平穏? な日常
そして、ヒツユは勝利の確信に酔いしれていた。
(ネロは私がお風呂の場所知らないと思ってるだろーけど……)
確実に目的地へと近付きながら、彼女は薄ら笑いを浮かべる。
(実は事前に把握してるんだよね。アミがそういうところ気にしてたから、ちょっと案内図みたいなの見つけてたし)
そう、ヒツユはネロ達と会う前、もっと言えばあのエレベーターに乗る前に、予め風呂の場所を把握していたのだ。元々はアミが『お風呂の場所とかトイレとか、事前に知っといた方がいいよね~』とこぼしていた為である。
そして二人は案内図を探し、風呂の場所を突き止めた。その他諸々の設備も、何気なく確認済みなのである。
「ここかーっ!?」
ヒツユが感嘆の声を上げる。
そこには二つに別れた入り口と、分かりやすいような男性、女性のマーク。間には地図記号などでよく見るような、温泉のマークが付いていた。
「……ん、待てよ? お風呂イベントも何も、お風呂は性別ごとに分かれてるんじゃ……?」
そこでヒツユは首を傾げる。
風呂なのだから当然、浴場も別々のハズだ。ならばネロは、何をもってして『風呂イベント』と狂喜の声を上げたのだろうか。
(ていうかそもそもこんな場所で何をする気なんですか実際何をするかなんて全く考えてなくてただただ憎き赤バチ女の先を越せることだけを考えていていやそのえとあの)
急に冷静さを取り戻すヒツユ。そして次に恥ずかしさが来襲し、彼女は頬を真っ赤に染める。
(風呂イコール裸イコール……くわあああああああああああああああああああああああ私は何を先走っていたんだバカかアホかマヌケか!! もしそういう風になるシチュエーションが起こるとしても私はそれをレオ君に対して決行出来るのか!?)
ブンブンと首を横に振るヒツユ。廊下の壁に額を押し付けながら、彼女はゆっくりと項垂れる。
(否、出来るわけがないであろう。大体私はアミのような豊満な胸も持っていなければイリーナのようなお姉さん成分も含んでいないのだ。あぁどうすればいい私。というよりそもそもそんなことをしてはレオ君に嫌われるのではないか?)
真剣に考えすぎて頭の中の文章が丁寧極まりないものになってしまっている。壁に顔を近付けながら『うぅ……あぅ……』と呻いている彼女は、通りすがる人から見ればまごうことなき変人だろう。
(絶対嫌われるに決まってる。いや、でも私はレオ君の彼女だし多少はドキドキしてくれて良い感じの雰囲気になってくれるんじゃないかなでもネロみたいな色気重視タイプが現れたんだからレオ君もちょっと揺らいでんじゃないのかなあぁもうどうすれば!!)
