待機中
ーーーあれから、少し時が経って。
今でもカルネイジは、地上で跋扈している。人間は未だ空中庭園から抜け出せずに、こうして地に足を付けないまま生活を続けている。
しかし確実に、彼らは前へと進んでいた。
「……じゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。……気を付けてね」
「大丈夫だって! 昔とは違うんだからさ!」
一人の女性が、そう言ってドアの向こう側へと消えていった。玄関でそれを見送った青年は、奥へと戻り、キッチンに向かって朝食の後片付けを始める。
そんな折、ポケットから着信音。青年は携帯を取り出し、画面に触れてそれを耳に当てる。
途端、
『レ〜オ〜! ちょっと遊びに行ってもいい?』
「え〜……お姉ちゃん茶化すもんなあ……っていうか、あの子も帰ってくるの遅いし、今度の週末にでもしなよ。今来たって僕しかいないよ」
『ちえっ。いいもん、別に。ほんじゃ!』
ブツッ、と通話が切れる。青年は少し迷惑そうな表情を浮かべて、
「……何なんだよ一体……」
青年ーーーレオは、昔の事を思い浮かべる。
あの戦いが終わった時、気が付けば自身からは不思議な力が消え、猫耳も尾も無くなり、普通の人間に戻っていた。それは今電話を掛けてきた姉も同様で、こうして今は普通に生活出来ている。
もう、十年は経過しただろうか。確かそうだ。相変わらず地上にはあの得体の知れない化け物が潜んでいる。当然、それを掃討する為の組織だって未だ残っている。それに力を貸せない事が、少し心残りだった。
(……何だろう、やけに思い出すなあ。ーーー君が、またあの仕事に戻る時が来たからかな)
一人の女性は、住み慣れた家から出た後、少しブラブラしていた。少し時刻より早めに出た為、こうして余裕もあるのだ。
ーーー変わった。本当に変わった、この街は。
少し近代化が進み、街には頻繁に車が走り出すようになった。数年前までは『ブロッサム』の騒動で街自体か破壊されて、これで人類は終わるのではないかとまで囁かれた。
しかし、こうして文明は発展し始めた。少し衰退した人類は再び動き出し、カルネイジを狩る為の組織もかなり業務に力を入れるようになったのだ。
ワープのシステムは画期的に進み、人間も送れるようになった。そのお陰で、こうして人間は増え、尚且つカルネイジの量は着々と減り続けている。
このまま行けば次の世代ーーーあるいは、今の子供が大人になる頃には、人類が土を踏む日も来るかもしれない。
「……いいなあ、こういうの」
求めていたのは、こんな景色だったのかもしれない。殺伐としていない、人間が脅威に怯えずに暮らせる世界。今は単にカルネイジの恐怖が薄れただけかもしれないが、それでもこうしてのどかな気分に浸ることが出来る。十年ほど前は、こうもいかなかっただろう。
女性は、とある場所に立ち寄る。
「……久しぶり。ネロ、カノンさん」
それは、慰霊碑だった。
これ自体は、十年前にもあった。カルネイジの騒動の時に亡くなった人々の名を、こうして書き連ねてある。
だが、女性はその慰霊碑の、少し新しめに彫られた名の上に、その左手の細い指を滑らせる。
ーーー虎々音真代・狩野紫音。その二つの名の上に。
「また、あの仕事をする事になったんだ。でも、今回は前と違ってリスクは少ないらしいよ。科学も進歩したしね」
呼び掛けても、答えてはくれない。しかしだからと言って、女性は言葉を止めない。
「……ネロ、私幸せになったよ。レオ君は本当に良い人で、優しくて、いつも私の事を想ってくれてるんだ。……ネロが惚れちゃったのも、当然だったかもね」
ーーー彼女の名を触れる左手。その薬指には、高価な物では無いが、銀色の指輪がはめられていた。まるで、彼の想いが詰まっているような気さえしてくる。
「カノンさんも、レオ君と仲良くしてくれてありがとうね。……そうそう、アミは他の人と結婚しちゃったよ。ふふっ、ちょっと悔しいんじゃないかな」
ふわり、と風が吹く。彼女の髪がーーー二つの色を持った髪が、緩やかにたなびく。
