狂った少女からの逃走劇
それから、二人は日が沈むまで遊んだ。
地下研究所では日が沈んだかどうかも確認出来なかったが、二人が遊び疲れる時には、既に日は暮れていたのだった。
「あー、疲れた……」
「そうだね……あ、もうこんな時間。私そろそろ帰るよ」
「……え……?」
それは、あまりに当然のこと。
家庭があるのなら、時間がくれば家に帰るだろう。そんな常識的な事を、ヒツユは口にしたまで。
――――――なのに。
今まで世間に触れていなかったからか、イチカは信じることが出来なかった。ずっとここにいて、ずっと遊んでくれると思っていたのだ。
それは、単なるワガママに違いない。子供がいつまでも遊んでいたいと駄々をこねるのと同じだ。
それなのに。
「待ってよ!」
イチカは、ヒツユの手を掴む。
「え?」
戸惑うヒツユ。イチカはそんなヒツユに涙目で訴える。
「……行かないでよ。僕の友達になってくれないの?」
「いや、もちろん友達だよ? だけど、家には帰らなくちゃ……」
「なんで?」
「なんでって……そりゃ、パパとママが心配するから……」
「パパとママなんて別にいいよ。ねぇ、まだ一緒に居てよ」
何故か、ヒツユはその手を振り払う事が出来ない。それほどまでにイチカは必死であり、手を掴む力もそれに比例して強力になっているのである。
「ねえ!」
「はな……離し、て――――――ッ⁉︎」
その瞬間。
ヒツユはイチカに押し倒され、両腕を彼女に押さえられる。イチカはヒツユの腹の部分に乗り、ヒツユが起き上がるのを抑制していた。
「僕と……僕と一緒に居てよ……!」
「嫌ァッ‼︎ 離してよッ‼︎」
ヒツユは、心の底から恐怖を感じた。
何故なら。
イチカのその黒い両眼は、明らかに異常な光を帯びているのだから。独占欲に全てを任せた者の瞳だ。
「……ヒツユちゃん……こうして見ると可愛い……」
「助け……て……」
「その表情が愛おしいよ……可愛い。可愛いよ」
「……い、や……」
吐息。
明らかに、欲情したかのような場合の吐息を、彼女は発していた。何らかの身の危険を感じたヒツユは、必死に拘束を振りほどこうと腕を動かす。
だが、少しも動かない。
何故、何故こんなに強い力を発揮出来るのか。
「よく見るとさ、ヒツユちゃんって可愛い顔してるよね」
「何……⁉︎」
「……我慢出来ない……」
そう呟くと。
イチカは。
自分の唇を、ヒツユのそれに押し当てた。
(え……ちょっ……⁉︎)
突然の事に反応出来ず、ヒツユの動きは止まってしまう。抵抗することも出来ない。ただ、その甘い感触に身を任せるだけ。唇がとろけそうになり、ヒツユは身体の力が全て抜け落ちてしまう。
しかも、向こう側のイチカは、キスをしながらも痙攣したかのように震えている。まるで感極まっているとでも言う様に。
それは、一分間程の長いキスだった。イチカは満足すると、ゆっくりとヒツユから顔を離す。唇と唇の間には糸が引かれ、妙に生々しい。
イチカもヒツユも、とろけたような、うっとりとした表情で互いを見つめている。ただしイチカは愛おしそうに、ヒツユは半ば放心状態といった感じだ。
「ハァ……ハァ……」
「……ハァ……っ、ヒ、ヒツユ……ちゃん……」
「も……もう……」
ヒツユは、しかし辛そうな表情を浮かべると、
「?」
「もう――――――嫌ァッ‼︎」
ドンッ‼︎ とイチカを突き放し、勢い良く立ち上がる。
「ッ⁉︎」
イチカは、驚嘆した。
彼女は、自らと友達に、いやそれ以上になるよりも。
自らの保身に走ったのだ。
(そ、んな……)
イチカも、遅れて立ち上がる。
「待って……待ってよ‼︎」
「嫌だ‼︎ もうこんなところ来ない‼︎」
ヒツユの嫌がり様は、イチカの行為からしてみれば当然のことだった。
折角、学校に来ない友達を心配して来てみれば。
待ち受けていたのはどう見ても正常な価値観を失った少女。そしてそんな彼女に、ヒツユは唇を奪われてしまった。
「なんでっ……こんな……ッ‼︎」
走る。
走る。
とにかく、走る。
逃げなくては。
ここに居ては、間違い無くヒツユもおかしくなってしまう。
そうだ。
心が侵されるような感覚。
思えば研究所内にずっと引きこもっているような女の子が、通常の感覚を持ち得るわけがないのだ。
(嫌ぁ……嫌だ……ッ‼︎)
地下研究所内は途方も無く広い。
だが、ヒツユは先程まで遊びでここを駆け回っていた。迷うなんてことは無いはずだ。
そして、その通り。
出口の梯子が、見えてきた。
(あった‼︎)
ヒツユは周囲を確認する。大丈夫、まだイチカは追い付いていないようだった。だがしかし、暗闇の向こうでイチカの声が聞こえてくる。この地下研究所は複数の個室に分かれて成り立っている為、いちいち電気を付けるのはめんどくさいと、基本電気は消えているのだ。
だから、それが逆に怖かった。まるで陳腐なホラー映画のようにベタで、しかし一番恐ろしく感じられるシチュエーションだった。
(早く登らなきゃ……追い付かれる!)
