少女の恋
その頃、イリーナは半透明の画面にタッチしながら、ぎこちない動きでコードを入力していた。彼から貰った携帯端末の画面を覗きながら、彼女は訝しげな表情を浮かべる。
(なんでこんなことしてるんだろ……)
一人、物思いにふける。自分自身が行っている動きが、何故だか理解出来ない。
こんなことをしたって、何の解決にもならない。
分かっている。
分かっているのに、画面を操作する指を止めることが出来ない。まるで、何かに助けを求めるかのように。
そのうち、通信待ちの状態と思われる画面になる。それを少し待つと、彼は現れた。
『あ、よかった。俺にも何か力になれることがあるのかい?』
柔らかい笑顔で、ナツキはこちらを見つめる。画面越しだと分かっていても、何故かイリーナは小恥ずかしい気持ちになる。
思わず目を背けてしまい、イリーナは多少投げやりに言う。
「ち、力になるとかそういう事じゃないわよっ。……ただ、ちょっと話したくなって……」
『……ふふ、ありがとう。俺でよかったら、何でも話してよ』
その優しさに、イリーナはどこか救われた気持ちになる。――――――やっぱり、彼はカイトに似ている。
画面の向こうでイリーナの話を待つ彼に向かって、彼女は話し出した。
「――――――アンタには何も関係ないんだけどね。家族の中で、アタシは最悪の立場だったの」
それは、イリーナがこうなるまでの話。
「家族みんなから、アタシは蔑まれた。黒歴史だの、汚物だの……ってね」
彼女の世界から、彼女の人生から虐げられて、人生の主人公である彼女が苦しむ話。
「でも、カイトに出会ってからは全部変わった」
しかし、彼女は立ち直る。優しく、頼りなく、しかし純粋な青年に。
「……愚痴になるかもしれないわね。ただの、アタシの昔話なんだけどね――――――」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――――――日本に来てから、アタシは変わった。
そんな風にイリーナが思い始めたのは、ちょうど留学生になって一週間の朝。
ベッドから降り、顔を洗い、朝食を食べる。目付きの悪い家族に睨まれることもない、最高の朝食だった。
それから歯を磨き、制服に着替えてから、彼女は出掛ける。カバン片手に飛び出した彼女を待っていたのは、今までとはまるで正反対の、明るい世界だった。
通学路でクラスメイトの女子に出くわす。ロシアではクラスメイトから唾を吐きかけられていた彼女に、その女子は笑顔で挨拶をする。なんてことないただの成り行きで、彼女には登校仲間が増えた。
玄関で靴を脱ぎ、教室に入る。クラス全員が彼女と目を合わせ、親しげに挨拶を掛ける。少しボリュームの大きいそれに、彼女は苦笑いで応えた。
そして。
イリーナに、して『変な奴』と言わしめた彼が、ふんわりと笑って声を掛けてくる。
「おはよう、イリーナさん」
「おはよう」
御伽海人。彼は相変わらず練り消しゴムを好き勝手に弄びながら、僅かにはにかむ。
「ふふ、もう完璧だね。クラスのみんなとも、ちゃんと話せてる?」
「もちろんよ」
「そりゃあよかった」
そう言って、彼は表情を緩める。それを見てしまった時、イリーナの心はドキリと跳ねた。
(……くっそぉ……何なのよ、これ……)
ドキドキしてしまう。こんな変な奴の笑顔で、何故心臓が高鳴るのだろう。
イリーナは照れを隠すように、教科書類を取り出す。だがそれでもドキドキは止まらず、彼女は仕方無く狸寝入りに入った。
ふと彼の方を、腕の隙間からチラリと覗く。カイトは、イリーナの行動に何か疑問を持つでもなく、ただ練り消しゴムをいじっているだけだった。彼女に、視線を投げ掛けることもなく。
それに気付き、イリーナはそっと溜め息をつく。
(あーアホらしい。アタシ、一人で何やってんのかしら……)
偶然席が隣になった相手にドギマギなんかして。心底くだらないと、イリーナは自分に言い聞かせる。
それを肯定するために、イリーナは無心を装いながら教科書を開く。そういえば、今日はテストがあったんだっけか。そんな事を思い出し、彼女は教科書の太字へと、目線を走らせた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日の授業中だった。
イリーナはふと、横を流し見る。
「…………」
まただ。
カイトが、授業も聞かずに練り消しゴムをいじっている。人のようなものを作っては崩し、動物のようなものを作っては、再び崩す。その意味不明な行為に、イリーナは多少苛立ちを覚えた。
人差し指で彼の肩をつつくと、彼は『ん?』とイリーナの方を向く。
「……(板書くらいしなさいよ、バカ」
「……(バカっていうのは酷いと思うんだよね、俺。それ、前も言ったよね?)」
「……(ノート取ってないのなんてアンタくらいよ。それがバカだって言ってんの)」
カイトはクラス中を見渡す。確かに、殆どの生徒が黒板を見つめながら、熱心にノートに書き込んでいる。
「……(やってないのも何人かいるよ?)」
「……(それでも普通はやるの。ほら、ノート取りなさいよ)」
渋々、彼はシャープペンシルを手に取る。が、筆が進まない。挙げ句の果てに下手くそな絵を書き出した彼に、イリーナは呆れた溜め息をつく。
「……(ヘッタクソな絵描いてんじゃないわよ)」
「……(いいんだ、俺はこれで。勉強する必要なんてないんだから)」
そんな言葉に、イリーナは確かな苛立ちを覚える。
「……(なによ、それ。まるで自分が天才とでも言うような口ぶりね)」
「……(そんな事言ってないよ。けど、俺……)」
その時。
黒板に方程式を書き込んでいた数学の教科担任が、不意にカイトを指差す。
「御伽、この方程式のxの値は?」
「はっ!? は、はい! えーと、203です!」
「何言ってんだ御伽。んな数字出るわけないだろう。どれ、イリーナはどうだ?」
「5√3です」
「正解。御伽、留学生に負けててどうするんだ」
クラス中にどっと笑いが巻き起きる。カイトを囃し立てる声が、あちらこちらから聞こえてきた。
「す、すいません……」
彼は照れ臭そうに頭を掻く。ゆっくりと席に座り、バツの悪そうな顔でイリーナを見る。
イリーナはそんな彼を嘲笑い、ベッと小さく舌を出してから言う。
「ざまあみろっての」
「……余計なお世話だよ」
すると、カイトは少し考え込むように俯く。
その態度が気になって、イリーナは少し複雑な気持ちになった。
が、別にそんな事気にする事もない。そんな風に考え、イリーナは再びノートを取り始めた。