救出、そして敗北
死ぬ。
死なないワケがない。こんな高い防壁の上から転落すれば、どうなるかなど予測しなくても分かる。
だからこそ、レオは既に諦めていたのだ。目を瞑り、重力に身体を預ける。彼の脳内では、自分がいなくなった後、ヒツユがどんな反応をするのか。それだけしかなかった。
――――――しかし。
(……?)
ゆっくりと、レオは目を開く。腕の中には気を失ったネロ、いや真代がいる。恐らく落下時の恐怖に耐えられなかったのだろう。自ら命を絶つつもりでも、恐怖を感じないワケがないのだから。
いや、そんなことはどうでもいい。重要なのは、
二人が今、空中で静止している事だ。
「ッッ!?!?!?」
ワケもわからず混乱するレオ。真代に回した腕は決して緩めず、そのまま辺りを見回す。
何もない、上下逆さまの世界。二人は地面に頭を向けるようにして落ちていた為、視界も自ずと逆になるのだ。
空が下にあり、大地が上にある。そのうち頭に血が上り、少しクラリとする。
その時だった。
グッと、彼のペルシャ猫のような尻尾が握られた。
「ひにゃあッッ!!!」
想像以上の握力に、思わず変な声が出るレオ。真代に回した腕を離しかけるが、慌ててガッチリと抱き締める。
すると、レオの足元から声が聞こえた。
「ぐっ……大丈夫か……!?」
力を入れているのか、食い縛ったような声。
(か、カノンさんっ……!?)
そう、あわや二人が転落するかというところで、駆け付けたカノンがレオの尻尾を掴んだのだ。
彼は叫ぶように、
「今助けっからな!! ちょっと待ってろ!!」
そう言って、二人を引っ張り上げようとする。尻尾を握る手に必要以上の力が加わり、レオは全身をビクビクさせながらも我慢する。もちろん、真代は離さないようにしながら。
しかし妙だ。
いくら女の子と男の子だとはいえ、二人の体重を引っ張り上げるのは相当辛いはず。というより、無理ではないのか。カノンだって二人と一歳しか変わらない中学男子であり、実際そこまでの腕力も無いはずだ。
一体どうやって。
そんな事を考えていると、色んな意味で敏感な尻尾を力一杯握られていても、何となく忘れる事が出来た。そして考えがまとまる前に、二人は屋上まで引っ張り上げられた。
「お……らっ!!」
「うわぁっ!!」
ドンッ!! という轟音と共に、二人の身体は屋上の床に叩き付けられる。
ひとしきり苦痛に耐え、そして尻尾を少し顧みながら、レオはカノンの方を向く。
「あ、ありがとうございます……!! ホントに!!」
今の彼は、Tシャツに短パンといったありきたりな格好だった。が、何故かサンバイザーだけはちゃっかり装着している。こだわりなのだろうか。
そんな彼は少し苦笑すると、隣を指差しながら言う。
「俺は何もやってねーよ。お礼ならこっちに言いな」
「こっち……って」
レオはカノンの傍らにいる人物を見る。
背はレオと同じくらいで、赤い縞模様のランニングを着ている。下はいつものショートパンツだが、ソックスは履いていなかった。普段は上に胸元までのパーカーを着ている少女だ。
「ひ、ヒツユ……ちゃん……」
「…………」
そう、カノンが二人を助けられたのは、彼女のおかげなのだ。
二人を引き上げられたのも、彼女の腕力あってこそ。彼女はカノンの背中を引っ張るようにして、二人を引き上げていたのだ。
そして、そんな彼女はむくれたまま、レオを見つめる。少なくともいい表情ではない。アホ毛を不機嫌そうにピョコピョコさせながら、上目遣いで睨み続けている。
「……あの……ヒツユさん……?」
「……馬鹿……」
潤んだ声が聞こえる。
「え?」
そして。
ヒツユは唐突に瞳を潤ませ、頬を紅潮させながら、レオの胸の中へと飛び込む。
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!!! 死んじゃったらどうすんの!!! なんで危ない事すんの!!! この馬鹿!! お人好し!!」
「ヒツユちゃん……」
ヒツユは、レオの胸の中で叫び続ける。泣いているのだろう。
それは、今二人が味わったものとはまた別の恐怖。
