彼の話
「パパさん?」
イリーナは首を傾げる。
「……うん。結構前に仕事を無くしてるんだ」
カイトは苦い顔で言う。
場所は近くの河川敷。川を目の前にし、二人は並んで座っていた。
「俺がバイトを幾つも掛け持ちして稼いでるんだ。学校の費用とかは出て行ったお母さんが払ってくれてるらしいけど……あっちもあっちで厳しいんだと思う」
「ふーん……」
イリーナは彼の話を要約する。
先程までの話では、彼の父親が仕事をクビになり、母親も出ていっている。父親の歳では再就職は難しいらしく、未だに無職のままだという。
一方母親は母親で生活が厳しいらしく、カイトを養うことは出来ない。養育費はなんとか払ってくれているが、一緒に住むことは出来ないらしい。
そして父親は生活費を賄う術が無い為、カイトが親戚を頼りにバイトをしているという。
(だからバイトを紹介するとき、あんなに嬉しそうに……)
彼の感情がようやく理解出来た。イリーナは、僅かに鬱っぽい溜息をつく。
自分とは全く逆の存在だ、と。
そう思ったから。
イリーナは、親が嫌で家を飛び出した。それは、あくまでも自分の意思だ。
が、カイトは家族バラバラの状態を余儀無くされたのだ。結果父親とは不仲になり、母親とは会うことすら出来ない。
先程の様子から分かる通り、父親は酒に入り浸っている。こう言ってはなんだが、きっと日常的にあのような精神状態なのだろう。それはイリーナでも、なんとなくわかった。
だが。
それを知ったとして、彼女にはどうすることも出来ない。たかが一介の中学生に、こんな親子関係のこじれを治すなど、出来るわけがないのだ。
そんな事もつゆしらず、カイトは忌々しげに小石を拾い、目の前の川に投げる。ポチャン、という音が、暗闇の中へと木霊した。
「イリーナはなんで付いてきたの?」
「え……」
「なんか言い忘れてた事でもあったっけ。特に無い気がするんだけどなぁ」
イリーナは説明しようと口を開く。
だが、彼女が声を発音しようとしても、何かがつっかかってしまう。その内イリーナは顔を赤く火照らせ、プイとそっぽを向いた。
「……?」
カイトは首を傾げる。
その時イリーナは、
(言えない……心配になって来たとか、とても言えない……)
なんだか妙な恥ずかしさに襲われていた。
と、カイトはスッと立ち上がる。
「さーて。こんな遅くまで彷徨いてるのもアレだし、俺はもう帰るよ。イリーナも早く帰った方がいいんじゃない?」
ズボンについた汚れを叩いてほろい、カイトはイリーナに背を向ける。そのまま颯爽と変えろうとするが、
「……アンタ、どこで一晩過ごすの?」
その声に、何処かカッコ良く見えたカイトの後ろ姿が静止する。ギチギチと分かりやすい焦りを見せる彼は、ゆっくりとイリーナの方を振り向く。
「……どうしよう……」
(何も考えてなかったの⁉︎)
てへへ、とわざとらしく頬を掻くカイト。どうやら本当に何も考えていなかったようだ。
「はぁ。……お金は?」
「一銭も……」
「泊まれるアテは?」
「ボッチなんで何処にも……」
「……ダメだこりゃ」
イリーナは重い溜息をつく。この少年は、本当に生き延びる術というものを持ち合わせていないのだな、と思った。
「……仕方ないわね……」
「え?」
なんでこんな事を言うのか、自分でもよくわからない。が、とりあえずこうでもしなければ、この少年は困るだろうな、とは思った。
だから、イリーナはこう提案した。
「ウチに来なさい。一晩だけ泊めてあげる」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お邪魔しまーす」
「いいから早く入りなさい、ほら」
カイトはそれを聞くと、ズカズカと部屋の中へと入る。
イリーナは表情では露骨に嫌な顔をしていたものの、実は満更でもないようだ。
