嫌な思い出
「ヒツユっ! 待ちなさいよ、ヒツユってば!」
白い、長い廊下を走っていくヒツユ。それを追いかけるイリーナ。ヒツユは彼女の言葉に耳など傾けず、ただ一目散に走り去っていく。
二つの足音が施設内に響き渡る。その中でイリーナは、ここまでヒツユを必死させるものの正体に疑問を抱く。
それは―――いうなれば、トラウマだろう。
そんなものを、自分は想像し、暴こうとしている。
放っておけばいいのではないか。
彼女の心を傷付けるくらいなら、余計に詮索しない方が良いのではないのか。何しろヒツユは、この現在に至るまで、様々な障害にぶつかっているのだから。当然、トラウマの一つや二つあるだろう。
(――――――でも、それを溜め込むのは良くない。今のアタシなら、安心させる術があるかもしれない)
その紫色の髪がなびく。
青色の瞳は、ヒツユを一直線に見つめている。
だが、やがて。
「……ッ!」
行き止まり。
それは、テラスのような、少しだけ外を眺める事の出来る場所だった。廊下の突き当たりに存在する、眺めの良い場所。そして、そこからは空中庭園のほんの一部、五十嵐の研究所周囲の街並みが見える。
「話を聞いて、ヒツユ」
追い付いたイリーナが、ヒツユの肩に手を置く。
――――――震えている。
五十嵐の言葉に追い詰められ、心の奥底を傷付けられた少女の肩が。
「……私……」
「落ち着いて。大丈夫、五十嵐には後で言っておくから―――」
「違うの‼︎」
震えているどころではない。
その叫びは研究所中に響く。振り向いた彼女の瞳には安心の光も無く、ただ過去に怯えている仔猫のようにしか見えなかった。
「私……私、怖いの。なんで私がこんな……こんな私が、イリーナやイチカに信頼されているのか分からなくて。今の先生の言葉は……やっぱり、私を『化け物』として扱ってた」
「……例え五十嵐がそんな事を思っていても、アタシは絶対にそんな事思わないわ。アンタの過去はアタシも知らない。多分知っているのは五十嵐だけでしょ。でも……」
その手に力を込め。
震えるヒツユの肩を強く押さえて、彼女は言い放つ。
「アタシはそれを知った上で、なおアンタを信頼したいの。だから……その、無理にとは言わないけど……教えてくれるかしら。アンタの、その『過去』ってのを」
彼女の過去は、きっと重く深い。
大事な恋人を亡くしたイリーナよりもっと暗く、残酷でえげつない程の過去を、彼女は秘めている。
だけど。
それを知ってからもなお、イリーナはヒツユを信頼したいと思い、彼女の力になりたいとも思う。だってイリーナは、ヒツユの最初の友達なのだから。
「……救いなんてないよ」
「……っ」
小さい声で、ヒツユは忠告する。
「全てを覆してのハッピーエンドなんてものもない。聞いているのも嫌になる程、ただただ聞き苦しい私の痛みの過去なんだから。きっとイリーナが良い気分になる事もないし、それを話したところで私のトラウマが消え失せるわけでもない。それでも聞きたいのなら―――教えてあげる」
暗く濁った焦げ茶の瞳。
そこには涙も浮かばず、ただ影が染み通っているだけ。それだけ彼女の過去は冷たい。
しかし、イリーナは首を縦に振る。知って、それを理解して、受け止めたいから。
―――そう。
呟いたヒツユは、ベランダのガラスに手を当て、囁くように小さな声で話し始めた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私が目覚めた時はね、既に暗い部屋に居たの。
広さは……そうだね、普通の個室相応の大きさだったと思うよ。照明は付いていたけど、それでも薄暗かった。
私は白い服を着せられてそこに座ってた。―――と言っても椅子なんて物はなかったよ。冷たいタイルに、そのまま。両手両足は鎖に繋がれてて、それは壁の中から伸びてた。でもそれだけじゃなくて、首も鎖で繋がれてた。そうそう、腰もだったよ。
でね、部屋の向こうに誰かが見えるの。ガラス張りだけどそれ程透明でもなくて、向こうがよく見えなかった。けど、男の人が一人だった。そしてその内たくさん集まってきて、なんかよく分からないものを弄り始めたんだ。
私は聞こえるか分からなかったけど、小さな声で言ってみたの。
――――――誰? って。
そしたら声が返ってきた。その時、彼は始めて言ったの。
――――――君の先生だ、ってね。
そう、五十嵐先生の声だったんだ。それで、説明をされたんだ。
――――――君がこれから受けることはとてつもなく辛いことだけど、これも人類が生き残るためだ。我慢してくれ、って。
それから、もう会話も出来なくなった。私がいくら問い掛けても、応答してくれなかったから。
そして―――私は腕を斬られた。
……ほら、ね。イリーナでも、そういう信じられないって顔するでしょ。でも―――本当なんだよ。それも、一回や二回じゃない。何十、いや何百と。私みたいなカルネイジの力を宿した『化け物』は、脳や心臓を壊されない限り死なないから、何度でも繰り返されてた。最初の何回かは猛烈に痛くて、悶えて、死にそうで、でも死ねなくて。何十回ってところからは痛いけど慣れてきちゃった。こんな行為でも『慣れ』なんて存在するんだなって、少し怖くなった。何百回からは、もう疑問が浮かんできたんだよね。
何百回と再生する自分の手足。私は一体―――何なのかな、って。痛いというまでもなく、もう反応すらしてなかった。
でも、そのうち精神が壊れそうになっちゃったんだ。私は死なないで一生斬られ続けるの? って。そしたら一気に怖くなってきちゃって。その時に、気付いたんだ。
―――私は、人類を生かす為に生きているんだ、と。
だから、私は身体と手足を離され続けているんだって。
……そうでもしないと、今頃私はどうなってたか分からないね。誰かの為にしているんだ、っていう支えが無いと、本当に狂ってしまいそうだったから。
……まさかそれが、って顔してるね。そう。たぶん、私から切り離された腕のカルネイジ細胞を利用して、先生はカルネイジ金属を造っているんだと思う。
その後解放された私は、今度は私自身がカルネイジを殺す為に、戦い方を身に付けさせられた。そしていよいよ地上に降りるって時に、イリーナに出会ったんだよ。
どう?
言葉にしてしまえば簡単だよ。数え切れない程身体を斬られ、弄ばれたってだけの話。でも―――この生活が、半年も続いたの。だから私……あの時の話は、聞くだけで怖くなってくる。むしろたまに思うんだ、なんで私は狂ってないんだろう、って。
それは多分―――誰かを救ってるって、信じてたからじゃないかな。
そう、思うんだ。