ネロの過去
暗い。
ここは、どこだろう。
何もない。どこか高い所にいるようで。
と。
不意に、目の前がパッと明るくなった。沢山の光が、彼女の前に現れたから。
棒状の光だった。それも何千、何万という数。じきに、それがペンライトの光だと気付く。
色とりどりの光。いつか出会った光景に、少女は少したじろぎ、一歩後ずさる。
すると、後ろからも光が生まれる。それは、ステージの照明だった。そこにはドラムとベース、ギターがあった。
そして。
その傍らには、懐かしい顔。自分と同年代の、少年少女達。
しかし、それら全ては、急に闇に戻ってしまう。いつしか照明も、ペンライトの光も無くなる。
再び、真っ暗な闇に独りきり。孤独に胸が押し潰されそうになり、それはすぐに恐怖に変わった。
と、その時。
足音が聞こえる。人ではない。人外の、そう、化け物だ。
カルネイジと呼ばれる、全てを破壊する怪物。
ここから姿は見えない。というより、彼女は薄々勘付いていた。
背後から、迫ってきている。少しずつ、少しずつ。
なのに、彼女は逃げる事が出来ない。まるで何かに押さえ付けられたかのように、微動だに出来ない。
獣の、生臭い吐息が聞こえてくる。それでもなお、動けない。
彼女の身体は、ブルブルと震えていた。右腕を押さえて、ただ怯えるだけ。
そして。
怪物の牙が、少女に襲い掛かる――――――!
「っああああああああああああああああああッッ!!!!!」
不意に、視界が鮮明になる。怪物の吐息は、微塵も感じられない。
「ハァ……ハァ……」
激しく呼吸を繰り返す。肺に酸素を送り込み、嫌なものと共に二酸化炭素を吐き出す。
ゴクリ、と生唾を飲み込んだ。
赤い髪をそのまま垂らせたネロは、静かに胸に手を当てる。
動悸を繰り返す心臓。ただ、その周期は、速度は、明らかに速くなっていた。不安に満ちた身体の全体に、血液を送り込もうとしている。
いつも快活な少女は、今だけは、か細い声で震える、ただの子供だった。
「……なんでや……」
ギッと歯を食い縛り、毛布を握り締める。
いつもなら力強いその両手は、微かに震えていた。
「なんで今更……こんな夢……!!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
同時刻。
壁一つ隔てた、隣の部屋では。
(……寝れない……)
心の中で、小さく呟くレオ。彼は今、ベッドの中で縮こまっていた。
といっても毛布には触れてすらいない。何故なら、ヒツユに全て奪われているからだ。
(なんとかベッドは用意してもらったけど……部屋が狭くて二つしか置けないなんて……)
お陰でこのザマだよ、と囁く。
元あったベッドではアミが眠り、新しく入ったベッドではヒツユとレオが寝ていた。しかしヒツユは思った以上に寝相が悪く、寝ている間に毛布を全て奪われていたりするのだった。まさかそこから奪い返すワケにもいかず、結局床で寝るのと対して変わらない状態になっていた。
(いや他の人なら奪い返したりも出来るんだろうけどまさかこの僕が彼女であるヒツユちゃんの毛布を奪うだなんてそんな恐れ多いことをそんな出来るわけがうんたらかんたら)
どうせ猫のカルネイジの力があるなら体毛も生えてりゃいいのに、と半ば本気で考えてしまうレオ。一瞬毛がもっさりと生えている自分を想像し、少し頭痛を感じる。
(……うー、ネロちゃんのとこに行っちゃおうか……ってイカンイカン。そんなふしだらで破廉恥なことをするわけにはいかないぞいくらなんでも見境無さすぎか僕)
それとも眠る事が出来なくて頭がおかしくなったのか。というより何故真っ先にネロちゃんのベッドを考えた。と自分に対するツッコミが次々と浮かび上がってくる。
(……喉渇いたなぁ……っていうかトイレに行きたい。お腹も減ったし……徹夜は負担が大きい……うぅ……)
もちろん夜食などあるはずもない。現時点で出来るのは水分補給とトイレだけだ。
とりあえず部屋から出ようと、ゆっくりと起き上がるレオ。ベッドの上に座り込んだ彼は、ふと傍らの少女を見つめる。
「……むにゃ」
「可愛いなぁ……毛布さえ取らなけりゃもっと可愛いんだけど」
いたいけで、無垢で幼い寝顔。同い年のハズなのに、自分より幾歳か下に見えてしまう。
あどけないその表情に、レオは顔が火照るのを感じる。なんだか気になってしまい、思わず頬を人差し指でつつく。
「にゃ……? むぅ……ぅ」
「あっ、起こしちゃ……ってない、ね。良かった……」
少しだけホッとしたあと、レオはベッドから降りる。裸足のまま、忍び足でドアを開く。
が。
「っ……あ!!」
「ヒィッ!?」
何かに恐れるような声に、レオは視線を移す。それは、姉の呻き声だった。
(……嫌な夢でも見てるのかな……?)