すると、男性用の脱衣場から聞き慣れた少年の声が聞こえた。彼は叫ぶような声で、
「聞いてないですよふざけないでください混浴とかホント無理ですよぉぉおおおおおおおおおおおおおッッ!!!」
その声でヒツユは確信を持つ。
(やっぱしレオ君居るんだ……どうしよう、どうすればレオ君は喜ぶかな……!? ていうか混浴なんだ……)
ふと、彼女は数週間前の事を思い出す。ヒツユがレオ達三人と出会ったその日に、彼女はシャワーを浴びた。その時、たしか彼女は全裸のままレオの視線に触れたハズだった。
あの時の私はなんて無神経だったんだ、とヒツユは壁に額を打ち付ける。
いつからだろうか、こんなに恥ずかしさが出てくるようになったのは。レオに対してだけ、色々と気恥ずかしくなってしまっている。
これもやはり『恋』のせいか。レオが好きだから、こんな感情に駆られるのだろうか。
生唾を飲み込み、そっと彼女は溜め息をつく。
(……こんなこと、知らなかったよ。地獄みたいな実験から解放されて……初めて気付いた)
あんな生活が続いていれば、こんな感情は芽生えてこなかったのだろう。このもどかしいような、胸を締め付けられるような感じ。
あの時とは大違いだ。血みどろの汚い部屋。いつも何処か失っていた自分。腕の日もあれば、脚の日もある。死ねない自分が、本当に嫌だった。気付けば首に鉄の輪を付けられており、抜け出すこともままならなかった。
絶望だけの生活。未来も見えない、過去も思い出せないような自分。
目的すら分からず、身体を切り飛ばされる毎日。思えば、何故あのような目に遭っていたのか。それすらも分からない。
(助けて、っていうのも諦めてた。痛くなければ、後はどうでもいいと思ってた)
――――――どうもこの事を考えると口の中で嫌な感じになる。喉がカラカラになり、自分が自分じゃなく思えてきて。
何故、解放されたのだろう。
何故、助かったのだろう。
頭が空っぽになるような感覚に飲み込まれる。目の前が揺らぐ。息遣いが荒くなる。
(考えなくていいのに、考えちゃう。こうして気分が悪くなるのも知ってるのに、なのに)
「なんや、おじけついたんか? レオたんはウチが頂くでーっ!!」
不意に、声が聞こえた。ヒツユは首を巡らせる。
そこには、今まさに脱衣場に飛び込むネロの姿があった。
「……………………………………ちょ、待てやゴラァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
突如として叫び出すヒツユ。余計な事を考える間に、圧倒的優位だった差は縮められてしまっていた。
彼女は何も考えない。慌てて立ち上がると、息つく間も無く脱衣場に飛び込んでいく。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……おい、前向けよ。目の保養にならないべや」
「カノンさんだけ見てればいいじゃないですか!! 僕は知りませんよっ!!!」
うわの空、と言った調子で女性達を眺めるカノンを軽蔑するように、レオは喚き散らす。
浴場は広大な長方形の部屋であり、壁に沿うように膨大な数のシャワーが設置されていた。浴槽は幾つもあるわけではなく、これまた長方形の巨大な湯船が真ん中に一つだけという感じである。温度は少し高めだが、誰でも丁度良く入れるくらいだった。
ところで、いくら混浴と言えども、男女(主に女性の方だが)には絶対的な距離がある。この長方形の浴場を半分にするように、女性達は何かしら監視の目を向けている。当然と言えば当然だが、これには『半分から異性の領域に入ってはいけない』という暗黙の了解的な意味が含まれているのである。
が、そもそも仕切りのようなものがあるはずが無いため、見るだけなら好き放題出来るのである。この時間帯は人が少ないが、それでも朝風呂を習慣にしている女性は多い。それを見計らった男性も、何人かいるようである。
「知ってっか、レオ? この時間帯は美女が多いんだぞ……あぁ、天国……」
「知りませんよっ!!! 破廉恥にも程がありますっ!!!」
「く~この光景も明日から見られなくなるのか~……残念」
「残念じゃないですよっ!!」
レオはふてくされたように、男性側の誰も居ないシャワーを見つめる。
(あー……なんでこんなことに……)
濡れた黒髪から、ポタポタと雫が落ちる。彼の黄色の瞳は、ポケっとしたように何の色にも染められてなかった。無心を心掛けようと、ひたすら心の中を削除しているのである。腰に巻かれたタオルからはみ出す黒い尻尾は、お湯に濡れたまま湯船の中を漂っていた。
(もうカノンさん置いて上がっちゃおうか……いや、でもなんか失礼じゃないかな……こんなでも年上っぽいし……)
