表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

これが私の非日常

私の周りで日常を身にまとった人々が生活を営んでいる。

アタッシュケースを友とし、時計を気にしながらせわしなく足を動かしている人。

電車に揺られ、自転車をこぐときでさえイヤホンを離さない若者。

マンションのベランダに干されている洗濯物の数々と、学校帰りの子供たちの奇声。

どこにでもありふれた日常が一日の大半を占め、一年の大半を占める。そしてしまいにはそれが一生の大半を占めるのだろう。

平凡で退屈で何の代わり映えもしない日常の連続。

それが人生と呼ばれるものの本質だとするのならばこれほどつまらないものはない。

だから人というものは非日常に憧れと敬称を抱いているのだろう。二次元世界のキャラクターに陶酔し、オンラインゲーム世界にのめりこむのは決して日常では起こりえないそれを手に入れたいと願う人々の思いが引き起こした現象に他ならない。

しかし実際はこの世に非日常など存在しないのだ。いや、存在するがしないといったほうが正しいか。

だってそうだろ?

どんなに異常な現象も行為も月日はそれを日常に変えてしまう。

非日常に対峙している当人が慣れてしまえば異常も何もあったもんじゃない。

そう・・・・・人間には適応能力がある! それは一種の諦めに近いものなのかもしれない。

が、しかし!?諦めるな、自分!!

ここでヤツに屈してはいけない!こんなことに慣れちゃダメなんだ!!だって――


「ユリ・・・・・」


突然聞こえてきたあきれを含んだ声に私はハッと我にかえった。

机上にある書きかけのノートの上を取り落としたペンがコロコロと滑る。末尾に向けて文字がずいぶんと乱雑になってしまっているそれは誰に読ませるつもりも無い随筆だ。

「えっと、何か用でしょうか、鏡也さん。」

私は慌ててノートを閉じると引きつった笑みを張り付かせた。じとっとした空気が肩にのしかかるような重みを伝えているようで、なんとも居心地がよろしくない。が、ここで顔を崩すわけにはいかないのだ。後ろめたい気持ちを隠すため強気な態度で臨むほうが上手くいく時もある。きっと・・・・・

「・・・・・・あのさぁ、ユリ。」

「はいぃ!!」

「顔・・・・・・」

「かお?」

「般若のような顔してたよ?さっきノートに何か書いているとき。普段から不細工な顔がさらに酷い有様になっててミルニタエナイ。」

「なっ!?」

 抑揚のない声音で紡がれた言葉に絶句する。言われた台詞を頭が理解すると心の底から静かな怒りがゆっくりと体中に広がっていった。

ふぅ~ん、そういうふうな態度をとるわけだ、この居候は。

 私は心の中で胡乱な笑みを浮かべると努めて平静を装いながら静かに話しかけた。

「あらあら、自分のことは棚に上げてずいぶんと大きな口をおききになるんですね、鏡也さんは。あなた自分がどんな姿をしているかわかっているのかしら?だいたいあなたの姿なんて――」

「はぁ・・・・・・いいよ、君の言いたいことはわかっているから。」

「え?」

「どうせそのノートにも僕の悪口でも書いてたんだろ?」

「え?え?」

「面倒なヤツと関わってしまっただとか、何で自分がこんなヤツの面倒をみなくちゃいけないんだとかさ。悪かったよ、迷惑掛けて・・・・・」

ポツリと零れた謝罪の言葉にさっと怒りの熱が引いてしまう。彼はこういうところで卑怯だ。普段口が悪いくせにたまに驚くほど素直に謝罪の言葉を口にする。

「そんなこと思ってないけど・・・・・・」

 ボソボソとした歯切れの悪い返事しか返せないのは後ろめたさがあるからだ。彼のことを迷惑と思ったことはなかったとしても、過去に私を取り巻いていた平凡な日常に未練がないかといえばそうだと言えない自分がいる。

「けど実際に君に迷惑をかけていることには変わりないからね?僕は一人じゃ動くこともできないし・・・・・・」

 うっ。そんな自嘲気味たように言われると私が酷いことをしているように思えて良心が痛む。けれどこれは絶対罠だ!!何度このしおらしい態度にだまされたことだろう。

「ほ、ほら。でも鏡也を引き取ることを決めたのは私自身だし、謝る必要なんてないよ!!ね?」

「・・・・・・」

 うぅ。けれどここで無視できない自分のお人よし加減が恨めしい。

「そ、それに私結構この生活きにいってるよ?ほら、他の人には体験できない貴重な経験できるしさぁ。」

「ふぅ~ん。」

「そりゃあ、今みたいに誰もいない部屋で一人ペラペラ喋っているとか思われて変人扱いされたこともあるけど、それはそれで人間関係というものを見直すきっかけになったわけでして。」

