豹変
それより、何時間か前。
幾日か前にバンドを組むという変な要求を飲んでしまったレオは、ネロによるスパルタもいいとこな猛特訓を受けていた。
「今日も練習やでーレオ!」
「ちょ……もう指死ぬ……助けて……」
「えーから行くで、ほら!」
「助けてええええええ……」
純真無垢な黒猫少年が、関西少女に引っ張られる様。
しかしヒツユはそれに目も向けず、ひたすらベッドの前で怖い目をしていた。
目標はカノン。彼も彼で、野獣の眼光を休めようとしない。
何故かというのには、アミの状態が関係していた。
「どけ……っ! お前もレオにあんなことやこんなことしたいだろ! それと同じだっ!分かってくれっ!」
「ダメッ! レオ君はそういうタイプだからいいけど、アミはそういうタイプじゃないからダメだよっ!」
「そういうタイプってなんだよ! いいから! 男にはこういう時間があってもいいんだっ!」
「今である必要はないッッ‼︎ いいから何処かに行ってッ!」
現在アミは、自分のベッドで寝ていた。余程気分が悪いのか、毛布を中途半端にめくり、あられもない姿だった。
結果ワイシャツははだけ、中のビキニも際どいラインを保っている。
これを見てしまったカノンは、身体の中にある込み上げるような何かに抗えず、そのベッドに飛び込もうとしたのだ。
ヒツユはそれを早い段階で察し、まずは飛び蹴りで阻止した。
しかし我慢出来ないカノン。諦めずにもう一度飛び込むが、今度はアッパーカットにより阻止。
そんな攻防を何回を経て、現在に至る。
実力的に超えることの出来ない壁に阻まれているカノンだが、己の欲求には勝てないようだ。ヒツユに飛び蹴りをくらい、アッパーカットを喰らい、壁に投げ付けられ、天井に衝突させられるハメになってもなお、アミの事を諦められていない。
ヒツユはそんなカノンに溜息をつきながら、なおも立ち塞がる。
「アミは最近気分悪そうなのっ! いいから出ていって!」
「ならばこの俺がその元凶を断ち切――――――ッッッ⁉︎」
あろうことかヒツユの上を飛び越そうとするカノン。しかし彼女は見逃さず、彼の服の襟を掴み、そのまま部屋の外へと駆け出す。
そして。
彼の身体を、廊下の壁へ叩き付けた。
「ごっ……はぁ……ッッ‼︎」
ヒツユもヒツユなりに力を加減したのだが、元々の威力が強すぎたらしい。呆気なくカノンは気絶してしまった。
「ったく……アミの事が好きならこういう時は我慢すべき。うん。少なくともレオ君はそんながっついたりしない」
レオは単に草食系というか、まぁ言ってしまえばそういうところではヘタレなだけなのであまり比較してはいけないのかもしれないが、そんなことヒツユが気にするワケもない。
「……レオ君の応援してこようかな。もちろんカノンを引っ張っていって」
実を言うと、ヒツユは最近ネロと仲がいい。単にネロがレオに対して誘惑をしなくなったからかもしれない。が、彼女のヒツユに対しての態度も、何だか変わった気がする。
前までは獲物(?)を取り合う猛獣同士のような関係だったのだが、今では認め合った好敵手のような感じになっている。
――――――全ては、あの夜から。
彼女はあの後、レオがネロを見舞ってからの事を一切知らない。だが、あの時を境に、ネロは明らかに変わった。
何故、ネロはあの時命を断とうとしたのか。それをヒツユは知らないし、正直知らなくてもいいかな、なんて思っている。
過去を見られて喜ぶような人間は、少なくともこのご時世には居ないハズだから。
(……アミ……もしかして、レンさん以外の事も抱えてるんじゃ……)
