no calling
私を後ろから呼ばないで。
だってそれが貴方でも、きっと私は傷つけるから。
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近所にある中型店舗の本屋は休日になると、やたら人で賑わう。特に多いのは夕方で、仕事や遊びの帰りに寄るのに都合がいい時間帯なんだろう。
もっとも訪れた人がみんな、売り上げに貢献しているわけではなさそうだけど(私もその一人だし)繁盛しているのはいいことだと思う。きっと、たぶん。
外は炎天下の真夏日。今日という一日を既に半分は過ぎているのに、太陽はまだうんと高い位置にあって、高宮との待ち合わせに外にいるなんてしんどいから、私は冷房の効いた店内で時間を潰していた。
温度差で外の大気は水に砂糖を流し込んだみたいに揺らいで見え、さながら灼熱の砂漠のようだ。行ったことないけど。
本は好きだけど、今はあんまり読みたい気分じゃない。新刊が出ているかどうかだけ、チェックしていく。
カウンターの向かい側の壁に設置された時計は、だいぶ前からガラス部分に亀裂が入っていて店の役にたっているのかひどく疑問だ。直せよ店主、と毒づきながら分針を見やると、まだ約束の時間まで十分ある。頬がまるっとした、萌え重視のライトノベルの表紙も見飽きて文具コーナーに移動する。
高宮とは同じ中学だったけど、話をしたことは全然なかった。例えるなら、顔と名前を知っているだけの他人。
でも高校に入学して同じクラスになって、初めて話をした。それ以来、高宮は休み時間にさりげなく近寄ってきては、たわいない話で私を笑わせた。変な奴と思いつつも、何となく気が合って、いつの間にか告白されていた。それが三ヶ月くらい前のこと。
「お客さーん! お釣りと品物!」
冷房は充分に効いているのに、肌を異様にテカらせた小太りの店員がカウンターから慌てて跳び出していた。
お客はというと、老後が楽しみという感じのおばあさん。お金を払って、それだけで満足してしまうなんて馬鹿だと思う。全然賢くないよ。
野次馬はやめて、美術の授業で画用紙が必要だったのを思い出す。けれど、肝心のサイズが思い出せずに思考は空回りだけ。でも、忘れるから人は生きていける。そうだよね。
画用紙はまた今度でいいやと後回しにして、色とりどりの筆記用具をぼんやり見ていた。大量生産って感じ。
「こんなとこにいた」
「ひっ」
後ろから声をかけられて、情けない声をあげてしまった。嫌な感じの汗も噴きだす。
「もう! 後ろから声かけないでよっ」
固く握った拳を振り上げて怒ってみせても、高宮は「ははは」と笑って私を軽くかわす。
「髪切って染めたの? 一瞬、違う人かと思った」
夏休み前まで肩まであった私の黒髪は、今ではショートの明るい茶髪になっていた。色も長さも変われば、誰でもその変化に気付くだろう。誰か判別できない場合も含めて。
「あぁ、暑かったから。染めたのは、夏休みだし。学校始まったら戻すよ」
「ふーん、ちょっと意外。つかさって、そーゆーの興味なさそうだったのに」
「そう?」
何かを始めるのに、たいした理由はいらないと思う。そう、よくあること。
「ヘン?」
「ううん、可愛いよ」
自嘲めいた笑いに、それをかき消すように満面の笑顔で答えてくれた。なのに素直に喜べない自分。
「も、もう行こ」
「そうだな。行くか」
振り切るようにして高宮を見ると、目線の角度が前より高い気がした。女にしては高い部類に入る私の身長を考えると、それは珍しいことだ。
握った手とは反対の腕を彼に絡めて店を出た。奇妙な高揚感と動悸が私を支配したけど、それは一瞬だったと思う。
自転車で十分くらい行ったところに、天竜川とかいう仰々しい名前の河原がある。
夏になってから、私たちはよくここへ来ていた。小中学生が時々サッカーの練習をしているけど、遊具のある緑地公園に比べると、人が少ない穴場なのだ。暗くなってくると、蚊が大量発生して悲惨なことになるんだけど、親の臑をかじる高校生のデートなんて、きっとそんなもの。
「あー。やっぱここは落ち着くわー」
「どこのじいさんよ、あんたは」
「じいさんって。何だよ、ひどいなー」
石が小さく草の生えた、できるだけ座っても痛くない場所に並んで腰を下ろした。太陽熱が地面から布越しに伝わってくるけど、今の私の体温ほどじゃない。
「で、話って何?」
西から吹く心地いい風をしばらく堪能していたら、高宮が沈黙を破った。