「へぇ~。」

「今はこれが私の日常だもん!!だから鏡也のこと迷惑とは思ってないって!!」

「ふむふむ。君の言い分はよく分かったよ、由梨絵さん。だったらね?」

 脳裏ににっこりと笑って人をだます詐欺師の姿が浮かんだ。

「いい加減諦めて駄々をこねるな。」

ピシャリと言い切られた言葉が額に当たって跳ね返る。反射的に言い返そうと開いた口は上手い切り替えしを思いつくことができない脳のせいで役目を遂げずに閉ざされた。こういった咄嗟のやり取りは苦手なのだ。それに口が達者なほうでないことは悲しいかな、自身が1番よく理解していた。

「うぅ・・・・・・」

「唸ったって何もでないぞ?」

「うぅうぅ・・・・・・」

「睨んでもムダ。」

「あぁもぉ!!わかった、わかったわよ!もう駄々はこねません!これでいいでしょ!!」

私の投げやりな態度に鏡也ははぁと肺と言わず心の底から深いため息をついた。


これが私の日常


「なんて言ってるけど、いったい何度同じ台詞を聞いたことやら。全く学習能力がないんだから。」

「鏡也ッ!?」

「なんてね?これでも本当に申し訳ないと思っているんだ。だから、」

「?」

「ありがとう、ユリ。」

 彼が紡ぎだす声は柔らかなテノールで、それはまるで手をつないだときに感じる熱のような温かさを持っている。悔しいけれどだから私は鏡也と共にあることをよしとした。まぁ、そのぉ、なんだ。結局いいヤツなんだよ。

「ふぅ、やっぱり鏡也って卑怯よ。ただの嫌なヤツだったらすぐにでも捨ててやるのに。」

「僕は引き際を心得ているからね?つまり、掌でユリをコロコロ転がすのが上手いのさ。」

「なにそれ、バカにしてるの?っていうか、わざわざ腹の立つような言い方しなくてもいいのに・・・・・・やっぱり嫌なやつぅ。」

 両手を前に突き出して机の上にへばりつく私を見て、鏡也がふっと空気を震わせるように笑った。

「まったく、またそんな顔して。ユリが眉間にしわ寄せたってちっとも迫力ないんだからやめたら?ただの不細工顔になるだけだよ?」

「はいはい。どうせ私は鏡也さん見たいな素敵な姿じゃありませんからねぇ。」

 含みを持った言葉を言えば彼を取り巻く空気がピリピリしたものに変わった。

「・・・・・・それこそバカにしてるの?」

「べっつにぃー、ただうらやましいなぁと思って。だって鏡也って綺麗な姿だし。」

「きれい?」

 憮然とした声音に不愉快だと眉をしかめている人の仕草を思い出し、私は声を立てて笑わないよう咄嗟に口元を手で押さえた。普段彼に好き勝手言われているのだから、ここでささやかな仕返しをしても文句を言われる謂れはない。

「それに高貴な感じがするじゃん?気品溢れてるっていうのかなぁ?」

「人事だと思って勝手なことを。僕はそんなものがあるより自分の意志で動けたほうが断然いいと思うけど。」

「いやぁ、それはそうかもしれないけどさ、本当に鏡也には似合ってると思うよ?その姿。」

 ニヤニヤと笑いながら彼をつつくと

「そんなことはどうでもいいんだよ!!だいたい懐中時計なんて不便で仕方がないんだからな!!」

 と言って机の上に置かれている懐中時計が不満の声を上げた。


 そう、これが私の非日常


 私の名前は鈴鹿由梨絵。たいして広くもないボロアパートに住む貧乏大学生である。学生といっても謀有名私大のような恐れ多い大学などに通っているというわけではない。ようは一般的な知能ではいることができる、一般的な知力をもった一般人がこの私なのだ。

 そして私がいるこの部屋もその大学内にある小さな空き教室の一つであった。幽霊棟という陳腐なあだ名で学生に呼ばれる校舎にあるこの部屋には人の出入りがほとんどない。つまりこのおかしな懐中時計と話をしていても誰かに変に思われることがないのだ。さすがに大勢の前で懐中時計に話しかけるなんて暴挙にでる勇気が私にはまだない(むしろそんな勇気一生持ちたくないが)。

そして先ほどから話題に上っている机上に置かれている懐中時計こそ、私から日常を奪った張本人である鏡味鏡也である。直径5cmほどの銀色の懐中時計は、ところどころ色がくすんでおり一目見てアンティークなものであることがわかるだろう。新品のような白銀の光沢とは違い、いく筋もの細かな傷が奪った輝きはけして美しいとは言いがたいが不快なものではない。それは宝石をカットする行為とよく似ているからだ。

 傷が原因となり日の光を乱雑に反射する懐中時計はどんな新品にも負けない個性を持っているように思える。大きさも長さも違う傷一つ一つがそれ自身の記憶であり、思い出なのではないのだろうか。物言わぬ彼らが唯一私たちに語りかけている記憶がそれらだと私は思っている。