起きてはいないようだ。壁に向かい合うように寝ているため、こちらから表情は伺えないが、起きたのならばこちらへ意識を向けるはずだからだ。
少しだけ安堵を覚え、静かに靴を履いてから部屋を後にする。音を立てないようにドアを閉め、背をつけて溜め息をついた。
その時。
「レオたん……?」
「ヒィッッッ!!!?」
思わず肩を跳ね上げる。が、その声の主がネロだと分かると、安心したように振り向く。
「なーんだ、ネロちゃんか。なんでこんな遅くに……って」
その瞬間、レオは何か違和感を感じた。
それは、目の前の少女の印象が明らかにおかしいこと。そして、驚く程それに普段とは別の魅力があったということだった。
何しろ今のネロは、髪を縛ってツインテールにしておらず、そのまま垂らしていた。瞳にはあまり活力がなく、何か思い悩んでいるようだった。いつものうるさいくらい活気に包まれた彼女とは、大違いだった。
寝起きだから仕方無いだろう、とレオは割り切る。流石に起きた瞬間から元気100%、なんてことはないはずだ。
しかし、彼女の思い詰めた表情からは、ただならぬ雰囲気を感じた。
「……ネロちゃん、どうしたの? なんか元気ないみたいだけど……眠いだけ?」
レオは静かに問い掛ける。
すると、ネロは目を俯かせ、
「……ウチ……ウチは……」
グッ、と。
気付けば、彼女はレオの袖を握っていた。指が震えるのもそのままに、力を込める。
「ネロちゃん……?」
訝しげな表情を浮かべるレオ。少しかがみ、悲しげな少女の顔を覗き込もうとしたところで。
――――――ネロに、力一杯抱き締められた。
「……え。ちょ、ちょっと!?」
「怖い……!! ウチ、どうしたらええかわからんくて……!!」
それは、レオにしがみつくような。支えが無いと押し潰されてしまいそうな、そんなハグだった。レオの背中、そして腰に手を回す。戦慄するような恐怖から逃れるために、彼にしがみつく。
いつの間にか、レオの腹部は濡れていた。それは、確かにこの腕の中の少女によるものだ。絶え間無く溢れる涙に、レオは驚いたような顔を浮かべる。
「ど、どうしたの……? なんで、そんないきなり……」
「……助、けて……」
「え?」
ズルズル、と彼女の頭が下に降りていく。そしてゆっくりとこちらに向けられた顔は、泣きはらした跡で真っ赤になっていた。唇は震え、その瞳からは涙が溢れてきている。滴るそれもそのままに、ネロはひたすら、レオの事を真っ直ぐに見つめる。
「……来て。ウチの話……聞いてほしいんや……」
「う、うん……」
ネロはそのまま、レオの腕を引っ張る。彼はなすすべもなく、そのまま連れていかれた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……綺麗、だね……」
頭上を見上げながら、思わずレオは呟く。
目の前にあるのは、間違いなく満点の星空だった。雲一つ無い澄んだ空に、星たちがそれぞれの輝きを放っている。遠くには青白い月も見えて、なんともロマンチックな雰囲気だった。
「……ここはな、発電搭防壁の屋上なんや。下見てみい、すんごい高さやろ」
「へ? ……ってうわああああああ……すっご……」
手すりもない、何にもない崖の下を、レオは眺める。
そこから見る風景は、自分がちっぽけな存在なんだと痛感させるほどのスケール。何百メートルあるのだろう。いや、もはや何キロの単位まで行くのかもしれない。
それほどの高さ。距離感すら曖昧になり、途方もないとしか言い様のない程の大きさに、レオはただただ驚愕していた。
「っと。話……って、何? ネロちゃん」
レオが後ろを振り向く。ネロは相変わらず元気がない様子で、裸足にネグリジェのまま、冷たいコンクリートの上に体育座りをしていた。
レオはそれに僅かな違和感を覚えるも、気にせずに隣に座る。もちろん、同じ姿勢で。
「……ウチな、最近夢見るん」
「夢?」
「せや。最初は観客がたくさんいて、広い場所に立ってるんや。マイク握って、後ろでは同じグループのメンバーが楽器持って」
「……?」