ヒツユは梯子に足を掛ける。所詮部屋の高さ二つ分くらいだ。普段から外で遊び回っているヒツユが登れないわけはない。
すぐに登り切りそうになる。そこで、ヒツユは安心した。
――――――だが、それが命取りだった。
「……痛ッ‼︎‼︎」
手を傷つけられていた。
痛みに耐えられない。
ヒツユは腕を振り払う。
「何これッ……猫⁉︎」
それは、イチカの飼い猫のクロだった。深淵のような黒い体毛のそれは、いつの間にかヒツユの腕に噛み付いていたのだ。
(なっ……んで……!)
ヒツユは片腕に全ての体重を預け、クロを追い払う。クロは空中に浮き、床に叩きつけられる。
ハズだったのだが。
その爪は。
ヒツユを支えるもう一本の腕に、深い傷を与えた。
「痛ッ……あ⁉︎」
そして。
それが、ヒツユの逃走劇の終幕となった。
なんと。
その痛みに耐えられず、ヒツユは手を離してしまった。
もう、彼女を支えるものはない。
何も掴むことは出来ない。
彼女に残されているのは――――――落ちる事だけ。
「あ、」
それから先は、ヒツユの意識の外である。
彼女の身体は、固い床の上に叩きつけられる。
肺から酸素が吹き飛んでいき、一気に意識が怪しくなる。痛みのせいで悶絶することしか出来ず、彼女は、それでも必死に逃げようとした。
が。
「クロ、よくやったね。でも、もう少し優しくしてほしかったなぁ……」
(…………ぁ……)
朦朧とする意識。
薄まっていく視界。
そして。
目の前に映るのは、今にも昇天しそうな程の笑みを浮かべるイチカ。瞳は楽しそうに揺らぎ、欲望を告げ、恍惚としている。その手には、何か銀色に光るものがあった。
「……このままでもいいけど……また元気になったら逃げちゃうだろうから……ここで、確実に僕の物にしないとぉ……」
明らかに過呼吸なその少女は、しかし年相応ではない色気たっぷりな口振りで、その銀色に光ったものと振り上げる。
(な……に……?)
ヒツユは、震える身体を制止しようとしながら、その怪しげなものを見つめる。
「大丈夫ぅ……だから。痛いのは、今だけ……すぐに……僕の隣に居させるから……ね」
刹那。
ヒツユは、それの正体に気付く。
「――――――ッ‼︎ だ、め……ッ‼︎」
しかし。
イチカは構うこと無くそれを。
力一杯、振り下ろした。
痛み。
悶絶。
衝撃。
鉄のような、そんな味。
それと共に、ヒツユは意識を失った。
虚ろな瞳には意識も何もかも映ってはいない。
だが。
そこからは、冷たい涙が滴った。
生気のない、ただの水滴。
しかし、それは確かに生きていた瞬間に流していたものだ。
理解不能なこの現状。それへの怒り、憤り、悲しみが、確かに水滴となって落ちたのだ。
しばらくは、ヒツユは身体をビクンビクンと痙攣させていた。
だが。
その内、それすらもしなくなった。
ヒツユは――――――死んだ。
「ひ、ひひ、ひひひヒヒヒヒひひヒヒヒひひ」
奇妙な笑い。
イチカは死んだヒツユを見つめながら、その涙を舌で拭う。その冷たい手に自分の手を貝殻つなぎさせ、生気の失われた彼女の死体に寄り添う。
ヒツユから流れた血の上に、何の不快感もなく横たわる。
「……すぐに手当てしてあげなきゃ。大丈夫、心臓と脳さえ傷付けられなければ、身体再生細胞によって死んだまま生きられるよ」
イチカが振り下ろしたのは、解剖用のメスだった。
そして。
イチカが企んでいるのは。
ヒツユの脳を死なせたまま、その身体のみを生かすこと。
身体再生細胞を彼女の身体に投与し、健康な生きた屍にすることにより、いつまでもその若さ、見た目を保ったまま、イチカの側に居させること。
それには、イチカの研究施設による身体の保存が必須。巨大なガラス管の中に細胞の成長、そして腐敗を止める培養液を流し込み、その中に彼女を保存する。
「……君はずっと僕のものだよ、ヒツユちゃん」
血だまりの中で。
イチカは、その少女の死骸を抱き締めながら。
愉快そうに、心から愉快そうに。
笑った。