「でもよかったじゃない、懐中時計で。これが鉛筆とか冷蔵庫とかだったら、格好がつかないと思うけど?」

「だからって懐中時計がいいってもんじゃないだろ?もっと自分の意思で移動できるもののほうが僕は嬉しかったね。」

 うなるように呟かれた台詞は諦めと悔しさを内包しているもののように見えた。自分ではどうすることもできないことだからこそ、彼は悔しいのかもしれない。

実は彼はこの世界の住人ではない。彼曰く、“自分はこの地球とはまったく異なった次元からやってきた遭難者”、なのだそうだ。彼が懐中時計という姿をしているのにもここら辺の事情が大きく影響しているらしい。というのも、彼の暮らしていた次元と私の暮らす次元とでは、物質を構成している元素や原子のあり方が大きく異なっているというから。

 例えば私たちの次元にあるリンゴが違う次元に移ってしまったとしよう。そうした場合、このリンゴはその世界でもっとも地球の物質と近いものに変換されてしまう。つまり、地球でいうリンゴを構成している元素が、別次元では鉄を構成している元素と同じものである可能性があるということだ。そういった場合はリンゴが鉄に変化してしまう。

 鏡也自身元は私たちと同じような「人」と呼ばれる姿をしていたらしい。手先が器用で、足が長かったと本人は豪語しているが、実際どうだったかは私のあずかり知らぬところである(むしろ胡散臭い気がするのは私だけだろうか?)。

 そしてこの変化の中で一番大切なことは、必ずしも同じ元素の性質を持つものが双方の間にあるとは限らないということだ。つまり、変化するにしても多少の誤差が出てしまうということである。そうなると、変化したものの中に本来の姿である時の性質が残ってしまうことがあるという。むしろ、そのほうが多いらしい。

 先ほどの例で言えば、リンゴが鉄に変化してもリンゴとしての性質がそれに含まれてしまうのだ。簡単に言えば、鉄だけれども食べればリンゴの味がするといったようなことである。

 彼が懐中時計のくせに物事を考え、判断することができるのはこのことが大いに関係している。彼は姿が懐中時計になっても本来の姿である人としての性質――知能と理性、感情などを無くすことなくこの世に存在することになったというわけだ。


「で、これからどうするんだよ?まだ続きをやるのか?その自称日記みたいなモンとやらを。」

「そうねぇ、外もずいぶん暗くなったしもう帰る。やっぱりこの部屋寒いわ。」

彼に言われてようやく気がついたのだが、暖房も効いていない、ましてや日の光も届かなくなった部屋は寒くて仕方がなかった。これがまだ一人ではなく、何人か人がいれば多少はあたたかいのだけれどあいにく辺りには人の子一人いる気配がしない。そこにあるのは耳に痛いほどの静寂だけで、

「ッ!?さむぅ~。」

 忘れていた寒さがぶるりと体を震わせた。私はそれから逃れるようにかじかんだ手にハァと息を吹きかける。が、ほんのりとした温かさはさらに寒さを引き立てたようで1人という意識を強く私に抱かせた。もう、同じように私の手を包み込んでくれる人はいないというのに――

「ユリ?」

再び聞こえてきたためらいがちの声にハッとなる。いけない。また一人の世界に浸っていたらしい。今は思い出に浸っている場合ではなかった。寒いのなら早く温かい我が家に帰ればいいだけのことだ。

「あぁ、ごめん。本当にもう帰るから!!」

私はそういって机の上に散らばっていたノートや筆記用具などの細々したものを慌てて鞄に詰め込んだ。

「そう・・・」

彼は一言そんなふうに言って黙ってしまった。余計な心配をかけてしまったかもしれない。

大丈夫と胸をはれるほど大丈夫ではないけれど、泣いてすがるほどのものでもない。

今はただただ懐かしいという思いでいっぱいなだけなんだ。

「今日はほんとに寒いから夕飯は鍋にでもしようかなぁ。でも一人で鍋ってむなしい気がしないでもないけどねぇ。」

「・・・・・・」

「でもさ、鍋って体がすっごいあったまるし野菜もたくさんとれるしいいとこずくしなのよね、これが。いや、まてよ。それともうどんにしようかな?あれもあったまるよね、胃にも優しい!!って、胃を壊してるわけじゃないんですけどぉ。アハハハッ!!」

私は最後のノートをかばんにしまいながら1人で声を立てて笑った。が、打てば響くようなタイミングでかけられる鏡也からの嫌味がいつまでも聞こえてこずそれも最後には力ないものへと変わり静寂の中に消えていった。果てしなくむなしい。

「えっと、きょうやさん?」

どうしたというのだろう。

この呼びかけにすら何の反応もない。これでは先ほどの私と一緒ではないか。

私は彼をそっとつかみ挙げると、目の高さまで持ち上げた。

これで私に気がつかないことはあるまい。

「どうしたの、鏡也?私のくだらない話に付き合う気力がもうないとか?」

「・・・・・・が――」

彼が何事か呟く。それは本当に呟きだったらしく上手く音にもなっていない。

まったく、こんな中途半端に言われたら余計きになるじゃないか。

「聞こえなかった。なんだって?」

「月・・・・・・」

「は?」

「どうして?」

「なにが?」

「・・・・・・おかしい。」

「もしもぉ~し。」

「うるさいな!!月がおかしいって言ったんだよ、僕は!!」

 と怒鳴り返す彼の声はいつになく緊迫したもので私は座っていた椅子ごと後すさる。手に持っていた彼を落とさなかったのは奇跡に等しい。

「あのぉ~・・・」

「ったく、人が真剣に考えてるときに横合いからごちゃごちゃと。これなら反省しているサルのほうがまだましだ!!」

「なっ!?そっちこそブツブツ意味不明なことばっかり言って気味悪いし!!つーか、あんたのほうこそ頭いかれてるんじゃないの!!あの月のどこがおかしいって言うのよ、どこが!!」