聞き慣れない単語に、レオは首を傾げる。今までこんな話は、一度も聞いたことがない。
ネロはその長髪をそっと後ろに払うと、暗い顔で続ける。
「でも、すぐにみんないなくなる。ウチを置いて、暗闇の中に消える。代わりに現れるのは――――――あの、化け物や」
「カルネイ、ジ……?」
「でな、食い殺されそうになる。後ろから近付いてきて、あわや喰われるか、ってところで目が覚める。ここんとこ、ずっとそんな感じや」
グッ、と。
自らの膝を抱え、ネロは縮こまる。
「……ウチな、カルネイジが発生する前から、バンド組んでたんよ。バンド……っつっても、周りはみんなアイドル扱いしてたがな」
「バンド……!? すごいね!」
「なーんも。人数集めて楽器買って歌うだけや。ウチらは幼なじみ四人で組んでて、まぁ時間掛けながら自由にやってた。それが……小学生の頃やったかな?」
「小学生から……別の意味でスゴいね……」
半ば呆れ気味にレオは呟く。
「んなこといったって、最初は集まって音楽聞いて盛り上がってただけや。ホントに音楽始めたのは、去年のことなんや。そんときは選ばれた奴らは既に『空中庭園』に飛んどって、ウチらは……ま、あぶれただけってことやな」
『空中庭園』に乗れる人間は、基本的に優先枠と通常枠に分けられていた。
優先枠は、国のために必要な研究者、大臣……といった、所謂お偉方たちの為のもの。
通常枠は、券を買って当選した者だけが入れる、国民の為のもの。と言ってもその当時は、隠れて乗り込む者も少なくなかったというが。
そしてネロやレオ、アミやレンといった人間達は、当選しなかったか、またはタイミングを逃したか。券を入手出来なかったという者もいる。そんな、外れた人間達は、地上に残ることになったのだ。
「んでもって、ウチを含むバンドの四人はみーんな外れた。カルネイジから逃げて逃げて逃げまくって、一応は安全な場所を手に入れたんや。地下に造られていた、都市計画の残骸や言うたかな?」
今のところ、彼女の精神は安定している。が、いつまた泣き出すかも分からない。レオは、それだけの心構えはしていた。
「地下街も出来る予定やったらしくてな。ま、楽器屋さんもあったんやろ。ギターやら何やら、欲しいものがあったわけや。それらを使こうて、ウチらは皆を元気付けようと曲を作ってたんや。結構広いとこやったから、聴かすことも出来た。皆喜んでくれはって、ウチはもう音楽を生き甲斐にしようと思うとったんや」
「良いことだよ。でも、なんでそれで……」
「……こっからや。最悪やったのは……」
ネロは再び暗い表情を浮かべ、その先を話し出す。
「その日も曲を作ってな。皆に聞かしたろ思たんや。で、皆集めて、いつもの広場で歌ってた。でも……」
グッと歯を食い縛るネロ。どうやらここから、彼女にとって辛い話らしい。
「カルネイジが入ってきたんや。ウチらが歌ってる最中に」
「――――――!!」
「多分音を聞き付けてきたんやろ。なんで今まで来なかったのか不思議やけどな。……で、皆殺された。観客も、バンドのメンバーも。ウチは……ウチは……」
ポタリ、と。
彼女の膝に、雫が滴る。溢れんばかりの涙が、堰を切るように飛び出してくる。
「……皆見捨てて……恐くて……ウチだけ、逃げたんや……! 死ぬんが恐くて……メンバーが死んでくのを目の当たりにしてても……一人で……逃げたんや……!!」
レオは、何も声を掛けられなかった。咄嗟に、何も出てこなかった。
そのまま、ネロは続ける。
「けど……結局、追い付かれそうになって……一回腕を噛まれたんやけど、何とか逃げおおせた……」
そう言って、彼女は袖を捲って右腕を見せる。いつもは赤黒縞模様のロングサポーターに隠れているため、見ることのできない場所だ。
「……っ」
レオは思わず両手で口を覆う。
そこには、痛々しい傷跡があった。鋭い牙で噛まれたような、そんな跡だった。
「それからウチはここに匿ってもらった。後から聞いたんやけど……ウチ以外、あそこにいた人間は死んでた。たった一人の生き残りもおらんかった」
袖を再び戻してから、彼女は囁くように言う。
「……ウチが、殺したんや」
