危機の記憶
それは―――唐突だった。
ちょうど、高校生に上がる頃だっただろうか。イリーナの進路はカイトとは別のところだった。学校以外にカイトとの接点が無いイリーナは、何処と無く恐れを感じていた。
その時は、ちょうど高校の入学式、その一週間前。意を決したイリーナは想いを伝えようと、カイトに会うことを決断した。
待ち合わせはとある大通りの交差点―――まだ雪がその姿を見せ、あと何回か降れば春らしくなるな、と言った気候の日だった。
滞り無く二人は出会う事が出来、一緒に大通りを見て回った。映画館、ゲームセンター、カラオケ、その他―――と、イリーナが予め用意していたそれに従って、二人は心から楽しんだ。
その中で、
「イリーナ、首元寒くない?」
「え? ……まあ、でもそこまでじゃ……」
見れば、何処かパラパラと雪が舞い始めてきた。そういえばほんの少し冷たい風も出て来たし、確かに肌寒くはある。イリーナはその時厚手のジャンバーに手袋と言った格好だったが、首を守る物は付けていなかった。
「俺のマフラー巻きなよ。あったかいよ?」
「あっ、ちょっと……!」
彼女が真っ赤になるのも構わず、カイトはその首に巻いていたマフラーをイリーナに巻いた。そのマフラーの色は、照れたイリーナの頬と同じ鮮やかな赤色だった。
(……ホント、あったかい……)
始めは少し抵抗していたが、そのうちその布に篭った想い人の温もりを離したくなくなり、その掌でぎゅっと抱き締めるようになっていた。
その仕草に―――カイトもまた、頬を染めていたのには、残念ながらイリーナは気付かなかった。
そして時間も遅くなり―――ネオンを取り入れた看板があちこち光り始めて、良いムードになる。人足はまばらになるどころかそこそこ増えてきており、更に景観が賑やかになったようにも思えた。
「……ねぇ、カイト」
「ん? どうしたの?」
「ちょっと歩き疲れたし……あそこのベンチで休まない?」
イリーナが指を差したのは、人通りが少し少ない公園。小さな光を灯した街灯、それを背にしたベンチは、辛うじて手元が見える程度の光しか放っていなかった。
「そうだね。座ろっか」
とすん、とベンチにゆっくりと座るイリーナ。その隣で、同じ様に座るカイト。相変わらずその横顔は何も考えていないようで、楽しげで、そして―――いつでも、何処か遠くを見ている。
なんと声を掛ければいいか。
どくんどくん、と高鳴る心臓が、正常な思考を失わせる。何を言えば良いか分からず―――頭が真っ白になってしまった。
「あ、あのね……カイト」
「ん?」
そのくせ、声だけは掛けてしまう。これで考える時間を失ってしまうというのに、なんでそうやって自分は当てずっぽうなのだろう。
だが、踏ん切りはついた。後はその想いを言葉にするだけ―――言えば、それで良いのだ。
正直、イリーナは結果に拘らないように考えていた。もちろん成功するのが望ましいのは当然だが、仮に断られても、それはそれで諦めがつくと思っていたのだ。
だが直前になって気付く。そんなのは、嫌だと。
何が何でも成功させたい。彼に、そう、目の前の彼に―――『好き』と、一言だけでも言って欲しい。
だから、その冷たくかじかんだ唇を開く。
『好き』と。
そのたった二文字を、言葉にする為だけに。
「その……えと……」
ああ、もうダメだ。
いっそそっちから言ってくれないだろうか。こんなの、こんなの出来るわけがない。何から話を始めれば良いか、どのタイミングで切り出すか、それともこの瞬間に言ってしまうか。
頭が真っ白だ。
本当に。
そう、例えるなら、足元の雪の様に真っ白に―――
ぽた、と。
その白が、一瞬にして別の色に変わった。
それは液体状のものだった。一滴、二滴―――気付けば、視界の雪が全て塗り替えられていく。
変えられた色。
その色は―――。
「ッッ⁉︎」
途端に、腕が引かれる。イリーナがその正体に気付く前に、その顔が上がる前に、カイトが全力でその腕を引っ張ったのだ。
「イリーナ、危ないッ‼︎」
次の瞬間、座っていたベンチが破壊された。それも、まるで口のような形をした花に、だ。
体長は三メートル超ほど。但しその口のような―――恐らく食虫植物を模したものだろう―――は横幅だけで体長程もあった。そう、まさに怪物だったのだ。
「な……に、あれ⁉︎」
「いいから! イリーナ、走るんだ!」
その食虫植物の口から、誰かも知らない人間の腕を噛み千切ったものが、ぼろりと落ちる。