そう怒鳴った私は窓辺から見える問題の月とやらを指した。こんな冬のよく冷え込んだ夜には星と同様、月もまたよりいっそう輝きが増したように見えるものである。

けれどそれはどこにでもある風景。

空を見上げればどこからでも見える日常の風景だった。でも、

「本当に何も感じないか?」

急に声色を変えた低いささやきに先ほどの私の怒りもすっかりなりを潜めてしまった。そんなふうに真剣に聞かれたら、軽く受け流すことができないではないか。

 私は窓辺によるともう一度しっかりと月を見直す。

今宵は満月だった。

こうこうと輝く月の光は太陽の光を反射しただけのものであるはずなのに、二つの光がまったく違うものから生み出されたかのような気にさせるから不思議である。

 太陽のような心を照らし出す光ではない月のそれ。

まるで心を包み込むようなおぼろげな光が月のもつ輝きだ。もちろん、陽だまりのように包み込むような太陽の光も存在するし、月にしても今日みたいな寒々とした夜はむしろ鋭利な感じがする光を持つときだってあるだろう。だが、私が双方を比べたときに感じるのはいつもきまってそんな感覚だった。

「どう?」

人の様子を伺うように聞かれた言葉に、私は困惑した表情を浮かべてしまう。

「どうといわれましても・・・・・・分からない、かな?ただの満月に見える。それだけ。」

そんな私の様子に彼はふぅとため息を漏らした。呆れとも諦めともとれるその仕草にいたたまれなさがこみ上げてくる。もしかしなくても私は相棒失格なのかもしれない。

「じゃあユリ、一つ訊くよ?月といえば?」

突然の質問に私は間が抜けたような顔をしたにちがいない。しかしすぐにその意味を理解すると少ない知識を総動員して言葉をつむぐ。

「えーと月といえば地球をめぐる衛星のことでしょ?それでもって太陽の光を反射して光っていて、重力は地球の約六分の一、だったよね?あとはえーと、あれよ、あれ。クレーター!!月の表面はクレーターで――」

「ごめん・・・・・・」

「へ?」

今度は何故だか逆に誤られてしまった。

「僕がいいたいのはそういうことじゃなくて、普段月を見たとき君は何を心に思うのかってことだよ。」

「ああ、思うことね。・・・・・・思うことって?きれいだな、とか素敵だな、とかそういうこといってるの?」

「そう!!それだよそれ!!」

何気なく言った形容詞に彼はことのほか大きく反応した。なにがそれなんだかわかったものではない。

「それと月とがおかしいことに何の関係があるって言うのよ?」

「大いに関係あるじゃないか!!君はあの月を見てどう思う?」

私は何がなんだかサッパリわからなかったが、言われたとおりもう一度月を仰ぎ見る。しかしそこにはただの満月があるだけだ。別に形がいびつなわけでもなければ、自ら光り輝いているなどということもない。

「どう思うといわれてもねぇー。ただの・・・・・・ただの?」

思わず口からこぼれ出た疑問を目ざとく彼は聞き取ったらしい。妙に弾んだ声で切り返される。

「な、おかしいだろ?」

私は複雑な顔をする。これは月事態に問題があるのではなく、どちらかといえば私自身の情緒の問題なのではないだろうか。

「おかしいっていうか・・・・・・私が変なだけかもしれない。何で何にも感じないんだろう?」

私は自分の感受性というものに自信がなくなり少し不安になった。情緒欠落なんてことを今まで誰かに言われた記憶はない。が、今の私は月を見ても何も感じることができないのだ。

普通、人が意志をもって何かを見た場合はそのものにたいする感想などを抱いたりするものである。第一印象、イメージ、感嘆などがこれに当てはまるといえるだろう。

 実際今まで私もこんなふうに月を見たときは先ほど言ったようなことを思ったりしていたのだ。が、なぜか今日に限ってその感情がわいてこない。つまり、何も感じないのだ。

まるで意識をそちらに向けていないときのような感覚なのである。ただそこにあるものを月という固有名詞としか捕えていないような感覚。事実だけを認識している状態といってもいい。

「いや、ユリがおかしいんじゃないと思う。僕もそう感じたんだ。何の感慨も感情も浮かんでこない。まるで存在自体があるようでないような奇妙な感覚がする。僕にはこれくらいしかわからないけど、繊細な君ならこんな月からもなにか感じることができるんじゃないか?」

鏡也にそういわれても私は口ごもってしまう。彼曰く、私は繊細、つまり敏感なのだそうだ。が、私自身自分そんなものを持っているという意識は毛ほどもない。

 それはそうだろう?ゴキブリや蜘蛛が平気で這い回るようなボロアパートに住んでいて、かつそんなものにも動じない精神を持った私のどこに繊細で敏感な意識があるというのか。