他人に対する気配りはそれなりに出来る……というより自分の意見を主張出来ない彼は、常に他人と合わせるような節がある。そのため、いつも誰かに引っ張られっぱなし、ということが頻繁にあるのだった。
つまり、レオは迂闊にさっさと上がることも出来ない。猫耳をプルプルと震わせながら、カノンが上がるのを待つしかないのだ。
(無心無心。とにかく無心。何も考えるなー……何も考えるなー……)
彼は常にそう意識している。
だから、気付けない。何者かが、彼の後ろを取ろうとしている事に。
(そうだそうだ……女の人の方を向かなきゃいいんだ……向かなきゃ……って)
「レーオーたーんー♪」
その瞬間、彼の何かが崩壊した。
「ひにゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!?」
「『ひにゃあああああああああああ』やて、可愛い♪」
心臓発作が起こるかと思った、とレオは半ば本気で思い浮かべた。
そう、彼に近付いたのは、
「ね、ネロちゃん……にゃんでここに……!?」
「ろれつが回ってないでー、レオたん」
例の赤バチ少女である。
ただしここは浴場なので、もちろん彼女は赤いハチのような格好はしていない。普段はツインテールにしているその赤みを帯びたロングヘアーを、頭の後ろで縛っている。胸から下はタオルを巻き、最低限わきまえた格好をしていた。
が、彼女は本来越えてはいけないラインを越え、男性の領域に踏み込んできたのだ。しかも、現在はレオに後ろから抱き着いている。そのタオルを巻いた華奢な身体を、レオの身体に寄り添わせているのである。
「あ、あたあたあた……当たってるって!! アレ!!」
「そら当ててんねん当然やろ。なんや~? タオル越しなのにもう興奮しとるん~?」
「そういうんじゃなくて……!!」
ニヤニヤと悪戯笑いを浮かべながら、ネロは上半身をグイグイ押し当てる。その光景を呆れたように見ていたカノンは、
「大してデカくないクセにな」
と、指摘した。
「余計なお世話や!!」
「そういうのは乳はデカい人がやって初めて価値があるものであって、お前がやっても意味は無い」
「余計なお世話言うとるやろこのデクの棒が!!」
「男は背が高い方がモテんだよ。ま、低身長貧乳ツルペタで高慢チキよりはマシっしょ」
「ブチ転がすでエロノッポ」
そして、ネロとカノンの間で一触即発の睨み合いが始まった。レオの身体から離れたネロは、そのままカノンに飛び掛かるかのような雰囲気を醸し出していた。その光景を尻目に、レオはゆっくりと離れていく。
……つもりだったのだが。
「ッ!?」
そこで、レオは恐るべき光景を目にしてしまった。
なんと。
だんだんと、少しずつ、何かが近付いてきているのだ。それは人ではなく、ましてや動物なんかではない。
アホ毛だ。
ピンと立ったアホ毛が、水面に降り立ったまま、こちらへ滑るように移動してきている。
「ど、どういう……事……!?」
レオは頭が混乱したまま、フラフラと尻餅をつく。某サメに襲われる系のパニックホラー映画のようなBGMが、レオの脳内から流れだしていた。
……なんてファンタジックな事になるはずもなく、レオはすぐに正体を見破る。
「……じゃなくて。何やってんの?」
レオが呆れたように呟くと、そのアホ毛の下から茶色の物体が浮かんできた。それが髪だと気付いた時には、既に彼女は水面から顔を出していた。
「……ブクブクブクブクブクブク」
「……ヒツユちゃん。鼻から上しか出てないから何いってるか分かんないよ」
そう、アホ毛の正体はヒツユである。彼女は潜水艦の如く湯船の中を潜水し、レオの元まで接近してきたのである。
と、ヒツユは頭を完全に水面から出す。
「だって……恥ずかしいから……」
「何が?」
「その……お風呂だし……裸だし……ツルペタなおっぱブクブクブクブクブクブクブクブク」
最後の言葉が聞き取れず、首を傾げるレオ。だが、大体伝えたい事は分かった。
「……だったらなんでこっちまで来るの? 僕そういうのホントダメだから、出来ればこの時間中は接近してほしくないんだけど……」
「ブクブクブク!!! ブッ、ブクブクブクブクブクブクブクブクブクブクブクブクブク!!!!」
「分からん」
「ぶはっ。だっ、だから、ここでアプローチを掛けておかないと、あの赤バチ女にレオ君を取られちゃうから……!!」
「………………!!」
と、レオはここで思わず息を呑んだ。
自らの身体的コンプレックスにも屈せず、想い人であるレオのため、恥を忍んで潜航してくる少女。しかもその結果、アホ毛をピョコピョコさせながら分かりやすい感じになってしまっている。
総じた結果、レオの評価は、
(か、可愛い……可愛過ぎて鼻血噴出レベル……!!)