居なくなったらどうしよう。
死んでしまったらどうしよう。
そんな類の。
「私……恐かった。レオ君がネロを助けようとして、ブレーキ利かなくて二人とも飛び出しちゃって……。カノンさんはすぐに飛び出して……でも私、一瞬どうすればいいのか分かんなくて……無我夢中で引っ張って……それで……それで……」
「……カノンさん、二人はどうして?」
「いや、ネロがいきなり大声出して飛び起きるもんでよ。それで部屋出ていって、気になるから付いていったら、何か知らねーけどヒツユも付いてきたってわけ」
「ヒツユちゃん……寝たふりしてたのか……」
レオはゆっくりとヒツユの頭を撫でる。
「……レオ君が、私の頬っぺたツンツンしたときに起きたけど……なんか悔しくて、そのまま寝たふりしてた……そしたら部屋出てったから、何かネロと待ち合わせでもしてるのかなって思って……後を付けようとしたら……」
「で、カノンさんと会ったんだ……」
ヒツユはくぐもった声で『うん……』と呟き、顔を縦に振る。その仕草に、レオは何だかいとおしくなってしまい、ヒツユの背中に手を回す。
「ありがと、ヒツユちゃん。君が居なかったら、僕達死んでたかも知れない」
「おいおい俺を忘れんなよ」
「ふふ、もちろんカノンさんにも感謝してます。ありがとうございました」
不機嫌そうに言うカノンに、レオは小さく笑って答える。カノンは溜め息をつくと、真代の方へと近付いていった。それを見届けたレオは再びヒツユへと向く。
彼女はゆっくりと顔を上げる。目が真っ赤になり、多少の嗚咽が聞こえてくる。それほどまでにレオを大切に思っていて、だからこそ泣いていたのだ。
「レオ君……」
「……何?」
「ネロと、どんな話してたの……?」
「……真代ちゃんはね、少しトラウマがあったみたいなんだ。……正直、僕は何かしてあげられたわけじゃない。結局、自分の理論を押し付けようとしていただけだ。だから……ヒツユちゃんは反対するかもしれないけど、僕は、真代ちゃんの為に何かしてあげたい」
「……そっか……」
ヒツユは俯き、呟く。
「……レオ君は……ちゃんとネロに対する接し方を考えてる。命を張ってネロを助ける勇気もあるし、いざとなったら死ぬこともいとわないよね」
次第に、聞くのが辛い声へと変わっていく。
「ネロも……今までずっと悩んでて……それでも答えが出せなくて、結局ああなった」
「ヒツユちゃん……?」
「でも……」
涙声が分かりやすいほど混ざってくる。再び嗚咽が入り、そして表情も見えなくなる。
「私は……ネロに対して……何もしてあげられなくて……」
「そんなこと……!」
「私が最初に気付くべきだった!! 最近ふとしたときにあんな表情浮かべてたし、なんだか空元気みたいな感じだったし!! それに一番早く気付けたのは、一番接してた私以外居ない!! それなのに私は……!!」
「そんなことないよ……!!」
二人の声は、次第に緊迫感が強まってくる。
「こんなんじゃ君の彼女になんかなれない!! ネロの方がよっぽど合ってる!! それなら私は、君にはもう会わす顔もな――――――」
「やめろッ!!!」
「――――――ッ!!」
初めてだった。
レオが、こんな命令口調になるなんて。誰よりも優しくて、誰よりも他人思いなレオが、こんな。
「……ごめん。でも僕、前に言ったじゃないか。君に死んでほしくないって。このままだったら君は、確実に死を選ぶ。思い込みが激しいっていうか、すぐに自分のせいにしちゃうから」
「…………」
「でも、もし君が死んで、僕が喜ぶと思う? 逆だよ。僕らがどんな関係になったって、僕は絶対に君には死んでほしくない。それは何があっても絶対だ。それは僕だけじゃなくて――――――」
途中で、レオは口はつぐんだ。
(……違う。違うんだ。僕が言いたいのはこんなことじゃない。僕は……僕は、)
腹をくくる。
覚悟を決める。
(僕は、この子の事をどう思っているんだ。それを、今まで伝えてきたのか? これじゃ、前に言ったのと同じじゃないか)
――――――別に、僕だけがそんなこと思ってるわけじゃないよ。