以前それを彼に言ったら、「たくましいというか、図太い神経をお持ちなんですね、由梨絵さん。」なんていわれて憤然たる思いを抱える羽目になってしまった。以来、このことについて彼には何もいうまいと口を閉ざしてきた私である。

「はぁ・・・・・・言っとくけど僕が言っている繊細って感受性があるってことだよ?ゴキブリとか蜘蛛とか、そういったものとはまた少し違ったことなんだから。」

 うっ、なかなか鋭いではないか、鏡味鏡也。よくぞ私の考えていることが分かった!!と今は褒めておいてやろう。

「だいたいユリは僕の声を聞き取ることができるだろ?僕を見つけ、選び出した。それだけでも十分賞賛に値するだけの能力を持っているんだよ。」

 珍しいことに彼に褒められているらしい。そういえば初めて彼と出会ったとき、彼は打ち捨てられたような骨董品屋に置かれていたっけ。それも一番奥の棚のさらに奥、置時計と花瓶の陰に隠れた場所なんかに、である。きっと彼の声が聞こえてこなかったら私は彼を見つけることなんてできなかったはずだ。いや、私だけではない。存在自体を店主に忘れられていた懐中時計なんて誰が見つけられたといえるだろうか。

そしてそのとき私は彼に助けられた。厄介ごとに巻き込まれていることに気がつかずにいた私を助けてくれたのは彼の助言だ。

あの時の私は心に余裕がなく、彼にかたくなな態度を取り続けていた。まったく穴があったら入りたいと思うほど彼に迷惑をかけてしまっていた。けれど、彼はそれでも根気よく私に付き合ってくれた。まだ出合って間もない赤の他人であるはずなのに――

それ以後、私は彼の相棒となり同居人となった。懐中時計と同居するなんてことはおかしな話だけれども、これが私の日常なのだからしょうがない。

相棒になった当初彼は言っていた。「あの場所を出るのに五十七年もかけてしまった。」と。その間中彼は呼びかけていたらしい。自分の声を聞き取ることができるほど繊細な誰かを求めて。それでもそんな存在は稀で、懐中時計として移動することができない自分はただ声をかけて待つしかなかったのだと、そんなことも漏らしていたことを思い出す。

それほどの長い歳月を一所に留まり続けたことがない私には、彼の気持ちはよく分からない。けれど呼びかける自身の声が素通りされてしまう痛みは分かる気がするのだ。だからこそたんに助けてもらった借りを返すという意味だけではなく、彼が待ち続けた相棒として鏡也の役に立ちたいと思った。呼び続けた声は決して無駄ではなかったのだと彼に教えるためにも彼の役にたつのだと思ったんだ。

よぉーし。やってやろうではないか!!ここは助手、鈴鹿由梨絵の腕の見せ所だ!!

 ただ見ているだけでは読み取れない何かを感じるために私は全意識を月に集中させた。鏡也の気配、外界の喧騒、窓から見える風景、月以外の全てものをシャットダウンする。


視界に移るものは月。

闇夜に浮かぶ唯一の輝き。

かがやき?

いや、違う。光だ。

強烈で鮮明なひかり。

全てのものを照らし出す、まばゆい輝き。

強すぎるほどのひかり。

つよすぎる・・・・・・


「ユリ!!」


 突然訪れたギュウッと胸を締め付けられる感覚。ゾクゾクと背中を駆け上がってくる不気味な予感。

 なに?これはなに??い、やだ・・・・・・いやだいやだ!!はやくして!!はやく!!手遅れになる前に!!はやくはやくはやくはやく!!


「ユリ!!」


 焦りを含んだ彼の呼びかけにハッと我にかえる。気がつけば私は自分の胸を押さえて座り込んでいた。全身が金縛りにあったかのようにこわばって動くことができない。ドキドキとうるさくなる心臓の音がやけに耳についた。

「大丈夫か、ユリ?」

「ん、だいじょうぶ。なんだか急に不安になっただけだから。」

 私はへにょりとしまりない顔で笑うと何度も深呼吸を繰り返した。心臓を鷲づかみにされたような圧倒的な不安がまだ胸にくすぶっており、それを一刻も早く自分から追い出したかったのだ。けれど、その簡単な作業がなかなか上手くいかない。焦りが私を捕らえて離さないから。


「大丈夫。ここには僕がいる。」


 頭上からかけられた力強い声がすとんと私の心に落ちた。そこからじわじわと安堵の波が体に広がる。大丈夫、彼がいるんだから。私は一人じゃない。だから大丈夫。

 ほぅと小さく息をつけば、彼だが弛緩してくる様が分かる。うるさいほどの心臓の音も平常なリズムを刻み始めたようだ。白くなるほど握っていた手を解くと、くっきりと爪の痕が手のひらに残っていた。が、先ほどまで感じていた不快な感覚は体の外に追いやられたようだ。やれやれ。