一人で立ち上がり、川の方へと歩き出す。川までの距離が結構ある砂利道は、一歩踏みしめるたびに耳障りな音を立てた。
「いいのー? もう聞いて」
「だってさ、気になるじゃん」
「いい話じゃないかもよー」
振り返ると高宮は、難しそうな顔で足元の石をいじっていた。でもふいに顔を上げた。
「もしかして……親父さんのこと?」
私の家は俗に言うお離婚家庭というやつで、中学の時に父親に引き取られて生活していた。二つ下の妹が母親についていくと言ったから、私なりに両親を気遣っての選択をしたつもりでいた。
けれど私が高校に入学してから仕事がうまくいかなくなったらしく、酔っ払って帰ってくるようになった――そんな話を私は以前、高宮に漏らしていた。
「んー、残念ながらハズレ」
「ほんとに? じゃあ、そこのアザどうしたの」
高宮が指差した箇所は、私からは見えにくい位置にあった。
「あ、あぁコレ? この前コケてぶつけただけだよ」
見てないふりして、見ている。目ざとい奴だ。でも私は高宮のそんな、大事なときにだけ聞いてくれる優しさが好きだった。
「別れてくれない?」
自分から呼び出しておいて、別れ話とは最低かもしれない。でも事実、私はそういう女なんだ。なってしまったんだ。
「なんで」
「好きじゃなくなったからー?」
いつの間にか高宮も立ち上がり、お互いに触れられるすぐ傍まで来ていた。風はまだやまずにいて、こっちを見る高宮の前髪が煽られておでこがのぞいていた。童顔になるからって、嫌がっていたのを思い出す。
「ほんとに、そうなの?」
「高宮さぁ、しつこいと嫌われるって知らないの?」
さすがに嫌悪感を覚えたのか、高宮の顔がいびつに歪む。でも確実に振り切るためには、まだ足りない。
「高宮さぁ、これ何だか分かる?」
後ろ歩きで高宮から離れ、右ポケットからそれを取り出す。そしてよく見えるよう、目前に突き付けた。どういうことか、あなたには分かる?
「何、って。消しゴム……」
歪んだ顔は困惑の色へと変わっていく。さっきの顔よりずっといい。
「あはは、分かんない? これ、シールついてないの。さっき‘買った’んだよ」
意味深に笑っているのが、自分でも分かった。ここまで言えば分かるだろう。
私は再び川岸まで近づき、肩幅くらい両足の間隔をあけてぐっと力を込めた。遠くまで飛ぶように願いをこめて、それを思い切り投げた。落ちる瞬間は小さすぎて見えなかったけど、トプン、と水中に沈む音が確かに聞こえた。
踵を返すと、高宮はその場に立ち尽くしたまま、固まっていたようだった。
「……盗ん、だ、の?」
私が戻ってきたのを確認して、ようやく口を開いた。認めたくない、というように。
「だからぁ、見れば分かったでしょ。何回も聞かないでよ」
わざと嘲笑するような口ぶりでつめよった。本当になじりたいのは誰?
「じゃあ……どうして」
「だって、高宮ってつまんないんだもん」
真面目なだけの男はさ、と付けたす。高宮の目からは動揺しか読み取れず、私がどう映っているかなんて情けないくらいに分かるよ。
じゃあね、と一刻も早くその場から離れたくて自転車のグリップを強く握ると、私は一度も振り返らずに夢中でペダルを漕いだ。ごめんね。言ったって仕方がないって分かってたけど、言わずにはいられなかった。
家に帰るのは気が重かった。でも今の私には、暗い夜道をふらふらすることも同じくらい嫌なことだった。ある一点だけを祈って、家に入り自分の部屋のノブを回した。
「遅かったなぁ、どこに行ってたんだ」
耳に残る、低くなまめかしい声だった。
振り返ればいつからそこにたのか、リビングの床に父親が座り込んでいた。上気した頬と据わった眼光は、誰が見ても酩酊していて、側には空の缶ビールがいくつも転がっていた。
「と、トモダチと会ってただけだよ」
金縛りにあったかのように、全身が硬直して唇が震えた。
「ふん。どうだかなっ」
「キャアッ」
その強い腕に捕まり、一瞬で押し倒された。私にのしかかる目前の人物はもう父ではない。
「お前は母さんに似て×××だからなッ」
頬を叩かれ、思考も聴力も麻痺した。冷たい身体に熱い何かがもぞもぞと這い出すと、どうでもよくなり私は意識を手離した。
私の名前を呼ばないで。
だってもう、どこにも私はいないから。
初の?デッドエンドです。普段はぼんやりとでも書きたいことは自分のなかであるのですが、本作はイマイチ何がしたかったのか作者も分かりません(おぃ)−−それでも、ここまで読んでくれた貴方が何かを感じてくだされば幸いです。