これは、ヒツユに対してレオが『死んでほしくない』と言ったときのものだ。結局あの時も、恥ずかしくて自分の気持ちを伝えられなかった。
――――――浴場にて、ヒツユが言った言葉。
『ていうか私は君の彼女だよね!!』
その時は、レオも勢いで頷いてしまった。いや、別に不満があったわけではない。しかしあくまで、あれは受け答えの一部であるといっても過言ではない。『~だよね?』と言われて、それにYESで返したに過ぎない。
(そうだ、僕はまだ……)
そう、自分の気持ちを伝えてない。
声に出してすらいない。
だったら、今言わなければ。
「……レオ君……?」
「ヒツユちゃん……黙って、聞いてくれる?」
「う、うん……」
ヒツユの了解を得ると、レオは彼女の肩を掴む。
涙目のまま、ヒツユは不思議そうな顔を浮かべる。
「ぼ、僕は……」
「?」
少し、怯みそうになる。
いや、何の事はない。両想いなのは分かっている。後は、口に出せばいいだけ。証明すればいいだけ。
だけど。
なのに。
「……いや、なんでもない」
言えなかった。
あれだけ言っておいて。分かってるハズなのに。
なんて小心者なんだ、とレオは心の中で悔やむ。
言えばいい。ただそれだけなのに。
ただ『好き』と。
それだけすら。
――――――小心者には、出来なかった。
レオの心を表すかのように、夜が悲しそうに静寂を貫いていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……ん」
目が覚める。
(あれ……? ウチ、死んだんとちゃうんか……?)
みんなに会えるのではなかったのか。
今の睡眠では夢すら見なかった。目の前には天井があり、横にはレオが座っている。
申し訳無さげな顔だ。
少なくとも、真代を励ましていた時ほど勇ましい顔ではない。
「レオ……たん……」
「……あ。目、覚めた?」
「ウチら……死んでるんと……」
「助けてもらったよ。カノンさんと、ヒツユちゃんに」
瞬間、真代はハッとしたような表情を浮かべる。
「……ヒツユにも、か。じゃあ、ウチの本当の顔、もう知ってるんかな……?」
「いや。物凄く悩んでた、ってだけしか言ってないよ。……言っていいか、分からなかったから」
「……そっか、ありがと……」
安らかな表情を浮かべる真代。
すると、レオは口を開いて、
「……ねぇ、真代ちゃん」
「ん?」
「君がその……ネロ、って名乗るようになった意味が、もしあるんだとしたら……教えてほしいな……」
静かに、囁くように。
レオは普段とは違う、落ち着き払った調子で聞く。
「……勘が鋭いな。確かに、ウチはそのアダ名に意味を作ってた」
彼女はレオを直視せず、真っ直ぐ天井を見つめて話す。
「ウチはな、新しいウチになりたかったんや。昔の事悩まへんで、全部忘れた、新しいウチに。そんなとき、相部屋で一緒になったのがカノンや」
「確か、カノンさんの本名って……」
「狩野紫音。アイツは人の事アダ名で呼びたがるクセがあってな。今はそうでもないけど……とにかく、ウチにアダ名をつけようとしてた。ココとか、まっしーとか、女子かって思うたで」
「ハハ……」
レオは小さく笑う。だがそれは、妙に切なげな笑みだった。
「でも……アダ名つけてもろて、んで元の名前捨てれば、新しい自分になれる思たんや。それから、ウチも一緒に考えて、最終的にネロになった。前にレオたんが言った通り、結構気に入ってたんや。何だか言うの恥ずかしゅーて、本名言ってしもたんやけどな」
「あ……」
「ま、そんなとこや。ちなみに昔を思い出したのも、こんときからや。本名言うてもーて、なんやかんやで忘れられへんかったんやろな。……別に、レオたんのせいってわけやない。自分が原因や」
真代は、自嘲気味に笑う。
「こんなもんや。こんなくらい、この施設にいるやつなら余裕で抱えてる。だから……別にウチだけが、ってわけやないで」
「……で、でも……」
「それにしてもさっき。結構イチャイチャしてたやないか」
「ッッ!?!? み、み、見てたの……!?」
「気を失っとるふりしとった。ま、レオたんがコクろうとしたとこくらいからやけどな」