そして文字通り、真っ赤に染まった液体が湯船に溶ける。放心状態で仰向けになったままお湯に浮かぶ彼を、ヒツユは慌てて助け起こした。
「だ、大丈夫?」
「ふにゃぁあああー……死ぬ、萌え死ぬ……」
ボーッと呆けたまま、レオはヒツユに覆い被さるような感じで身体を預ける。ヒツユは少しにやけたような表情を浮かべていた。
が、唐突に、
「レオ君……何か……」
「にゃあ……?」
「何か……当た」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!」
慌てて飛び退くレオ。そしてタオルを巻いているにも関わらず下半身を隠しながら、
「すっすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんホントすいませんいや別にやましい気持ちがあったわけじゃなくてというかそもそもネロちゃんとかにもアカン事されかけてホントなんというかすいませんもう近付きませんごめんなさい!!!」
「……いや、別にいいんだけど……うーん」
ヒツユは何故か意味深な表情を浮かべる。まるで何かを考えているような、そんな表情である。
「あのすいません僕が言うのも何なのですがこれを期にネロちゃんみたいな身体を張ったアプローチとかそういう路線に変更するのはちょっと僕の精神力と世間体的な問題で勘弁してほしいのですが別にそういう考えはしてません、よ、ね……!?」
「……ん。あぁ、しないしないよ」
「なんかあんまり聞いてなかった感じじゃないのこれ!! 今の聞いてた!? 一から十まで全部聞いてました!?」
「聞いてたって。そうじゃなくて、レオ君はネロの身体を張った感じの、妙にエロい感じのが苦手なんだよね?」
「え……うん、勘弁してほしいです」
「じゃあ素朴な萌えアピールを重点的にしている私の方が良いよね!?」
「自分で言ってる時点で素朴じゃないよ!! ……まぁでも、そっちの方がいいかな」
「ていうか私は君の彼女だよね!!」
「うん」
「じゃあネロのエロアピールなんかに動じないよね!!」
「う、……うん」
それを聞くと、ヒツユは妙に落ち着いた様子になる。
「よし。じゃあ、私は君の正式な彼女確定ってことで。あんな赤バチ女に揺らいだら、ただじゃおかないからね!!」
「は、はい……ガンバリマス……」
……まぁ、実際はこれが道理なのだが、どうもネロは無理矢理突っ込んで来る感じが強く、レオにはなかなか厄介払い出来ないのであった。
しかし、これを期にレオは思う。自分を強く持とう、と。
だが、
「レオたん~なんでこんなガキと話しとんの~? ほーら、身体洗ったるで~出よ出よ!」
「わっ、ちょっと待って……うわああああああ」
「レオ君……!!」
ヒツユが髪の毛を逆立てながら威嚇の目を向けるのだが、レオにはどうすることもできなかった。ネロは彼の腕にしがみつきながら、シャワーの場所へと誘導する。
「レオたんの全身洗ったるで~……下半身込みで」
「やめて!! ホントに無理なんですそういうの!!」
「ウチの身体で洗ったるからなー」
「やめてぇぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッッッ!!!!」
……結局ネロのエロアピールを振り切り、湯船に沈みこんだまま頑として動かなかったレオ。彼は風呂から上がった後、貧血とのぼせのダブルコンボを食らうハメになるのだった。