もう一人
「……っ」
思わず、ヒツユは目を閉じてしまっていた。 本来ならば助けに行かなければならない状況なのに、だ。
それは、身体が行動を起こす前に。
耳が、聴覚が、彼女にその結末を知らせたからだ。
『音』、という情報で。
そう、それは肉が裂ける音。そして、ボタタッ、と液体が滴る音。
しかし――――――
「……おっと、危ないなぁ」
(……?)
そんな呑気な声を聞き、ヒツユは恐る恐る目を見開いた。
まず見えたのは、銀色の牙狼。固まったまま、動こうとしない。
次に見えたのは、横たわるイリーナ。身体中から電磁波を発生させ、死んだかのように動かない相棒。
最後に、黒髪紅眼の少女。彼女は右腕を前に突き出し、不敵な笑みを浮かべたままだ。
(――――――!?)
そして、その右腕の先に見えたのは。
狼型カルネイジ、その大きな上顎と下顎を貫くように、地面に垂直に立てられた、
2メートルもある、巨大な銀槍だった。
一瞬の間、場の空気が固まった。両者とも動かないまま、そしてヒツユとイリーナも微動だにせぬまま、無駄な時間が過ぎていく。ただ冷たい夜風だけが、黒髪少女のコート、カルネイジの体毛、そしてヒツユのパーカーを揺らす。
最初に沈黙を破ったのは狼型カルネイジだった。彼も自身の『体質』を理解しているのか、槍で貫かれたまま中途半端に開いていた口を、物凄い勢いで閉じようとする。
次は黒髪紅眼少女。まるで沸騰したヤカンに触れてしまった子供のように、その手を即座に槍から引き離し、引っ込める。結果、槍はカルネイジの上下の顎を貫通するような形を取り、そのまま彼女の制御下を離れる。
そして。
「再生が始まるかな? これで君は、その槍をどうにも出来なくなったワケだ」
先程ヒツユの腕を再生したのと同じ様に、気持ちの悪い音を立てながら、その傷跡は再生していく。
だが、それはカルネイジにとってデメリットとなる。
再生した肉は槍をガッチリと押さえ込むようになってしまい、並大抵の力では引き抜くどころか、動かすことも出来なくなってしまった。まるで槍がカルネイジの一部になってしまったかのように。
つまり、結論から言えば。
カルネイジはもはや、口を開くことが出来ない。火炎による遠距離攻撃も、その大口で直接喰らうことも出来なくなった。
「ヒツユちゃん!!」
「う……ぇ!?」
黒髪少女にいきなり名前を呼ばれ戸惑ったヒツユは、多少あたふたしながらも、そちらへ耳を傾ける。
「僕はイリーナさんを安全な場所へ運ぶ!! だから君はコイツの気を――――――っと!」
刹那、カルネイジの剛腕が襲い掛かってきた。それでも笑みを崩さず、自身を『僕』と称する少女はイリーナを肩に抱え、後ろへと飛び上がる。素で何メートルも飛び上がるその跳躍力は、先程猿型カルネイジを一掃したときのヒツユを彷彿とさせる。
その紅い両目、驚異的な身体能力。やはり、
(やっぱりあの女性――――――私と同じだ!)
