青春の心残り
それから、一ヶ月後。
もう殆どクラスに馴染んだイリーナは、少しだけ疲労感を感じていた。
(……ちょっと疲れたわね……)
時刻は昼休み。男子生徒は大半が校庭でサッカーやらドッジボールやらを楽しんでおり、女子生徒は教室や廊下、水飲み場などで思春期らしい会話を繰り広げていた。
――――――そのどれにも、イリーナは馴染めなかった。
きっと、今までの人生のせいで、他人を見下してしまうようになったのだろう。男子が夢中になる体育系の遊びを『無駄に疲れる』と嫌い、女子の甘酸っぱい会話も『くだらない』と無視する。せっかく出来た友達も、数が少なくなっていった。
いや、違う。今までは『留学生』や『外国人』という肩書きがあったため、過度に注目され過ぎていただけなのだ。彼女の本質を知り、大して注目するモノでもないと理解しただけなのだ。
それはそうだろう。
基本的に他人を見下す性格。どんなことでも『バカらしい』と突き放すスタンス。はたから見れば、ただ性格の悪い女にしか見えないだろう。
実際、そうなのだ。イリーナ自身も、自分を取り繕おうとも思わなかった。どれだけひた隠しにしても、根本的な部分は治らない。
(ホント、くだらない。アタシの何を知って『アレがユルい性悪女』よ。群れて陰口を言うことしか出来ないの?)
これは、イリーナが下校中に聞いた言葉だ。無駄に高圧的な態度とやけに男性受けのいいスタイルから、『陰で男をたぶらかしている』などと根も葉もない噂が流れ始めていたのだ。
噂はこれだけではないが、どれもこれも下世話な噂しかなかった。聞いてて嫌な気分になってくるくらいの、中傷的な噂。
そんな汚い声から遠ざかるように、彼女は屋上へと向かっていた。
屋上はいい。涼しい風が舞い込んできて、心地よいことこの上ない。くだらない全てから、解き放たれたような気分になる。
今日もそうなることを期待して、彼女は屋上のドアを開く。
「――――――あれ?」
普段、ここには誰も来ない。いつもなら、ここはイリーナ一人だけのハズだ。
が。
そこには一人の少年がいた。落下防止用の格子に手を当て、静かに校庭を見下ろしている。
「カイト……何やってんのよ」
「……! イリーナ、さん……」
「いい加減、その呼び方やめなさいって。何か恥ずかしいのよ、それ」
カイトは驚いたようにイリーナを見つめる。それから、照れ臭そうに笑って、
「ごめん。でも、なんか癖になってて」
「ったく……もう」
彼に近付き、溜め息をつきながら彼を見上げるイリーナ。彼女も長身な方だが、カイトはそれすらも超える長身だった。クラスの中でも一、二を争う程の高身長で、180は既に超えているだろうとイリーナは思った。
「なんでそんな憂鬱そうにしてんのよ。お気楽なアンタが珍しいわね」
「……別に、そんなわけじゃ……」
それでも、彼の弱気そうな表情は治らない。
(あー、気に入らない。そのヘナヘナした感じ。なんでいつもそんなんなのよ……)
イリーナは少しだけイライラする。こんなに弱そうな男なんて、男と呼べるのだろうか。
「悩み事でもあるの? だったら言ってみなさいよ」
「そんなワケじゃ……」
「いいや、何かあるわね。アタシもそうだもの。何か嫌な事があると、なんだか嫌な雰囲気が漂うのよ」
そう言って、イリーナはカイトの頬をつつく。
「……別に、解決しようとかそういうワケじゃないわ。ただ聞いてあげようって思っただけ。こういうのは人に打ち明けると、少し楽になるもの」
彼女は笑いながら、カイトの顔を覗き込む。彼の表情は晴れず、しかしイリーナに感謝しているように見えた。
「ありがとう。でも、君に言う程の事でもないよ」
「っ……でも……」
「いいよ、大丈夫。それに、別に悩んでるんじゃないんだ。もう解決してるから」
「だったらなんで……!」
イリーナは必死に食らい付く。一体何をやっているのだろう。こんな少年の為に気張ったりなんかして。
自分の問題は、既に解決したはずなのに。
彼に問いただす理由も、意味も、イリーナにはないはずなのに。
そして。
彼は、彼女からゆっくりと離れ、屋内へと戻る階段に差し掛かった。
その時、小さく呟いた。
「――――――ちょっと休憩してただけさ。悩んでなんてないよ」
そう言って、彼は消えた。騒がしい屋内へ、一歩ずつ。
「…………」
イリーナはどこか意味深なその言葉に、不安な気持ちになった。
大抵、本当に大きな悩み事は、自分で抱え込んでしまうものだ。人に言うのが恐いから、恥ずかしいから、バレたらエスカレートするかもしれないから。
きっと彼も、その類なのだろう。イリーナに出る幕はなく、彼は一人で飲み込んでいる。
あの能天気を形にしたような青年が、あれほどの憂鬱さを滲ませる程の何かを。
どうしたらいいのだろう。
彼は一人で解決出来るのだろうか。
自分に手伝える事は無いのだろうか。
慰め役でもいい。相談役でもいい。なんなら、愚痴を聞くのでも構わない。
何か。
何か、自分に出来る事は――――――
「……って、ええい。何を考えてんのよ、アタシは」
そこまでいって、イリーナは首を横に振る。原理の解らない思惑を振り払うかのように。
(どうなっても関係ないじゃない、アイツがどうなろうと。アタシはアタシの平穏だけを考えてればいいのに)
そうだ。
一生懸命勉強して、陰口ばかりの学校も休まず登校して、留学までして掴んだ自由。
それを何故、自分の為に使わない。日本に来てまで、ネガティブな生活は送りたくない。
あんな、あんな意味の分からない奴に構わなくたっていい。彼がどうなろうが、イリーナの知ったことではない。
「そう、そうよ。アタシは自由になった。自由になったんだから。明るく生きなきゃね」
大空の下で、大きく背伸びをした。何故か火照っていた彼女の身体を、涼しい風が冷やしていく。ここから見える景色は、この街を見渡すことの出来る極上なものだった。グラウンドでは楽しそうな男子の声が聞こえ、ボールが跳び跳ねていく。
――――――平和だ。
静か過ぎず、うるさすぎず。涼しすぎず、暑すぎず。何もかもが綺麗に整えられた環境。イリーナの心を落ち着ける、最高の場所だ。
楽しくなくていい。つまらなくてもいい。イリーナは、この丁度いい静けさが欲しかったのだ。
他人の目から逃れられる、唯一無二の場所があれば、それでよかったのだ。
(……こういうのを『幸せ』っていうのかしらね)
『幸せ』を噛み締めながら、イリーナはにやける。
……が、それはどこか変な感じがした。本物ではない気がした。
何か、何か余計なものがある。
彼女は結局最後まで気付けなかった。やがてチャイムが鳴り、渋々と屋内へ戻る。
――――――イリーナが気付けなかった、余計なもの。
それはいわゆる、『心残り』というやつだったのかもしれない。
彼を、カイトを放っておいていいのか。何か悩んでいる風だったのに、相談に乗ってやらなくてよかったのだろうか、と。
何故そんな考えが生まれたのだろうか。その時は、いくら悩んでも分からなかったろう。
が、今。
カイトが死に、人間としての自分を捨て去り、機械に身体を委ねた今なら、分かるかもしれない。
例えば。
例えばそれは――――――