「もう、行かなきゃ。じゃあね、二人とも。また来るからね」
そう言って、彼女は慰霊碑を後にした。風の音が、まるで彼女を見送っているかのようだった。
「……にしても、本当丸くなっちゃったわね、アンタも」
「そりゃああんな事があれば丸くもなりますよ。それに僕は誓いましたから、人類に償うって」
「だからってまさか地上掃討軍の研究部総主任になっちゃうなんて思いもしなかったわよ。周囲からの反発はなかったの?」
「あるに決まってるじゃないですか。でも、僕がしてきた事を償うにはそんなものじゃ足りないですから。あなただって、新人の訓練を取り仕切ってるんでしょう?」
「人間相手の訓練は気ぃ使うから嫌なのよね。そもそも、あんまり人と話すのが得意なタイプじゃないから、アタシ」
「まあ、近寄り難い感じしますもんね」
「……そう言われると少しヘコむわ」
ーーー地上掃討軍射出場の玄関ホール。
そんな場所はいつまで経っても内装も変わらないものだ。柱にモニターがあり、プラスチックのベンチがあり……変わったところというと、設備が最新になったのと、『地獄の入り口』なんて不名誉なアダ名が消えたところだろうか。
そこのプラスチックのベンチに座る二人の女性は、数年前とは違い、仲が良さそうに会話を繰り広げていた。
黒髪で紅い瞳の女性は相変わらずのボブカットで、自動販売機の紙パックジュースをストローで飲んでいる。服装は丁度良いサイズの白い研究服で、その胸のネームプレートには『地上掃討軍研究部主任・九十九一花』と書かれていた。
もう一人の女性は紫がかった髪の毛を後ろで纏めており、その海のような蒼い瞳は眠気により滲んできた涙によって潤んでいた。一丁前に掃討軍の制服を着ているが、軽く着崩しており、こちらのネームプレートには『地上掃討掃討軍訓練部主任・イリーナ・マルティエヴナ・アレンスカヤ』と書かれている。
「良いわよね、アンタらは歳がとれて。アタシなんかロボットだから歳のとりようがなくてね、もうアンタ達より歳下って事になっちゃってるわよ、外見年齢的に」
「いいじゃないですか。僕は別に構いませんけどそれ、普通の女の子が聞いたら『何言ってんだこいつ羨ましい』って思いますよ」
「……プライベートでは困るのよ、十八歳の見た目じゃ」
そう喋りながら、彼女らは時間を潰す。
とある女性を待つ為に。そして、約束の時刻より少し早いくらいになった時。
「お待たせ! 久しぶりだね、イリーナ、イチカ!」
彼女らの前に、一人の女性が現れた。
髪は綺麗な焦げ茶色。ただし、毛先に近付くほど、それは白銀の狼のように美しく色が抜けていっている。
顔立ちは未だ幼い少女のようでいて、それでも何処か大人な印象を受ける。
瞳は二つの紅色が合わさったようなクリムゾンレッド。以前より、その色は濃くなっている。
背丈は少し伸びたが、それでも未だ160センチ前半程だろう。大人としては小さい方であろう。
服装はイリーナと同様の制服。但し所属が違う為少し色合いやラインの色が異なっており、ネームプレートは無い。それもそうだ。彼女は今日から、この『地上掃討軍』の仕事に従事するのだから。
「あら……随分と垢抜けたわね、ヒツユ」
「そうかな? よく分かんないや……」
「ヒツユちゃん! いやあ可愛いね! お持ち帰りしたいくらいだよ!」
「……う、うん。相変わらずだね、イチカは……」
ーーーそう、この女性は霧島日露。現在24歳であり、もうあの頃とは違う、立派な大人だ。
この髪の色は白いヒツユと融合した名残だ。彼女の意識と一体化したヒツユは、こうして彼女の特徴を引き継ぎながら、しかし力を制御し、こうして存在している。二重に紅く染めたような瞳も、同じ理由だ。
「あの戦いが終わってからお互い忙しくて、会う事はなかったけど……こうして見ると変わらないね、イリーナは」
「当然よ、ロボットだもの」
「僕は⁉︎ 僕はどう⁉︎」
「イチカも変わらないよ……押しが強いところも」
苦笑いしながらイチカを押さえるヒツユ。しかしその表情は、何処か懐かしさに身を寄せているように見えた。