(……なんか成り行きで入れちゃったけどよく考えたら結構危ないんじゃないのコレ⁉︎ コイツだってなんだかんだで男だし、寝込みを襲ってくる可能性も無きにしもあらずッッ……⁉︎)
「イリーナ?」
「ひゃあッ⁉︎」
彼女のいかがわしい妄想を打ち破るかのように、カイトは間の抜けた声を出す。彼はテーブルの上のカップラーメンを指差して、
「食べていい?」
「……図々しいわねアンタ」
「バイト終わってから何も食べてないんだよぉ……」
「ハァ、いいわよ別に。その代わりお湯沸かしなさい」
「わかった! イリーナありがと!」
そう言うと、彼は適当にヤカンを見つけ、水道水を組んで沸かし始めた。その手際の良さに、イリーナは僅かな驚きを見せる。
「アンタいっつもトロいクセに、そういうのはスピーディなのね」
「ウチのご飯関係はみんな俺の仕事だからね。自ずと速くなるさ」
ていうかこれくらい誰でも出来るよ、とカイトは笑いかける。
その笑顔にイリーナは思わず硬直してしまった。
それは、あの真っ暗な家庭で育ってきたとは思えない程優しい笑顔で。
見るもの全てを幸せにするような。
そんな。
そんな、優しい微笑みだった。
そして。
イリーナはこの瞬間、確かにこの笑顔を独占している。
他の誰にも向けられていない、自分だけへの微笑み。
簡単な、子供のような独占欲を、しかしそんな無邪気なものを欲していたのだと。
イリーナは、確かに確信していた。
――――――今まで本当の笑顔なんて、投げ掛けられた事が無かったから。
(ママだってアタシを厄介者扱いした。パパだって、あの馬鹿兄弟だって。アタシは一人だけ、いつだって邪魔者だった)
だからだろうか。こんなにも。
こんなにも、彼の笑顔が嬉しいのは。
中学校の同級生は、優しかったが上辺だけだった。イリーナを珍しがり、数週間すればすぐに飽きがきて。
こんなの、サーカスの客と何も変わらない。初めは興味を持つが、次第にどうでもよくなってくる。
所詮、イリーナはサーカスの猿と何も変わらないのだ。
だから、愛されることなんてない。
――――――が。
彼だけは、違う気がした。
「……か、カイト?」
「どうしたの?」
イリーナは静かにカイトに近付き、その袖を掴む。
「え、ちょっと? い、イリーナ……」
カイトは少し動揺した様子でイリーナを見る。一方、イリーナも恥じらいを捨てきれなかった。彼を直視出来ず、ただ俯く事しか出来ない。
「……あ、アタシ……その……」
なんとか言葉にしようと試みる。
まさか、という表情を浮かべるカイトを見つめるが、逆に声が出なくなった。
だが、イリーナはもう気付いていた。
心の奥底にある、自分の気持ちに。
(そうだ、アタシは)
この笑顔が。
誰にでも分け隔てなく接する事が出来るこの笑顔が。
けど、この瞬間まで自分で独占していられたこの笑顔が。
たまらなく。
そう、本当にたまらなく。
「あ、アンタの事が……‼︎」
「……!」
その瞬間――――――大きな物音がした。
「「⁉︎」」
二人は肩を震わせ、音のした方を振り向く。それはちょうど窓の外であり、二人は何か恥ずかしいものが込み上げてくる。
「…………」
「…………」
「…………えと、その…………」
「……お、お湯、沸いてるわよ」
「え? ってうわっ⁉︎」
いつの間にかヤカンは高い音を出しながら湯気を吹き出していた。カイトは慌てて駆け寄り、コンロの火を止める。
やがて音が消え、部屋を静寂が包み込む。カイトもイリーナも、ただ立ち尽くすしか出来ない。口を開く事も出来なかった。
そして。
「……俺、やっぱり帰るよ。なんか悪いし、さ」
「……そう。うん、わかったわ。また明日ね」
イリーナは笑顔を作る事も出来ず、ただ寂しげな顔を浮かべていた。そのままカイトが去るのを、黙って見ているしか出来なかった。