記憶
最初は、大嫌いだった。
あんなやつ、居なければいいとも思った。
けど。
本当は、その優しさにすがっていただけなのかもしれない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ただいま……」
「おかえりなさい」
「……むぅ……」
イリーナが帰宅すると、二人はそれぞれの対応を見せた。クラルはにこやかに挨拶を交わし、アルマは『ちっ、帰ってきやがった』というような意味合いの呻き声を上げる。
それもそのはず、アルマはクラルの膝の上でまったりしていたのだ。
「ほら、イリーナさん帰ってきたから。もう終わりだよ、アルマ」
「……! ……!」
「嫌がってるじゃない。いいわよ、そのままで」
「す、すいません……もう、甘えん坊さんなんだから」
イリーナが手で制止すると、クラルは済まなそうに立ち上がるのを止める。彼女もアルマを愛でるのが好きなようで、すぐにアルマの頭を撫で始めた。
それを尻目に、イリーナは自室に入る。ここに来たのは数日前だったのだが、既に彼女には個室が用意されていた。元々この家は空いている部屋が多かったらしく、ベッドなどもクラルが一通り運び込んでくれた。
「……はぁ……」
勢いよくベッドに飛び込む。
ハッキリしない気持ちが彼女の中で渦巻き、苛立ちとして表れる。それを抑えつけるため、イリーナは大きく溜め息をつく。
「なんで今になって……あんな奴が……」
カイトとそっくりなロボット。似ていない場所を探す方が難しい程、完璧な再現度。
『優しさ』まで、彼と同じ。
――――――どうしよう。あの時と同じ気持ちが、またぶり返してしまった。
好き。
もはや他を捨ててでも、彼と一緒に居たい。
最初は、そんなつもりじゃなかった。
第一印象は最悪だったし、彼にはずっと邪険な態度をとっていた。『優しさ』より、あのナヨナヨした『優柔不断さ』が目に入っていたから。俺より僕、とでも名乗っている方が自然なくらいだ。
けどいつしか彼の『優しさ』が目につくようになって。だんだん、彼の事が気になり始めて。
『そんなことない、アタシはああいう奴が一番嫌いだ』なんて考えも、いつしか取っ払ってしまって。
気付けば、彼に依存するほど好きになってしまった。
そもそも、最初に彼と出会ったのは中学生の頃だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「イリーナ・マルティエヴナ・アレンスカヤさんだ。ロシア生まれだが、仲良くしてやってくれ」
担任のそんな一言から、彼女の生活は始まった。
名目は留学生。だが、彼女は知っていた。
――――――厄介払いをしたかったのだと。
イリーナの家は、超が付くほどに裕福な家庭だった。しかし、イリーナ自身の立場は、悲惨なものだった。
彼女には兄弟が二人いた。兄が一人、弟が二人。が、その両方とも、イリーナは仲良くなれなかった。
その理由。
それは彼女が、母親と母親の元愛人との子供だったからだ。
彼女の母親は一人で事業を立ち上げた事業家であり、その内彼女は他の大企業の社長と結婚した。
しかしイリーナはその社長と母親の娘ではない。母親が学生時代の時、愛人が認知せずに生まれてしまった娘なのだ。
そのせいで、彼女はいつも形見の狭い思いをしてきた。母親には『私の黒歴史』とまで言われ、嫌われる。兄弟達には『汚い男との間に産まれた汚物』と罵られる。義父、つまり後から来た社長には『唯一の汚点』と言われ、家族の輪から弾かれる。
誕生日に何か貰える訳でもなく、何処かへ連れていってもらえる訳でもない。家族が出掛ける際にはいつも留守番をさせられ、辛うじて物置に住まわせてもらうだけの生活。クリスマスプレゼントなんて、一度も貰えるハズがない。
そのせいもあって、イリーナの心は荒みきってしまっていた。他人と接触するのも嫌気が差し、いつも一人だった。
(……アタシが何をしたっていうのよ)
そんな事を、何万回と考える日々。
何とか連れていってもらっていた学校でも、兄弟にこの事実を学校中にバラされる。結果的に彼女はイジメの対象になり、ますます彼女は独りぼっちになっていった。
だが、それでもイリーナには目的があった。
(どこでもいい。留学生という名目で家を離れられれば、アタシは自由になれる)
その為だけに、彼女は必死で勉強した。気付けば、彼女は学校でもトップの成績をとるようになっていた。勉強以外にやることが無かった、というのも一つの要因だったのかもしれないが。
留学先が日本というのに、特に深い意味はなかった。日本人はおおらかだというのは聞いていたし、何よりもう地続きであの家族と繋がっている事にすら耐えられなかった。
留学したい、と話すと、家族は大喜びだった。それほどまでにイリーナと離れたかったのか、と半ば彼女は呆れてしまっていた。
――――――と、そんな訳でこの学校に来たのだが、イリーナの人生はそこで大きく反転する。
「……は、ハジメマシテ。アタシ、イリーナ、デス」
極度の緊張と不安感により、何とかぎこちない挨拶をしたイリーナ。いくら勉強していても、やはり実践で使うのは初めてだった。
が。
「「「「……可愛いッッッ!!!」」」」
「へ?」
クラス中が騒然となった。
「ちょ、まって! めっちゃ美人じゃん!」
「おい、お前コクれよ! しょっぱなからコクるとか、絶対いけるって!」
「おいおいそういうの無理だろ……!」
「私最初に友達になるーッ!!」
「やだ! 私が一番ーッ!!」
「私だって!!」
「やべぇマジ巨乳」
「スタイル良すぎだろ」
「日本語不慣れで舌足らずとかもはや萌えの領域」
などと、イリーナが想像もしていなかった意見が飛び交ったのだ。
彼女は目を丸くしながら、小さく後ずさる。勉強してはいたが、意味の分からない単語すらある。
(『コクる』って何!? 『萌え』って何!? 流行語っていうの、こういうのって!?)