 ずいぶん落ち着きを取り戻してからよっこらしょっと腕に力を入れて立ち上がる。そのとたん視界に入った月の姿に思わず眉間にしわがよった。

「どうしたんだ?いきなり胸を押さえて座り込むからギョッとした。」

「心配した?ごめんね、でも本当にもう大丈夫。」

 私は自分の失態が少し照れくさくてまともに鏡也のほうを見られなかった。それでも彼がホッと胸をなでおろすような気配が伝わってきたのだから、よほど心配をかけたらしい。

「で、何がどうなってるんだ?ちゃんと分かりやすく説明しろよ。」

「うーん、それがね?月を見ていたら胸がギュウッて締め付けられるような感じがして、すごく不安になったんだ。って言ってもなにが不安なのか分からないけど・・・・・・あと、はやくしなくちゃって。」

 そうなのだ。あの時私が感じたのは胸を締め付けられるほどの漠然とした不安と焦燥。しかし何を不安に感じたのかいまいちよく分からない。ただただ不安だったのだ。あの感じはまだ記憶に新しいものだからこそ気分が悪くなる。嫌なことまで思い出してしまいそうで怖い。

「不安と焦燥か・・・・・・ユリはあの月を見ているとそれを感じるんだね?」

「そう。もっといえばインクを紙に落としたときみたいな感じ。初めはそれほどでもないけど、じわじわと広がっていくの。時間が経てば立つほどそれが大きくなる。」

 とはいったものの不安なんてたいていそんなものだろう。初めこそ小さく、気にもならないものだが時間が経てば経つほどそれは無視できない存在に変わっていく。じわりじわりと背筋を這い登っていく不快な、それでいて漠然とした予感が人々から落ち着きを奪い取っていくのだ。

不安という言葉は怖い。

一人ぼっちでそれを抱え込まなければならなかった自身を思い出してしまうから。

不吉な予感を抱えながらなにもすることができずにいた自分を思いだしてしまうから嫌いなんだ。


「・・・・・・もしかしたら、月で何か起こっているのかもしれないな。」


しばらく無言だった彼が突然ポツリとそうもらした。私ははじかれたように顔を上げる。

あぁ、もう!!しっかりしろ、自分!!こんなことでへこたれていられるか!!

過ぎたことは、起こってしまったことはどんなに叫んだって変わることなんてないんだから!!

「月で何か起こってるって、どういうこと?」

 気を取り直して私は素直に疑問を口に出した。

「僕が思うに、ユリの感じた不安や焦燥は月に住む人たちが感じているものなんじゃないのかな?」

 はぁ?おかしなことを言う。月に住む人だって?月になんて人が住んでいるわけないじゃないか。空気だって水だって存在していないのに、人なんかが住んでいてたまるか。

 そんな考えが如実に顔に出ていたのだろう。彼は補足するように言いなおした。

「もちろん、僕が言っているのはあの空に浮かんでいる月のことじゃないよ?」

「はいぃ?じゃあどこのこといってるのよ。」

 彼はこれ見よがしにふぅと本日二度目のため息をついた。

ああ、どうもすみませんね、物分りの悪い助手で!!

「いいかい、ユリ。物事には内面と外面の二つの性質が存在しているだろ?例えば人で言えば外見と性格みたいなものがこれにあたるんだ。」

彼は一度言葉を区切って私の様子を伺った。私は軽く頷くことで続きを促す。

「そんな中でも今僕が話題にしている外面は一般の人々が思う考え方を言う。つまり、全世界の平均的なものの見方だよ。地球儀を見てあれは丸だ、とかリンゴは赤いとかそういった意見、考えだね。普段僕たちが見る月もこれに値するんだ。」

「えーと、月は丸いとか光っているように見えるとか、そういうこと?」

「そうそう、そんな感じ。目で見える情報とか実際に月にある物質から分かる情報なんかが普段君たちが月と呼んでいるものの正体なんだ。だけど、僕がいった「月」とはそういうものじゃなくて月の内面ことを指しているのさ。」

「月の内面?」

「ああ。月から感じる感覚なんてものは人それぞれまったく違ったものだろ?ある人は月を見て美しいと感じるかもしれないが、また別の人は怖いと思うかもしれない。内面は確かな形がないからこそ様々な捉え方ができるんだ。ここまでは分かるだろ?」

 私は慌てて何度もうなずいた。ちゃんと理解している!!はずだ・・・・・・

「そして今僕が問題にしている内面は人の心みたいなものだと思ってくれればいい。例えばユリの友達が心に何か不安や恐怖を抱えているとしよう。つまり、心が翳っているとするんだ。そんなときにユリがその人を見たらどんなことを感じるかな?」

 私は考えるときの癖で右手を口元にもっていく。

それはちょうどロダンの考える人の右手の様子に似ていたりする。

「そりゃあ、何かよくないことでもあったのかなって思うよ。そういう時って表情が暗いもん。一緒にいてもひしひしと落ち込んでいる様子が伝わってくるものじゃない?」

 落ち込んでいることをそうと気取らせない人も世の中にはいるけれど、一緒にいれば普段と違う表情や声音などが自然と見えてくるものだ。それによって私たちは周りの人々の心理状態を垣間見ることができているのではないだろうか。