「……まあ、スキンシップはこれくらいにしておいて。ヒツユちゃん、君は今回、カルネイジ掃討作戦を率いる一人として戦ってもらうよ。……現在、カルネイジの力を持っているのは僕と君だけだ。僕はバックアップ専門だから、つまりは君だけがその爆発的戦力をカルネイジの掃討に使えるわけさ」
「うん、分かってるよ。だからこうやって、何年ぶりにここに呼ばれたわけだね」
「よし。でも、そこまで気負いしなくていいよ。最近は遠距離兵器の開発も進んで、カルネイジを一方的に倒せるような段階まで来ている。転送技術も進歩して、いつでも空中庭園に戻れるようになってるしね」
革新的な進歩が、こうしてカルネイジ掃討の為に増えていくのは、総じてイチカ自身のカルネイジに関する高い知識の賜物だ。
よって彼女はバックアップにその身を投じる事となった。しかしヒツユが危険に晒されれば、いつでも彼女は戦場へ赴く覚悟がある。
「加えて、唯一のロボットであるイリーナさんも居る。遠距離兵器を数多く備えたこの人が居れば、百人力だよ」
「ま、最近は訓練ばかりだから、腕が鈍ってるかもしれないのよね」
「ううん、頼もしいよ!」
ヒツユがそう言ってイリーナに抱き着く。
相変わらずこの人懐っこさは変わっていないのかと、イリーナは少し溜め息をつく。ーーー僅かに、綻んだ表情を見せながらも。
少し嫉妬した表情を見せたイチカも、しかし仕方ないかと笑顔になる。あくまでもこのヒツユの最初の友達はイリーナ。その関係は譲る事にしたのだ。
「……と、そろそろじゃないかな。準備した方がいいよ。僕は一足先にバックアップルームで君達を送り出す準備をしておくからね」
「うん、またね!」
そう言ってイチカは消えた。懐かしいこの射出場玄関ホールで、懐かしい二人組になったというわけだ。
「……時間、経ったね。イリーナ」
「そうね。……アンタは、歳をとらないアタシより大人になって、レオ君と結婚して、こうしてまた、ここに居る」
「いつか、この場所が無くなるといいね。こんな場所が必要とされないようになるといいと思うよ」
「その為の第一歩よ、今日は。十年前よりは、随分とイージーモードになってると思うけど」
「いいんだよ、それで。カルネイジを全部倒すまでに、誰も死なないくらいイージーで」
「……そうよね。そう思うのが当然よね」
安らいだ時間が、二人の間に訪れた。
この場所で、このベンチで、二人は出会ったのだ。十年前はヒツユがイリーナを出迎えたが、今度はイリーナが、大人になったヒツユを出迎えた。
ーーーあの時はまだ、遺品のマフラーを手放せずにいた甘ちゃんだったな、とイリーナは思う。今は首元に何も無い。けれど、彼の温かさはいつでも感じられている。
彼の分まで生きよう。幸い、それに最適な身体となったのだから。
ーーーあの時はまだ、自分の事が何も分かってなくて、一人ぼっちだったな、とヒツユは思う。過去も未来も訳が分からず、ただ己の役目だけにしがみついていたあの日。あの地獄の日々を忘れる為に明るく演じる事で、辛さを消そうとしていた。
だけど、今は違う。素で笑う事が出来る。過去は決して楽しいものではなかったが、そしてあの日からみた未来も波乱の時だったが、それでも全てを知り、受け入れ、こうしてここに立っていられる。
何よりーーー愛すべき人が出来た。大切な友達と、こうして並んでいられる。それが、ヒツユにとっての幸福。真の未来。
そして、アナウンスが鳴り響く。
『第68部隊は第9発射場まで来てください。繰り返します、第68部隊は――――――』
奇しくも、同じ部隊番号、同じ発射場だった。二人は顔を見合わせて驚いた表情を見せ、そして笑った。
「……アタシ達だわ、行きましょう」
「ふふっ、あの時と同じ事言ってる」
「そうだったかしら? ……クセなのね、きっと」
「変なクセ〜」
そう言って二人は、細長い通路を歩いていった。あの時と同じ様に。それでも、全てが変わっているけれど。
ーーー彼女らは再び、地上へと降下するーーー。