物怖じしたイリーナの背中を支えながら、担任教諭はイリーナに話し掛ける。
「うるさい奴らでスマンな。一番後ろの……ほら、あの生徒の隣に席を用意しておいたから。あそこに座ってくれ」
彼が指差したのは、一番後ろの窓側。そこには空いた席があり、その隣にはイリーナと背丈が同じくらいの少年が座っていた。練り消しゴムを弄りながら、大きくアクビをしている。クラス全員がイリーナに注目する中、彼だけは練り消しゴムに集中していた。
(なんか、変な奴ね……)
とりあえずイリーナはその席まで移動する。途中の生徒達に次々と名乗られるが、イリーナはそれを苦笑いで返す。何しろ早口で、色々聞き取りづらいのだ。
そして席に着いたとき、その少年はゆっくりとこちら向いて、
「俺、御伽海人っていうんだ。よろしく~」
「よろ、ヨロシクオネガイシマスッ」
「ははは、そんな緊張しなくても大丈夫だよ~」
カイトと名乗るその少年は、こちらを見てにこやかに笑って見せた。握手を求められ、イリーナは恐る恐るそれに応じる。
「おいカイトォ! 抜け駆けしてんじゃねーよ!」
「いーな、隣いーなー!」
再び騒ぎ出すクラスメイト達。それを先生がなだめ、三分くらい経ってようやく静かになる。それからも、生徒達はコソコソとイリーナについて盛り上がっていた。
イリーナは少し気分が上向きになる。ここ最近は笑うことも一切無かったイリーナだが、少しだけ笑うことができた。
(……よかった。これならやっていけそう)
そんな風に笑ったイリーナを見て、カイトも嬉しそうに笑っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日の放課後。
クラスの女子とも一通り住所の教え合いを終え、男子とも何人か仲良くなれた。
イリーナの心の中は、期待でいっぱいだった。
(みんなとも仲良くなれて……前までの生活が嘘みたい)
イリーナは、中学校を卒業するまでは日本に滞在するつもりだった。高校にいってからは親との縁を全て断ち切り、一人だけで生活する。それまでは親から送られてくる申し訳程度の金と、小さなアパートで生活していくのだ。
――――――という考えを巡らせていると、もうとっくにクラスメイト達は帰っていた。
暖かい夕陽が差し込んでおり、教室には既に誰も居ない。
ただ、彼だけを除いては。
(カイト君……だっけ?)
隣の席の彼は、クラスメイトが全て下校したにも関わらず、練り消しゴムをいじりながら柔らかい笑顔を浮かべていた。
(なんで帰らないんだろ……?)
「か、カイトクン?」
「ん……あれ、イリーナさん。まだ帰ってなかったの?」
「アタシ、い、イマカエルケド……」
「ふふっ、そんな緊張しなくてもいいじゃん。……確かトップの成績で留学してきたんだよね。もうちょっと自然に喋れるんじゃないのかな」
そう言って、彼は再び笑顔を浮かべる。その表情に何だか安心感を覚えて、イリーナは少し心が安らいだ気がした。軽く息を吸い込み、再び話し始める。
「こ、こんなので、いいかしら……ね、カイト君。なんで学校に残ってるの?」
「……すごい、日本語ペラペラだ。少し訛りは残ってるけど、普通に会話出来るレベルだよ」
「えへへ、そうかしら。……じゃなくて、なんで学校に残ってるの?」
イリーナは少し顔を近付けながら聞く。すると、カイトは少し意味深な表情を浮かべて、
「……ここが、一番好きな場所だからね」
「好きな、場所……?」
口の中で反芻する。それの意味が分からず、イリーナは首を傾げる。
(好きな場所……って、そのままよね。ここなの? 家より、学校が好きなのかしら……?)
「……あ、もう最終下校時刻だ。もう残れないから、帰らなくちゃ」
「あ、ホントだ」
イリーナが時計を見ると、既に時間は五時を指していた。早く出なければ、校門が閉まってしまう。
「イリーナさんは、きっとホームステイだよね。早く帰らないと、家の人が心配するんじゃないかな」
練り消しゴムをポケットに突っ込みながら、席を立つカイト。
「いや、別に……」
「そんなことないよ。早く帰ろう、ほら」
彼はイリーナの腕を引っ張り、廊下へと連れ出す。彼女は腕を掴まれたまま、転びそうになりながらも玄関まで来る。カイトは、相変わらず笑ったままだった。
下駄箱で靴を履き替え、二人は外に出る。真っ赤な夕陽が校庭を赤く染め、街はだんだんと暗くなっていた。
「……綺麗」
「ビューティフォー、っていうの? 君の母国では」
「アタシ、ロシア生まれなんだけど……英語よね、それ」
「あれ、ロシアって英語じゃないの?」
「ちゃんとロシア語ってのがあるのよ、馬鹿」
「馬鹿って……ひどい」
カイトはひどく落胆する。
――――――あれ、おかしいわね。馬鹿っていうのは親しい人に使う冗談のようなものだと言う認識だったのだけれど。
「……ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「ふふっ、分かってるよ。ちょっと過剰表現してみただけさ」
「カジョーヒョーゲン?」
「大袈裟にしてみせるって事さ。気にしないで」
彼は、また笑う。その柔和な表情に、イリーナは何故だか緊張してしまう。
「それじゃ、俺はこれで。また明日ね」
そう言うと、彼は大きく手を振りながら歩いていってしまった。
「あ……」
何も言えず、口ごもる。小さく風が吹いて、イリーナの薄紫の髪が目の前で揺らぐ。
「……変なやつ」
思わず、そう言ってしまった。