そんな思考をとりあえず胸の奥にしまい、ヒツユは今度こそ銀に輝くカルネイジへと向かっていく。狙い目は『脚』。再生するにしても、隙さえ作ることができればこちらのものだ。
基本的にカルネイジの撃滅条件は『心臓の破壊』か、『脳の破壊』。再生するように指示を出すのは脳であり、そのために全身へ血液を送るのは心臓。このどちらかを大幅に破壊出来ればカルネイジは再生せず、勝手に死んでいくのだ。
――――――いくら化け物のようだといっても、所詮は生物の突然変異。基本的なサイクルに、人間と大差は無いのだ。
つまり。
「いっくぞぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
うまくやれば、ヒツユ一人でも倒せる。
それだけの技術を、それだけの腕力を、それだけの瞬発力を、彼女は持ち合わせている。
ヒツユは、野球選手がホームベースへ滑り込むような姿勢でカルネイジの足元へと接近する。振りかぶるように紅いバスターソードを構え、彼女は進む。
回転。
一度それを加えるだけで、バスターソードは勝手に動いてくれる。『遠心力』というのは、元々の体重が軽い彼女にとって絶大な威力を発する最強の武器となった。
が。
「が――――――ぁッ!?」
カルネイジは基本的に元の動物の姿を保っている事が多いが、その筋肉の働きや骨の仕組みなどは違う場合が多い。自然に摂理に反するような異常ぶりで発達した彼らは、見た目は似ていても、もはや別の生物であることが多かったりするのだ。
この狼型カルネイジもそんな突然変異の加護を受けている。まず、体内に発熱する器官が備わっている。その器官は自身の細胞のほんの一つだけを発熱させる。そしてその細胞は一定温度の熱が加わると大きく膨張し、火の玉のようになって放出されるのだ。
今までの科学をぶち壊すようなメカニズムを持っている『大虐殺』は、尾を自在に操る事も出来る。
通常何個、多くても何十個しかない尾骨を、このカルネイジは何百単位で持ち合わせている。……結論から言えば、このカルネイジの尾はまるでムチのようにしなり、強烈な威力を発揮するのだ。
そしてヒツユはその一撃を、腹へもろに喰らってしまった。一瞬意識が飛びかけ、その次にはビル壁へと叩き付けられる。肺が潰れるような衝撃に、彼女は思わず血ヘドを吐く。
「がっ……ごほっ!! がはっ!!」
地面に崩れるように倒れたヒツユは続けて咳き込む。時折混ざる赤い液体。それを確認する暇もなく、カルネイジは彼女へと襲い掛かる。
巨大な五本爪を剥き出しにしての突き出し。ヒツユは咄嗟にバスターソードを縦に構え、その攻撃を防ぎきる。
「う……っそ……!?」
否。
とてつもない腕力で繰り出されたその一撃に彼女は耐えられず、再びビル壁へと押し進められる。必死に薄茶のスニーカーを地面に押し付けるが、カルネイジは全く微動だにしない。それどころか少しずつ、ヒツユはビルへと押し付けられていく。
「ぐっ……あ……ぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」
突如。
彼女の左目が、紅く変色する。
そして、腕力の増加。単純な力押しなら、彼女は負けない。
押されていた分の距離を、再び押し返す。
「私は……ッ!! あなた達と同じ……化け物だけど……ッ!!」
過去の記憶が脳裏に映る。
それは、科学者に×××された記憶だとか。
人権なんて無視された、自身を×××された記憶だとか。
――――――イリーナと出会った、喜びの記憶だとか。
「守りたい人が……いるんだからぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!!」
瞬間。
まるですっぽ抜けたかのようだった。
狼型カルネイジが、突然自身の腕を引いた。相反する力がいきなり消失したヒツユは、当然バランスを失う。完全に無防備となった彼女へ、銀狼はもう片方の爪を繰り出してくる。
「……ぁ、」
終わり。
これで、終わり。
完全に。
ヒツユの身体は、その巨大に爪によって貫かれ
「いいね、そういうの」
滑らかな、甘い声。
それと同時に、巨大な狼爪は目標を失う。ヒツユの頬を薄く切り裂き、一撃は地面へと叩き付けられた。
「ッ……!?」
土煙が舞い上がり、ヒツユは何度かむせる。左は紅色、右は茶色のオッドアイを上に向けると、そこには横たわるカルネイジに飛び乗った先程の少女。
「『カルネイジ』の『体質』を埋め込まれた。……なのに、ヒツユちゃん。君にはそんな素敵な目的があるんだね」
その少女は陰りのない綺麗な笑顔で笑いかけてくる。その頬には飛び散った血が跳ねていたが、そんな狂気を無にしてしまうほど、その笑顔は汚れがなかった。
「羨ましい、本当に羨ましいよ。――――――あ、そうだ。もしよかったら、」
彼女はカルネイジから軽く飛び降りると、その薄茶色のブーツに付着した血を地面に擦り付ける。頬に付いていた血を舌で軽く舐めとると、その右手をヒツユに差し出して。
「僕にも、そんな目的をくれないかな?」
狼型カルネイジは、再び動き出す。その片目はねじ切られ、眼球は黒髪の少女によって踏み潰された。そう、彼女はカルネイジの左目に向かって飛び蹴りを浴びせたのだ。
しかし、通常の人間にはそんな事は出来ない。例えば――――――そう、同じカルネイジの如き脚力、化け物と称されるほどの身体能力がなければ。
よって、彼女はただの人間ではない。
ヒツユと同じく、忌まわしき体質を持つ『化け物』。
「僕は九十九一花っていうんだ。イチカって呼んでくれると嬉しいな」
彼女はその紅い両目を細めながら、笑っていた。