朝
(……?)
身体が重い。まるで何かに乗られているような感覚。
(あ、れ?)
頭の中が真っ白で、何も考えられない。そういえば、今はどういう状況だっただろうか。
まず、地上に降りてきた。
その後猿の大群と戦って、少し休憩したら、狼型カルネイジが襲ってきて――――――
「ハッ!?」
勢いよく瞳を開き、上体を起こす。辺りは少しだけ明るく、夜明けくらいの時間帯らしい。
(あれ!? カルネイジは!?)
驚いて周りを見回す。
天井、壁の全てが白で包まれた一人分の小さな個室。カーテンのレールのようなものが天井に付いており、しかしそれは軽く半壊していた。窓ガラスも原型を留めないほどに砕けており、窓の外の景色が見える。
地平線から微かに太陽が顔を出している。それはその下に広がるビル群を照らし、長かった夜の終わりを告げているかのようだった。
あんなに高かったビルが小さく見える。恐らくここは結構な高さの施設だろう。先程までいたビルより荒らされ具合が少ないところから見ても、やはり高いところは安全度が高いのだ。
(……じゃなくて!! 誰がここに……!?)
イリーナ・マルティエヴナ・アレンスカヤは再び辺りを見回す。すると、自身の足元に何かが居るのを見つけた。
それは薄茶色の髪を持った少女だった。スゥスゥと寝息が聞こえるし、きっと眠っているのだろう。
「ヒツユ……!」
「……ん」
思わず声に出してその名を呼んだ。するとたった今覚醒したように、彼女から呻き声が聞こえてきた。ゆっくりとその頭が上がり、眠たそうな表情がお目見えした。
「……イリー、ナ……?」
寝ぼけたような顔で、ヒツユはイリーナをまじまじと見つめる。やがてその瞳が大きく開かれ、口元が緩む。
そして。
「イリーナァッ!!」
「うわっ!?」
彼女は嬉しさのあまりその場から飛び出し、イリーナに抱き付いた。渾身の力で抱き締められる。
「イリーナっ……イリーナイリーナイリーナイリーナイリーナぁぁぁッッ!!!」
「キツいキツいキツい!! 死ぬって!! アンタの腕力で抱き締められたらアタシ死ぬって!! ギブギブギブギブ!!!」
別にプロレスしているワケでもないのにギブアップのコールを掛けてしまうイリーナ。それまでにヒツユの腕力は強力だった。
(……けど、温かい)
その腕は強いけど、でも温かくて。まるで湯たんぽにでも包まれているようだ。
それだけじゃない。心の底から温まってくるような、そんな感じ。とてつもない安心感が、イリーナの心身を共に包んでいく。
不意に、ヒツユが顔を押し付けているイリーナの胸の辺りから、滲むような感覚を得た。それに気付いた瞬間、その正体を理解した。
「イリーナぁ……うっ……ふぇええええ」
「あー、泣かない泣かない! アタシは大丈夫だから! ね?」
「ふぇえええええあおうえおうえおいいおおおおおおお」
「もう何言ってんだか分かんないから」
思わずツッコミを入れるが、イリーナは優しい表情を崩さない。
(アタシが怪我して……こんなに心配してくれたんだ)
そう思うと、彼女は笑みが止まらなかった。
と。
「ふえええおおおお……ぇ?」
「ん?」
二人は変な声を出してしまった。それもそのはず。
何故だか、ヒツユの身体がだんだん沈んでいくのだ。イリーナが寝ているベッドの、その下へと。
「何!? 何何何何何!? ちょ……イチカ!! 引っ張らなうわあああああああ」
「イチカ? イチカって……?」
そんな事を言っている間に、彼女の身体はベッドの下へと沈んでいった。何だか底無し沼に引きずり込まれたような仕草に、イリーナは少し微笑ましかった。
「あうう……イチカ、やめ……ぐはっ」
「なーにやってんのよ、ねえ」
イリーナは上半身を傾け、ベッドの下を覗く。
「……誰よ、その子」
そこには、眠ったままヒツユに抱き付いている(というよりプロレス技で締め上げているように見える)黒髪の少女が居た。毛皮のあてがわれたシルバーのコート、紺色のスカート。膝下くらいまであるウエスタンな黄土色のブーツも、結構特徴的だった。
「えっとね……おぅっ! ……この人は……オアッ! ……イチカって、言ってぐああああああああ」
「ヒツユちゃぁぁぁぁん……むにゃ……」
そんな黒髪の彼女は、大層満足そうな寝顔だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
