

「ひ、ひはは! そうよ、屈服しなさいよ! アンタは猿よ、下等生物なのよ! アタシにこうやって殴られるしかない、能無しの屑なの! はは、気持ち良いわね、屑野郎を殴って半殺しにするのはァ‼︎」

頰にも血が飛ぶ。

彼女はもう、カイトの血とその父親の血とで、全身血塗れになっていた。

「殺してやる……アンタを、殺してやるッッッ‼︎‼︎‼︎」

最後の拳が、血液に塗れた汚れた拳が、彼の顔面を叩き潰す瞬間だった。



―――彼女の腹部に激痛が走ると同時に、彼女の視界が90度回転した。



どっ、という重い音と共に、身体から全ての感覚が抜けていく気がした。死んでいた青い瞳が、更に命を失っていく。

「……ぇ、あ……?」

よく、分からない。

この刺す痛みは何だ。自分は何をされた。何故、この手は拳を作らず、だらりと床に開いているんだ。

彼女はただ、茫然自失とする。頭が真っ白になり、何も考えられなくなり、その内全てを忘れていき―――呼吸の仕方も、忘れてしまった。

その瞬間の彼女には知る由もなかったが、彼女の腹部には、ナイフが突き刺さっていた。そこから血がどろりと漏れ出し、血塗れの彼女を三重に血で染める。

つまり―――カイトの父親も、ただ殴られているわけではなかったというわけだ。彼はもしも息子が殴りかかってきた時、それを牽制するために、常時ナイフを隠し持っていた。それがこんな場面で功を奏した。

(……カイト……)

呼吸の仕方も忘れ、全てを忘れて、視界が血に染まり、頭も真っ白を通り越して暗闇と化した彼女に最後に残ってたのは、その三文字の名前だった。

ピクリとも動かない身体には既に力を入れずに、意識に全てを集中する彼女は、最後に脳内でこう呟いた。

(……今、行く……よ……)

そして瞬間、イリーナは―――死んだ(・・・)

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