しかし、今は安静にしていた方がいいだろう。彼女はそう思った。
起きたら聞けばいい、なんて思ったのだ。
この後、何が起こるかも知らないで。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……ハァッ、ハァッ‼︎」
脚がもう動かない。どれだけ走っただろうか。巨大なバウムクーヘン状のこの施設は、決して終わりがなく、無限に逃げる事が出来る。
ただ。
それは、自分の体力も無限であればの話だ。
「待てよオイ! お前やっぱりあの時のガキか!」
後ろから男が追ってくる。おぞましい。彼が後ろにいるだけで、嫌な記憶が思い浮かぶ。
あの時の記憶。
汚らしい、忌々しいあの記憶。
(嫌だ……アミ……何の為にここに……)
あられもない姿で横たわる自分。男はそんな自分を、まるで家畜を見るような目で眺めているのだ。
そんな存在だったと気付いた幼少期。
その恐怖は、成長してからも彼女を脅かし続ける。
何しろ。
その元凶に、今しがたアミは追われているのだから。
何のことはない。
廊下に出た。その時、ちょうどあの男と目が合ってしまったのだ。
今まで配給もレオに代行してもらい、なんとかして彼に会わないようにして来たのに。
嫌だ。
もう、逃げたくない。
追われるだけなんて。
こんなの――――――
「掴まえたぜ」
「――――――ッッッ‼︎」
気付けば、アミの腕は男の太い腕にがっちりと掴まれていた。抜け出すことなど不可能な程、キツく。
「嫌ァッ‼︎ 離してェッッ‼︎」
「うるせぇ‼︎」
瞬間、男の拳が飛んだ。アミは床に投げ出され、苦痛に顔を歪める。
「ほー、やっぱりあの時のガキか。まさかもう一度この面を拝めるとは思わなかったぜ」
「あ……あ……」
殴られた瞬間、感じた。
やはりこの男にとって、自分は家畜でしかないのだと。
暴行など当たり前。所詮道具。そんなものなのだ。
だから、抗うなど無駄。逃げるしか出来ないのに、彼女はそれを投げ出してしまった。
「おーおー、見ないうちにまた一段と成長して……おじさん楽しみだわー」
イヤらしく笑う男は、彼女の背筋を凍らせた。これからまた、あの『行為』が始まるのか、と。
解放され、レンに救われ、ここまで戻って来たのに。
また、元の闇へと戻るのだろうか。
(そんなの……そんなのっ……‼︎)
『そんなの、嫌だよね?』
(っ⁉︎)
自分の声が聞こえる。
しかし、自分の言葉が反響したワケではない。
この声は――――――
(まさか……)
『そ、正解。もう一人のあなただよー』
気付くと、アミは暗い空間に居た。だが分かる。ここは……前にも訪れた事がある。
真ん中には心臓が浮かんでいる。そこから頼りない管、血管のようなものが自分の胸に繋がっていた。
そして、それは向こう側の彼女も同じだった。アミと同じ顔、同じ身体をした少女。
そんな彼女に向かって、アミは泣き言をぶつける。
(……アミ、もう戻りたくない)
『どうして?』
(今はまだ大丈夫。……けど、次戻ったら確実に汚される。あの、気持ち悪い男に)
『あなたの記憶から引っ張りだしたその時のあなたは、快楽に溺れていたようだけど?』
(あんなの快楽なんかじゃない‼︎ いいように操られているだけの操り人形だったんだよ‼︎ アミは……アミは、あんな奴の人形にはなりたくない‼︎)
『んー。でも、私がちょちょいとすれば、この状態も終わるんだよね。それに、ここに永遠に閉じこもるなんて出来ない』
(……じゃあ、どうすればいいの?)