「それなら表情を変えているものは何だと思う?楽しかろうが、悲しかろうがその人の外見は変わらないだろ?顔立ちや背格好が変わるか?変わりっこないさ。外見は、外面は変わったりしないんだ。常に変化するのは心。一人一人が持つそれぞれの内面が変化するんだ。」

 彼の力説は続く。

「そしてその内面の変化により変わってくるものが表情とか仕草とかそういったものだよ。内面の副産物がこれらに値するといってもいいんじゃないかな?」

「ふーん。じゃあこの副産物を通して私たちは何かを感じたりするってこと?」

「簡単に言えばそう。だけどこの副産物はいつも目に見えるわけじゃない。人は表情と声という武器があるからこそ、お互いの内面を感じることができるものなんだ。ユリだって僕の声を聞いて僕の機嫌を推測しているんじゃないのか?僕は懐中時計だから表情を変えることはできないしね。」

 確かに私は彼の声音を聞いて彼の感情というものを得ている節がある。

「まぁ、そうね。鏡也の表情なんてわかんないから声とか言葉とかで判断しているところはあるかな。」

「だろ?でも人は表情が変わらない物をみても何か感じることがある。典型的なのは絵画を見ることだ。絵画というものは何も変わらなくても見る人によっては感じ方が違ってくる。」

「えっとー、じゃあ絵画にも内面があるってことよね?」

「そのとおり。ただ、絵画などは内面と称して小さな次元を持っているんだ。作者が自身も気づかないうちに作り出した小さな次元を、ね?」

 あぁ、いい加減わけがわからなくなってきた。私の脳みそはそろそろ限界が近づいているようだ。

「その次元には絵画の中に描かれる人物・物・風景なんかが実際に存在しているんだ。そして、それぞれが独自の行動を起こし物語を紡いでいる・・・・・・絵画はその一瞬を映し出しているに過ぎないんだ。だから、その次元に存在するものたちの行動いかんによって、見る人々の気持ちが大きく変わってきちゃうんだよ。」

「と、いいますと?」

「ある絵を見て悲しいと思う人がいたら、その絵画の次元の中で実際に悲しんでいる人物がいるってこと。一方、その絵を楽しいと思う人がいたらそれは絵画の中の次元で楽しんでいる人がいるってこと。物語はその次元の中で続いているのだから、みんなが同じ気持ちになるわけじゃない。」

 そういって彼は話を閉めた。

 なんとなく分かったような、分からないような・・・・・・

「じゃあ鏡也のいう月の人々って言うのは、月の内面をつかさどっている次元に住む人々ってこと?」

「そういうことだね。いかにも非現実っぽくていいだろ?」

 彼は人であればニヤリとした笑みを浮かべていそうな雰囲気を持って私に語りかけた。確かにそんな話はどこぞの三流ワァンタジーを髣髴とさせる内容には間違いない。実際、彼という非現実的なものに出会っていなければ誰がこんな話信じるものか。

 しかし彼はここに存在していて、私こうした日常を過ごしている。これが今の私の置かれている現実なのである。それをわざわざ否定する必要はどこにもないはずだ。

「はぁ・・・・・・なんで私のところには平凡な日常が舞い込んでくれないのかなぁ。」

 そういって重いため息を漏らすと、どこからともなく聞こえてくる忍び笑いが聞こえてくる。

人の苦労を面白がるなんて意地が悪いですよ、鏡也さん。

「で、あなたはどうしたいの?たぶんこのままでも私たちの世界には大して影響はないと思うけど?月があることにすら気づかない忙しい毎日を送る人でいっぱいの世の中だしね。」

 私は彼がどうしたいのかよくわかっていてあえてそう尋ねてみた。

「それはそうかもしれないけど・・・・・・」

 案の定鏡也は私の言葉に難色を示す。

「このまま見過ごすのは目覚めが悪いって?まったくとんだお人よしもいいところね。鏡也が動いたって変わらないときは何も変えることができないんじゃないの?普段は口が悪いくせしてどうしてこうほっとけないのかしらねぇ、鏡也は。」

 ふぅと思わずため息が出る。しかしそれは呆れでも諦めの表れでもない。あえて言うならば困惑と心配とが混ざり合わさった複雑な感情ゆえにでたため息だった。

 彼は常に回りに気を配っている。自分のことは省みないし、興味を持つこともしない。それには彼の意志が大きく影響しているのだろう。悲しみや不安をそのまま見過ごすことをよしとはせず、自ら厄介ごとに巻き込まれることを望んでいるかのような気が私にはする。しかしそれは決して彼の正義感が強いという類のものではないと思う。どちらかといえば囚われているといったほうがしっくりくるのではないだろうか?