どうやらこの場所は、高めの階にある病室らしかった。あまり荒らされている様子もなく、ベッドもあるところから、きっとヒツユとこの少女が連れてきてくれたのだろう、とイリーナは推測した。
年下に運ばれる18歳。最悪だ。
傷も既に癒えていて、傷跡はすっかり消えていた。まぁ、これは彼女なりの『理由』があってこうなっているのだが、この二人は気付いているだろうか。
ここまで運ばれたのだし、既に気付いているとは思うが。
「は、はろー。まいねーむいず……つくも、いちか? いや、いちかつくもかな? ん?」
そして黒髪の少女は人差し指を自身に向けながら、照れ笑いを隠すように言う。
「……別に日本語でいいわよ。第一アタシの出身はアメリカじゃなくてロシアだし」
イリーナが溜め息まじりに言うと、何故かヒツユが、
「うぉ、日本語喋った」
「なんでアンタが驚いてんのよ」
「そういえば何気無く日本語使ってたからなんか驚いたの」
「……あぁ、そう。まぁアタシは一応留学生だったし、それなりに日本語は理解してるつもりよ」
「そうなんですか……スゴいですね」
イチカはいかにもな顔をして驚いていた。そしてすぐにとりなおすと、自身の名前を口に出した。
「僕の名前は九十九一花です。イチカって呼んでください」
その紅い瞳を細めながら、彼女は満面の笑みを浮かべる。
現在、彼女とヒツユはベッドの隣の椅子に腰掛けていた。イリーナは既にベッドに横たわるではなく、腰掛けるような感じで三人に向き合っている。頬杖をついた自身の右腕を右膝に乗せ、ヤクザと見間違えるようなポーズをしていた。
不意に、ヒツユは自身の掌に人差し指を当てながら、
「あれ? そういえばつくもってどうやって書くの?」
「九十九って書いて九十九って読むんだよ」
「つ、く、も……へぇ、珍しい苗字だね」
掌に『九十九』と描きながら、ヒツユは感心したように言う。
「一人称も変よね。日本では『僕』は男が自分を呼ぶときに使うんでしょう?」
イリーナはその一人称にツッコミを入れる。イチカは笑いながら、
「うーん、これはただ単なる癖ですかね? 小さい頃からこうでしたから……」
「ま、でも『僕』なんて使ってる男はそうそう見ないわよね。だいたいみんな『俺』って言ってるし」
「そんなものですかね」
と、イチカ。
「そんなものなのかなー?」
と、ヒツユ。
「そんなものよ」
と、イリーナ。
すると不意に、ヒツユの身体が引っ張られる。半ば無理やりに彼女はイチカの膝に乗せられ、頭を撫でられる。
「ふええええ……」
「うーん、ヒツユちゃん可愛いよ~」
イチカはヒツユの頭に顎を乗せ、まるでぬいぐるみでも愛でるかのように身体中をベタベタ触りまくっていた。ヒツユは慣れない感覚に、ただ弱々しい声を出すだけである。
「ちっこいしー、すべすべしてるしー、ぺったんこだしー」
「バカにしとんのかコラ」
「そうやって怒った顔も可愛いよぉ~」
「ふあああほっへひっはるあ~」
イチカは相当ヒツユが気に入ったのか、これ以上無い溺愛ぶりだ。何だか少し疎外感を感じるイリーナであった。
(歳もヒツユに近い感じね……何歳なのかしら)
「ねぇ、イチカ。アンタは何歳なの? ヒツユと歳は近いわよね」
「僕は16いやーずおーるどですよ」
「ちょっと格好つけて英語にせんでもよろしい。……あれ、ヒツユ何歳だっけ」
「わふぁしはじゅーよんだよぉおおおおおおあああああああひっはるあっふぇいっふぇんふぁろ~」
「……14ね? あとイチカ、その辺にしときなさい」
「はーい」
ヒツユを膝に乗せたまま、イチカは頬を引っ張っていた手を話す。少し頬が赤くなっているのは気のせいではないだろう。
「ふああぁぁぁぁぁ……駄目だ、イチカは危険すぎる……ほっぺた痛い……」
「あ~僕の癒しだわ本当に~」
そう言って、イチカは再びヒツユに抱き付いた。
「ぐおおおおおおああああああああああ」
「悶えてる表情も可愛いいいいいあああああああああ」
「死ぬぅぅううううううううううううううううう」
「……何なの、コレ」
イリーナが溜め息をつく。少し騒がしくなった彼女の周りは、でもやっぱり温かかった。
「ヒツユちゃああああああああああああああああああああああああああああああん」
「ぐぉぉぉあああああああああああああああああああああああああ死ぬぅぅううううううううううううううううううううううううううううう」
……ちょっと騒がしすぎる気がしないでもないが。