後ろを向いてよろけそうになるイリーナの腕をぐっと掴んで、姿勢を矯正させると、カイトはそのままイリーナを連れて走り出す。目的地など無い、とにかく逃げるのだ。
見れば、大通りもとんでもない状況に陥っていた。辺りから同じ様な怪物が現れ、全てを破壊し尽くしているのだ。
それは食虫植物を模していたり。
犬の姿をしているが、姿が余りに巨大だったり。
はたまた―――生物なのかどうか分からない程、原型を留めていない何かであったり。
それらは人を文字通り食い潰し、腕や脚、その他残骸などをボロボロと雪の上に落とし―――その真っ白な雪を、ドス黒い鮮血で染めていく。
そして彼女を襲った食虫植物型の怪物もまた、イリーナに狙いを定めたらしい。普段なら根を張るハズの植物には、なんと蛇のような身体が付いており、それで這うことによって彼女らを追いかけ回す。
「……ッ! 意味分かんない! いきなりどうして……⁉︎」
「俺もワケ分かんないよ!」
実を言うと、走る速度は食虫植物の方が遥かに上だった。彼らはものの数分で追い付かれそうになる―――が。
瞬間、彼らは踵を返し、狭い路地の中へと逃げ込む。食虫植物はそれに追い付こうとするが―――その横幅が異様に広い口がつっかえて、それ以上追う事が出来なかった。
「……! あ、アンタ、やるじゃない」
「ダメだよ、これじゃ。どうせ別の奴が出てくる。早く安全な場所に……!」
息つく暇もなく、彼らはその路地を伝って走り出す。ただ、イリーナの腕は、ずっとカイトに掴まれたままだった。
路地を飛び出した彼らを、再び別の個体が襲ってくる。それも先程の食虫植物と変わらない見た目で、巨大な口で彼らを喰らおうとする。
二人はとにかく、走る。
(……こいつ……頼りになるじゃない)
いつもはぼーっとしているクセに、こういう時だけ異様に頼り甲斐がある。ただノロマなだけではなく、状況によっては迅速に対応する事が出来ている。
ぐっ、とイリーナの手を引くカイト。そのすぐ隣を、大きく口を開けた食虫植物の牙がかすめていく。
「ひっ!」
「あそこに逃げよう!」
先程と似た様な裏路地―――そこに逃げ込み、同じ様に追撃の手を逃れる。流石にカイトも疲労が溜まったのか、その場に腰を下ろしてしまう。
「はぁ……はぁ……ッ! 少し、休もう……」
「……ッ、……そ、そうね……」
相変わらず、路地の入り口には先程の食虫植物がいるようで、怪物の荒い吐息が聞こえてくる。目視は出来ないほど奥に逃げ込んだのだが、それでも恐怖を感じてしまう。
「一体……何なのよ、あのバケモン共……」
幾度となく繰り返した問いを、もう一度繰り返す。
「知らないよ……! でも、このままじゃ俺たち、殺されちゃうよ……」
「そんな事言わないでよ! ……怖くなってくるじゃない」
あまりにも唐突すぎる死の危険と、彼が呟いた一言で、思わず涙ぐんでしまうイリーナ。心細さは既に限界を超えており、身体は冬の寒さと恐怖により、震えが止まらなくなってしまった。
―――だが、それを、カイトは押さえた。
その腕で。
自らも微かに震えている、その腕で。
「……え」
「大丈夫。俺が絶対、君を連れて逃げ出してみせる」
ぐっと抱き締め、強がって笑うカイト。その顔はにやけながらも少し恐怖が抑えきれていないように見える。なのに、彼はそう言ってイリーナを元気付けたのだ。
「だから心配しないで。……俺、今までずっと逃げてばっかだったからさ、いつの間にか逃げるの得意になってたんだよ。だから大丈夫、俺に付いてきてよ」
「……カイト……」
イリーナが、普段と違う彼に少し驚いていると、彼は有無を言わさずに彼女の腕を引っ張る。路地を抜け、再び大通りに出た。今度は怪物の視界に収まらず、逃げる事が出来たようだ。
吐息が流れ、空気中を白い息が舞う。ぎゅっと強く自分の手を握ってくれる彼に、イリーナは心の底から熱い想いを感じた。
「あ、あの……カイト……」
「何?」
軽く振り向いて、彼はイリーナの声に耳を傾ける。
「アタシ……アンタに、言いたい事があったの……!」
「うん。何となく分かってた」
雪の降り積もる道路を駆け抜けながら、カイトはイリーナにそう答える。思わず『えっ……?』と呟く彼女に、カイトは更に呟く。
「多分、俺も同じ気持ちだと思う。だから、安全な場所に着いたら、いくらでも聞くよ」
「……うん!」
この瞬間、確信した。
心の底から、彼女は、イリーナは。
この男の事が、大好きなのだと―――
刹那、肉を裂く音が、イリーナの目の前から響いた。