 自分のことをかえりみず、他者の存在を生かすことに囚われている。それはまるで何か罪を償う罪人のようだ。

 しかし、私は彼にそのことを尋ねたことはない。一度さりげなく彼の過去を聞きだそうとしたことがあるが、あのときはあいまいな言葉でごまかされてしまった。

 彼は過去を話したがらない。それがどうしてか私には判断しかねることだ。けれどその日以来、私は彼の過去に触れるようなことはしていない。

「しょうがないだろ?そういう性分なんだから!!」

「しょうぶんねぇ・・・・・・」

 私は流し目を彼に向けた。

 彼と一緒に暮らし始めてもう半年ほど経つが、いまだに私には鏡也のことがよく分からない。彼を見ていると人の心にも外面と内面が存在しているのではないかと思わされる。

 普段における彼の話し方、思考の特徴、感じ方などはこの半年間でずいぶんとつかめるようになった。けれどそれはきっと外面なのだ。もっと心の奥に存在する闇や光を彼から読み取ることはできない。それが彼の故意なのか無意識なのかは今の私にはよく分からないが、私が見ることができるのはそんな彼の外面だけだった。

 鏡也の心は鏡だ。姿を映すだけで外面しかみることができない鏡。どんなに向かい合っても姿しかみることができない鏡・・・・・・

 だから私は彼に鏡也という名前をつけた。

「鏡味 鏡也」この名前は決して彼の本名ではない。彼は私がどんなに名前を教えてほしいといっても、好きに読んでくれればいい、と取り合ってはくれなかったのだ。だから私はこの名前をつけた。

鏡のような心を持つ人という意味をこめて――

「別に嫌ならいいんだよ、僕一人でなんとかするから。」

「そんなことできないくせに。私の力なくしてどうやって移動するつもりなの?」

「あぁ、もう!!だから嫌なんだよ、懐中時計なんて!!」

「それはさっきも聞いたって!!わかった、わかった。私が手伝えばいいんでしょ!!」

 その言葉に彼はぐっと押し黙ると、小声で「ヨロシクオネガイシマス。」と言った。こういうやり取りは嫌いではない。数少ない鏡也の謙虚な姿勢というものを見ることができるのだから。

「そうそう。やっぱり頼みごとをするときは素直が一番!!」

 下降気味になる鏡也の機嫌とはうらはらに、私はニコニコとした笑顔を彼に見せる。

「はぁ・・・・・・楽しそうで何よりだよ、由梨絵さん。ところで、君は月への行き方がわかるんだろうね?」

 その鋭利な刃物を連想させる切込みに私の顔から笑みが消える。

 そんなのもちろん知っているはずがない。

「まさか、知らないのにあんな満面の笑顔を浮かべていたわけじゃないだろ?」

 くっそぉ。これは絶対私に対する嫌がらせだ!!知らないだろうとわかっていて、こういう意地の悪い言い方をする。お互い様だけど・・・・・・

「しらない・・・・・・」

「はいぃ?」

「だから知らないっていってるのよ!!」

 思わず怒鳴った私に彼は声を立てて笑った。私が鏡也に勝つことができる日は果たしてくるのだろうか。

「笑うくらいならもちろん鏡也は知ってるんでしょうね!!これで知らないなんていったら大恥どころの話じゃないからね!!」

 私を笑うくらいなのだから、ちゃんとした説明をしてもらおうじゃないか。

「ねぇ、ユリ。世の中には本当にたくさんの神話、伝説なんてものがあふれているよね。」

「そ、それがどうしたっていうのよ。」

「ギリシャ神話じゃ、月の女神はアルテミスといって銀の矢を持つ狩の名手なのさ。また、ところ変わって中国なんかでは妻に裏切られ、弟子に殺された悲劇的な英雄の月にまつわる神話なんてものがある。」

「だからそれがなんなのよ!!」

 いいかげんイライラしていた私は声を荒げた。短気は損気なんてことをいう人はいるけれど、彼に関しては短気なぐらいじゃないと話が進まない。だから私が普段から短気だなんて思わないでもらいたい。

「日本にもあるだろ?月がかかわった古い物語。竹を取りに行ったじいさんが、月の姫君を見つける話がね。」

 あえて含む意を持たせた持って回った言い方が逆に私の思考を刺激したらしい。頭の中で電球が輝いた。

「あぁ、かぐや姫。」

 私はポンッと手をたたいた。

「まあ正確には竹取物語だけど。」

 いちいち細かいことまでうるさいやつめ。

 竹取物語は日本でもポピュラーな古典文学ではないだろうか。中学か高校か、どちらでかはわからないが一度はタイトルを教科書の中で見つけることができるはずである。何時ごろ誰によって書かれた作品かは分かっていないが、日本最古の物語といわれるのだからその歴史は長いのだろう。

「ユリはさ、この物語の最後を覚えてないか?」

「最後?って確か、かぐや姫にもらった薬を帝が燃やしちゃうんじゃなかった?」

「そうそう、不治の薬を一番天に近い山の山頂で燃やすんだ。その煙が天に輝く月まで届くことを願って、ね?」

「え?ってことはもしかして・・・・・・」

 思い浮かべたのは綺麗な三角をした日本一高い山で、

「いってみたいだろ?月の世界。」

 妙な確信に満ちた鏡也の声が誰もいない教室に響いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