もう一度涙を浮かべる。肩を震わせたまま、下を向き続ける。
しかしすぐに、その場から立ち上がった。
「……話聞いてもらえてよかったわ。もうええ。戻ろか」
そう言って、彼女は来た道を引き返そうとする。
「…………っ」
レオは、最初からネロの事を図々しい女の子だと思っていた。彼女持ちのレオに、あたかも痴漢まがいの事をしでかすし、挙げ句の果てにはヒツユと喧嘩をしだすし。
でも。
もしもこの少女が、思ったよりも繊細だとすれば。
あの日の悲しみを忘れようと、必死になって図々しい虎々音真代を演じてきたのだとしたら。
やがてそれが本当の――――――ネロになる日が来ると、信じていたら。
そんな意味で、ネロなどというアダ名を使っていたのだとしたら。
「……ネロ、いや……真代ちゃん」
「え? 今なんて……」
「真代ちゃん。そう言ったんだ」
「……!」
ネロ――――――真代は、信じられないというような顔をしてみせた。
「ねぇ真代ちゃん。君は今、自分が皆を殺した、なんて思ってるよね」
レオは彼女を真っ直ぐに見つめ、話しかける。
「でも、そんなことないよ。殺したのは君じゃない。カルネイジだ。矛先を自分に向けないで」
「で、でも……ウチがあんなことしなければ……!」
「しなくたって、どっちみち襲われていたかもしれない。僕はそうなるところを、自分で体験したんだ。いくら安全だと思ってても、奴等は嗅ぎ付けてくる」
そうだ。
あの時の隠れ家だって、あの鳥型カルネイジに見付かっていた。
「事前に準備をしていたのかもしれない。それがたまたま、君が歌っていた最中に飛び込んできたのかもしれない」
「んなワケないやろ。音を聞き付けてきたに決まっとる」
「偶然、っていうのを信じないタイプじゃないよね、君は。むしろラッキー、だなんていうような性格だ」
「え……」
「だったら、なんで君は全部抱え込むの? なんで自分が悪いって、そう思っちゃうの? 偶然だったって、だから仕方無かったって、どうして思えないの?」
「逃げだしたからや。もしかしたら、救えてたかもしれへん。ウチが見捨てへんかったら、もう一人でも救えてたかもしれへんかったんや!!」
真代は叫ぶように言う。何もない虚空に、彼女の悲痛な声が溶ける。
「そうや……ウチだって死んでしまえばよかったんや。奴等に食い荒らされておけばよかったんや!! そうすれば悩むこともない、あの世で皆に詫び入れられたんや!!!」
「そんなのダメだ!! 君が死んだって、死んだ人達は絶対喜ばない!! むしろ悲しむに決まってる!!」
レオも叫ぶように言う。ここで引き留めなければ、彼女は一生後悔する。
すると、真代は何かを思い付いたように、
「あ。……じゃ、確かめてみればええんや」
「え?」
瞬間だった。
真代は、真っ直ぐに駆け出した。そう――――――防壁のその向こう、何もない虚空へと。
「なん……っ!?」
信じられなかった。
彼女は、こんなことをする人ではないと。
心の何処かで、感じていたから。
だが、それも。
真代ではなく、ネロの側面だったのだ。
レオが思った以上に真代の闇は深く、そして重い。
「真代ちゃんッッッッ!!!!」
音速にも等しい速度。歯止めの利かない速度で、レオは駆け出した。
彼女が落ちるまであと三歩。
二歩。
一歩――――――
(届……っけ……!!!!)
その手が、空を泳ぐ。
真代の腕を――――――掴んだ。
(やった……!!)
――――――が。
「……え」
二人の身体が、虚空へと飛び出す。
歯止めの利かない速度。
そう、だからレオには止められなかった。自身のスピードを。
「レ……オ……たん……っ!!?」
「やば……」
二人は、お互いの身体に腕を回す。
力を込めて、瞼を瞑る。
それは、何か考えて行動したわけではなく、本能的な何か。
そう、まさに恐怖。
二人がこれまでに味わったモノとは、また別の種類の。
(……ヒツユちゃんが見てたら、また浮気だって騒ぐかな……)
どうでもいい考えが浮かんでくる。
それほどまでに、どうしようもない状況。
二人は、重力に身体を預けてしまった。