すがるようにアミが自身の分身を見つめる。その声は情けなく揺らいでおり、目頭からは涙が溢れてきていた。
そんな彼女を見て、アミの分身はニヤリと笑う。
『……瞳を閉じて。全部私に委ねて。あなたはただ、眠るだけでいい』
(眠る……か。楽だね。それだけなんだ)
アミは、もはや疑いもしなかった。
楽だから。
変な男に襲われるより。
怪物に殺されかけるより。
周りへ嘘を取り繕うより。
――――――よっぽど、楽だから。
暗闇はいつしか海のようになり、アミはそこに浮かんでいる。
最初に脚が沈む。逃げる為の脚。
次に腕。嫌なものを払いのける為の腕。
そして身体が沈み、頭も沈んでいく。
何も考えなくていい。
ただ沈み。
ただ、眠る。
ついに、全身が闇の海へと沈んでしまった。
最後に考えたのは、こんなこと。
(もう、疲れたよ。……レン)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……ククッ……」
「んぁ?」
突然だった。
ついさっきまで怖い顔をしていた少女から、何やら怪しい笑い声が聞こえた。
襟を掴んでいた男の腕を掴み、そして。
無理矢理な角度へと、捻じ曲げる。
「ぐ、ああああああああああああああああああああああああああッッッ⁉︎」
「あはは、ははははははっ」
瞬間、アミは豹変する。その黒い瞳は紅く染まり、筋力が飛躍的に上昇する。
黒髪の中から耳のようなものが生える。ワイシャツの下から、尻尾が伸びていく。
それは、まるで彼女の弟のようであった。しかし彼のように自我を持っているようには見えない。
むしろ、何かに操られているようだ。
「お、お前は……何だ……⁉︎」
「あっはははははは……あ、ありがとうね。お前のおかげで、私はこうしてまた現れられたよ」
「な、に……⁉︎」
「私はこういう回りくどい事をしないと生きていけなくてね。けど、おかげで唯一カルネイジの中で意思を持つことが出来てるの。あの下等な化け物共を統率することが出来る、唯一の存在なんだよ」
「何を言って……⁉︎」
「人間を糧にしている以上、こうおちおちもしてられない。私は私の好きな事をさせてもらおうかな」
そう言うと、彼女は男の腕を離す。
そして。
次の瞬間、彼女の身体が膨張し始めた。
膨張というよりは、内側から何かが噴き出すような感じ。ギチギチと苦しそうに膨らむ彼女は、しかし笑っていた。
刹那。
一本しか生えていなかった尻尾が、二本に増える。それは突如として三本になり、四本、五本とその本数を増していく。
やがて、それが九本になったとき。
それが、目覚めた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
突然の轟音。
そして陥落する音。その音に、施設の人間はただ驚くしかなかった。
そして結果的に、彼らはこう考え出す。
この防壁が、遂にカルネイジに突破された――――――と。
そうなったら、もう手が付けられない。たちまちパニックになった彼らは、我先にと逃げ出そうとする。
が、彼らが出口を知っているわけもない。ロボット達が、そんな情報を与えるハズがなかったからだ。
彼らは泣き叫び、怒り狂い、そして恐怖する。今までぬくぬくと保たれていた平和を、再び掴み取ろうともがく。
そんな愚かな人々を、カルネイジは蹂躙する。
(さてと、最初は配下を作り出すかな)
神崎亜美を素材として生まれたカルネイジは、小さな小山ほどの化け物。赤黒い身体に九本の尾、鋭い爪に全てを噛み砕く牙。
そして最大の特徴は、意思、思考を持っているということ。本能に任せて暴れ回る他の下等カルネイジとは違い、自ら考え、率い、そして全てを破壊する。
発祥に違いがあるが、これをイチカが見たら間違いなくこう言うだろう。
これはカルネイジではなく、その上の存在。
――――――デストロイ、だと。
カルネイジの三階級では二番目の脅威となる、カルネイジよりも更に凶悪な怪物。
だから、仮にこう呼ぼう。
九尾型デストロイ。
イチカが見ても、きっとこう名付けるであろう。そう思う程に、禍々しいその姿。全てが恐れ慄き、従うかのような。
そして、そんな比喩表現を、九尾型は現実にする。
九尾型が大きく息を吸う。次の瞬間、耳を劈く程の鳴き声が、施設全体を駆け抜けた。
それに驚く人々。
しかし、本当に驚くのはこれからだと、そう気付くのは少し遅かった。
――――――その中の一人が、カルネイジと化してしまってからでは。