「よりによって肝心なところを……っ!!」
「ふふ。……レオたん、言うてまえや。もう何も恐がることない。両想いは確実やろ。はよ言うてしまえ」
「え……?」
レオは信じられないといった顔をした。
当然だろう。
何故なら昨日まで、目の前の少女はレオの事を好んでいたのだから。
ヒツユと、取り合いをしていたのだから。
「……別に、ウチはレオたんが好きなワケやない」
「……!」
「新しいウチを作ろうとした過程として使っただけや。あんだけギャンギャン喧嘩しとけば、嫌でも新しいウチが身に染みるやろ。だから……別に、レオたんは……」
少しだけ、口をつぐむ。
が、すぐにレオの方を向く。
「いや……レオは、ヒツユを好きになってええんやで?」
「そ、んな……真代ちゃん、じゃあこれから君は……」
「真代ちゃん、ちゅーのもやめーや。ウチは真代ちゃう、ネロや。関西弁でうるさくて、でも憎めないカワイコちゃん、それがネロや」
そう言って、彼女は笑う。
この瞬間から、彼女はネロだ。真代ではない。
「……ネロちゃん。君は、真代ちゃんを捨てるの?」
「捨てるんやない、忘れるんや。でも、いつか思い出せたらええと思うとる。いつか大きくなって、大人になって……また細々と音楽やって、そんなときにふと思い出して。それで、自分を責めるんやなくて、仕方無いって思えるようになれば。それだけで、皆は満足してくれると思とんねん」
既に彼女は、答を見付けていた。
だが。
それは確かにレオが言った意見も取り入れられており。
それを兼ねた上での、彼女にとっての最善の選択だった。
「……いいと思う。すっごくいいと思うよ」
「そうやろ? ……ふふん、でもまだ良い策があんねん!」
もう、既に彼女は元気だった。
ネロに、なりきっていた。
「なに?」
レオは、微笑みながら、聞く。
「レオ! 大人になったら、ウチとバンド組むんや!!」
笑顔のまま、レオは硬直してしまう。
なんだって?
いきなり何を言うんだ、この子は、と。
「な、なんで……」
「レオは可愛いから男からも女からも人気が出るに決まっとる! これを活用しないワケがないやろ!」
「男から人気とかやだ!! しかも可愛いとか!! 冗談じゃないよ!!」
「ええやろ別に!!」
「よくない!! っていうか大人になったら今みたいにはなってないよ!! 背が高くて、男らしくて……!!」
「んなわけあらへん。レオは将来、確実に女になる」
「自然性転換!?」
レオはとんでも過ぎる彼女の意見にツッコんで行くが、彼女が止まる気配はない。なんでもかんでも、勝手に決まっていってしまう。
「曲作って大ブレイクして印税入って大金持ちや!」
「がめついよ無駄に!!」
「作詞作曲はレオやけど名義はウチやからお金はウチなー」
「完璧にタダ働きなんだけどどうなのコレひどい!!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
パタン、と扉が閉まる。
レオは出ていき、カノンも邪魔はしたくないといって出ていった。恐らく、レオ達の部屋に行ったのだろう。アミに何か悪さしていないか心配だが、そうも言ってられない。
「……ハァ……」
大きな溜め息をつくネロ。くるむように毛布に潜りながら、モゾモゾと落ち着きなさげに動く。
「……ウチ……疲れてんのかな……あんなお人好しやなかったはずやけど……」
レオには、もう好きではないと話した。
恐らく彼はヒツユだけを見定め、近いうちに自分の想いを伝えるだろう。
だが。
なんだか、胸の奥がはち切れそうだ。
「……嘘つくのは、嫌いやったのにな……結局、譲ってしもた……」
誰にも聞こえない声で呟く。
「争奪戦……ウチの負けやな、ヒツユ」
想いを堪えてでも。
それでも、彼には幸せになってほしいから。ヒツユなら、きっとそうさせることが出来るから。
……自分はもう、救われてしまったから。
だからネロは何も考えないように、瞳を閉じる。
が。
そこから透明な水滴が滴り、ベッドを濡らしたことは。
彼女自身、気付いてはいなかった。
――――――気付かない方が、ずっと幸せだから。